『境界の逢瀬』
最初の再会は、約束というにはあまりに曖昧なものだった。
戦場でもなく、都でもない。天使族の旗も、悪魔族の旗も立たない場所。
白き天空の国と深都エルグラディア。そのどちらの勢力圏からも外れた山脈の狭間に、細い谷がある。切り立った岩壁の間を小さな川が流れ、岩陰には白い花がひっそりと咲いていた。
巡回する兵もほとんど来ない。
国境と呼ぶには曖昧で、戦場から逃げ込むにはあまりに静かな場所だった。
湖畔で別れる直前、ネメシアが何気なく口にした場所でもある。
『もし、まだ話したいことが残ってるなら。両方の見張りがほとんど来ない谷があるわ』
日時を決めたわけではない。
次に必ず会うとも言っていない。
ただ、場所だけを共有した。
だから本当に相手が来るのかは、どちらにも分からなかった。
◇ ◇ ◇
湖畔で別れてから、数日の夜が過ぎていた。
エルシオンは宣言した通り、天空神殿へ戻った。
戻った直後は騒ぎになった。
逃亡したと思われていた後継が、血と泥に汚れた翼で自ら帰還したのだから当然だった。しかも追手からの報告によって、湖畔でネメシアと共に行動していたことまでヴァルセリオンの耳に入っていた。
それでも、エルシオンは拘束されなかった。
治療師による手当ても受けた。
光槍で抉られた脇腹も、裂かれた肩も、傷ついた翼も、治癒術によって命に関わる状態からは脱している。
だが、それは許されたという意味ではなかった。
指揮権は停止されたまま。
戦議への参加も認められない。
父とも、一度だけ話した。
『戻ってきたことだけは評価する』
ヴァルセリオンはそう言った。
だが、その次の言葉は冷たかった。
『だが、お前の考えを認めたわけではない』
エルシオンも引かなかった。
『俺も、自分が見たものを無かったことにはできません』
会話は、それで終わった。
親子としても。
族長と後継としても。
何ひとつ解決していない。
それでもエルシオンは天空神殿へ戻ったことを後悔していなかった。
逃げたままなら、自分はただ疑問を抱えて背を向けただけだった。
戻って。
自分の言葉で話して。
それでも拒絶された。
だからこそ今、自分がどこに立っているのかが以前よりはっきり分かる。
天使族を捨てたわけではない。
父を憎んだわけでもない。
だが、もう父が示すものを何も考えず正しいとは言えなかった。
その間に立ったまま。
エルシオンは今夜、谷へ来ていた。
◇ ◇ ◇
白い月が、川面を細く照らしている。
エルシオンは岩壁へ背を預け、静かに水の流れを見つめていた。
傷はかなり癒えている。
それでも、深く息を吸えば脇腹が僅かに痛んだ。翼にもまだ違和感が残っており、長く飛べば治療師から怒鳴られるだろう。
そんな身体で、監視の目を抜けてここまで来た。
「……何してるんだ、俺は」
呟いてから、自分で苦笑する。
来る保証などない。
ネメシアは王だ。
今も戦場へ立っている。
こんな場所へ来る時間があるかも分からない。
それでも。
エルシオンは来た。
湖畔で交わした言葉の続きを、聞きたかった。
ネメシアが自分をどう思っているのかではない。
彼女が何を見て。
何を守ろうとして。
なぜ敵である自分へ、あんな言葉をかけたのか。
もっと知りたかった。
「本当に来たのね」
背後から声がした。
エルシオンが振り返る。
紅い髪。
黒と紅の外套。
月明かりの下、ネメシアが立っていた。
戦場で見る時とは違い、今は鎧も軽いものだけだ。腰には剣を下げているが、抜く気配はない。
その姿を見た瞬間、エルシオンは自分でも分かるほど肩の力が抜けた。
「……お前もな」
「私は場所を教えた側よ」
「来るとは言ってなかっただろ」
「あなたもね」
ネメシアは近づき、少し呆れたようにエルシオンを見る。
「それにしても。本当に数日で来るとは思わなかったわ」
「何だ。もっと待たせるつもりだったのか」
「少なくとも、傷が完全に治るくらいは待つと思ってた」
ネメシアの視線が脇腹へ落ちる。
「治療は受けた」
「治癒魔法?」
「ああ。天空神殿の治療師にな」
「自分では使えないものね」
「……覚えてたのか」
「あなたが攻撃しかできないって話?」
「言い方に悪意を感じる」
「事実でしょう?」
「そうだが」
エルシオンは苦笑する。
湖畔で交わしたやり取りが、そのまま続いている。
それが不思議だった。
まだ敵国の王と天使族の後継だというのに、剣を交えた時よりもずっと自然に言葉が出てくる。
二人は川辺の大きな岩へ腰を下ろした。
少しだけ距離を空けて。
手を伸ばせば剣へ届く距離。
けれど、その距離に殺気はなかった。
◇ ◇ ◇
「それで?」
先に口を開いたのはネメシアだった。
「戻って、どうだった?」
エルシオンは川面を見つめる。
「歓迎はされなかった」
「でしょうね」
「少しは驚け」
「予想できたもの」
「戦議から外された。指揮権も戻っていない。監視までついた」
「それでも牢には入れられなかったのね」
「ああ」
「お父様とは?」
その呼び方に、エルシオンが僅かに眉を寄せる。
「その言い方はやめろ」
「じゃあヴァルセリオン」
「……それも妙だな」
「面倒ね」
ネメシアが肩をすくめる。
「で、話したの?」
「ああ」
エルシオンは短く息を吐いた。
「俺が見たものは伝えた。悪魔族にも民がいて、守る者がいること。逃げる者まで巻き込む戦い方には賛同できないことも」
「ヴァルセリオンは?」
「何も変わらない」
即答だった。
「俺が弱さに迷っていると思っている。敵に惑わされたとも」
「私に?」
「……多分な」
ネメシアの口元が僅かに上がる。
「それは光栄ね」
「喜ぶところじゃない」
「でも」
そこでネメシアの声音が少し変わった。
「戻ってよかったと思ってる?」
エルシオンはすぐには答えなかった。
天使兵たちの冷たい視線。
戦議から外された自分。
父の拒絶。
戻らなければ味わわずに済んだものばかりだ。
それでも。
「ああ」
はっきり答えた。
「戻ってよかった」
ネメシアが彼を見る。
「逃げたままだったら、俺は天使族が間違っていると決めつけて終わっていたかもしれない」
「……」
「でも実際に戻ったら、全部が全部同じじゃなかった」
自分を露骨に避ける兵もいた。
だが。
傷を黙って治療してくれた治療師もいた。
何も言えないまま、それでも心配そうにこちらを見る若い兵もいた。
ヴァルセリオンの命令に疑問を持ちながら、立場上口にできない者がいることも、以前より見えるようになった。
「父上の考えを今は受け入れられない。でも、それと天使族そのものを捨てることは別だと思った」
エルシオンは少し笑う。
「湖畔で、お前に言われた通りだ」
「私、何か言った?」
「戻りたいなら戻れって」
「ああ」
ネメシアは思い出したように頷く。
「言ったわね」
「忘れてたのか」
「色々言ったから」
その言い方が、エルシオンには妙に心地よかった。
◇ ◇ ◇
今度はエルシオンが尋ねる。
「お前は?」
「何が?」
「どうして来た」
「それ、湖畔でも聞かなかった?」
「今日の話だ」
「……なるほど」
ネメシアは川辺の小石を拾い、水面へ投げる。
石は二度跳ねて沈んだ。
「知りたかったのよ」
「何を」
「戻ると言ったあなたが、本当に戻ったのか」
「それだけか?」
「それだけじゃ駄目?」
「数日しか経ってないぞ」
「だからよ」
ネメシアがこちらを見る。
「あなた、無茶して戻って、そのまま処刑されてても不思議じゃなかったでしょう?」
「縁起でもない」
「事実よ」
「……心配したのか?」
何気なく聞いたつもりだった。
だが。
ネメシアが僅かに黙る。
エルシオンも、その沈黙に気づいた。
「…………」
「…………」
「何だ」
「何でもないわ」
「今の間は何だ」
「うるさいわね」
ネメシアが視線を逸らす。
「生きろって言った相手が数日で死んでたら、後味が悪いだけよ」
「そうか」
「何、その顔」
「いや」
エルシオンは少しだけ笑った。
「それで十分だ」
「……変な天使」
「お互い様だろ」
ネメシアも。
少し遅れて、笑った。
戦場では見たことのない笑顔だった。
鋭さも。
王としての威厳もない。
ただの一人の女性の笑顔。
エルシオンは、なぜか目を逸らせなかった。
◇ ◇ ◇
しばらくして、ネメシアが静かに言った。
「私もね」
「ん?」
「昔は、天使族は全部同じだと思ってた」
エルシオンが顔を向ける。
「全員が悪魔族を見下して、滅ぼしたいと思ってるって」
「……否定はしづらいな」
「でしょうね」
ネメシアは苦笑する。
「でも、王になって前線へ立つようになって。たくさんの天使族と戦って。少しずつ分かったの」
「何が?」
「敵にも、守りたいものがある」
湖面へ視線を落とす。
「家族がいたり、仲間を庇ったり。命令に怯えていたり」
「……」
「それを知ったからって、戦争が止まるわけじゃない。私だって天使族を許したわけじゃないわ」
紅い瞳が月光を映す。
「奪われたものは戻らないし、殺された仲間も帰ってこない。でも、憎いから全部同じだと決めたら……たぶん私も、あなたのお父様と同じになる」
エルシオンの眉が動く。
「王になって思ったの。壊すのは簡単なのよ」
「簡単?」
「敵と決めて、剣を振るえばいい。憎しみだけなら、それで済む」
だが。
守るとなれば違う。
「戦が終わった次の日にも、民は生きなきゃいけない。食べ物が必要で、家が必要で、子どもは大きくなる」
ネメシアの表情が静かになる。
「だから王は、今日勝つことだけじゃなくて、その先を残さなきゃいけない」
「……残す、か」
「そう」
エルシオンはその言葉を何度か胸の中で繰り返した。
守るために強くあれ。
幼い頃から父に言われてきた言葉。
それを、別の側からネメシアが語っている。
「似ているな」
「何が?」
「父上も、守るために強くあれと言っていた」
「なら、全部間違ってるわけじゃないのね」
「ああ」
エルシオンは頷いた。
「だから苦しいんだと思う」
教わった言葉そのものは、今でも信じたい。
ただ。
その言葉の先で選ばれているものが、自分にはもう正しいとは思えない。
「全部間違いだったなら、捨てれば済む。でも、そうじゃない」
エルシオンが自嘲気味に笑う。
「面倒だな」
「今さら気づいたの?」
「お前に言われたくない」
ネメシアは笑った。
「急に全部ひっくり返す必要なんてないわ」
「……」
「見たものを、そのまま考えればいい。少なくとも私は、そうする」
その答えに。
エルシオンは小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
谷の上には、星が見えていた。
天空神殿から見る空とも。
深都エルグラディアから見上げる空とも違う。
どちらにも属さない、中間の空。
ネメシアがふと口を開いた。
「ねえ、エルシオン」
「何だ」
「もし」
一度。
言葉を探す。
「天使とか悪魔とか関係なく、守りたいものを守るために同じ方向を向ける世界があったら、どう思う?」
エルシオンはすぐには答えなかった。
昔なら。
迷いなく切り捨てただろう。
理想論だ。
天使と悪魔が共に生きるなどあり得ない。
そう言ったはずだ。
「……昔の俺なら、馬鹿げていると言った」
「今は?」
エルシオンは。
ネメシアを見る。
「見てみたい」
ネメシアの目が少しだけ見開かれた。
「天使だから正しいとか、悪魔だから悪いとかじゃない」
湖畔で。
二人は互いの背を守った。
あの瞬間だけは。
種族など関係なかった。
「本当に守りたいものが同じなら、同じ方向へ剣を向けられる。そんな世界があるなら」
エルシオンは静かに言った。
「俺は見てみたい」
「……そう」
ネメシアが小さく笑う。
「私もよ」
それから二人は。
長い時間。
答えのない話をした。
この戦争を終わらせるには何が必要なのか。
どちらかが勝てば、本当に平和になるのか。
王とは。
強さとは。
守るということは何なのか。
どれにも答えは出なかった。
だが。
答えを急がなくてもいい会話は、二人にとって初めてだった。
どちらかの正しさを押しつけなくていい。
否定されることを恐れず、疑問を口にできる。
それだけで。
不思議なくらい息がしやすかった。
◇ ◇ ◇
やがて夜が深くなり、谷の空気がさらに冷たくなる。
ネメシアが立ち上がった。
「そろそろ戻るわ」
「もうか」
「王が夜中まで行方不明だったら問題になるでしょう?」
「……確かにな」
エルシオンも立ち上がる。
脇腹が僅かに痛み。
無意識に手を添えた。
ネメシアはそれを見逃さなかった。
「まだ痛むんじゃない」
「大したことない」
「あなた、それで湖畔でも死にかけたのよ」
「治療は受けた」
「自分で治せないんだから、もっと大事にしなさい」
「……分かった」
「素直ね」
「今のお前は少し治療師に似てる」
「それは嫌だわ」
「なぜだ」
「私、治癒魔法なんて使えないもの」
「俺と同じか」
「攻撃しかできない同士ね」
「その言い方はやめろ」
二人の間に。
また小さな笑いが生まれた。
別れ際。
ネメシアが数歩進んでから足を止める。
振り返る。
「……また来る?」
エルシオンは少し驚いた。
前回は。
生きていれば。
そんな曖昧な言葉だった。
でも今回は違う。
ネメシア自身が。
次を尋ねている。
「行けるなら」
エルシオンが答える。
「監視が増えてるからな」
「曖昧ね」
「王にだって都合があるだろ」
「それもそうね」
ネメシアは少し考えてから。
今度ははっきりと言った。
「じゃあ」
一拍。
「またここで」
エルシオンも。
小さく頷いた。
「ああ」
「また」
「また」
たった、それだけ。
けれど。
湖畔の「生きていれば」よりも。
ずっと明確な約束だった。
ネメシアが谷の暗がりへ消えていく。
エルシオンはその姿が見えなくなるまで、しばらくそこに立っていた。
自分がここへ来た理由。
ネメシアが生きているか確かめたかったから。
続きを話したかったから。
自分が見たものを、誰かと考えたかったから。
どれも嘘ではない。
それでも。
今。
もう一つだけ。
自覚してしまったことがある。
ネメシアの声を。
もう一度聞きたかった。
ただ、それだけの理由でも。
自分はここまで来たのだと。
それが何なのかは。
まだ分からない。
分からなくてもよかった。
ただ。
次にまた会う。
その約束を。
エルシオンは少しだけ楽しみにしていた。
白い月が、谷を照らす。
天使と悪魔。
本来なら交わるはずのない二つの線は。
誰にも知られない場所で。
静かに。
もう一度、重なり始めていた。




