『光と闇の手』
最初に聞こえたのは、白い羽が風を裂く音だった。
湖畔を囲む林の向こうで枝葉が揺れ、三つの影が低空を滑るように近づいてくる。
天使族。
さらに反対側からも、草を踏む複数の足音が聞こえていた。
「……挟まれたわね」
ネメシアが小さく息を吐く。
片側は湖。
背後には岩場。
広く動き回れる地形ではないが、逆に少人数なら正面を絞れる。
エルシオンは脇腹を押さえながら剣を構えた。
三人の天使兵が林から姿を現し、二人は軽装の兵。
中央に立つのは、四枚翼を持つ指揮官だった。
「エルシオン様」
呼び方にはまだ形式上の敬意が残っている。
だが、その目は冷たい。
「族長命令です。武装を解除し、天空神殿へお戻りください」
「……連れ戻しに来たのか」
「まずは」
指揮官の視線がネメシアへ移る。
「そちらの悪魔族から離れていただきます」
「断ったら?」
「拘束します」
ネメシアが僅かに眉を上げる。
「思ってたより穏当ね」
「黙れ、悪魔」
天使兵の一人が剣へ手をかける。
エルシオンの表情が僅かに険しくなった。
「待て」
「エルシオン様?」
「俺は戻るつもりだ」
ネメシアが横目で彼を見る。
指揮官も一瞬だけ目を細めた。
「ならば剣を捨て、こちらへ」
「だが」
エルシオンは動かなかった。
「彼女に剣を向ける理由はない」
「敵国の王です」
「今ここで俺たちを襲ったか?」
「敵であることに変わりはありません」
「それだけで斬るのか」
指揮官の顔が硬くなる。
「また同じことを……」
その時。
反対側の林から黒い矢が飛び、木の幹へ突き刺さった。
全員が視線を向ける。
「ネメシア様!」
三人の悪魔族兵が現れた。
戦場から離脱していた斥候らしく、軽装ではあるが武器を構えている。
彼らはネメシアを見つけて一瞬安堵し。
その隣にいるエルシオンを見て、すぐに顔色を変えた。
「白翼……!」
「下がってください! そいつは天使族の将です!」
「分かってるわ」
「なら――」
「今は斬らないで」
悪魔族兵たちが固まる。
「……は?」
「説明はあとよ」
ネメシアが剣を抜いた。
「先に、こっちをどうにかする」
天使族も。
悪魔族も。
誰もすぐには動かなかった。
本来なら。
この場でもっともあり得ない位置に。
ネメシアとエルシオンが並んでいる。
「……やはり」
天使族の指揮官が低く呟く。
「敵と通じたのですね」
「違う」
エルシオンが即答する。
「なら、こちらへ来てください」
「だから戻ると言っている」
「ではなぜ、その女を庇う!」
「今ここで殺す理由がないからだ!」
声が湖畔へ響いた。
ほんの一瞬。
指揮官の表情が揺れる。
だが。
「……確保しろ」
命令が下った。
◇ ◇ ◇
二人の天使兵が動く。
一人はエルシオンへ。
もう一人はネメシアへ。
「面倒ね!」
ネメシアが踏み込んだ。
相手の槍を剣で外へ流し、肩を押して湖岸の泥へ転がす。
殺さない。
エルシオンはその動きを見た。
やはり。
戦場で見たものと同じだった。
一方。
エルシオンへ迫った剣を受けた瞬間。
「ぐっ……!」
傷へ激痛が走る。
力が入らない。
「抵抗しないでください!」
「その剣を向けられて言われてもな!」
刃を逸らす。
だが足がふらつく。
そこへ悪魔族兵の一人が横から飛び込んだ。
「白翼!」
斧が天使兵へ向かう。
エルシオンは反射的に剣を出した。
斧の柄を押し上げる。
「何を――!」
「殺すな!」
悪魔族兵が目を見開く。
その一瞬。
天使兵の剣が彼へ向かった。
今度はエルシオンが受ける。
金属音。
「……なんで」
悪魔族兵が呆然とする。
「今は説明してる暇ないって言ったでしょう!」
ネメシアの声が飛んだ。
「死にたくなければ前を見なさい!」
その声で。
全員が戦いへ戻った。
奇妙な乱戦だった。
天使族の追手。
悪魔族の斥候。
その間で。
紅き悪魔王と、天使族の後継が互いの死角を守っている。
「右!」
ネメシアの声。
エルシオンは振り返らず剣を上げた。
光矢を弾く。
直後。
傷のせいで反応が遅れたエルシオンの背後へ天使兵が回る。
ネメシアの剣が割り込んだ。
「遅い!」
「重傷者に求めるな!」
「だったら下がりなさい!」
「それは断る!」
「面倒!」
言い合いながら。
不思議なくらい。
動きは噛み合っていた。
エルシオンは前へ出すぎるネメシアの死角を塞ぎ。
ネメシアは傷で動きの鈍ったエルシオンへ届く攻撃を弾く。
悪魔族兵たちも。
最初は戸惑っていたが。
次第に、天使族であるか悪魔族であるかではなく。
今。
誰が誰を守っているかを見て動き始めた。
「……何なんだ、これは」
一人が思わず漏らす。
答えられる者はいなかった。
◇ ◇ ◇
天使族の指揮官が翼を大きく開いた。
「もういい!」
上空へ飛び上がる。
手の中へ光が集まり、巨大な槍を形作っていく。
「まとめて動きを止める!」
「まずい」
エルシオンが顔を上げる。
殺傷を目的とした最大出力ではない。
だが。
今の自分がまともに受ければ耐えられない。
周囲の悪魔族兵も巻き込まれる。
「散って!」
ネメシアが叫ぶ。
しかし地形が悪い。
逃げ切れない。
エルシオンは。
考えるより先に動いていた。
傷ついた翼を強引に広げる。
空へ。
「エルシオン!」
光槍が放たれた。
エルシオンはその軌道へ剣を叩き込む。
「――っ!」
腕が痺れる。
脇腹から血が噴き出す。
軌道が僅かにずれた。
「馬鹿!」
ネメシアが跳ぶ。
エルシオンの剣で逸れた光槍へ。
紅い刃を重ねる。
二人分の力で。
光槍を空へ押し上げた。
轟音。
光は湖の向こうへ落ち。
巨大な水柱が立ち上がった。
エルシオンの身体が崩れる。
「……っ」
落下する直前。
ネメシアが腕を掴んだ。
「本当に死ぬ気!?」
二人が湖岸へ着地する。
悪魔族兵たちが一気に前へ出た。
天使兵二人はすでに負傷。
指揮官も。
今の術で大きく力を使っている。
ネメシアが剣先を向けた。
「ここまでよ」
紅い瞳が。
まっすぐ指揮官を見る。
「これ以上続けるなら、今度は手加減できない」
「…………」
指揮官は。
エルシオンを見る。
「本当に……我々へ剣を向けるのですね」
その言葉に。
エルシオンの顔が僅かに歪んだ。
「違う」
「何が違う!」
「俺は天使族を捨てていない!」
はっきりと言った。
湖畔の全員が。
エルシオンを見る。
「戻る」
息は荒い。
それでも。
言葉は揺れなかった。
「父上にも話す。自分が何を見たのか。なぜ剣を止めたのか」
「なら今すぐ――」
「でも」
エルシオンの視線が鋭くなる。
「だからといって、理由もなく彼女を斬ることはできない」
「…………」
「戻ることと」
剣を下ろす。
「自分の目で見たものを捨てることは、同じじゃない」
指揮官は何も言わなかった。
やがて。
「……撤退する」
低く告げる。
「この件は、全て族長へ報告します」
「構わない」
「次は、このようには済まないかもしれません」
「それでも戻る」
指揮官はエルシオンを長く見つめたあと。
翼を広げた。
二人の部下も続く。
白い影が林の向こうへ消えていった。
◇ ◇ ◇
静けさが戻った。
残された悪魔族兵たちは。
それでもエルシオンから警戒を解いてはいない。
「ネメシア様」
一人が口を開く。
「こいつを……本当に帰すのですか?」
「あら」
ネメシアは剣を鞘へ戻した。
「捕虜にした覚えはないわ」
「しかし……」
「今ここで私を守ったのも事実でしょう?」
「それは……」
「なら、今はそれで十分よ」
兵は黙った。
エルシオンは剣を地面へ突き、それを支えに立っている。
「無茶しすぎ」
ネメシアが隣へ来る。
「お前に言われたくない」
「私はあんな傷で空に飛んだりしないわ」
「本当か?」
「……多分」
短いやり取り。
それを聞いた悪魔族兵が。
なんとも言えない顔をした。
ネメシアはエルシオンを見る。
「本当に戻るの?」
「ああ」
「捕まるかもしれない」
「分かっている」
「父親にまた拒絶されるかもしれない」
「それも分かっている」
「それでも?」
エルシオンは。
一度。
遠くの空を見た。
あの向こうに。
自分が育った国がある。
「逃げたままでは」
静かに言う。
「俺自身が、自分の言葉を信じられなくなる」
ネメシアは。
少しだけ。
目を細めた。
「……そう」
「だから戻る」
「なら止めないわ」
ネメシアは答えた。
それから。
少しだけ声を柔らかくする。
「でも、生きなさい」
「……何だ、急に」
「次に会った時」
ネメシアが小さく笑う。
「今日の続きを聞きたいから」
「続きを?」
「あなたが戻って」
一拍。
「何を選んだのか」
エルシオンは。
しばらく彼女を見つめた。
「……また会えると思っているのか」
「生きていれば」
「曖昧だな」
「戦場の約束なんて、そんなものよ」
エルシオンは。
小さく笑う。
「なら」
「ああ」
剣を杖代わりにしながら。
身体を起こす。
「生きるよ」
「ええ」
ネメシアも頷いた。
「そうしなさい」
やがて。
二人は別々の方向へ歩き出した。
ネメシアは。
前線へ。
エルシオンは。
天空神殿へ戻るための道へ。
敵同士であることは。
まだ変わっていない。
立っている国も。
背負っているものも。
違う。
けれど。
湖畔で互いの背を守ったという事実だけは。
もう。
どちらにも消せなかった。
そして。
数日後。
二人は。
どちらの旗も立たない山間の谷で。
もう一度。
顔を合わせることになる。




