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レベル1の冒険者が世界の調停者になる  作者: pacifian
第4章『ルシェラ過去編』

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『湖畔の再会』


 湖は、戦場がすぐ近くにあるとは思えないほど静かだった。


 山あいに抱かれた水面は薄い陽を映し、風が吹くたび銀色の波紋を広げている。岸辺には背の低い草と白い小花が揺れ、遠くの戦場から届くはずの怒号も剣戟も、ここまではほとんど聞こえてこない。


 その穏やかな景色の中に、ひどく場違いな白があった。


 泥に汚れ、血に濡れた翼。


 片翼を大きく傷つけた天使族の男が、湖畔の土の上へ倒れている。白銀の鎧は脇腹と肩口を中心に裂け、流れた血がすでに黒ずみ始めていた。


 エルシオンだった。


 意識はほとんど沈み、呼吸も浅い。このまま放置されれば、命に関わることは誰の目にも明らかだった。


 そこへ、紅い影が降り立つ。


 ネメシアは周囲へ素早く視線を走らせると、そのままエルシオンのもとへ駆け寄った。


 彼女自身も無傷ではない。黒と紅の外套には戦場の土と血が残り、腕には応急処置だけ施された裂傷がある。


 それでも、ここまで追ってきた。


 偶然ではなかった。


 戦場でネメシアは見ていたのだ。白翼の軍勢の中でただ一人、悪魔族の避難民へ向かう部隊を止めた男を。そして直後、味方であるはずの天使族からまで攻撃され、傷ついた翼で戦線を離脱していく姿を。


 敵将だ。


 放っておけばいい。


 そう考えなかったわけではない。


 だが、あの場で見たエルシオンの行動を、ただ「敵が勝手に仲違いした」で終わらせることがネメシアにはできなかった。


「……ひどい有様ね」


 膝をつき、傷を確認する。


 脇腹が深い。肩にも光矢による裂傷があり、翼の損傷も大きかった。よくここまで飛んできたものだと思う。


 ネメシアが鎧の留め具へ手を伸ばした瞬間、エルシオンの手が動いた。


「……誰だ」


 掠れた声とともに、手首を掴まれる。


「まだそんな力残ってたのね」


 ネメシアは振りほどかず、その顔を覗き込んだ。


「敵よ」


 焦点の定まらなかった瞳が、ゆっくりと彼女を捉える。


「……ネメシア」


「正解」


「なぜ……ここに……」


「喋らないで。傷が開くわ」


「敵に……手当てされる理由はない」


「私にも助ける義務はないわよ」


 あっさり返しながら、ネメシアは彼の手を外した。


「でも、目の前で死なれるのは気分が悪い。それだけ」


 鎧の一部を外し、止血用の布を傷へ当てる。


「……っ!」


「我慢しなさい」


「雑だな……」


「死にかけてる人に丁寧さを求められても困るわ」


 エルシオンは顔をしかめながらも、それ以上抵抗しなかった。


 ネメシアは傷口を押さえながら、ふと眉を寄せる。


「そういえば」


「……何だ」


「天使族って、治癒魔法を使えるんじゃないの?」


「…………」


「自分で治せるなら、私がこんなことする必要ないんだけど」


 エルシオンが薄く目を開ける。


「天使族なら全員使えるとでも思っていたのか」


「違うの?」


「違う。適性がある」


 苦しそうに息を吐きながら続ける。


「俺が扱えるのは、戦闘用の光術だけだ。攻撃に寄りすぎている。傷を塞ぐような術は使えない」


「意外ね」


「何がだ」


「天使族軍を率いてる者なんだから、何でもできるのかと思ってた」


 エルシオンは一瞬、言葉を止めた。


「……父上ならできる」


「父上?」


 ネメシアの手が止まる。


「誰よ、それ」


 エルシオンは、しまったというように目を伏せた。


 だが、もう隠す意味もないと思ったのか、静かに答える。


「ヴァルセリオンだ」


 ネメシアの赤い瞳が見開かれた。


「……ヴァルセリオン?」


「ああ」


「あなたが……?」


 エルシオンは答えなかった。


 その沈黙だけで、十分だった。


 ネメシアは彼の顔を見つめる。


 これまで何度も戦場で見てきた天使族の後継。


 天使族の中でも異例の立場。


 そして、ヴァルセリオンと同じ色を宿した瞳。


 それらが、今になって一つに繋がった。


「……あなた、ヴァルセリオンの息子なの?」


「そうだ」


 短い返答だった。


 だが、その声には隠しきれない重さがあった。


 ネメシアはすぐには言葉を返せなかった。


 ヴァルセリオン。


 天使族を率いる者。


 悪魔族にとって、幾度となく戦場で刃を交えた宿敵。


 その息子が、目の前で傷つき、自分に手当てをされている。


「初めて聞いたわ」


「言っていなかったからな」


 エルシオンは視線を逸らす。


「父上は、俺にとって越えられない存在だ。民からの信頼も厚い。俺とは比べものにならない」


「治癒魔法も使えるのね」


「ああ。父上は攻撃術だけでなく、治癒術にも長けている」


「それなのに、息子のあなたは攻撃術だけ」


「適性の問題だ」


 エルシオンは自分の傷へ視線を落とした。


「ヴァルセリオン……嫌味なくらい万能なのね」


「本人に言え」


「嫌よ」


 エルシオンの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


 笑うだけでも傷に響いたのか、すぐに表情を歪める。


「笑わせるな……」


「勝手に笑ったんでしょう」


 ネメシアは布を強く結び、ようやく手を離した。


「とりあえず、これ以上の出血は抑えたわ。ただし治ったわけじゃないから」


「分かっている」


「無茶して飛んだら本当に死ぬわよ」


◇ ◇ ◇


 湖を渡る風が、二人の髪を揺らした。


 少しの沈黙のあと、ネメシアの表情が変わる。


「それで」


 エルシオンを見る。


「戦場で、何をしていたの?」


「……何の話だ」


「避難民へ向かう味方を止めたでしょう」


 声に敵意はない。


 けれど逃がすつもりもない声音だった。


「そのせいで味方から狙われて、こんなところまで逃げてきた。敵の私から見ても、意味が分からないわ」


 エルシオンはしばらく答えなかった。


 やがて、湖へ視線を向ける。


「……俺にも、まだ分からない」


「分からないまま命令に逆らったの?」


「ああ」


「馬鹿ね」


「否定はしない」


 自嘲気味に答えたあと、エルシオンの声が低くなる。


「だが……見てしまった」


「何を?」


「お前をだ」


 ネメシアの赤い瞳が僅かに動く。


「避難民を守っていた。負傷兵を逃がすために最後まで残り、子どもの前へ出た。俺たち天使族が攻めてきても、お前は自分が逃げるより先に民を逃がした」


 それは、戦場で何度も脳裏へ焼きついた光景だった。


「俺はずっと、悪魔族は奪う側だと教えられてきた。秩序を壊し、弱い者を踏みにじる存在だと」


 エルシオンは自分の血に汚れた手を見る。


「だが、お前は違った」


「少なくとも」


 ゆっくりと言葉を選ぶ。


「俺がこの目で見たネメシアという者は、俺が教えられてきた『悪魔族』ではなかった」


 ネメシアは何も言わない。


「だから……」


 エルシオンの声が僅かに掠れる。


「俺は……間違えていたのかもしれない」


 その言葉を口にするまでには、長い時間が必要だった。


「全てが間違いだったとは、まだ言えない。天使族を捨てるつもりもない。父上の教えも、民を守ろうとしてきたことも……全部を嘘だったとは思えない」


 ネメシアは静かに聞いている。


「でも」


 エルシオンは彼女を見た。


「悪魔族だからという理由だけで、お前たちを一つの悪として見ていたことは……間違っていた」


 湖畔に沈黙が落ちた。


 ネメシアはしばらくエルシオンを見つめたあと、小さく息を吐く。


「……思ったより正直なのね」


「俺は正直者だ」


 再び、僅かな笑いが生まれた。


 だがネメシアはすぐに湖へ視線を戻す。


「私だって、天使族を全部同じだとは思ってないわ」


「……そうなのか?」


「嫌いよ」


 即答だった。


「多くを奪われた。仲間も殺された。今だって戦争をやめるつもりはない」


 その声は静かだった。


「でも、長く戦っていれば分かる。天使族にも色々いる。命令だけを見る者もいれば、その先にいる誰かを見る者もいる」


 ちらりとエルシオンを見る。


「今日のあなたみたいな愚か者もね」


「またそれか」


「だって事実でしょう?」


 エルシオンは苦く笑った。


 敵。


 そのはずなのに。


 ここでは不思議と、自分の言葉を否定されない。


「……なぜ追ってきた」


 エルシオンが尋ねる。


「俺の行動を確かめるためだけか?」


「半分は」


「残りは?」


 ネメシアは少し考えた。


「あのまま死なれたら、気になるから」


「……気になる?」


「どうして味方に刃向かったのか。何を見てそうしたのか。何も知らないまま死なれたら、ずっと引っかかると思った」


 天使族の国では、自分の疑問は弱さと呼ばれた。


 裏切りとまで呼ばれた。


 なのに敵であるネメシアは、その疑問の理由を知ろうとしている。


 あまりにも皮肉だった。


「俺は……戻れると思うか」


 エルシオンが呟いた。


 ネメシアはすぐには答えない。


「それは私には分からない」


「…………」


「でも、戻りたいんでしょう?」


 核心を突かれ、エルシオンは黙った。


 捨てたくはない。


 天使族の民も。


 自分が育った場所も。


 父との関係さえも。


 今ならまだ、何かを伝えられるのではないかという思いも残っている。


「なら、戻ればいい」


「簡単に言うな」


「簡単じゃないからって、逃げたままでいい理由にはならないでしょう」


 エルシオンはネメシアを見る。


「……敵に説教されるとはな」


「私だって不本意よ」


 ネメシアは少しだけ笑った。


「戻って、それでも駄目だった時に考えればいい。まだ何も終わってないでしょう?」


 その言葉が。


 不思議なほど胸へ残った。


 終わっていない。


 裏切り者と呼ばれた。


 父にも拒絶された。


 だが。


 まだ自分から全てを捨てたわけではない。


 エルシオンが答えようとした、その時だった。


 ネメシアの表情が一変する。


「……静かに」


「何だ?」


 彼女は立ち上がり、林の方を見る。


 風に混じる。


 微かな羽音。


 そして別方向からは、草を踏む音。


「追手ね」


 ネメシアが剣の柄へ手を置いた。


 エルシオンも立ち上がろうとする。


「寝てなさい」


「そういうわけにもいかないだろう」


「その傷で?」


「だからといって、お前一人に戦わせるわけにもいかない」


 黒ずんだ血のついた剣を拾う。


 足元はふらつく。


 それでも立つ。


 ネメシアは呆れたように息を吐いた。


「本当に愚か者ね」


「誰のせいで立っていると思ってる」


「自分のせいでしょう」


「……それもそうか」


 二人は。


 湖畔で初めて。


 同じ方向へ剣を向けた。


 互いを斬るためではなく。


 迫ってくる者へ向き合うために。


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