『湖畔の再会』
湖は、戦場がすぐ近くにあるとは思えないほど静かだった。
山あいに抱かれた水面は薄い陽を映し、風が吹くたび銀色の波紋を広げている。岸辺には背の低い草と白い小花が揺れ、遠くの戦場から届くはずの怒号も剣戟も、ここまではほとんど聞こえてこない。
その穏やかな景色の中に、ひどく場違いな白があった。
泥に汚れ、血に濡れた翼。
片翼を大きく傷つけた天使族の男が、湖畔の土の上へ倒れている。白銀の鎧は脇腹と肩口を中心に裂け、流れた血がすでに黒ずみ始めていた。
エルシオンだった。
意識はほとんど沈み、呼吸も浅い。このまま放置されれば、命に関わることは誰の目にも明らかだった。
そこへ、紅い影が降り立つ。
ネメシアは周囲へ素早く視線を走らせると、そのままエルシオンのもとへ駆け寄った。
彼女自身も無傷ではない。黒と紅の外套には戦場の土と血が残り、腕には応急処置だけ施された裂傷がある。
それでも、ここまで追ってきた。
偶然ではなかった。
戦場でネメシアは見ていたのだ。白翼の軍勢の中でただ一人、悪魔族の避難民へ向かう部隊を止めた男を。そして直後、味方であるはずの天使族からまで攻撃され、傷ついた翼で戦線を離脱していく姿を。
敵将だ。
放っておけばいい。
そう考えなかったわけではない。
だが、あの場で見たエルシオンの行動を、ただ「敵が勝手に仲違いした」で終わらせることがネメシアにはできなかった。
「……ひどい有様ね」
膝をつき、傷を確認する。
脇腹が深い。肩にも光矢による裂傷があり、翼の損傷も大きかった。よくここまで飛んできたものだと思う。
ネメシアが鎧の留め具へ手を伸ばした瞬間、エルシオンの手が動いた。
「……誰だ」
掠れた声とともに、手首を掴まれる。
「まだそんな力残ってたのね」
ネメシアは振りほどかず、その顔を覗き込んだ。
「敵よ」
焦点の定まらなかった瞳が、ゆっくりと彼女を捉える。
「……ネメシア」
「正解」
「なぜ……ここに……」
「喋らないで。傷が開くわ」
「敵に……手当てされる理由はない」
「私にも助ける義務はないわよ」
あっさり返しながら、ネメシアは彼の手を外した。
「でも、目の前で死なれるのは気分が悪い。それだけ」
鎧の一部を外し、止血用の布を傷へ当てる。
「……っ!」
「我慢しなさい」
「雑だな……」
「死にかけてる人に丁寧さを求められても困るわ」
エルシオンは顔をしかめながらも、それ以上抵抗しなかった。
ネメシアは傷口を押さえながら、ふと眉を寄せる。
「そういえば」
「……何だ」
「天使族って、治癒魔法を使えるんじゃないの?」
「…………」
「自分で治せるなら、私がこんなことする必要ないんだけど」
エルシオンが薄く目を開ける。
「天使族なら全員使えるとでも思っていたのか」
「違うの?」
「違う。適性がある」
苦しそうに息を吐きながら続ける。
「俺が扱えるのは、戦闘用の光術だけだ。攻撃に寄りすぎている。傷を塞ぐような術は使えない」
「意外ね」
「何がだ」
「天使族軍を率いてる者なんだから、何でもできるのかと思ってた」
エルシオンは一瞬、言葉を止めた。
「……父上ならできる」
「父上?」
ネメシアの手が止まる。
「誰よ、それ」
エルシオンは、しまったというように目を伏せた。
だが、もう隠す意味もないと思ったのか、静かに答える。
「ヴァルセリオンだ」
ネメシアの赤い瞳が見開かれた。
「……ヴァルセリオン?」
「ああ」
「あなたが……?」
エルシオンは答えなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
ネメシアは彼の顔を見つめる。
これまで何度も戦場で見てきた天使族の後継。
天使族の中でも異例の立場。
そして、ヴァルセリオンと同じ色を宿した瞳。
それらが、今になって一つに繋がった。
「……あなた、ヴァルセリオンの息子なの?」
「そうだ」
短い返答だった。
だが、その声には隠しきれない重さがあった。
ネメシアはすぐには言葉を返せなかった。
ヴァルセリオン。
天使族を率いる者。
悪魔族にとって、幾度となく戦場で刃を交えた宿敵。
その息子が、目の前で傷つき、自分に手当てをされている。
「初めて聞いたわ」
「言っていなかったからな」
エルシオンは視線を逸らす。
「父上は、俺にとって越えられない存在だ。民からの信頼も厚い。俺とは比べものにならない」
「治癒魔法も使えるのね」
「ああ。父上は攻撃術だけでなく、治癒術にも長けている」
「それなのに、息子のあなたは攻撃術だけ」
「適性の問題だ」
エルシオンは自分の傷へ視線を落とした。
「ヴァルセリオン……嫌味なくらい万能なのね」
「本人に言え」
「嫌よ」
エルシオンの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
笑うだけでも傷に響いたのか、すぐに表情を歪める。
「笑わせるな……」
「勝手に笑ったんでしょう」
ネメシアは布を強く結び、ようやく手を離した。
「とりあえず、これ以上の出血は抑えたわ。ただし治ったわけじゃないから」
「分かっている」
「無茶して飛んだら本当に死ぬわよ」
◇ ◇ ◇
湖を渡る風が、二人の髪を揺らした。
少しの沈黙のあと、ネメシアの表情が変わる。
「それで」
エルシオンを見る。
「戦場で、何をしていたの?」
「……何の話だ」
「避難民へ向かう味方を止めたでしょう」
声に敵意はない。
けれど逃がすつもりもない声音だった。
「そのせいで味方から狙われて、こんなところまで逃げてきた。敵の私から見ても、意味が分からないわ」
エルシオンはしばらく答えなかった。
やがて、湖へ視線を向ける。
「……俺にも、まだ分からない」
「分からないまま命令に逆らったの?」
「ああ」
「馬鹿ね」
「否定はしない」
自嘲気味に答えたあと、エルシオンの声が低くなる。
「だが……見てしまった」
「何を?」
「お前をだ」
ネメシアの赤い瞳が僅かに動く。
「避難民を守っていた。負傷兵を逃がすために最後まで残り、子どもの前へ出た。俺たち天使族が攻めてきても、お前は自分が逃げるより先に民を逃がした」
それは、戦場で何度も脳裏へ焼きついた光景だった。
「俺はずっと、悪魔族は奪う側だと教えられてきた。秩序を壊し、弱い者を踏みにじる存在だと」
エルシオンは自分の血に汚れた手を見る。
「だが、お前は違った」
「少なくとも」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「俺がこの目で見たネメシアという者は、俺が教えられてきた『悪魔族』ではなかった」
ネメシアは何も言わない。
「だから……」
エルシオンの声が僅かに掠れる。
「俺は……間違えていたのかもしれない」
その言葉を口にするまでには、長い時間が必要だった。
「全てが間違いだったとは、まだ言えない。天使族を捨てるつもりもない。父上の教えも、民を守ろうとしてきたことも……全部を嘘だったとは思えない」
ネメシアは静かに聞いている。
「でも」
エルシオンは彼女を見た。
「悪魔族だからという理由だけで、お前たちを一つの悪として見ていたことは……間違っていた」
湖畔に沈黙が落ちた。
ネメシアはしばらくエルシオンを見つめたあと、小さく息を吐く。
「……思ったより正直なのね」
「俺は正直者だ」
再び、僅かな笑いが生まれた。
だがネメシアはすぐに湖へ視線を戻す。
「私だって、天使族を全部同じだとは思ってないわ」
「……そうなのか?」
「嫌いよ」
即答だった。
「多くを奪われた。仲間も殺された。今だって戦争をやめるつもりはない」
その声は静かだった。
「でも、長く戦っていれば分かる。天使族にも色々いる。命令だけを見る者もいれば、その先にいる誰かを見る者もいる」
ちらりとエルシオンを見る。
「今日のあなたみたいな愚か者もね」
「またそれか」
「だって事実でしょう?」
エルシオンは苦く笑った。
敵。
そのはずなのに。
ここでは不思議と、自分の言葉を否定されない。
「……なぜ追ってきた」
エルシオンが尋ねる。
「俺の行動を確かめるためだけか?」
「半分は」
「残りは?」
ネメシアは少し考えた。
「あのまま死なれたら、気になるから」
「……気になる?」
「どうして味方に刃向かったのか。何を見てそうしたのか。何も知らないまま死なれたら、ずっと引っかかると思った」
天使族の国では、自分の疑問は弱さと呼ばれた。
裏切りとまで呼ばれた。
なのに敵であるネメシアは、その疑問の理由を知ろうとしている。
あまりにも皮肉だった。
「俺は……戻れると思うか」
エルシオンが呟いた。
ネメシアはすぐには答えない。
「それは私には分からない」
「…………」
「でも、戻りたいんでしょう?」
核心を突かれ、エルシオンは黙った。
捨てたくはない。
天使族の民も。
自分が育った場所も。
父との関係さえも。
今ならまだ、何かを伝えられるのではないかという思いも残っている。
「なら、戻ればいい」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないからって、逃げたままでいい理由にはならないでしょう」
エルシオンはネメシアを見る。
「……敵に説教されるとはな」
「私だって不本意よ」
ネメシアは少しだけ笑った。
「戻って、それでも駄目だった時に考えればいい。まだ何も終わってないでしょう?」
その言葉が。
不思議なほど胸へ残った。
終わっていない。
裏切り者と呼ばれた。
父にも拒絶された。
だが。
まだ自分から全てを捨てたわけではない。
エルシオンが答えようとした、その時だった。
ネメシアの表情が一変する。
「……静かに」
「何だ?」
彼女は立ち上がり、林の方を見る。
風に混じる。
微かな羽音。
そして別方向からは、草を踏む音。
「追手ね」
ネメシアが剣の柄へ手を置いた。
エルシオンも立ち上がろうとする。
「寝てなさい」
「そういうわけにもいかないだろう」
「その傷で?」
「だからといって、お前一人に戦わせるわけにもいかない」
黒ずんだ血のついた剣を拾う。
足元はふらつく。
それでも立つ。
ネメシアは呆れたように息を吐いた。
「本当に愚か者ね」
「誰のせいで立っていると思ってる」
「自分のせいでしょう」
「……それもそうか」
二人は。
湖畔で初めて。
同じ方向へ剣を向けた。
互いを斬るためではなく。
迫ってくる者へ向き合うために。




