『裏切り者』
その日の空は、妙に白かった。
雲は薄く、光は強く、見上げれば何もかもが清らかに見える。
けれどその白さが、今のエルシオンにはどこか空虚だった。
天空神殿の戦議の間には、再び将たちが集められていた。
大理石の床に浮かぶ光の地図。
悪魔族北方戦線。
深都エルグラディアへ至る砦群と補給線。
そしてそこへ幾重にも重ねられた、白き軍勢の侵攻経路。
前回の戦い以降、天使族側の攻勢はさらに強まっていた。
もはや前線の削り合いではない。
深都へ至るまでの流れを、まとめて押し潰すための動きだった。
ヴァルセリオンは高座に立ち、静かに告げる。
「北方防衛線は限界に近い」
「悪魔族はすでに退路の維持で手一杯だ」
「ならば今こそ押し切る」
広間の将たちが頷く。
それぞれの顔に迷いはない。
長年この戦を続けてきた者たちにとって、それは当然の結論なのだろう。
だがエルシオンだけは、地図の上に浮かぶ光の線を見ながら、胸の奥が冷えていくのを感じていた。
南の退路を断つ。
西側から降下部隊を入れる。
深都へ戻るための避難路を潰し、砦ごと包囲する。
それはつまり、兵だけではなく、そこにいる全てを追い詰めるということだった。
エルシオンの脳裏に、あの紅き背がよみがえる。
ネメシア。
避難民の前に立ち、最後尾で負傷兵を押し戻し、自らの身を削ってでも守ろうとしていた王。
あれを見たあとで、なお同じ理屈を飲み込むことはできなかった。
ヴァルセリオンの声が続く。
「今回は停滞を許さぬ。包囲を完成させ、深都へ至る北方の血流そのものを絶つ」
その一言で、エルシオンの中の何かが、ついに限界を超えた。
「お待ちください」
広間が静まり返る。
言葉を発した自分自身に、エルシオンも一瞬遅れて驚いていた。
だが、もう引き返せない。
視線が集まる。
ヴァルセリオンは表情を動かさず、息子を見た。
エルシオンは拳を握り、言葉を絞り出す。
「これ以上の侵攻は、前線兵だけでなく、民の被害を一気に拡大させます」
ざわめきが起こる。
「悪魔族側の防衛線は、すでに兵と避難民が混在しています。今ここで包囲を完成させれば、退くことも、逃げることもできない者が大量に出る」
「だから何だ」
将の一人が即座に吐き捨てるように言う。
エルシオンはそちらを見ず、なお続けた。
「だから、一度停戦すべきです」
その一言で、空気は凍った。
誰も動かない。
誰も声を出さない。
ただ“何を言ったのか”を理解しきるまで、一瞬の静寂が落ちた。
次の瞬間、広間は一気にざわめいた。
「停戦だと?」
「何を言っている」
「敵に立て直す時間を与えろというのか!」
「まさか本気で……」
怒気。困惑。軽蔑。
いくつもの視線がエルシオンへ突き刺さる。
だが彼は退かなかった。
「今のまま押し潰せば、兵ではない者まで無差別に死にます!」
声が大きくなる。
もう抑えられない。
「俺たちは守るために戦っているはずだ! それなのに、逃げる道まで断ち、子どもも老人も巻き込んで、それを本当に正義と呼べるのですか!」
その言葉が、広間の秩序を真っ二つに裂いた。
ヴァルセリオンが、静かに一歩前へ出る。
誰も口を挟まない。
むしろ挟めない。
父と息子。
族長と後継。
その間に流れる空気は、もう修復できないところまで張り詰めていた。
「エルシオン」
ヴァルセリオンの声は低い。
「お前は今、何を庇っている」
エルシオンは父をまっすぐ見返した。
「命です」
「敵の、か」
「天使族であろうと悪魔族であろうと、戦えない者の命です」
その瞬間、広間の温度がさらに下がった。
もう誰の目にも明らかだった。
これはただの意見の違いではない。
秩序そのものに対する揺らぎだ。
ヴァルセリオンの瞳に、ついに明確な怒りが宿る。
「愚か者が」
その一言は、怒鳴り声ではなかった。
だがあまりにも冷たかった。
「戦場の現実に耐え切れぬ弱さを、慈悲と呼ぶな」
「お前は今、守るべきものを見失っている」
エルシオンは食い下がる。
「違います。見失っているのは俺ではなく――」
最後まで言わせてもらえなかった。
ヴァルセリオンの翼が大きく広がり、空気が震えた。
圧だけで周囲の将たちが息を呑む。
「黙れ」
その一言で、エルシオンの全身が強く縛られたように硬直する。
族長としての威圧。
絶対の秩序を背負う者の力だった。
「これ以上、その戯言を続けるなら」
ヴァルセリオンの視線が、もはや息子を見るものではなくなる。
「お前を後継ではなく、秩序を乱す異端として扱う」
その宣告に、広間の将たちが一斉に目を伏せた。
誰も助けない。
助けられない。
エルシオンは立ち尽くす。
胸の奥にあるものは恐怖ではなかった。
もっと深い、どうしようもない喪失感だった。
父には届かない。
この秩序の中では、もう自分の言葉は“裏切り”にしか聞こえない。
ヴァルセリオンは冷たく命じる。
「エルシオンを一時指揮権停止とする」
「本作戦への同行は認める。ただし独自行動は許さぬ」
「監視をつけろ」
その場で決まった。
後継ではなく、監視対象として。
戦議の間を出るとき、誰一人としてエルシオンへ声をかけなかった。
かつて敬意を向けていた兵たちも、今は距離を取る。
その背中に、小さく聞こえる囁き。
「本当に、言ってしまったのか……」
「停戦など、敵に与するのと同じだ」
「裏切り者め」
その言葉は、思ったよりも鋭く胸に刺さった。
大規模侵攻は予定通り始まった。
エルシオンには少数の監視兵がつき、実質的には“前線に出される囚人”に近い扱いとなる。
それでも戦場へ向かわされたのは、彼の力が必要だったからか、それとも試されていたからか。
おそらく、その両方だった。
白き軍勢が空を埋める。
地上部隊が進み、光壁が展開され、深都エルグラディア北方の砦線は次々に圧迫されていく。
悪魔族側も必死に抗うが、今回は明らかに規模が違う。
押し込まれ、退かされ、削られていく。
その中でエルシオンは、自分の立ち位置を完全に失っていた。
味方の命令に従えば、守れないものがある。
だが従わなければ、味方に斬られる。
敵の中には守る者がいると知った。
だが悪魔族から見れば、自分は今も白翼の侵略者だ。
どちらにも立てない。
その歪な立場は、戦場で致命的だった。
防壁崩落の混乱の中、エルシオンは避難民の列へ突っ込みかけた天使兵の一隊を制止した。
その瞬間、背後の監視兵が怒鳴る。
「エルシオン様は敵に通じている!」
「違う!」
振り返った、その一瞬が致命傷になった。
横から飛んできた光槍が、エルシオンの脇腹を深く抉る。
「っ……!」
強烈な熱。
視界が白く弾ける。
さらに正面からは悪魔族兵が突っ込んでくる。
エルシオンを天使族の将と認識しての攻撃だ。
当然だった。
事情など知るはずもない。
エルシオンは辛うじて剣で受けるが、足元がふらつく。
そこへ今度は、後方の天使兵が叫ぶ。
「裏切り者を逃がすな!」
ぞっとするほど冷たい声だった。
もう決まったのだ。
自分は味方にとって、秩序を乱す裏切り者。
敵にとっては、まだ討つべき白翼の将。
どちらにも生かしておく理由がない。
エルシオンは血を吐きそうになる息を飲み込みながら、翼を広げた。
この場に留まれば死ぬ。
それだけははっきり分かった。
空へ逃げる。
だが高度を上げた瞬間、背から焼けるような痛みが走る。
追撃の光矢が翼を掠めたのだ。
羽が散り、体勢が崩れる。
「落とせ!」
「逃がすな!」
白翼の追手。
さらに地上からも悪魔族の黒弓が飛ぶ。
まるで世界そのものに拒絶されているようだった。
エルシオンは必死に高度を変え、戦場の北西へ離脱する。
深都の防衛線からも、天使族の本隊からも外れた、森と岩場の多い無人地帯へ。
後ろからなおも追撃が来る。
一矢が肩を裂く。
一撃が翼の端を焼く。
血が白い鎧を濡らし、飛ぶたびに視界が霞む。
それでも落ちるわけにはいかなかった。
まだ死ねない。
ここで落ちれば、何も伝わらない。
何も届かないまま、“裏切り者”として終わる。
森を越え、崖を越え、やがて視界の先に水面が見えた。
湖だった。
山間にひっそりと広がる、静かな湖。
戦場の喧騒からは離れた場所。
エルシオンは最後の力でそこまでたどり着き、岸辺近くへ墜ちるように降りた。
着地の衝撃で膝が砕けるように痛む。
剣が手から滑り落ち、石混じりの地面に転がった。
数歩、よろめく。
だがもう立っていられない。
膝をつき、そのまま片手を地面について息を吐く。
視界の端で湖面が揺れていた。
空の白さが水に映り、皮肉みたいに美しい。
遠くではまだ、かすかに戦の音が響いている。
だがここには、ひどく静かな風だけがあった。
エルシオンは震える息の中で、自分の手を見た。
血に濡れていた。
味方にも、敵にも届かなかった手。
守るために握ったはずの剣を、今はどこへ向ければいいのかも分からない。
「……これが、答えか」
かすれた声が落ちる。
正しさを問いかけた果てに待っていたのは、理解ではなかった。
追放。拒絶。断罪。
裏切り者。
その言葉が、今ようやく本当に自分のものとして胸へ沈んでくる。
そして同時に思う。
それでも、あれを正義とは呼べなかった。
逃げる者の道を断ち、守る者を悪と決めつけ、疑問を持つ者を切り捨てる。
そんなものを、もう以前のようには信じられない。
エルシオンの体が傾ぐ。
視界が暗くなっていく。
湖面のきらめきが遠ざかる。
冷たい土の匂い。
頬に触れる草。
もう指先に力が入らない。
そのまま倒れ込む直前、かすかな足音が聞こえた気がした。
追手か。
それとも獣か。
もう判断する余裕もない。
エルシオンは薄れる意識の中で、ただひとつだけ思う。
――せめて、ここで終わるなら。
あの紅き王に見たものが、幻ではなかったと知りたかった。
その願いだけを最後に、若き天使は湖畔に崩れ落ちる。
白き翼を泥に汚し、血を流しながら。




