↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
レベル1の冒険者が世界の調停者になる  作者: pacifian
第4章『ルシェラ過去編』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
127/188

『刃の迷い』

それは、最初はほんの小さな遅れだった。


剣を振るう瞬間。

踏み込むべき一歩。

命令を下す声の強さ。

どれも形の上では間違っていない。だが、確かに以前とは違っていた。


訓練場に、朝の光が差していた。


大理石の床。

規則正しく並ぶ柱列。

上空を流れる淡い雲。

天使族の若き兵たちが一斉に剣を振るうたび、甲高い金属音が澄んだ空気に響く。


その中央に、エルシオンは立っていた。


白銀の訓練鎧をまとい、翼を半ば広げたまま、目の前の相手と向き合っている。

相手は中堅の天使兵。歴戦というほどではないが、若手の中では腕の立つ男だった。


合図と同時に、二人が動く。


相手が先に踏み込む。

斜めからの速い刺突。

エルシオンはそれを正確に弾き、返す剣で肩口を狙う。

いつもならここで終わる。


だがその一瞬、相手の背後に人影が見えた気がした。


砦の陰で泣いていた子ども。

その前に飛び込んだ紅い背。

避難民を庇うため、自分に背を向けた王。


ネメシアの姿が脳裏をよぎった、その刹那。


エルシオンの剣先がわずかに鈍る。


相手はその隙を逃さなかった。

踏み込みを変え、横薙ぎでエルシオンの脇腹を浅く打つ。


乾いた衝撃音が響いた。


「……っ」


エルシオンは一歩下がり、すぐに体勢を立て直す。

だが訓練場の空気は、すでにざわめいていた。


「今の、取られたか?」


「エルシオン様が?」


「珍しいな……」


相手の兵も、少し困ったような顔をする。


「申し訳ありません」


エルシオンは短く言った。


兵は慌てて首を振る。


「い、いえ! その、偶然です」


偶然。


そういうことにしておくのが、この場では正しいのだろう。


だがエルシオン自身には分かっていた。

偶然ではない。

自分の意識が一瞬、戦場へ引き戻されたのだ。


あれから数日。

戦は途切れず、小競り合いも続いている。

けれどエルシオンの中では、あの日ネメシアと剣を交えた瞬間から、何かが変わってしまっていた。


敵を見る目が変わった。

剣の意味が変わった。

そして何より、“正義”という言葉の輪郭が、少しずつ曇り始めていた。


訓練後、エルシオンはひとりで水場へ向かった。


大理石の縁に手をつき、水面を見る。

そこに映る自分の顔は、以前と同じはずだった。

族長ヴァルセリオンの息子。

天使族の後継。

白き秩序を守る剣。


それなのに、目だけが少し違う気がした。


「らしくないな」


背後から声がした。


振り返ると、老将ゼファルが立っていた。


彼はいつものように無駄のない姿勢で近づき、エルシオンの隣に並ぶ。

しばらく水面を眺め、それから言った。


「最近、剣が鈍い」


遠回しではなかった。


エルシオンは否定しなかった。

否定できるほど、自分でも誤魔化せていない。


「疲れが出ているのかもしれません」


「それなら休ませる」


ゼファルは即答した。


「だが俺にはそうは見えん」


エルシオンは黙る。


老将は続ける。


「お前は考えすぎるようになった」


「戦場で何か見たな」


問いではなく、ほとんど断定だった。


エルシオンは水面へ視線を落としたまま言う。


「……敵の中にも、守る者がいました」


ゼファルの目がわずかに細くなる。


「それで?」


「それだけです」


「嘘だな」


あまりにもあっさりと言われ、エルシオンはようやく顔を上げた。


ゼファルは厳しい目をしていた。

怒っているわけではない。

だが、見逃す気もない目だった。


「それだけで剣は鈍らん。お前はもっと深いところで迷っている」


「……」


「言っておくが、敵に守るものがあること自体は不思議でも何でもない」


ゼファルは水面を見ながら言う。


「獣でも巣は守る。魔物でも縄張りは守る」


「問題はそこじゃない」


その言葉に、エルシオンの眉がわずかに寄る。


「お前は“守る姿そのもの”に、価値を見出しかけている」


胸の奥を、正確に刺された気がした。


エルシオンはすぐには返せない。


ゼファルはため息のように息を吐く。


「危ういぞ、それは」


「……なぜです」


「お前は後継だ。お前が秩序を疑えば、下の兵すべてが揺らぐ」


エルシオンは拳を握る。


秩序。

その言葉は、昔から父の口から何度も聞いてきた。

正しく保たれた世界。

光の民が守るべき均衡。


だが今、その秩序のために行われていることが、本当に正しいのかが分からなくなっている。


「ゼファル殿」


「なんだ」


「もし……」


喉が少し詰まる。


「もし、我々が見ているものが全てではなかったら?」


老将は沈黙した。


その沈黙が、逆に重かった。


やがて彼は静かに言う。


「見えていないものは、常にあるだろう」


「だが戦場で必要なのは、全てを知ることではない」


「切るべき時に切ることだ」


その答えは、今までなら納得できた。

だが今は、それがただ“必要な理屈”にしか聞こえない。


ゼファルは最後にひとつだけ告げた。


「これ以上、迷いを表に出すな」


「族長様は、もう気づいておられる」


その一言で、エルシオンの背筋に冷たいものが走った。


気づいている。


父が。


戦議の間で見せたあの冷たい観察の目が脳裏によみがえる。

ヴァルセリオンはすでに、息子の中の揺らぎを見抜いている。


その日の夕刻、再び前線への出撃命令が下った。


規模は中程度。

前線砦周辺での押し引き。

だが天使族側の狙いは明白だった。

悪魔族の退路と補給路を削り続け、いずれ深都エルグラディアそのものを孤立させること。


エルシオンは部隊を率いて空へ上がる。


白翼たちの列は乱れない。

号令も整っている。

誰の目にも、美しい秩序だった。


その中にいながら、エルシオンだけが少しずつ息苦しさを感じていた。


前線へ近づくにつれ、地上の景色が見えてくる。


荒野。

砕けた防壁。

焦げた見張り台。

そして、その陰を縫うようにして動く悪魔族の兵と避難民。


まただ、と思う。


また“暮らし”が見える。

また“守る者”が見える。


角笛が鳴る。


天使族の部隊が一斉に降下を始めた。

エルシオンも剣を抜き、前へ出る。


敵兵とぶつかる。

刃を受ける。

返す。

ここまでは問題ない。


だが二度目の交錯で、エルシオンの剣は再び止まった。


目の前の悪魔族兵は、傷つきながらも後方を振り返っていた。

視線の先には、撤退する仲間がいる。

その退路を確保するために、彼はここに残っている。


その姿が、以前の自分と重なった。


守るために前に立つ。

それは自分が最も尊いと信じてきた在り方のはずだった。


「エルシオン様!」


部下の叫びで我に返る。

だが反応は一瞬遅れた。


敵の斧が肩当てをかすめ、鈍い衝撃が走る。

大きな傷ではない。

それでも、指揮官が見せるには十分すぎる隙だった。


周囲の兵たちの顔が強張る。


「……今の、避け損ねたのか?」


「違う、止まったぞ」


「まさか……」


ざわめきは小さい。

だが戦場では、小さな違和感ほど早く広がる。


エルシオンは強引に前へ出て、敵を押し返した。

動きそのものは鋭い。

一度集中すれば、まだ誰よりも強い。


だが問題はそこではなくなっていた。


迷いが“見えた”。


その事実が、兵たちの中に残る。


さらに戦線の左翼で、避難民の列が露出した時だった。

天使兵の一隊がそこへ降下しようとする。


エルシオンは反射的に叫ぶ。


「待て! 角度を変えろ!」


一隊の兵が振り向く。

その目には明確な戸惑いがあった。


「ですが、あそこを押せば――」


「聞こえなかったのか、変えろ!」


声は鋭かった。

命令としては正しい。

だが“なぜそこを避けるのか”の理由が共有されていない以上、それは不自然な命令でもあった。


兵たちは従った。

しかし空気は変わる。


疑念。

困惑。

そして、言葉にならない警戒。


その時、さらに高所の空から強い気配が降りてきた。


ヴァルセリオンだった。


六枚翼を広げ、白き軍勢の後方から戦場全体を見下ろしている。

まるで裁きの光そのもののような姿だった。


エルシオンはその視線を感じた。


見られている。


息子としてではない。

後継としてでもない。


秩序を乱しかねない者として、見られている。


その視線だけで、胸が重くなる。


ヴァルセリオンは何も言わない。

まだ何も言わない。

だがその沈黙が、逆に恐ろしかった。


戦いが終わり、天使族側が一時撤収すると、兵たちは戻るなりざわめいた。


「エルシオン様、今日はどうされたんだ」


「民間人を庇ったのか?」


「まさか……敵に情けを?」


誰も正面からは言わない。

だが視線は隠せない。


敬意の中に、疑いが混じり始めていた。


若い兵のひとりが、小声で友へ囁く。


「あれは……裏切りの兆候じゃないのか」


その言葉は、エルシオンの耳にも届いた。


裏切り。


あまりにも重いその響きに、胸の奥が冷えた。


自分はまだ、何も裏切っていない。

天使族を捨てたわけでもない。

父に刃向かったわけでもない。

ただ、目の前のものを“そのまま”見てしまっただけだ。


それだけなのに、もう周囲は敏感に嗅ぎ取っている。


その夜。


天空神殿へ戻ったエルシオンは、長い回廊をひとり歩いていた。

外は白い月に照らされ、石床に淡い光が落ちている。


足を止めた先、柱の影にヴァルセリオンが立っていた。


静かに待っていたのだと分かる。


エルシオンは反射的に背筋を伸ばした。


「父上」


ヴァルセリオンはすぐには答えない。

ゆっくりと近づき、その冷たい目で息子を見る。


「今日の戦いで、二度」


低い声だった。


「お前は刃を止めた」


言い逃れはできない。


エルシオンは黙った。


ヴァルセリオンはさらに一歩近づく。


「何を見た」


問いは静かだった。

だが逃げ場がなかった。


エルシオンは息を飲む。

ここで嘘を言えば、その場はしのげるかもしれない。

だが、もう自分の中の揺らぎを完全には隠せない。


「……敵にも、守る者がいます」


言った瞬間、回廊の空気が少しだけ張りつめた。


ヴァルセリオンの表情は変わらない。

それがかえって恐ろしい。


「だから迷ったのか」


エルシオンは拳を握りしめる。


「迷ったわけでは……ただ、我々のやり方が、本当に最善なのか――」


最後まで言わせてもらえなかった。


ヴァルセリオンの声が、静かに、だが明確に断ち切る。


「それ以上は口にするな」


一瞬で、息が詰まる。


父の目には怒りがあった。

しかしそれ以上に、深い失望に似たものがあった。


「お前は今、敵を見ているのではない」


「自らの弱さを、敵の姿に重ねているだけだ」


その言葉は鋭かった。


エルシオンは反論できない。

反論したいのに、言葉がまとまらない。


ヴァルセリオンは背を向ける前に、最後にこう言った。


「次の戦で、はっきりするだろう」


「お前の剣が、誰のためにあるのか」


父が去ったあとも、エルシオンはその場を動けなかった。


誰のための剣か。


それは昔から決まっているはずだった。

光の国のため。

民のため。

秩序のため。


なのに今、その答えを口の中で繰り返すほど、どこか空虚になる。


回廊の外では、白い月が静かに浮かんでいた。

清らかなはずの光が、今夜は少しだけ冷たかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。