『対峙』
最初に動いたのは、風だった。
崩れかけた防壁の上を、白と灰の砂煙が吹き抜ける。
砕けた石片が転がり、泣き声と怒号と羽音が入り混じる中で、ほんの一瞬だけ世界が静まったように感じられた。
その静寂の中心で、エルシオンとネメシアは向かい合っていた。
白き翼を広げた若き天使族の後継。
紅き髪をなびかせる悪魔族の王。
二人の間には、崩れた壁と、血と、守られたばかりの避難民たちの息遣いがある。
先に剣を動かしたのはエルシオンだった。
迷いを振り払うように、一気に踏み込む。
斜め上からの鋭い斬撃。
訓練でも実戦でも磨いてきた、無駄のない一太刀だった。
だがネメシアは、それを真正面から受けなかった。
半歩だけ身を引き、刃筋を流し、ほとんど同時に剣の峰でエルシオンの手元を打つ。
強い衝撃が走り、エルシオンの剣先がわずかに逸れた。
速い。
エルシオンは即座に体勢を立て直し、二撃目、三撃目と続ける。
横薙ぎ、突き、踏み込みからの切り上げ。
だがネメシアはそのすべてを、最小限の動きでいなしていく。
ただ強いだけではない。
見ている。
こちらの癖も、呼吸も、次の重心移動まで読まれている感覚があった。
「……若いわりに、いい剣ね」
ネメシアが低く言った。
その声に、エルシオンはわずかに眉を寄せる。
戦場の只中で、敵を値踏みするような口調。
だが侮りではなかった。
純粋な事実として言っているのが分かる。
「悪魔族に褒められても嬉しくはない」
返しながら、エルシオンは再び踏み込む。
今度は速度を上げた。
一撃ごとの間を詰め、受ける暇を奪う連撃。
ネメシアは二撃目までを剣で受け、三撃目であえて足場を崩し、四撃目の勢いを利用して距離を外す。
そのまま逆手で斬り返し――だがその切っ先は、エルシオンの喉ではなく肩口の鎧を浅く削るだけで止まった。
「……っ」
致命傷を取れたはずだった。
そう理解した瞬間、エルシオンの胸に別の違和感が走る。
なぜ急所を狙わない。
その答えを考える間もなく、側面から悪魔族兵へ向かっていた天使兵の槍が一人の子どもへ逸れかけるのが見えた。
ネメシアの視線が瞬時にそちらへ跳ぶ。
次の瞬間には、彼女はエルシオンから離れていた。
闘いの最中だというのに、一切ためらわず背を向けて飛ぶ。
子どもの前へ滑り込み、槍の穂先を剣で弾き上げる。
火花が散り、悲鳴があがる。
「下がりなさい!」
ネメシアが怒鳴ると、子どもを抱えた女が転ぶようにして走り去っていく。
その背を確認するまで、ネメシアは動かなかった。
エルシオンは呆気に取られる。
今の一瞬、自分を討つよりも、民を守る方を選んだ。
それはただの戦術ではない。
目の前の王は、本当にその優先順位で動いている。
「何を見ているの」
ネメシアが振り返る。
「来なさい。あなたは敵でしょう」
その一言に、エルシオンははっとした。
確かに自分は敵だ。
彼女を止める側にいる。
そうであるはずなのに、今はどちらが“守るために立っている者”なのか、一瞬分からなくなった。
エルシオンは剣を握り直し、再び向かう。
今度は言葉なしに刃がぶつかる。
高い金属音。
ネメシアの剣は細身で速い。
対してエルシオンの剣は、天使族らしく正確で重い。
何度もぶつかり、何度も弾き、互いの腕と足がぎりぎりの間合いを奪い合う。
その中でエルシオンは気づいていく。
ネメシアの剣は、殺すための最短距離ばかりを選ばない。
敵を押し返し、味方の退路を開き、守るべき者へ近づかせないための剣だ。
それは、戦場で最も非効率なようでいて、最も強い意志を要する戦い方だった。
一合、二合、三合。
ついにエルシオンが強く踏み込み、ネメシアの剣を下へ叩き落とす。
体勢が崩れる。
今なら取れる。
エルシオンが刃を振り下ろしかけた、その時。
背後から部下の悲鳴が響いた。
「エルシオン様!」
反射的に振り向く。
天使兵の一人が、崩れた壁材の下敷きになりかけていた。
周囲にはまだ悪魔族兵もいる。
その一瞬の隙を、ネメシアは突かなかった。
それどころか彼女は横へ跳び、別方向から飛来した矢を払っていた。
自分の目の前にいる敵ではなく、崩落に巻き込まれかけた自軍の兵へ向かおうとする悪魔族兵を止めたのだ。
エルシオンは理解できず、声が漏れる。
「……なぜだ」
ネメシアは視線をこちらへ戻さないまま言う。
「戦えない者から先に死ぬ戦場なんて、最低でしょう」
「何……?」
「敵でも味方でもない。今はただ、そこにある命よ」
その言葉に、エルシオンの剣先がわずかに震えた。
そんな理屈があるのか。
戦場で。
敵味方が殺し合っている場所で。
だが、彼女は本気でそう言っている。
綺麗事ではない。
実際に自分の体を張って、その理屈を通している。
ネメシアがようやくエルシオンの方を見る。
紅い瞳は鋭い。
だがそこに濁った憎悪はない。
「あなたたちは、どうしてそこまで壊したがるの」
唐突な問いだった。
エルシオンは息を詰める。
「俺たちは壊すために来たわけじゃない。守るためだ」
「何を?」
「天空の民を。秩序を。悪から」
その答えは、何度も自分に言い聞かせてきたものだ。
なのに、今口にするとどこか空々しく響く。
ネメシアは静かに言った。
「なら見なさい」
彼女が剣の切っ先で示した先には、砦の内側へ逃げ込む負傷兵と、その肩を支える老女の姿があった。
さらにその奥では、母親が子を抱いて石壁の陰に身を寄せている。
「あなたが守ると言う民と、私が守ると言う民に、どれほどの違いがあるの」
エルシオンは答えられない。
そんなこと、考えたこともなかった。
違うはずだ。
悪魔族は悪で、天使族は光だ。
だから守る価値も意味も違うはずだ。
だが目の前にあるのは、泣く子どもと、傷ついた兵と、それを庇う王だ。
その光景に、教えの方がうまく重ならない。
「……悪魔族は、奪う者だと教わった」
ようやく絞り出した声は、戦場には似合わないほど掠れていた。
ネメシアは少しだけ目を細める。
「そう」
その返事に怒りはない。
ただ、悲しみに近い冷たさがあった。
「ならあなたは、まだ本当の戦場を見ていないのね」
その言葉は、エルシオンの胸に深く刺さった。
見ていない。
たしかにそうかもしれない。
今まで自分は、父の言葉を通してしか敵を見てこなかった。
悪魔族という記号でしか見てこなかった。
だが今、剣越しに見ているこの女は、記号ではない。
王であり、守る者だ。
次の瞬間、上空から新たな光槍が降ってくる。
天使族の増援だった。
狙いはネメシア――ではなく、その背後でまだ退避しきれていない民の列。
ネメシアは咄嗟にそちらへ飛ぶ。
エルシオンもまた、考えるより先に動いていた。
白翼が翻り、ネメシアの斜め後方へ回り込む。
振り下ろされる光槍を、自らの剣で弾いた。
強烈な衝撃が腕へ走る。
ネメシアが振り返る。
その目に、初めて明確な驚きが浮かんだ。
エルシオン自身も驚いていた。
なぜ今、自分は彼女の背後を守るように動いた。
敵なのに。
斬るべき相手なのに。
だがその答えはすぐに出た。
彼女の背後にいたのは、民だった。
そしてネメシアは、その民を守るために飛んだ。
それを見た瞬間、自分もまた同じ方向へ剣を出していた。
「……あなた」
ネメシアが言いかけたところで、別方向から悪魔族兵が突っ込んでくる。
今度はネメシアがそれを止めた。
自軍の兵であっても、目の前のエルシオンへ不用意に刃を向けるのを許さない形になった。
その瞬間だけ、二人は同じ方向を見ていた。
次の瞬間には、互いに距離を取る。
共闘ではない。
まだそこまでではない。
だが、ほんの一瞬だけ同じものを守った。
その事実が、エルシオンの中で大きく何かを崩した。
悪魔族は悪。
その一言ではもう足りない。
少なくとも、このネメシアという王は違う。
この女の剣は、奪うための剣ではない。
守るための剣だ。
それを認めてしまった時、胸の奥で長く信じてきたものが鈍く軋んだ。
「エルシオン様! 後退命令です!」
天使側の伝令が叫ぶ。
戦線が横に広がりすぎた。
いったん立て直すための指示だろう。
エルシオンは伝令を見て、それからネメシアへ視線を戻す。
ネメシアもこちらを見ていた。
紅い瞳。
その奥には警戒がある。
敵を見る目だ。
だがさっきまでとは少し違う。
ほんのわずかに、測るような色が混じっている。
「……次に会う時、あなたはどちら側に立つのかしら」
ネメシアが低く言う。
エルシオンは返せなかった。
どちら側。
光か、闇か。
天使か、悪魔か。
正義か、裏切りか。
そんな単純な問いのはずなのに、今はもうその境界が揺らいでいる。
「エルシオン様!」
再び伝令が叫ぶ。
エルシオンは後ろへ跳び、翼を広げた。
空へ戻る直前まで、視線はネメシアから外せなかった。
ネメシアもまた追ってはこない。
最後尾に残り、負傷兵を下がらせながら、ただこちらを見ている。
戦場の只中で。
敵として剣を交えながら。
それでもエルシオンは、ひとつの確信を得てしまっていた。
この女は、守っている。
偽りではなく。
見せかけではなく。
本当に、守るために戦っている。
その確信は、“悪魔族=悪”という長年の教えに、初めて明確な亀裂を入れた。
まだ崩れ切ってはいない。
父の言葉も、天空の秩序も、すぐには捨てられない。
だがもう、以前のように信じ切ることもできない。
白翼が空へ上がる。
戦場の音が少しずつ遠のいていく中で、エルシオンは自分の剣を見た。
この剣は、何のためにある。
守るためだ。
そう教えられてきた。
ならば今日、自分が見たものは何だ。
あの紅き王もまた、同じ答えを持っていたのではないか。
その問いが、消えない。
そしてその問いこそが、次の戦いで彼の剣を迷わせることになる。




