『間違った正義』
白き天空神殿は、どこまでも静かだった。
高くそびえる柱。
雲海を見下ろす大理石の回廊。
清らかな光を映す水盤。
祈りの歌すら、ここでは音ではなく秩序の一部のように響く。
その神殿の最奥、戦議の間に、天使族の主要将たちが集められていた。
円形の広間の中央には、光で形作られた地図が浮かんでいる。
悪魔族領北部――深都エルグラディアへ至る前線地帯。
すでに何度も小競り合いを繰り返してきた砦や補給路が、白と赤の印で示されていた。
その最上段に立つのは、ヴァルセリオン。
白金の長髪を背に流し、六枚翼を静かに畳んだその姿は、神像のように威厳に満ちている。
老いてはいない。
むしろ、年を重ねるほど研ぎ澄まされた刃のような冷たさを持っていた。
エルシオンはその少し下に立ち、父の横顔を見上げていた。
前回の戦から、まだ数日しか経っていない。
深都エルグラディアの前線で見た紅き王の姿は、今も脳裏に残っていた。
味方をかばい、自らが最後尾に立つ戦い方。
あれは、今まで教えられてきた“悪”の姿とは違いすぎた。
だが、その違和感を言葉にしたことはない。
できるはずがなかった。
戦議の間には重々しい緊張が満ちている。
誰もが次の大規模侵攻を予感していた。
ヴァルセリオンがゆっくりと口を開く。
「北方前線における数度の衝突により、悪魔族の防衛線は一定の損耗を見せている」
静かな声だった。
だが広間の隅々まで届く。
「にもかかわらず、深都エルグラディアは未だ健在。補給路も完全には断てていない」
光の地図の一部が強く輝く。
ラズ=グラド周辺。
ネメシアが前回守り切った前線砦の一帯だった。
「ここを断たぬ限り、悪魔族は立て直す」
ヴァルセリオンの声音には迷いがない。
「ならば、次に取るべき手もまた明白だ」
地図上に、新たな光の線がいくつも走った。
空からの大規模降下。
地上部隊との同時進軍。
複数防衛線への同時圧迫。
それはもはや牽制ではない。
殲滅戦だった。
ざわめきが起こる。
歴戦の将たちですら、今回の規模には一瞬息を呑んでいた。
エルシオンもまた、胸の奥に冷たいものを感じる。
大きすぎる。
ただ前線を崩すだけではない。
周辺集落、補給点、避難路、その全てを巻き込む構えだった。
ヴァルセリオンは広間を見渡し、言った。
「今回の作戦目標は、悪魔族北方戦力の徹底的無力化」
「兵、補給、拠点、避難経路、そのすべてを断つ」
その一言で、空気がさらに冷えた。
補給と拠点だけではない。
避難経路まで断つ。
それが何を意味するのか、ここにいる全員が分かっていた。
ゼファルが一歩進み出る。
「族長。確認ですが……周辺の非戦闘員も、戦域に含めるおつもりですか」
その問いに、ヴァルセリオンは一切の間を置かず答えた。
「戦域にいる者はすべて、敵戦力を支える存在だ」
静寂が落ちる。
ヴァルセリオンは続ける。
「悪魔族は狡猾だ。常に民を盾にし、弱き姿を装い、我らの正義を鈍らせようとする」
「だが情けは毒である」
「今ここで断たねば、いずれ天空の民が泣くことになる」
その理屈は、エルシオンが幼い頃から繰り返し聞いてきたものだった。
悪に情けをかけることは、善き民を見捨てること。
守るべきものを守るためなら、刃を躊躇ってはならない。
そのはずだった。
そのはずなのに。
エルシオンの脳裏には、前線砦で見た光景が次々に浮かんでくる。
逃げる親子。
負傷兵を支える兵。
崩れた壁の前で、最後まで人を逃がしていたネメシア。
あれも、ただの“装い”なのか。
ヴァルセリオンの声が響く。
「中途半端な慈悲は、より多くの死を呼ぶ」
「必要なのは、完全な断罪だ」
その言葉に、将の何人かが厳しく頷いた。
当然の教えとして受け取っている者たち。
長くこの正義の中で戦ってきた者たち。
エルシオンは、拳を握った。
指先が白くなる。
完全な断罪。
その言葉が、なぜか今日はひどく冷たく聞こえた。
守るための言葉ではなく、壊すための理屈のように聞こえた。
「異論がある者はいるか」
ヴァルセリオンがそう告げた時、一瞬だけ、広間の空気が止まった。
誰も口を開かない。
開けるはずがない。
ここで異を唱えることは、族長の正義に疑義を挟むことに等しい。
それはそのまま、天使族の秩序に亀裂を入れる行為だ。
エルシオンも、黙っていた。
だが沈黙の中で、彼の中にだけ、小さく別の声が生まれていた。
――違うのではないか。
その声はまだ弱い。
自分自身でも否定できるほど弱い。
けれど確かに、生まれていた。
やがて戦議は終わり、各将は命令を受けて散っていく。
エルシオンも退出しようとした、その時。
「エルシオン」
父に呼び止められた。
足を止め、振り返る。
広間にはもうほとんど人がいない。
残っているのは、父と自分だけだった。
ヴァルセリオンは高い窓辺に立ったまま、こちらを見ずに言う。
「お前はどう見る」
問いの意味は明白だった。
今回の作戦について。
そして最近の前線での戦いについて。
エルシオンは慎重に言葉を選ぶ。
「……悪魔族の抵抗は予想以上に強く、深都への繋がりもまだ生きています」
「だからこそ、今回の一撃で北方を崩す必要がある」
それは模範的な答えだった。
ヴァルセリオンはなおも窓の外を見たまま、続ける。
「それだけか」
エルシオンの喉が、わずかに詰まる。
父は気づいている。
前回の戦いで、自分が何かを見たことに。
あるいは、ほんのわずかでも揺らいだことに。
「……前線では、思っていた以上に民の姿が近くにありました」
口にした瞬間、自分でも驚いた。
もっと無難なことを言うつもりだった。
なのに、出てきたのはその言葉だった。
ヴァルセリオンはゆっくり振り返る。
その目は穏やかではない。
だが怒ってもいない。
何かを試すような、冷たい観察の目だった。
「それで?」
「……敵兵だけでなく、避難する者や、守ろうとする者も見ました」
「そうか」
それだけだった。
エルシオンは思わず父の顔を見る。
もっと強い否定が返ってくると思っていた。
だがヴァルセリオンの声は静かだった。
「ならば学べ」
「戦場にいるということは、それだけで敵の一部だ」
「守られる者も、いずれ敵を支える」
「守る者は、我らの秩序を乱すために立つ」
父は一歩、こちらへ近づいた。
「エルシオン。お前は優しい」
その言葉は意外だった。
だが褒め言葉ではないことは、すぐに分かる。
「優しさは美徳だ。だが戦場では、刃を鈍らせる」
「お前はいずれ、この天を背負う翼となる」
「ならば覚えろ。個の涙に囚われて大義を見失うな」
ヴァルセリオンの手が、エルシオンの肩に置かれる。
かつて幼い日に、頭へ置かれたのと同じ手。
あの時は温かく感じた。
だが今は、ひどく重たかった。
「迷うな」
「お前が迷えば、その先で多くが死ぬ」
エルシオンは答えられない。
迷ってはいけない。
父の言う通りなのかもしれない。
大義のためには、小さな情を切り捨てなければならないのかもしれない。
それでも。
前線で見たものを、すべて“敵の一部”として片づけてしまうことに、どうしても何かが引っかかった。
結局、彼はただ一言だけ返した。
「……承知しました」
父は頷いた。
それで会話は終わった。
だがエルシオンの胸には、むしろ重いものだけが残った。
数日後。
大規模侵攻が開始された。
白き軍勢が幾層にも分かれ、北方戦線へ向かう。
それはもはや威圧ではなく、意思だった。
潰し切るという意思。
逃がさないという意思。
悪魔族北部を徹底的に崩すという意思。
空は白で埋まっていた。
地上では進軍路に沿って光壁が張られ、退路を狭める陣が組まれる。
空と地が同時に迫り、悪魔族側の防衛線は瞬く間に圧迫されていった。
エルシオンも部隊を率いて前へ出る。
命令通り動く。
指揮を執る。
敵陣を押す。
それ自体はできる。
だが今日は、今までとは景色が違って見えた。
周辺集落から上がる煙。
逃げ場を失って防壁へ寄せられる人々。
避難路ごと切られ、右往左往する影。
これが作戦の一部なのだと理解した瞬間、胸の奥に嫌な冷たさが広がった。
「南側の退路、封鎖完了!」
伝令が叫ぶ。
「西集落方面、火を確認!」
また別の報告が飛ぶ。
すべて予定通り。
計画通り。
だからこそ、なおさら気分が悪かった。
これは本当に、守るための戦いなのか。
前線で剣を交える敵を倒すことと、逃げる道ごと潰すことは、同じなのか。
エルシオンは歯を食いしばり、なおも前進する。
命令には従わねばならない。
ここで乱れれば部下が死ぬ。
戦場の只中で立ち止まることはできない。
だがその時、前方で大きな崩落音が響いた。
悪魔族側第二防壁の一部が砕け、そこから避難民の列が露出したのだ。
悲鳴。
叫び。
混乱。
白翼の一隊がその上から降下態勢に入る。
「――待て!」
気づけば、エルシオンは叫んでいた。
周囲の兵が一斉にこちらを見る。
エルシオン自身も、自分の声に驚いていた。
だがもう遅い。
「降下角度を変えろ! そのまま入れば味方も巻き込む!」
咄嗟にそう言い換える。
民を守れ、とは言えなかった。
だが少なくとも、このままではおかしいと体が拒絶した。
兵たちは一瞬迷ったが、指揮官命令に従って軌道をずらした。
そのわずかな間に、悪魔族側から紅が走る。
ネメシアだった。
崩れた壁を飛び越え、避難民の列と天使兵の間へ割り込み、飛来した光槍を叩き落とす。
次いで自ら防壁の破片を蹴り上げ、視界を遮り、民を奥へ押し戻す。
その姿は、炎のようだった。
守るためだけに燃える炎。
奪うためではなく、消えかけた命の前に立つ炎。
エルシオンは空の上から、それを見た。
そしてはっきり理解してしまう。
この女は、ただの敵ではない。
教えられてきた“悪”という言葉では、もう説明できない。
その瞬間、胸の奥で何かがひどく軋んだ。
自分たちは今、何をしている。
守るためだと信じてきた。
正義のためだと教えられてきた。
だが目の前の光景は、本当にそう見えるか。
逃げる者の道を断ち、泣く者を追い詰め、その前に立つ者を“悪”と呼んで討とうとしている。
そこに初めて、言葉にならない嫌悪が生まれた。
自軍の中に。
自分が属する“正義”の中に。
それはまだ、小さい。
決定的ではない。
だがもう無視できない。
「エルシオン様!」
部下が叫ぶ。
「中央より強敵接近!」
我に返る。
前方、防壁の上。
紅き外套を翻しながら、ネメシアがこちらを見上げていた。
その瞳は真っ直ぐだった。
怒りはある。
だが憎しみに呑まれてはいない。
守るべきものの前に立つ者の目だった。
エルシオンもまた、その視線を受け止める。
白き翼を広げ、剣を握る。
自分が何者であるかを、まだ捨てることはできない。
それでも、もう以前と同じままでもいられない。
風が吹いた。
戦場の喧騒が、一瞬だけ遠のいたように感じられる。
白と紅。
光と闇。
正義と悪。
そう教えられてきた境界の上で、二人は初めて、本当の意味で互いを視界に捉えた。
ネメシアが剣を構える。
エルシオンもまた、ゆっくりと切っ先を上げた。
次の瞬間、二つの刃がぶつかる――
その寸前で、世界は息を止めた。




