↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
レベル1の冒険者が世界の調停者になる  作者: pacifian
第4章『ルシェラ過去編』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
125/188

『間違った正義』


白き天空神殿は、どこまでも静かだった。


高くそびえる柱。

雲海を見下ろす大理石の回廊。

清らかな光を映す水盤。

祈りの歌すら、ここでは音ではなく秩序の一部のように響く。


その神殿の最奥、戦議の間に、天使族の主要将たちが集められていた。


円形の広間の中央には、光で形作られた地図が浮かんでいる。

悪魔族領北部――深都エルグラディアへ至る前線地帯。

すでに何度も小競り合いを繰り返してきた砦や補給路が、白と赤の印で示されていた。


その最上段に立つのは、ヴァルセリオン。


白金の長髪を背に流し、六枚翼を静かに畳んだその姿は、神像のように威厳に満ちている。

老いてはいない。

むしろ、年を重ねるほど研ぎ澄まされた刃のような冷たさを持っていた。


エルシオンはその少し下に立ち、父の横顔を見上げていた。


前回の戦から、まだ数日しか経っていない。

深都エルグラディアの前線で見た紅き王の姿は、今も脳裏に残っていた。

味方をかばい、自らが最後尾に立つ戦い方。

あれは、今まで教えられてきた“悪”の姿とは違いすぎた。


だが、その違和感を言葉にしたことはない。

できるはずがなかった。


戦議の間には重々しい緊張が満ちている。

誰もが次の大規模侵攻を予感していた。


ヴァルセリオンがゆっくりと口を開く。


「北方前線における数度の衝突により、悪魔族の防衛線は一定の損耗を見せている」


静かな声だった。

だが広間の隅々まで届く。


「にもかかわらず、深都エルグラディアは未だ健在。補給路も完全には断てていない」


光の地図の一部が強く輝く。

ラズ=グラド周辺。

ネメシアが前回守り切った前線砦の一帯だった。


「ここを断たぬ限り、悪魔族は立て直す」


ヴァルセリオンの声音には迷いがない。


「ならば、次に取るべき手もまた明白だ」


地図上に、新たな光の線がいくつも走った。


空からの大規模降下。

地上部隊との同時進軍。

複数防衛線への同時圧迫。

それはもはや牽制ではない。


殲滅戦だった。


ざわめきが起こる。

歴戦の将たちですら、今回の規模には一瞬息を呑んでいた。


エルシオンもまた、胸の奥に冷たいものを感じる。


大きすぎる。


ただ前線を崩すだけではない。

周辺集落、補給点、避難路、その全てを巻き込む構えだった。


ヴァルセリオンは広間を見渡し、言った。


「今回の作戦目標は、悪魔族北方戦力の徹底的無力化」


「兵、補給、拠点、避難経路、そのすべてを断つ」


その一言で、空気がさらに冷えた。


補給と拠点だけではない。

避難経路まで断つ。


それが何を意味するのか、ここにいる全員が分かっていた。


ゼファルが一歩進み出る。


「族長。確認ですが……周辺の非戦闘員も、戦域に含めるおつもりですか」


その問いに、ヴァルセリオンは一切の間を置かず答えた。


「戦域にいる者はすべて、敵戦力を支える存在だ」


静寂が落ちる。


ヴァルセリオンは続ける。


「悪魔族は狡猾だ。常に民を盾にし、弱き姿を装い、我らの正義を鈍らせようとする」


「だが情けは毒である」


「今ここで断たねば、いずれ天空の民が泣くことになる」


その理屈は、エルシオンが幼い頃から繰り返し聞いてきたものだった。


悪に情けをかけることは、善き民を見捨てること。

守るべきものを守るためなら、刃を躊躇ってはならない。


そのはずだった。


そのはずなのに。


エルシオンの脳裏には、前線砦で見た光景が次々に浮かんでくる。


逃げる親子。

負傷兵を支える兵。

崩れた壁の前で、最後まで人を逃がしていたネメシア。


あれも、ただの“装い”なのか。


ヴァルセリオンの声が響く。


「中途半端な慈悲は、より多くの死を呼ぶ」


「必要なのは、完全な断罪だ」


その言葉に、将の何人かが厳しく頷いた。

当然の教えとして受け取っている者たち。

長くこの正義の中で戦ってきた者たち。


エルシオンは、拳を握った。


指先が白くなる。


完全な断罪。


その言葉が、なぜか今日はひどく冷たく聞こえた。


守るための言葉ではなく、壊すための理屈のように聞こえた。


「異論がある者はいるか」


ヴァルセリオンがそう告げた時、一瞬だけ、広間の空気が止まった。


誰も口を開かない。


開けるはずがない。

ここで異を唱えることは、族長の正義に疑義を挟むことに等しい。

それはそのまま、天使族の秩序に亀裂を入れる行為だ。


エルシオンも、黙っていた。


だが沈黙の中で、彼の中にだけ、小さく別の声が生まれていた。


――違うのではないか。


その声はまだ弱い。

自分自身でも否定できるほど弱い。

けれど確かに、生まれていた。


やがて戦議は終わり、各将は命令を受けて散っていく。


エルシオンも退出しようとした、その時。


「エルシオン」


父に呼び止められた。


足を止め、振り返る。


広間にはもうほとんど人がいない。

残っているのは、父と自分だけだった。


ヴァルセリオンは高い窓辺に立ったまま、こちらを見ずに言う。


「お前はどう見る」


問いの意味は明白だった。

今回の作戦について。

そして最近の前線での戦いについて。


エルシオンは慎重に言葉を選ぶ。


「……悪魔族の抵抗は予想以上に強く、深都への繋がりもまだ生きています」


「だからこそ、今回の一撃で北方を崩す必要がある」


それは模範的な答えだった。


ヴァルセリオンはなおも窓の外を見たまま、続ける。


「それだけか」


エルシオンの喉が、わずかに詰まる。


父は気づいている。


前回の戦いで、自分が何かを見たことに。

あるいは、ほんのわずかでも揺らいだことに。


「……前線では、思っていた以上に民の姿が近くにありました」


口にした瞬間、自分でも驚いた。

もっと無難なことを言うつもりだった。

なのに、出てきたのはその言葉だった。


ヴァルセリオンはゆっくり振り返る。


その目は穏やかではない。

だが怒ってもいない。

何かを試すような、冷たい観察の目だった。


「それで?」


「……敵兵だけでなく、避難する者や、守ろうとする者も見ました」


「そうか」


それだけだった。


エルシオンは思わず父の顔を見る。


もっと強い否定が返ってくると思っていた。

だがヴァルセリオンの声は静かだった。


「ならば学べ」


「戦場にいるということは、それだけで敵の一部だ」


「守られる者も、いずれ敵を支える」


「守る者は、我らの秩序を乱すために立つ」


父は一歩、こちらへ近づいた。


「エルシオン。お前は優しい」


その言葉は意外だった。

だが褒め言葉ではないことは、すぐに分かる。


「優しさは美徳だ。だが戦場では、刃を鈍らせる」


「お前はいずれ、この天を背負う翼となる」


「ならば覚えろ。個の涙に囚われて大義を見失うな」


ヴァルセリオンの手が、エルシオンの肩に置かれる。


かつて幼い日に、頭へ置かれたのと同じ手。

あの時は温かく感じた。

だが今は、ひどく重たかった。


「迷うな」


「お前が迷えば、その先で多くが死ぬ」


エルシオンは答えられない。


迷ってはいけない。

父の言う通りなのかもしれない。

大義のためには、小さな情を切り捨てなければならないのかもしれない。


それでも。


前線で見たものを、すべて“敵の一部”として片づけてしまうことに、どうしても何かが引っかかった。


結局、彼はただ一言だけ返した。


「……承知しました」


父は頷いた。


それで会話は終わった。


だがエルシオンの胸には、むしろ重いものだけが残った。


数日後。


大規模侵攻が開始された。


白き軍勢が幾層にも分かれ、北方戦線へ向かう。

それはもはや威圧ではなく、意思だった。

潰し切るという意思。

逃がさないという意思。

悪魔族北部を徹底的に崩すという意思。


空は白で埋まっていた。


地上では進軍路に沿って光壁が張られ、退路を狭める陣が組まれる。

空と地が同時に迫り、悪魔族側の防衛線は瞬く間に圧迫されていった。


エルシオンも部隊を率いて前へ出る。


命令通り動く。

指揮を執る。

敵陣を押す。

それ自体はできる。


だが今日は、今までとは景色が違って見えた。


周辺集落から上がる煙。

逃げ場を失って防壁へ寄せられる人々。

避難路ごと切られ、右往左往する影。


これが作戦の一部なのだと理解した瞬間、胸の奥に嫌な冷たさが広がった。


「南側の退路、封鎖完了!」


伝令が叫ぶ。


「西集落方面、火を確認!」


また別の報告が飛ぶ。


すべて予定通り。

計画通り。

だからこそ、なおさら気分が悪かった。


これは本当に、守るための戦いなのか。


前線で剣を交える敵を倒すことと、逃げる道ごと潰すことは、同じなのか。


エルシオンは歯を食いしばり、なおも前進する。


命令には従わねばならない。

ここで乱れれば部下が死ぬ。

戦場の只中で立ち止まることはできない。


だがその時、前方で大きな崩落音が響いた。


悪魔族側第二防壁の一部が砕け、そこから避難民の列が露出したのだ。

悲鳴。

叫び。

混乱。

白翼の一隊がその上から降下態勢に入る。


「――待て!」


気づけば、エルシオンは叫んでいた。


周囲の兵が一斉にこちらを見る。


エルシオン自身も、自分の声に驚いていた。

だがもう遅い。


「降下角度を変えろ! そのまま入れば味方も巻き込む!」


咄嗟にそう言い換える。

民を守れ、とは言えなかった。

だが少なくとも、このままではおかしいと体が拒絶した。


兵たちは一瞬迷ったが、指揮官命令に従って軌道をずらした。


そのわずかな間に、悪魔族側から紅が走る。


ネメシアだった。


崩れた壁を飛び越え、避難民の列と天使兵の間へ割り込み、飛来した光槍を叩き落とす。

次いで自ら防壁の破片を蹴り上げ、視界を遮り、民を奥へ押し戻す。


その姿は、炎のようだった。


守るためだけに燃える炎。

奪うためではなく、消えかけた命の前に立つ炎。


エルシオンは空の上から、それを見た。


そしてはっきり理解してしまう。


この女は、ただの敵ではない。


教えられてきた“悪”という言葉では、もう説明できない。


その瞬間、胸の奥で何かがひどく軋んだ。


自分たちは今、何をしている。


守るためだと信じてきた。

正義のためだと教えられてきた。

だが目の前の光景は、本当にそう見えるか。


逃げる者の道を断ち、泣く者を追い詰め、その前に立つ者を“悪”と呼んで討とうとしている。


そこに初めて、言葉にならない嫌悪が生まれた。


自軍の中に。

自分が属する“正義”の中に。


それはまだ、小さい。

決定的ではない。

だがもう無視できない。


「エルシオン様!」


部下が叫ぶ。


「中央より強敵接近!」


我に返る。


前方、防壁の上。


紅き外套を翻しながら、ネメシアがこちらを見上げていた。


その瞳は真っ直ぐだった。

怒りはある。

だが憎しみに呑まれてはいない。

守るべきものの前に立つ者の目だった。


エルシオンもまた、その視線を受け止める。


白き翼を広げ、剣を握る。

自分が何者であるかを、まだ捨てることはできない。

それでも、もう以前と同じままでもいられない。


風が吹いた。


戦場の喧騒が、一瞬だけ遠のいたように感じられる。


白と紅。

光と闇。

正義と悪。


そう教えられてきた境界の上で、二人は初めて、本当の意味で互いを視界に捉えた。


ネメシアが剣を構える。


エルシオンもまた、ゆっくりと切っ先を上げた。


次の瞬間、二つの刃がぶつかる――


その寸前で、世界は息を止めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。