『紅き守護者』
前線の空気は、都の空気とは違う。
深都エルグラディアで暮らす者たちの夜には、炉の火があり、食卓があり、眠りへ向かう静かな時間がある。
だが国境に近いこの地には、それがない。
あるのは、土に染みついた血の匂いと、乾ききらない灰。
削られた崖肌。焼け焦げた見張り台。
何度も張り替えられた防壁と、何度も壊され、そのたびに補修されてきた石の壁。
そこは、悪魔族の前線砦《ラズ=グラド》だった。
深都エルグラディアへ至る北方防衛線の要。
兵だけではなく、周辺集落から逃れてきた民も一時的に身を寄せる場所であり、戦場と避難所の境が曖昧になっている土地でもあった。
夜明け前、砦の最上部に立つ女がいた。
ネメシア。
深紅の髪を結い上げ、外套の裾を風に揺らしながら、彼女は崖下へ広がる荒野を見つめていた。
遠く、地平の向こう。まだ姿は見えない。
だが空気で分かる。
白き空の国が、またこちらを試しに来ている。
「北西の雲が薄い」
背後から、前線将のヴォルガが言った。
肩幅の広い大柄な男で、左頬に斜めの古傷がある。ネメシアが族長になる前から戦場にいる古参の将だ。
「ええ。来るわね」
ネメシアは短く答えた。
「今日中か?」
「たぶん午前。前回の斥候の動きが早すぎたもの。補給線を切ったあと、こちらの立て直しを待つほど甘くないでしょう」
ヴォルガは鼻を鳴らす。
「光の民ってのは、いつだって自分たちの方が上等だと思ってやがる」
「避難民は?」
「第三坑道まで移した。足の悪い連中から優先してる」
「食料庫は」
「南倉にまとめた。万が一正門が破られても、すぐには燃えないように石蓋をかけてある」
「医務室」
「薬師は全員待機。寝てない」
ネメシアは小さく頷く。
「兵の配置を見直すわ。正門前に重装を寄せすぎないで。今回は上から来る」
「空からの降下か」
「ええ。最初の衝撃で壁を壊しにくる。だったら壁に兵を貼りつける意味はない。崩された時に巻き込まれるだけ」
ヴォルガは腕を組みながら、苦く笑った。
「普通の王なら、“正門を死守しろ”で終わる」
「そう」
ネメシアはようやく振り返る。
「死守するのは門じゃない。あの向こうで眠れなくなってる民よ」
そう言って、砦の内側へ視線を向けた。
石壁の陰では、昨夜避難してきたばかりの親子が毛布にくるまっている。
小さな子どもが母親の腕の中で眠り、老いた者たちは壁際に寄り添って身を縮めていた。
兵たちはそのすぐそばを通りながらも、足音をできる限り殺して歩いている。
戦場のすぐ隣に、守るべき日常の名残がある。
それが前線だった。
ネメシアは階段を下り、兵たちの待機列へ向かった。
ざわめきが広がる。
兵のひとりが前へ出て頭を下げる。
「ネメシア様、本来ならここは我々だけで――」
「その言葉、何度目かしら」
ネメシアは少しだけ笑った。
「王が後ろで命令だけ出して、誰が安心するの」
若い兵は押し黙る。
隣にいた年嵩の女兵が小さく肩をすくめた。
「諦めな。族長様はそういうお方だ」
ネメシアはその女兵へ目を向ける。
「その腕、昨日の傷ね。前へ出すぎないで」
「まだ動きます」
「動くのと、無茶するのは違う」
女兵は悔しそうに歯を食いしばったが、最終的には頷いた。
ネメシアは隊列の間を歩きながら、一人ひとりの顔を見た。
傷の具合。目の冴え。呼吸の浅さ。
戦う前から崩れそうな者はいないか。無理をして立っている者はいないか。
それは王の視線というより、前線医師のような目だった。
「子どもがいたわね」
ある兵にそう言うと、男は目を見開いた。
「……はい。先月、生まれました」
「名前は」
「まだ……決めきれてなくて」
「生きて帰ったら、ちゃんと決めなさい」
男は一瞬ぽかんとし、それから力強く頷いた。
別の若い兵には、
「死ぬために前へ出るな。背中を守るために前へ出なさい」
と告げた。
また別の古参兵には、
「無理に若いのを庇いすぎないで。あなたが倒れる方が損失よ」
と言って、短く笑わせた。
誰もが張りつめていた。
だが、その張りつめた糸を、ネメシアは切るのではなく、少しずつ正しい強さに張り直していく。
それが彼女の戦いの準備だった。
やがて、見張り台から怒鳴り声が飛ぶ。
「来るぞォォッ!」
全員の顔が上がる。
空の遥か上。
白き点がいくつも現れ、それがあっという間に翼を持つ軍列へ変わっていく。
白銀の槍。光を帯びた刃。
天使族だ。
ネメシアは即座に命じた。
「第一隊、散開! 正門前じゃない、二段目の防壁へ!」
「弓兵、上じゃない、降下点を読んで撃て!」
「避難民は第三坑道へ押し込め! 最後尾に薬師を!」
号令が飛ぶたび、砦が生き物のように動いた。
兵たちが走る。
女たちが子どもを抱き上げる。
年寄りを支えて坑道へ向かう者もいる。
怒号も悲鳴もある。
だが混乱ではない。
守るために整えられた秩序だった。
次の瞬間、天使族の第一波が降ってきた。
轟音。
白い光槍が砦外縁へ突き刺さり、石と土が弾け飛ぶ。
崖上の見張り櫓が半壊し、砂煙が一気に舞い上がる。
「ひるむな!」
ヴォルガが怒鳴る。
悪魔族の弓兵たちが一斉に反撃し、空から降りる白翼へ黒い矢が走る。
命中した兵が何人か崩れ、白き隊列がわずかに乱れた。
だが天使族の攻勢は止まらない。
第二波、第三波と間を置かずに降りてくる。
ネメシアは最前線へ走った。
王である前に、彼女はこの砦で最も危険な場所へ立つ者だった。
重装兵が押し込まれかけている。
敵の天使兵が空から落ちる勢いのまま、防壁の切れ目を突破しようとしていた。
その一人が若い悪魔族兵へ槍を突き出す。
間に合わない。
そう思った次の瞬間、紅が閃いた。
ネメシアの剣が槍を横から弾き、そのまま返す刃で敵兵の肩口を深く裂く。
天使兵が驚愕に目を見開く間もなく、彼女は若い兵の前へ立った。
「下がって」
「で、ですが――」
「命令よ!」
若い兵がよろめきながら後退する。
その前に、今度は別方向から二騎の天使兵が降り立った。
挟み込むような位置取り。普通なら王は一歩退く場面だ。
だがネメシアは退かなかった。
むしろ一歩前へ出る。
最初の一撃を受け流し、二人目の懐へ踏み込み、剣ではなく柄で顔面を打ち抜く。
怯んだ相手の腕を掴み、勢いのまま投げ飛ばす。
そこへ一人目の槍が戻るが、ネメシアは体をひねり、その槍筋をあえて肩口で浅く受けた。
血が散る。
その代わりに空いた一瞬で、背後の兵が逃げる時間を作った。
ヴォルガが叫ぶ。
「ネメシア様!」
「問題ない!」
実際には痛みが走っていた。
だが、その程度で下がる気はない。
彼女の戦い方はいつもそうだった。
敵を何人殺したかで戦況を測らない。
何人守れたかで、自分の立つ意味を測る。
防壁の内側では、避難中の民の列がまだ完全に坑道へ入りきっていない。
老いた男が転び、幼い子どもが泣き叫び、若い母親がその場にしゃがみ込んでしまっている。
ネメシアは前線をヴォルガへ一瞬預け、そちらへ駆けた。
「立ちなさい!」
母親が顔を上げる。青ざめている。
「む、無理です……足が……」
見ると、崩れた石片で足首を切っていた。
ネメシアは即座にその子どもを抱き上げ、母親の腕を引いた。
「無理でも動くの。今ここで止まった方が死ぬ」
冷たい言い方だった。
だがそれは、生き延びさせるための現実だった。
老いた男には近くの兵を呼びつけ、
「背負って坑道へ。武器は捨てていい」
と命じる。
兵が一瞬ためらう。
ネメシアは鋭く睨んだ。
「武器はまた持てる。でもこの人の命は今しかない」
「……はっ!」
兵は剣を捨て、老人を背負って走った。
その間にも、天使族の攻撃は続いている。
砦の上空には白翼が旋回し、光弓が死角から降り注ぐ。
悪魔族兵たちは懸命に応戦するが、どうしても押し込まれる。
その戦場の少し離れた空で、エルシオンはその一部始終を見ていた。
彼は今回、前回よりさらに前へ出ている。
ヴァルセリオンの後継として、実戦指揮の経験を積むためだ。
白き部隊の一角を率い、防壁突破の任を負っていた。
その視界の中に、紅の女がいた。
最初は分からなかった。
ただ一人、妙に動きが違う敵がいる、としか見えなかった。
だが見れば見るほど、その違和感は強くなる。
なぜ、あの女は無防備な側へ走る?
なぜ、討ち取れるはずの敵兵へ追撃せず、後ろへ下がろうとする兵をかばう?
なぜ、自分の肩を犠牲にしてまで、部下の退路を作る?
エルシオンは目を凝らす。
紅い髪。
黒と紅の外套。
流れるような剣筋。
そして何より――敵を殺すためではなく、味方を生かすために最も危険な場所へ移動し続ける戦い方。
あれは、教えられてきた“悪”の戦い方ではなかった。
「エルシオン様!」
部下の声で我に返る。
「左翼が押し返されています!」
「……ああ、分かった。第二列を回せ。上からではなく側面へ降ろせ」
命令を出しながらも、視線は一瞬、またあの紅へ引かれる。
ネメシアは今、崩れた石壁の下敷きになりかけた二人の兵を、自ら片側を持ち上げて救い出していた。
周囲にはまだ敵がいる。
そんなことをしている暇など、本来ない。
だが彼女はやっている。
命を奪うより先に、命を拾っている。
その姿に、エルシオンの胸の奥で何かが強く軋んだ。
「……なんだ、あれは」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど低かった。
隣にいた天使兵が答える。
「紅き守護者、でしょう」
「守護者?」
「悪魔族の族長ネメシアです。噂は聞いておりましたが……」
兵はそこで言葉を濁した。
本来なら“悪魔族の王”と聞けば、残虐さや支配を連想するはずだった。
だが目の前の姿は、そのどれとも噛み合わない。
エルシオンは息を詰める。
王が、最前線にいる。
しかも自分の兵を盾にするのではなく、自分が盾になっている。
そんなものがあるのか。
父は言った。
悪魔族は奪う者だと。
踏みにじる者だと。
弱き者を喰らう存在だと。
なら、あの女は何だ。
砦内から大きな崩落音が響いた。
第二防壁の一部が砕かれ、避難列の最後尾が露出する。
子どもの泣き声がここまで届く。
ネメシアは迷わずそちらへ走り、飛来した光矢を剣で叩き落とした。
一本、二本、三本。
四本目は落としきれず、彼女の腕を浅く抉る。
それでも止まらない。
転んだ子どもの前に膝をつき、その体を抱き上げ、母親へ押し返す。
「走れ!」
怒鳴るような声。
だがそれは、命を繋ぐための怒声だった。
その瞬間、エルシオンははっきり見た。
ネメシアの顔には、憎しみだけがなかった。
怒りはある。
痛みもある。
覚悟もある。
だがそこにある根の部分は、自分が守る者のために立つ者の顔だった。
それは、幼い頃からエルシオンが最も尊いものとして教えられてきた在り方と、どこか似ていた。
似ていてはいけないものだった。
「エルシオン様!」
再び部下の呼び声が飛ぶ。
「押しますか!」
エルシオンは一瞬、答えられなかった。
押せば、あの避難の列ごと巻き込む。
今までなら、それも戦場の理屈だと飲み込めたかもしれない。
だが今は、目の前でそれを庇っている者を見てしまっている。
「……待て」
「は?」
「第二列は待機だ。角度を変える。正面じゃない」
部下が戸惑う。
それでも命令には従う。
エルシオン自身、なぜそう言ったのか明確には分からなかった。
ただ、あの紅の女の前で、避難中の者たちをまとめて押し潰すのは違うと感じた。
その“違う”が何なのか、まだ言葉にはできない。
戦況そのものは拮抗していた。
天使族は攻めきれず、悪魔族も押し返しきれない。
互いに損耗を増やしながら、ただ守るもののために立ち続ける。
やがて天使族側の上空で、撤収の角笛が鳴った。
長引きすぎた。
これ以上は損耗がかさむと判断したのだろう。
白翼たちが順次高度を上げ始める。
悪魔族側も無理には追わず、防壁の陰へ負傷者を運び込んでいく。
エルシオンも空へ戻りかけて――最後に、もう一度だけ下を見た。
ネメシアがいた。
肩と腕から血を流しながら、それでも最後尾に残り、負傷兵を担ぐ兵の背を押している。
自分が最後に下がるつもりなのだと、遠目にも分かった。
王が、最後に下がる。
その光景は、胸のどこかに強く焼きついた。
白き軍が空へ退く中、エルシオンはずっと下を見ていた。
あれが悪なのか。
あれが滅ぼすべきものなのか。
答えは出ない。
だが、前回の戦場で生まれた小さな違和感は、もう“気のせい”では済まなくなっていた。
敵にも守るものがある。
その次の段階へ、彼は踏み込んでしまったのだ。
あの女は、守っていた。
自らの命を削ってでも。
それは、自分が最も信じてきた“正しき者の在り方”と、あまりにも似ていた。
似ていてはいけないはずなのに。
空へ戻ったあとも、エルシオンはしばらく何も言えなかった。
部下たちは戦況や損耗の報告を口にしている。
老将ゼファルも、次の侵攻機会について低く何かを語っていた。
だがその声は、遠く聞こえた。
エルシオンの脳裏にあるのは、ただ紅い背だけだった。
敵を踏みにじるためではなく、味方をかばうために立ち続けた背。
誰よりも危険な場所へ走り、誰よりも最後まで残った背。
その姿が、消えない。
そして若き後継者は、まだ認めることはできなくても、心のどこかではっきりと感じていた。
――父上、あなたの教えの中に、まだ私の知らない何かがあるのではないか。
その疑問は、まだあまりにも小さい。
口にすれば叱責され、弱さと切り捨てられる程度の、頼りないひびだ。
けれどそのひびは、確かに入った。
白き正義の内側に。




