『受け継がれる剣』
白き天空の軍港に、朝の鐘が響いていた。
雲海を切り開くように築かれた巨大な発着台には、すでに数百の兵が整列している。
銀白の鎧。研ぎ澄まされた槍。規律正しく揃えられた翼。
どこまでも清らかで、どこまでも整いすぎた光景だった。
その最前列に、エルシオンは立っていた。
幼き日に父の前で木剣を掲げた少年は、もういない。
背は伸び、翼は大きく広がり、若き天使族の将として恥じぬ姿となっている。
白銀の装甲に身を包み、腰には実戦用の剣。
その横顔には若さが残っていたが、もう子どもとは呼べなかった。
兵たちの視線が集まっている。
ただの若き将だからではない。
彼が、族長ヴァルセリオンの息子だからだ。
そして将来、天使族の族長を担う者として見られているからだ。
その重さを、エルシオンは知っていた。
知っていてなお、背筋を伸ばして立っていた。
弱く見られるわけにはいかない。
迷いを見せるわけにもいかない。
「緊張しているか」
隣から声をかけたのは、四枚翼の老将ゼファルだった。
長年ヴァルセリオンの下で戦い続けてきた実戦派の将であり、今回の遠征でもエルシオンの補佐役に据えられている。
エルシオンは正面を見たまま答える。
「していないと言えば嘘になります」
「それでいい」
ゼファルは短く言った。
「だが忘れるな。今日、お前はただの兵として出るのではない」
「分かっています」
「分かっているならいい」
老将の声には厳しさがあったが、侮りはなかった。
試されているのだとエルシオンは理解している。
今日の任務は、悪魔族領北部の前線拠点制圧。
補給線の切断と、地上部隊の進軍路確保。
単なる小競り合いではない。今後の侵攻に繋がる重要な一手だった。
その前線部隊の一翼を、エルシオンが率いる。
功績を立てるためではない。
父の名を飾るためでもない。
守るためだ。
その思いだけは、本物だった。
「ヴァルセリオン様もご覧になる」
ゼファルが空の最奥を見上げて言った。
エルシオンも視線を上げる。
高き白塔の上、天空神殿の露台に、ひとりの男が立っていた。
ヴァルセリオン。
白金の長髪をなびかせ、六枚翼を静かに背負うその姿は、遠目にも威厳に満ちている。
この国の光。
この国の秩序。
その象徴のような男だった。
エルシオンは胸の内で息を整える。
父上の教えを、違えはしない。
守るために強くあれ。
悪に迷うな。
躊躇いは、守るべき者を殺す。
あの日から、何度も繰り返してきた言葉だ。
剣を振るうたび、翼を鍛えるたび、胸の内で確かめてきた。
やがて出撃の号令が下る。
数百の白翼が一斉に空へ舞い上がった。
雲を裂き、光の尾を引きながら、天使族の軍勢は南へ進む。
その美しさは、神話の一場面のようだった。
だがその美しさが、地上にとって何を意味するのかを、エルシオンはまだ深く考えたことがなかった。
軍列は高度を落としながら、悪魔族領の外縁へ近づいていく。
眼下に見えてきたのは、深都エルグラディアへ至る前線の関所と、その周辺集落だった。
石造りの防壁。
簡素な倉庫。
物見櫓。
兵の宿舎。
だがそれだけではない。
荷車。
干された布。
小さな畑。
外に積まれた薪。
エルシオンは眉を寄せる。
軍事拠点、のはずだった。
だがその輪郭は、生活の匂いを帯びていた。
「下を見るなとは言わん」
ゼファルが横から言う。
「だが、見たものに心を奪われるな」
「……はい」
「敵は常に、守るべき何かを装うものだ」
その言葉にエルシオンは頷く。
たしかにそうだ、と頭では思った。
悪魔族は狡猾だ。
弱きものを盾にし、情けを誘い、こちらの剣を鈍らせる。
訓練でもそう教えられてきた。
だが、それでも。
見えるものすべてを“装い”と呼び切るには、眼下の景色はあまりにも生々しかった。
角笛が鳴る。
前衛が陣形を変え、光槍を構える。
一瞬で空気が張り詰めた。
「第一隊、降下!」
号令とともに、白き軍勢が地上へ落ちていく。
エルシオンも剣を抜き、先頭で風を裂いた。
顔に叩きつける空気は冷たい。
眼下からは警鐘が響き、悪魔族兵たちが防衛線へ走り出すのが見えた。
地上へ着地した瞬間、轟音が走る。
第一波の衝撃で物見櫓が砕け、石壁の一部が弾け飛ぶ。
悲鳴と怒号が入り混じり、戦場は一気に現実の重さを持った。
「前へ!」
エルシオンは剣を掲げ、部隊を押し出した。
兵たちがそれに応じる。
彼の声は若いが、臆してはいなかった。
その姿に、周囲の兵も従う。
悪魔族の兵が前へ出てくる。
黒鉄の槍と斧。赤い瞳。傷だらけの鎧。
教えられてきた“敵”の姿だった。
エルシオンは先頭の槍兵とぶつかる。
金属が激しく鳴り、火花が散る。
相手の一撃は重かった。荒いが、ただの激情ではない。
押し返すため、守るための力だった。
二度、三度と刃を交わし、エルシオンは踏み込む。
剣が相手の脇を裂き、悪魔族兵がよろめいた。
その背後に、影が見えた。
年若い女が、子どもの手を引いて走っている。
槍兵は彼女たちの前に立ち、こちらを食い止めていたのだ。
エルシオンの剣先がわずかに止まる。
その一瞬の迷いを、相手は見逃さなかった。
槍の石突きが鎧の隙間を打ち、息が詰まる。
「っ……!」
後方へ飛び退く。
悪魔族兵は追わず、振り返って叫んだ。
「西の坂を行け! 止まるな!」
女は子どもを抱えるようにして走り去る。
その声は、怪物の咆哮ではなかった。
ただ必死に誰かを逃がす者の声だった。
「エルシオン様!」
味方の兵が叫ぶ。
その声に、エルシオンは再び前へ出る。
剣を振るい、相手の槍を弾き、体勢を崩す。
だがその瞬間、横から飛び込んだ天使兵の槍が悪魔族兵の胸を貫いた。
男の体が大きく揺れ、そのまま崩れ落ちる。
別の方向から斧兵が突っ込んでくる。
部下が押される。
指揮を止めるわけにはいかない。
「右翼を前へ! 左は倉庫側を押さえろ!」
声を張り上げると、部隊が動いた。
訓練通り。想定通り。
自分はちゃんと指揮できている。
それでも、胸の奥に小さな何かが残った。
戦場は広がっていく。
補給庫が炎を上げ、路地では悪魔族兵が必死に持ちこたえていた。
撤退のための時間を稼いでいるのだと、次第に分かってくる。
彼らは勝とうとしているのではない。
守ろうとしている。
その事実が、かえってエルシオンの手を重くした。
坂道の下で、負傷した悪魔族兵を二人がかりで運ぶ若い兵がいた。
路地では老いた者を背負って退く女兵がいた。
半壊した家屋の陰では、少年が幼い弟か妹を抱いて震えていた。
どれも、一瞬だけ目に入る光景だ。
戦場においては些細なものと言われるのかもしれない。
だがエルシオンの目には、消えなかった。
「前方、重装兵!」
伝令の声が飛ぶ。
谷側から悪魔族の増援が押し寄せ、防衛線が急に厚くなる。
その先頭に立つ巨躯の戦士が、天使兵二人をまとめて弾き飛ばした。
「中央が押されます!」
「槍兵を回せ!」
エルシオンは即座に命じ、自らも中央へ踏み込む。
剣を打ち込み、敵の斧を受け流し、部下の退路を開く。
その動きに迷いはない。
指揮官として、今この場でやるべきことは分かっていた。
だが戦いの最中、再び視界の端に映ってしまう。
倒れた兵に覆いかぶさるようにして泣く子ども。
その子をかばって立つ、傷だらけの悪魔族兵。
なぜそこまでして守る。
その問いが胸に浮かんだ瞬間、自分でも驚く。
敵に向ける問いではない。
だがもう、生まれてしまっていた。
もし彼らがただの悪なら。
ただ奪い、壊し、喰らうだけの存在なら。
どうしてあんな顔をする。
どうして自分の死を覚悟した顔で、子どもの前に立てる。
「エルシオン!」
ゼファルの声が飛ぶ。
はっとして剣を振るう。
迫っていた敵の一撃を受け流し、逆に斬り返す。
「考えるな!」
老将が叱責する。
「戦場で迷いは死を呼ぶ!」
「……はい!」
答えながらも、心のどこかで思う。
では、この引っかかりは何なのだ。
迷いなのか。
未熟さなのか。
それとも、自分がまだ見たことのない何かなのか。
答えは出ない。
出るはずもなかった。
エルシオンはまだ、父の正義を深く信じている。
悪魔族が脅威であるという認識も変わらない。
現に今この場で、味方は傷つき、命のやり取りが起きている。
彼らは敵だ。
それは事実だった。
それでも同時に、敵にも守るものがある。
それもまた、目の前の事実だった。
やがて天使族側の角笛が鳴る。
第一目標達成。
補給路の破壊完了。
防衛線を崩し、所定の戦果は得た――撤収の合図だった。
「全隊、上がれ!」
エルシオンの命に応じ、部隊が順次空へ戻る。
彼自身も羽ばたき、戦場を離れる。
だが上昇しながら、思わず振り返った。
眼下の前線拠点は煙に包まれていた。
炎の上がる倉庫。砕けた櫓。崩れた石壁。
その中を、まだ動く小さな影がいくつもある。
生きている者たちだ。
逃げる者。支える者。泣く者。
それは“敵拠点”という一言では括れない景色だった。
「よくやった」
隣へ戻ってきたゼファルが言う。
「若いにしては上出来だ。部隊も乱さなかった」
エルシオンは前を向いたまま頷く。
「ありがとうございます」
「だが甘さがある」
老将の声は低い。
「守るべきものを見誤るな。敵が何を守ろうと、それは我らの民を脅かすための土台だ」
その言葉は、今までなら素直に胸へ落ちていた。
だが今回は、少しだけ残った。
本当に、それだけなのか。
問いは声にならない。
言葉にすれば、自分の中の何かを裏切る気がした。
父の教え。
天使族の正義。
光の民としての誇り。
それらを捨てたいわけではない。
むしろ逆だ。守りたいと思っている。
だからこそ、この違和感が邪魔だった。
天空の都へ戻る途中、エルシオンは高く広がる白空を見上げた。
あの日と変わらぬ、美しい空。
父が正義を語った、清らかな世界。
そのはずなのに。
今日、その白さの中に、ほんのわずかな影を見た気がした。
それはまだ、小さなひびにすぎない。
信仰を砕くほどのものではない。
正義を覆すにはあまりにも弱い。
だが確かに、若きエルシオンの胸には残った。
敵にも、守る者がいる。
その事実が、消えなかった。
そして彼はまだ知らない。
その違和感の先で、自分の目が本当に捉えることになる“紅き守護者”の姿を。




