『深都エルグラディア』
白き天空の国で、幼き天使が“正義”を教え込まれてから十数年。
地上の深き都でもまた、一人の悪魔が時代の重みを背負う者となっていた。
戦は終わらない。
小さな衝突は絶えず、国境は何度も血に染まった。
そのたびに王は倒れ、将は失われ、都は傷つき、それでも民は生き延びてきた。
そして今――
悪魔族の都を治めるのは、紅き髪を持つ若き族長ネメシアだった。
天使族の国が白き光に満ちた天空の都なら、悪魔族の国は夜を抱いた都だった。
だがそれは、死や破壊だけが渦巻く闇ではない。
夕暮れの名残を残した紫紺の空の下、黒曜石と赤銅で築かれた城壁が遠くまで連なり、その内側には無数の灯が生きていた。
尖塔は高く、橋は石で強く組まれ、街路には露店が並び、炉の火があたたかな匂いを運んでいる。
焼きたての肉の香り。
果実酒を煮詰めた甘い香り。
鍛冶場から流れる鉄と火の匂い。
そして、子どもたちの笑い声。
深都エルグラディア。
それが、悪魔族最大の都の名だった。
地上の他種族からは“魔の巣窟”とも“災いの都”とも呼ばれている。
だが、この都で暮らす者たちにとってそれはただの故郷だった。
朝になれば市場が開く。
昼には鍛冶師が槌を振るい、織り手が布を染め、薬師が傷薬を調合する。
夜になれば家ごとに灯がともり、親は子を迎え、食卓が囲まれる。
そこにあるのは、どこの国にもある日々だった。
都の中央広場では、その日もいつもの賑わいが広がっていた。
角を持つ男が果実籠を担ぎ、翼を持つ女が焼き菓子を売り、年老いた悪魔族の夫婦が編み物の露店を出している。
子どもたちは石畳の上を駆け回り、時折店主に怒鳴られ、また笑って逃げていく。
「こら、走るな! 鍋をひっくり返したらどうする!」
「ごめんなさーい!」
叱声のあとに笑いが起こる。
それを少し離れた高台から見下ろしていた女がいた。
ネメシア。
悪魔族の族長にして、この都の紅き守護者。
艶のある深紅の髪を背に流し、黒と紅を基調とした外套をまとうその姿は、遠目には威厳そのものだった。
頭には悪魔族の証である角。
瞳は燃えるような紫紅。
腰には細身の剣を佩き、その立ち姿には一切の隙がない。
だが彼女の視線は、王としての冷酷さよりも、都全体を見守る者のそれに近かった。
「今日も平和そうだな」
隣に立つ壮年の男が言った。
片腕に古傷を持つ、前線帰りの将だ。
ネメシアは小さく笑う。
「“そう”では困るわ。本当に平和でなければ」
「贅沢を言う。あんたが前線を抑えてるからこそだ」
「違うわ。皆が生きようとしてるからよ。私はそれを潰させないだけ」
その言葉は淡々としていたが、重みがあった。
ネメシアは高台を下りると、護衛も最低限しか伴わずそのまま市へ入った。
族長が歩けば、すぐに周囲が気づく。
「ネメシア様だ」
「族長様!」
あちこちから声が飛ぶ。
だがそこにあるのは、恐れからの緊張ではなかった。
敬意と、親しみと、少しの安心だった。
ネメシアは立ち止まり、露店の老人に目を向ける。
「足はどう?」
「おかげさまで、薬師殿にも診せてもらってな。だいぶ良い」
「無理はしないで。転んで頭でも打ったら、またうちの医務室を騒がせることになるわ」
老人がしわだらけの顔で笑う。
「族長に心配されるほど落ちぶれちゃおらんよ」
「そう言えるなら元気ね」
次に、布屋の若い女が赤子を抱いて頭を下げる。
「この前は、夫の徴兵の件を考え直していただいて……本当に、ありがとうございました」
ネメシアは赤子を一瞥し、それから女へ目を戻した。
「前線は必要よ。でも、今あなたの家から父親まで奪えば、この子が飢える」
「戦える者を集めるのが王の仕事なら、生き残れる者を残すのも王の仕事よ」
若い母親は目を潤ませながら何度も頭を下げた。
ネメシアはそれ以上礼を受け取らず、歩みを進める。
その姿を、広場の端で遊んでいた子どもたちが見つけた。
「ネメシアさまだ!」
「ほんとだ!」
小さな影がいくつも駆け寄ってくる。
「今日は誰が勝ったの?」
「ぼく!」
「うそ! さっき負けて泣いてた!」
「泣いてない!」
子どもたちが口々に騒ぐ。
ネメシアは膝を折って目線を合わせた。
「喧嘩したの?」
「してない! 遊んでただけ!」
「ならいいわ。でも、強い方が偉いわけじゃない。ちゃんと守れる方が偉いの」
「まもる?」
「そう。小さい子、泣いた子、転んだ子。そういう子を見て見ぬふりしない子の方が、ずっと強い」
子どもたちはきょとんとした顔をしていたが、そのうちの一人が真面目な顔で頷いた。
「じゃあ、ぼく、つよくなる」
「ええ。なって」
ネメシアはその頭を軽く撫でた。
それはどこにでもある、国のひとこまだった。
支配と恐怖で押さえつけられた魔都などではない。
親が子を抱き、老人が商いをし、兵が市でパンを買い、族長が名を呼ばれる国。
その先、広場の一角でざわめきが起きた。
「どうしたの」
ネメシアが近づくと、荷車の横で少年がうずくまっていた。
片脚を押さえて顔を歪めている。荷台の木箱が崩れ、その下敷きになったらしい。
「仕事を手伝っていて、足場を踏み外したんです」
周囲の者が口々に説明する。
ネメシアはすぐに屈み、少年の足に手を添えた。
骨は折れていない。だがひどく捻っている。
「医務室へ運ぶわ。担架を」
「そんな、族長様が……!」
「いいから早く。痛みが強いうちに冷やさないと悪化する」
周囲が慌てて動き出す。
ネメシアは少年の額の汗を軽く拭い、低い声で言った。
「大丈夫。歩かせないから、力を抜いて」
少年は苦痛の中でも、ぽかんと彼女を見た。
「……族長さま、手、あったかい」
「そういうことは治ってから言いなさい」
ネメシアの声に、周囲から小さな笑いが漏れた。
その時、遠くから慌ただしい足音が石畳を打つ。
前線伝令の兵だった。
鎧に土をつけ、息を切らしながら広場へ飛び込んでくる。
「ネメシア様!」
その声だけで、空気が変わった。
市の喧騒が一瞬で細くなる。
ネメシアはゆっくり立ち上がり、伝令を見た。
「報告を」
「北方境界線にて、天使族の巡回部隊が増加。さらに……周辺集落が二つ、空からの威嚇を受けています」
広場の民たちが息を呑む。
天使族。
その名に、場の温度がわずかに下がった。
だがネメシアの表情は変わらなかった。
「被害は」
「今のところ、家屋の一部損壊のみ。ですが、住民はかなり怯えています」
「避難誘導は?」
「開始済みです」
「ならいい。前線守備隊を増員する。非戦闘員を先に都へ戻しなさい」
「はっ!」
伝令が駆けていく。
広場にはざわめきが残った。
子どもたちは親の足元へ寄り、露店の者たちは空を見上げる。
また始まるのか、という不安が、誰の顔にも浮かんでいた。
ネメシアはその全てを見回した。
恐怖に慣れている顔だった。
それでもなお、怯える顔だった。
彼女は広場の中央へ進み、よく通る声で言った。
「聞きなさい」
その一声で、人々のざわめきが止む。
「都の守備は強化する。北方の集落から戻る者たちも全て受け入れる」
「子どもと老人を優先して保護しなさい。食料庫を開き、医務室も夜通し稼働させる」
誰もが彼女を見つめていた。
ネメシアは続ける。
「私は前に立つ」
「だから、あなたたちは生きることを諦めるな」
「この国は、奪われるためにあるんじゃない」
「あなたたちが明日も食卓を囲むためにある」
その言葉に、広場の空気がわずかに戻る。
兵が背筋を伸ばす。
母親が赤子を抱き直す。
老人が震える指を握りしめる。
それは派手な演説ではなかった。
だが、民にとって必要な言葉だった。
ネメシアは護衛の将に向き直る。
「部隊を編成するわ」
「ああ」
「市壁、北方門、避難路。すべて優先順位を組み直して。敵を討つ前に、民を逃がす」
将は苦く笑った。
「相変わらずだな。あんたは」
「何が?」
「普通の王なら、先に敵をどう殺すかを考える」
ネメシアは静かに答える。
「そうでしょうね」
「でも私は、民を守れない勝利に意味はないと思ってる」
その瞳に迷いはなかった。
彼女の剣は征服のためではない。
蹂躙のためでもない。
奪われそうになる灯を、奪わせないためにある。
それがネメシアという王だった。
再び空を見上げる。
遥か彼方。
まだこの都からは見えない場所で、白き翼が動いている。
天使族。
彼らは自らを光と呼ぶ。
だがその光が、こちら側の暮らしを焼くこともある。
ネメシアは知っていた。
だからこそ、決して油断しない。
だが同時に、彼女は民の前で憎しみに身を任せることもなかった。
憎しみは刃を鋭くする。
けれどそれだけでは、国は守れない。
必要なのは、立ち向かう強さと、守り抜く意志。
ネメシアは広場の片隅で足を痛めた少年が運ばれていくのを見届けると、子どもたちへ最後に手を振った。
「家から離れないで。今夜は大人の言うことをちゃんと聞くのよ」
「はーい!」
返ってきた声は、まだ明るかった。
その明るさを守るために、自分は戦うのだとネメシアは思う。
都に灯る無数の明かりを見つめる。
それは戦うための火ではない。
生きるための灯だ。
この国にも日常がある。
この国にも家族がいる。
この国にも、弱き者を抱き上げ、明日を守ろうとする者がいる。
誰が何と呼ぼうと、それが真実だった。
そしてその真実を、白き空の国はまだ知らない。
ネメシアは外套を翻し、北方門へ向かって歩き出す。
その背に、民たちの視線が集まる。
恐れではなく、託すような視線だった。
紅き守護者。
そう呼ばれる理由が、その歩みにあった。
戦うからではない。
守るために、最初に前へ出るからだ。
深都エルグラディア――
そこは、怪物の巣ではない。
傷つき、怯え、それでも明日を生きようとする者たちの国だった。
そして、その中心には。
誰よりも強く、誰よりも先に、民の命を数える王が立っていた。




