『白い翼の教え』
月が、静かに神樹の上へ昇っていた。
宴の喧騒から少し離れた場所で、ルシェラはしばらく黙っていた。
迅もまた、急かさず隣に立っている。
やがてルシェラは、小さく息を吐いた。
「……三百年以上前の話よ」
その一言で、夜の空気が変わる。
「私が生まれる前の話」
「天使族と悪魔族が、今よりずっと愚かだった頃の話」
「光が正義で、闇が悪だと、誰も疑わなかった時代の話……」
月明かりが揺れる。
そして物語は、三百年以上前へ沈んでいく。
白き翼が空を覆い、祈りと断罪が同じ言葉で語られていた時代へ。
幼きエルシオンが、父ヴァルセリオンの教えを受けていた朝へ――。
空は、どこまでも白かった。
雲よりも高く、光の膜に包まれたその国は、地上のどの種族の城よりも荘厳だった。
白銀の尖塔が幾重にも空へ伸び、橋は光で編まれたように透き通り、広場には翼を持つ者たちの祈りの声が静かに満ちている。
幼いエルシオンは、大聖堂の回廊を、小さな足で歩いていた。
床は鏡のように磨かれ、自分の姿が淡く映っている。
背にはまだ小さな白翼。羽ばたくには未熟で、飛ぶたびにふらついてしまうくらいの頼りない翼だった。
だが、胸の内には誇りがあった。
自分は天使族の子だ。
光の民であり、この世界を守る側の者だ。
それは、生まれた時から疑う余地のない真実として、ずっと教えられてきたことだった。
回廊の先、柱の並ぶ高殿に、ひとりの男が立っていた。
ヴァルセリオン。
天使族の族長にして、エルシオンの父。
白金の長髪を持ち、六枚の大翼を静かに背に広げるその姿は、幼いエルシオンにとって絶対そのものだった。
強く、正しく、美しい。
誰よりも清らかで、誰よりもこの世界を愛している。
エルシオンはそう信じていた。
「来たか、エルシオン」
低く、よく通る声だった。
「はい、父上」
エルシオンは背筋を伸ばし、ヴァルセリオンの前で膝をつく。
高殿の向こうには、はるか下の世界が見えていた。
黒い山脈。赤く染まる地平。遠くに揺らぐ禍々しい影の国。
あれが悪魔族の領土だと、エルシオンは知っていた。
まだ実際に踏み入れたことはない。
けれど何度も聞かされてきた。
あそこには闇がある。
奪う者がいる。
穢れた血を持つ者たちが、いつかこの光の国を喰らおうと牙を研いでいるのだと。
ヴァルセリオンは高殿の先を見つめたまま、静かに言った。
「お前は、あの地に何を見る」
エルシオンは迷わず答えた。
「悪です」
「滅ぼすべき敵です」
ヴァルセリオンはゆっくり頷いた。
「そうだ」
「悪魔族は、この世界に災いしかもたらさぬ」
「彼らは力を欲し、命を踏みにじり、弱き者から奪う」
「光を憎み、秩序を壊し、平穏を焼き払う存在だ」
その一言一言は、祈りのようでもあり、裁きの宣告のようでもあった。
エルシオンは小さな拳を握る。
父の言葉は、いつだって胸を熱くした。
怖い話のはずなのに、なぜか震えはしない。
代わりに湧いてくるのは使命感だった。
守らなければならない。
この光を。
この国を。
父の背中を。
ヴァルセリオンはエルシオンへ視線を落とす。
「覚えておけ、エルシオン」
「正しさとは、迷わぬことだ」
「守るべきものを守るためなら、刃を振るうことをためらってはならぬ」
「悪に情けをかけることは、善き民を見捨てることと同じだ」
その言葉は重かった。
幼いエルシオンには、すべてを理解できたわけではない。
だが、父の言う“守る”が何より尊いものであることだけは、強く伝わってきた。
高殿の下には、白衣をまとった子どもたちが祈っていた。
翼の小さな幼子たち。まだ剣も持てぬ者たち。
外では、市場に並ぶ果実や白布を選ぶ民の姿も見える。
穏やかな日常。
静かな笑顔。
争いから遠い場所にいる者たち。
ヴァルセリオンは、その光景へ目を向けた。
「彼らを守るのが、我らの役目だ」
「天使族は力を誇るために強くあるのではない」
「弱き者の盾となるために、強くある」
その言葉に、エルシオンの胸は大きく打った。
守るために強くある。
それはとても美しい響きだった。
剣は傷つけるためではなく、守るためにある。
力とは奪うためではなく、救うためにある。
そう聞かされれば、疑う理由などどこにもなかった。
「父上」
「なんだ」
「ぼくも……強くなれますか」
ヴァルセリオンは少しだけ目を細めた。
厳格な男の、ほんのわずかな柔らかさだった。
「なれるとも」
「だが忘れるな。強さとは、ただ敵を倒す力ではない」
「正しきもののために、己を捧げる覚悟だ」
「光の民である誇りを失うな」
エルシオンは深く頷いた。
その瞬間、胸の奥で何かが固まった。
まだ幼く、剣も重たく感じる年頃だった。
翼も未熟で、父のように高く飛ぶことすらできない。
それでも、いつかあの背に並びたいと思った。
悪を討ち、民を守り、光の国を支える者になりたい。
そして父のように、誰かにとっての盾になりたい。
ヴァルセリオンは、祭壇の脇に立てかけてあった木剣を手に取ると、エルシオンの前へ差し出した。
「持て」
エルシオンは両手で受け取った。
まだ訓練用の軽い木剣。
けれど幼い彼には、ずしりと重かった。
それはただの道具ではなく、責任そのもののように思えた。
「その剣は何のためにある」
ヴァルセリオンの問いに、エルシオンは息を整え、答える。
「守るためです」
「誰を守る」
「光の国を。民を。弱き者たちを」
「何を斬る」
その問いに、エルシオンは一瞬だけ高殿の向こうを見た。
遠い黒き地平。まだ見ぬ敵の国。
「……悪を」
ヴァルセリオンは満足げに頷いた。
「そうだ」
「ならば忘れるな。躊躇いは、守るべき者を殺す」
「お前はいずれ、この天を背負う翼となれ」
白い風が吹き抜けた。
祈りの鐘が遠くで鳴る。
空は変わらず美しく、眩しかった。
その光の中で、幼いエルシオンは木剣を胸の前に掲げた。
まだ何も知らないまま。
悪魔族の国に暮らす者たちの笑顔も。
守るために戦う者が、向こう側にもいることも。
“正義”が、ときに誰かを盲目にすることも。
何ひとつ知らないまま、ただ純粋に誓った。
「ぼくは、強くなります」
「父上のように」
「この国を守れる者に、必ず」
その声は幼く、それゆえに曇りがなかった。
ヴァルセリオンは静かに頷き、息子の頭に手を置く。
「それでいい、エルシオン」
「お前は光の子だ」
「闇に惑わされるな」
その手のぬくもりを、エルシオンは誇らしく思った。
褒められたことが嬉しかった。
認められたことが、ただ嬉しかった。
だからこそ、その教えを疑わなかった。
白き翼は、守るためにある。
闇を滅ぼすためにある。
それが正しいのだと、心から信じた。
まだ少年ですらない、幼い日の誓い。
それは清らかで、まっすぐで、そしてあまりにも危うかった。




