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レベル1の冒険者が世界の調停者になる  作者: pacifian
第4章『ルシェラ過去編』

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『白い翼の教え』

月が、静かに神樹の上へ昇っていた。


宴の喧騒から少し離れた場所で、ルシェラはしばらく黙っていた。

迅もまた、急かさず隣に立っている。


やがてルシェラは、小さく息を吐いた。


「……三百年以上前の話よ」


その一言で、夜の空気が変わる。


「私が生まれる前の話」

「天使族と悪魔族が、今よりずっと愚かだった頃の話」

「光が正義で、闇が悪だと、誰も疑わなかった時代の話……」


月明かりが揺れる。


そして物語は、三百年以上前へ沈んでいく。


白き翼が空を覆い、祈りと断罪が同じ言葉で語られていた時代へ。

幼きエルシオンが、父ヴァルセリオンの教えを受けていた朝へ――。



空は、どこまでも白かった。


雲よりも高く、光の膜に包まれたその国は、地上のどの種族の城よりも荘厳だった。

白銀の尖塔が幾重にも空へ伸び、橋は光で編まれたように透き通り、広場には翼を持つ者たちの祈りの声が静かに満ちている。


幼いエルシオンは、大聖堂の回廊を、小さな足で歩いていた。


床は鏡のように磨かれ、自分の姿が淡く映っている。

背にはまだ小さな白翼。羽ばたくには未熟で、飛ぶたびにふらついてしまうくらいの頼りない翼だった。


だが、胸の内には誇りがあった。


自分は天使族の子だ。

光の民であり、この世界を守る側の者だ。


それは、生まれた時から疑う余地のない真実として、ずっと教えられてきたことだった。


回廊の先、柱の並ぶ高殿に、ひとりの男が立っていた。


ヴァルセリオン。


天使族の族長にして、エルシオンの父。

白金の長髪を持ち、六枚の大翼を静かに背に広げるその姿は、幼いエルシオンにとって絶対そのものだった。


強く、正しく、美しい。


誰よりも清らかで、誰よりもこの世界を愛している。

エルシオンはそう信じていた。


「来たか、エルシオン」


低く、よく通る声だった。


「はい、父上」


エルシオンは背筋を伸ばし、ヴァルセリオンの前で膝をつく。


高殿の向こうには、はるか下の世界が見えていた。

黒い山脈。赤く染まる地平。遠くに揺らぐ禍々しい影の国。


あれが悪魔族の領土だと、エルシオンは知っていた。


まだ実際に踏み入れたことはない。

けれど何度も聞かされてきた。


あそこには闇がある。

奪う者がいる。

穢れた血を持つ者たちが、いつかこの光の国を喰らおうと牙を研いでいるのだと。


ヴァルセリオンは高殿の先を見つめたまま、静かに言った。


「お前は、あの地に何を見る」


エルシオンは迷わず答えた。


「悪です」


「滅ぼすべき敵です」


ヴァルセリオンはゆっくり頷いた。


「そうだ」


「悪魔族は、この世界に災いしかもたらさぬ」


「彼らは力を欲し、命を踏みにじり、弱き者から奪う」


「光を憎み、秩序を壊し、平穏を焼き払う存在だ」


その一言一言は、祈りのようでもあり、裁きの宣告のようでもあった。


エルシオンは小さな拳を握る。


父の言葉は、いつだって胸を熱くした。

怖い話のはずなのに、なぜか震えはしない。

代わりに湧いてくるのは使命感だった。


守らなければならない。

この光を。

この国を。

父の背中を。


ヴァルセリオンはエルシオンへ視線を落とす。


「覚えておけ、エルシオン」


「正しさとは、迷わぬことだ」


「守るべきものを守るためなら、刃を振るうことをためらってはならぬ」


「悪に情けをかけることは、善き民を見捨てることと同じだ」


その言葉は重かった。


幼いエルシオンには、すべてを理解できたわけではない。

だが、父の言う“守る”が何より尊いものであることだけは、強く伝わってきた。


高殿の下には、白衣をまとった子どもたちが祈っていた。

翼の小さな幼子たち。まだ剣も持てぬ者たち。

外では、市場に並ぶ果実や白布を選ぶ民の姿も見える。


穏やかな日常。

静かな笑顔。

争いから遠い場所にいる者たち。


ヴァルセリオンは、その光景へ目を向けた。


「彼らを守るのが、我らの役目だ」


「天使族は力を誇るために強くあるのではない」


「弱き者の盾となるために、強くある」


その言葉に、エルシオンの胸は大きく打った。


守るために強くある。


それはとても美しい響きだった。

剣は傷つけるためではなく、守るためにある。

力とは奪うためではなく、救うためにある。


そう聞かされれば、疑う理由などどこにもなかった。


「父上」


「なんだ」


「ぼくも……強くなれますか」


ヴァルセリオンは少しだけ目を細めた。

厳格な男の、ほんのわずかな柔らかさだった。


「なれるとも」


「だが忘れるな。強さとは、ただ敵を倒す力ではない」


「正しきもののために、己を捧げる覚悟だ」


「光の民である誇りを失うな」


エルシオンは深く頷いた。


その瞬間、胸の奥で何かが固まった。


まだ幼く、剣も重たく感じる年頃だった。

翼も未熟で、父のように高く飛ぶことすらできない。

それでも、いつかあの背に並びたいと思った。


悪を討ち、民を守り、光の国を支える者になりたい。


そして父のように、誰かにとっての盾になりたい。


ヴァルセリオンは、祭壇の脇に立てかけてあった木剣を手に取ると、エルシオンの前へ差し出した。


「持て」


エルシオンは両手で受け取った。


まだ訓練用の軽い木剣。

けれど幼い彼には、ずしりと重かった。

それはただの道具ではなく、責任そのもののように思えた。


「その剣は何のためにある」


ヴァルセリオンの問いに、エルシオンは息を整え、答える。


「守るためです」


「誰を守る」


「光の国を。民を。弱き者たちを」


「何を斬る」


その問いに、エルシオンは一瞬だけ高殿の向こうを見た。

遠い黒き地平。まだ見ぬ敵の国。


「……悪を」


ヴァルセリオンは満足げに頷いた。


「そうだ」


「ならば忘れるな。躊躇いは、守るべき者を殺す」


「お前はいずれ、この天を背負う翼となれ」


白い風が吹き抜けた。


祈りの鐘が遠くで鳴る。

空は変わらず美しく、眩しかった。


その光の中で、幼いエルシオンは木剣を胸の前に掲げた。


まだ何も知らないまま。

悪魔族の国に暮らす者たちの笑顔も。

守るために戦う者が、向こう側にもいることも。

“正義”が、ときに誰かを盲目にすることも。


何ひとつ知らないまま、ただ純粋に誓った。


「ぼくは、強くなります」


「父上のように」


「この国を守れる者に、必ず」


その声は幼く、それゆえに曇りがなかった。


ヴァルセリオンは静かに頷き、息子の頭に手を置く。


「それでいい、エルシオン」


「お前は光の子だ」


「闇に惑わされるな」


その手のぬくもりを、エルシオンは誇らしく思った。


褒められたことが嬉しかった。

認められたことが、ただ嬉しかった。


だからこそ、その教えを疑わなかった。


白き翼は、守るためにある。

闇を滅ぼすためにある。

それが正しいのだと、心から信じた。


まだ少年ですらない、幼い日の誓い。

それは清らかで、まっすぐで、そしてあまりにも危うかった。



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