『月明りの決意』
その日の夕暮れ、大樹宮はまるで別の街のようだった。
昼間まで処刑の空気が満ちていた広場には、長い木卓がいくつも並べられ、神樹の枝からは無数の灯りが吊るされている。淡い緑と金の光が夜へ沈み始めた空の下で揺れ、風に合わせて静かに瞬いていた。
白木の器には果実酒。焼かれた肉や香草をふんだんに使った温かな煮込み、森の蜂蜜をかけた薄焼きの菓子まで並べられている。
聖王国とも違う、エルフ王国らしい静かで繊細な宴の匂いが漂っていた。
昼間まであった処刑台は、もうない。
代わりにそこには、神樹の葉と白い花が飾られていた。
今日起きたことを無かったことにするためではない。
むしろ、忘れないために。
恐怖によって一人の少女を殺そうとした場所を、謝罪と感謝を交わす場所へ変えるために。
それでも、すべてが簡単に変わったわけではなかった。
広場に集まった民の表情には、まだ戸惑いが残っている。ルシェラを遠巻きに見る者もいれば、何を話しかければいいのか分からず視線を逸らす者もいる。
それでも彼らはここにいた。
逃げず。
目を逸らさず。
少なくとも、自分たちがしてしまったことと向き合うために。
族長エルディア=ヴァル=アシュレインは広場の中央へ立つと、改めて民へ告げた。
「本日の宴は、勝利を祝うためのものではない。謝罪と感謝のための場だ」
大きな歓声は上がらなかった。
エルディアも、それを求めてはいない。
「我々が恐怖の中で見失ったものを、もう一度見つめ直す。そのための最初の夜だ」
静かで確かなざわめきだけが、広場へ広がっていった。
◇ ◇ ◇
その輪の外れで、ルシェラは落ち着かなさそうに立っていた。
昼間とは、姿が大きく変わっている。
処刑台へ連れてこられた時には、銀白色の髪は泥と血で固まり、衣服もあちこち裂けていた。手首には拘束具の傷が残り、頬や肩にも血が滲んでいた。
あのあと、エルディアの命令で王宮の治療師たちが呼ばれた。
最初こそルシェラは警戒していたが、リリィとルーナに押される形で治療を受け、傷はほとんど塞がっている。血と泥も綺麗に落とされ、銀白色の長い髪は本来の輝きを取り戻していた。
そして、破れてしまった服の代わりに用意されたのが、今身につけている衣装だった。
白を基調に、深い紅と金を重ねたエルフ王国仕立ての装束。
身体へ沿う白い生地の上を深紅の意匠が包み、胸元や腰回りには細い金糸で葉と蔓を思わせる模様が施されている。腕には柔らかな白い袖がゆったりと垂れ、腰から下には白と紅の布が幾重にも重なっていた。
歩けば長い裾が花弁のように揺れる。
豪華ではあるが重苦しくはなく、エルフ族らしい軽やかさのある衣装だった。
足元も、傷んでいた旅用の靴ではない。
深紅と金で整えられた細身のブーツが用意されている。
昼間、自分へ石を投げ、処刑を見届けようとしていた同じ国から渡された服。
そのこと自体が、ルシェラにはまだ理解しづらかった。
「……なんで、こんなことになってるのよ」
自分の衣装を見下ろしながら小さく呟くと、すぐ横にいたリリィが笑った。
「似合ってるんだからいいじゃん」
「そういう話してない」
「じゃあ何の話?」
「……この服まで用意する必要あったの?」
「元の服、ボロボロだったでしょ」
「まだ着られたわ」
「無理だよ!」
即答だった。
「肩なんて破れてたし、血だらけだったし。エルフの人たちが『せめて新しい服を』って用意してくれたんだから、着てあげなよ」
「…………」
ルシェラはもう一度、自分の衣装を見る。
エルフたちなりの謝罪なのだろう。
そう考えると、余計にどう反応すればいいのか分からなかった。
「……落ち着かない」
「逃げたいって顔してるもんね」
「逃げないわよ」
ルシェラが僅かに眉を寄せる。
リリィは、その返事を聞いて少しだけ嬉しそうに笑った。
「そっか」
「……何よ」
「別に」
以前なら、本当にその場からいなくなっていたかもしれない。
けれど今のルシェラは、ここにいる。
それだけでも大きな違いだった。
そこへガルドが大皿を抱えてやってきた。
「食え」
「いらない」
「食え」
「だから、いらないって……」
「今日はほとんど食ってないだろ。倒れられると面倒だ」
ぶっきらぼうに差し出された皿には、香ばしく焼かれた肉と木の実を混ぜた穀物料理がたっぷり乗っている。
ルシェラは皿を見て、それからガルドを見た。
「……これ、あなたが選んだの?」
「厨房の奴が『悪魔族でも食べられそうなものを』って」
「何その雑な配慮」
「俺に言うな」
「ふふっ」
リリィが吹き出す。
「……何よ」
「いや、ちょっと面白くて」
ルシェラは不満そうに皿を受け取ったが、その口元もほんの少しだけ緩んでいた。
それを見たガルドは何も言わず、すぐに別の料理を取りに行った。
◇ ◇ ◇
その時、小さな足音が近づいてきた。
昼間、ルシェラへ「ありがとう」と言った少女だった。
両手で、小さな花冠を持っている。
「……あの」
ルシェラが振り向く。
「何?」
「これ、おねえちゃんに」
差し出されたのは、神樹の葉と白い花で編まれた小さな冠だった。
今の白と紅の衣装にも、不思議なくらいよく似合いそうな色だった。
「……なんで、私に?」
少女は少し考えてから、当たり前のように答える。
「だって、きょうの大事なおきゃくさまだもん」
「…………」
ルシェラはしばらく動けなかった。
客。
その言葉が妙に胸へ残る。
つい数時間前まで、この国にとって自分は殺すべき悪魔だった。それが今は、ここにいていいと言われている。
ルシェラはゆっくりと両手を伸ばし、花冠を受け取った。
「……ありがとう」
少女の顔が、ぱっと明るくなる。
横からリリィが驚いたような顔をした。
「今、自分からありがとうって言った」
「……言ったけど?」
「へぇー」
「何よ、その顔」
「別にー」
「腹立つわね……」
ルシェラは少しだけ頬を赤くして、そっぽを向く。
けれど、そこに以前のような強い拒絶はなかった。
少し離れた場所では、老エルフが民たちに囲まれていた。
三百年もの間抱え続けた沈黙をようやく吐き出した彼女は、疲れてはいたものの、どこか穏やかな顔をしている。
やがて老エルフがこちらへ気づき、静かに頭を下げた。
ルシェラは少し迷い、今度はきちんと彼女へ向けて、小さく会釈を返した。
謝罪と感謝。
まだ許しとは呼べない。
けれど、何もなかった場所へ、ようやく一つ目の糸が結ばれ始めていた。
◇ ◇ ◇
宴の端では、迅が長椅子に腰を下ろしていた。
精鋭部隊との戦い、セイルとの再戦、そしてエルディアとの決闘。限界まで無理を続けた身体は、まだ思うようには動かない。
リリィたちから「今日は絶対に大人しくしてろ」と強く言われ、さすがの迅も反論できずに座っていた。
目の前には、ルーナが持ってきた薬草茶がある。
一口飲む。
「……苦い」
迅が顔をしかめると、ルーナは当然のように答えた。
「薬なんだから、苦いのは仕方ないでしょ」
「これ、本当に飲む必要ある?」
「あるわ」
「死ぬほど苦いんだけど」
「死なないために飲んでるんでしょ。我慢しなさい」
「その言い方ずるくない?」
「別にずるくないわ。事実だもの」
「……容赦ないな」
「無茶した人に言われたくないわね」
淡々と言い返され、迅は何も言えなくなった。
渋い顔でもう一口飲んだところで、視線を感じる。
顔を上げた。
少し離れたところから、ルシェラがこちらを見ていた。
白と紅の衣装。
金の装飾に神樹の灯りが反射し、銀白色の髪がその光を柔らかく受けている。
昼間、血と泥に塗れ、鎖に繋がれていた姿とはまるで違っていた。
けれど、迅が見たのは衣装ではない。
その目だった。
まだ戸惑いはある。怖さも完全には消えていない。それでも、何かを決めた人間の目をしていた。
迅は軽く手を上げた。
「来る?」
それだけの呼びかけ。
ルシェラは少し迷ったあと、ゆっくりと歩いてきた。白と紅の裾が、歩くたびに静かに揺れる。
「……無理して起きてなくてもよかったのに」
隣まで来たルシェラが言う。
声は少し柔らかかった。
以前なら、「馬鹿」とでも言っていたかもしれない。
「寝ててもよかったんだけど、せっかくの宴だから」
「……こんな時にそういうこと言うのね」
「こんな時だから、かもしれない」
「変なの」
そう言いながら、ルシェラは迅の隣へ腰を下ろした。
以前より、ほんの少し距離が近い。
その様子を遠くから見たリリィが、一瞬だけ複雑そうな顔をした。
けれど、何も言わない。
ガルドは料理へ夢中で、ヴァロスは全部分かっているような顔で酒を飲んでいた。
ルシェラは膝の上へ花冠を置き、その白い花を指先で触る。
「……今日は」
言葉が止まる。
迅は待った。
「……助けてくれて、ありがとう」
迅がゆっくりと彼女を見る。
ルシェラは視線を合わせない。
けれど、その言葉ははっきりしていた。
「追ってきてくれて……ありがとう」
「置いていかせないって言っただろ」
「……言ってたわね」
「結構必死だったから」
「知ってる」
少しの沈黙。
ルシェラが小さく息を吐いた。
セリウスと重なった温かさ。
だから怖くなった。
だから逃げた。
けれど今は、その温かさから逃げずに隣へ座っている。
それだけで、以前とは違った。
◇ ◇ ◇
二人はしばらく黙ったまま、神樹の灯りを見上げていた。
広場では、少しずつ笑い声も増えている。兵と民が同じ卓で酒を酌み交わし、老エルフは子供たちに囲まれていた。
リリィは泣いたり笑ったり忙しい。
ガルドは追加の肉を取りに行き、ルーナはいつの間にか宴の手伝いまでしている。ヴァロスは少し離れた場所で、静かに杯を傾けていた。
ルシェラはその景色を眺めながら、ぽつりと言う。
「……変な国ね」
迅が笑う。
「前にも似たようなこと言ってなかった?」
「そうだったかしら」
「言ってたと思う」
「……なら、ずっと変だと思ってたのね」
その言い方が、やけに柔らかかった。
迅は気づく。
ルシェラの口調が、少し変わっている。
不器用なのは変わらない。
照れ隠しもする。
けれど、人を遠ざけるための棘が少しずつ減っていた。
「……少しだけ」
「ん?」
ルシェラは神樹を見上げたまま言った。
「少しだけ、怖くなくなった」
迅は何も言わない。
続きを待つ。
ルシェラは膝の上の花冠へ視線を落とした。
「全部じゃない。まだ怖いわ」
「うん」
「でも……」
一度、息を吸う。
「逃げるだけじゃ、だめだって思った」
迅は横にいる少女を見る。
ルシェラも、ゆっくりと迅へ顔を向けた。
今までなら目が合えば、すぐ逸らしていた。
でも今は、逃げない。
「……迅」
名前を呼ぶ声も、どこか違った。
柔らかく、それでいて以前よりずっと深く。
「あとで、少し……話せる?」
迅の胸が、静かに鳴った。
何を話そうとしているのか、なんとなく分かった。
これは、ただの会話ではない。
ルシェラが、ずっと自分の内側へ閉じ込めていたものを、初めて誰かへ渡そうとしている。
「うん」
迅は頷いた。
「話そう」
「…………」
ルシェラも、小さく頷いた。
それだけで十分だった。
神樹の灯りが風に揺れる。
宴はまだ続いている。
謝罪と感謝。
ぎこちない笑い声。
まだ完全には消えていない恐怖。
それでも、王国の空気は少しずつ変わり始めていた。
そして、その夜。
月明かりの下で。
ルシェラはついに、自分自身の過去を迅へ語る決意をする。
三百年前のこと。
セリウスのこと。
自分が何者なのか。
何を失い、何を恐れ続けてきたのか。
白と紅の衣装を夜風に揺らしながら、ルシェラは静かに昇り始めた月を見上げていた。




