『迅の葛藤』
その夜、街は静まり返っていた。
昼間の熱気が嘘のように、夜風が石畳を撫でている。
ギルドの裏通り、宿屋の小さな部屋で、迅はベッドの上に腰を下ろしていた。
部屋の隅に置いた短剣が、月の光を受けて鈍く光る。
それを見つめるだけで、胸の奥がずしりと重くなる。
(……俺、結局、何もできなかった)
あの炎の洞窟で、仲間が戦っていたとき――
リリィは自分の魔法で戦場を制圧し、ガルドは力で敵を押し切り、ルーナは風で守り、支えた。
そして、自分は――硬い鱗に刃を弾かれ、地面に叩きつけられていた。
(……俺、いらないんじゃないか)
その言葉が、何度も頭の中を巡る。
窓の外からは、遠く酒場の笑い声がかすかに聞こえてくる。
たぶん、今日もギルドの上位冒険者たちが宴を開いているのだろう。
彼らは強い。誰かに守られることなく、誰かを守る側の人間だ。
その姿がまぶしくて、少しだけ、憎らしく思えた。
「……俺も、あっち側に行きたかったんだよな」
苦笑が漏れた。
手を伸ばせば届きそうだった夢。
でも今は、その距離が途方もなく遠く感じる。
迅はステータスウィンドウを呼び出した。
【迅】
【レベル:7】
【スキル:レベルドロップ】
白く光る文字が、夜の闇の中でいやに冷たく見える。
たったひとつの固有スキル。
それが、自分の足をずっと引っ張り続けている。
「……レベルを、1に戻すだけ……」
誰がこんなスキル欲しがる?
力を得るどころか、自分の努力を無にするスキルだ。
「……ほんと、ゴミだよな」
ぽつりと呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
拳を強く握りしめる。爪が手のひらに食い込む痛みが、少しだけ現実を引き戻した。
(リリィは魔法がある。ガルドは強い。ルーナは風と癒しの力を持ってる。
でも、俺は……なにもない)
頭の奥で、過去の記憶がよみがえる。
転生のあの白い空間――
あのとき、自分は選んでしまったのだ。
あの無数のスキルの中から、たったひとつ――
【レベルドロップ】
気づいたときには、すでに選択が終わっていた。
強くなるチャンスは、最初から自分の手で捨ててしまったのだ。
「……なんで俺なんだよ。」
誰もいない部屋の中で、声がやけに響いた。
脳裏に浮かぶのは、仲間の笑顔。
リリィの明るい声。
ガルドの不器用な励まし。
ルーナの静かな風のような微笑み。
その全部が、胸に突き刺さる。
(俺はあの輪の中にいる資格があるのか?)
彼らが強くなればなるほど、置いていかれる気がした。
怖かった。
このまま、自分だけが役に立たず、いずれ外れてしまう未来を想像してしまう。
ごとり、と短剣が床に落ちた。
拾い上げようとしても、手が震えてうまく掴めない。
心の奥から湧き上がるのは、怒りでも、悔しさでもなく――空っぽな虚しさだった。
――逃げることは、簡単だ。
このままパーティーを抜けて、誰にも迷惑をかけずに消えることもできる。
誰も困らない。
むしろ、そのほうがチームはもっと強くなるかもしれない。
でも、胸の奥に小さな声が残っていた。
(……守りたかった、んだよな)
あの夜。
少女をかばって、包丁を前に立った自分。
怖くても、逃げなかった自分。
あのときの想いが、心の奥底でかすかに灯っていた。
「……俺、まだ……ここで終わりたくねぇ」
小さく漏れた声は、自分でも気づかないほど弱かった。
けれど――確かに、心の奥に残った“灯”のように揺れていた。
窓の外には夜の星空が広がっている。
手の中の短剣を見つめながら、迅はゆっくりと深呼吸をした。
何も変わらない夜の空。
それでも、ほんの少しだけ、心の奥に“何か”が残っている。
(……俺は、まだ諦めてねぇ)
たとえゴミみたいなスキルでも、
この手で、何かを掴めるかもしれない――そんな希望が、かすかに胸の奥で揺れた。
誰も知らない夜の葛藤。
この小さな揺らぎが、やがて彼を“調停者”へと導く道になることを、
このときの迅はまだ知らなかった――。




