『死にたい悪魔』
広場には、まだ謝罪の余韻が残っていた。
神樹の葉が風に揺れ、淡い光が処刑台へ降り注いでいる。
処刑は中止された。
族長は頭を下げた。
三百年の誤解は、ようやく言葉にされた。
それなのに――誰も安堵していなかった。
民衆はまだ揺れている。
恐怖が消えたわけではない。
受け入れきれない者もいれば、泣きながら俯く者もいる。
怒りのやり場を失って立ち尽くす者もいた。
そして、その中心にいるルシェラは。
何も言えずに立っていた。
鎖は外された。
だが、肩や手首に残る傷は癒えてない。
泥と血に汚れた衣服も、そのままだ。
銀髪は風に揺れるたびに、乾いた血の跡を覗かせる。
頭を下げられた。
謝罪された。
処刑は止まった。
それでも彼女の表情は、救われた者の顔ではなかった。
迅は、その横顔を見ていた。
言葉をかけられない。
何を言っても軽くなる気がした。
ここまで傷ついた心に、今すぐ届く言葉など自分は持っていないと分かっていた。
だからただ、そばに立つ。
戦いの熱が引いた今、全身が鉛のように重い。
腕も肩も傷だらけで、呼吸のたびに肋が軋む。
それでも、ルシェラのほうが苦しいことくらい分かっていた。
族長が一歩下がる。
精鋭部隊も、誰も処刑台へ近づかない。
広場全体が、「次に何が起こるのか」を見守っていた。
その沈黙を破ったのは、ルシェラだった。
小さな声だった。
けれど、不思議なほど広場に響いた。
「……私は」
風が止まる。
「私は、死んだ方がいい」
ざわめきが走った。
リリィが顔を上げる。
迅の表情がわずかに固まる。
族長も目を細めた。
ルシェラは俯いたまま、続ける。
「謝られたって……何も変わらない」
「私が生きている限り、また誰かが傷つく」
「三百年前もそうだった。今もそう」
「私がいるから、街が燃える。戦いが起きる」
「私がいるから……誰かが守ろうとして、傷つく」
その声は震えていない。
泣いているわけでもない。
あまりにも、静かだった。
静かすぎて、それが本気なのだと分かってしまう声だった。
「だから……私は」
ルシェラは、自分の胸元を握る。
「消えた方がいい」
その一言が、迅の胸を深く抉った。
リリィが、強く唇を噛み、静かに処刑台に向かって歩き出す。
ルシェラは続けた。
「今だってそうよ」
「私のせいで、迅が傷ついた」
「みんなが傷ついた」
「結局、何も変わってない」
「私は……」
そこで、ようやく声が揺れた。
「私は、いてはいけないのよ……!」
叫びではない。
押し殺し続けたものが、ひび割れたような音だった。
次の瞬間。
パァン――ッ!!
乾いた音が、広場に響いた。
ルシェラの顔が横へ弾かれる。
頬に、赤い跡が浮かぶ。
叩いたのは、リリィだった。
広場が凍りつく。
リリィの肩が震えている。
涙でぐしゃぐしゃの顔。
それでも彼女は、真正面からルシェラを睨んでいた。
「ふざけないで……!」
声が震える。
怒りと、悲しみと、悔しさで。
「死んだ方がいいとか、勝手に決めないでよ……!」
ルシェラが頬を押さえ、目を見開く。
「……あなた」
「うるさい!!」
リリィが泣き叫ぶ。
「迅がどれだけ心配して、どれだけ探して、どれだけ傷ついてここまで来たと思ってるの!?」
「置いていかれて、何も分からないまま、必死で追いかけて……!」
「それなのに、助けた相手が“死んだ方がいい”なんて言ったら、どう思うの!?」
リリィの言葉は、刃みたいに真っ直ぐだった。
飾らない。
優しく包まない。
ただ、ぶつける。
「私だって怖かった!」
「悪魔って聞いて、ちょっと怖かったよ!
でも、そんなの関係ないって思った!」
「だって迅が助けたかった相手なんだもん!」
「なのに、あなたは何!?
自分だけで全部決めて、自分だけで終わろうとして!」
リリィの涙がぽろぽろ落ちる。
「そんなの、ずるいよ……!」
ルシェラの瞳が揺れる。
怒りか、悲しみか、自分でも分からない色だった。
「……分かったようなこと言わないで」
掠れた声。
リリィが息を呑む。
ルシェラは顔を上げる。
赤の瞳が、初めて剥き出しの感情を宿した。
「あなたに何が分かるのよ」
その声は、細い。
けれど、その奥に溜め込まれていたものは重い。
「失う怖さを知らないくせに!!」
その叫びに、広場の空気が震える。
「守るって言った人が死ぬのを見たことある!?」
「目の前で、自分のために誰かがいなくなるのを知ってる!?」
「何も残らないのよ!
謝っても、泣いても、戻ってこないの!」
ルシェラの声が、崩れ始める。
「セリウスは……!」
その名が落ちた瞬間、迅の胸が大きく打った。
ルシェラは止まれなかった。
「セリウスは、私を守って死んだのよ!!」
広場にいる誰もが、その痛みの深さを理解できなかった。
だが、理解できないままでも、どれほど重い傷かは分かった。
ルシェラの肩が震える。
「生きろって言った!」
「私を置いて、勝手に……勝手にいなくなった……!」
「私は、またあんなふうに誰かを失うくらいなら……」
声が割れる。
「最初からひとりの方がいいのよ!!」
リリィも泣きながら叫び返す。
「それで迅を置いていったの!?」
「傷つく前に、自分から切ったの!?」
「それが優しさのつもり!?」
ルシェラの感情が、そこで爆発した。
「優しさじゃない!!」
「怖かったのよ!!」
涙が零れる。
今まで耐えていたものが、堰を切ったように溢れる。
「怖かった!!
迅が、セリウスと同じみたいに……!」
「また私のために傷ついて、また私のせいで……いなくなるんじゃないかって!!」
「聖王国で見たのよ!
怒って、傷ついて、血を流して……!」
「このまま一緒にいたら、絶対にダメだって思った!」
「だから消えたのに……!」
「なのに……なんで追ってくるのよ……!」
最後の言葉は、怒鳴りではなく悲鳴だった。
リリィの目が揺れる。
そこにあるのは拒絶じゃない。
嫌悪でもない。
恐怖だった。
ルシェラは、迅を嫌っていたわけではない。
むしろ逆だ。
大事になってしまったから、怖くなった。
失いたくないから、遠ざけた。
そのことが、ようやく剥き出しになった。
迅は、その場で立ち尽くした。
胸の奥で、何かが静かに崩れる。
今までずっと分からなかった。
なぜルシェラが消えたのか。
なぜ何も言わなかったのか。
答えは単純で、残酷だった。
嫌われていたんじゃない。
怖かっただけだ。
自分を失う未来が、怖くてたまらなかった。
その事実が、迅の胸を締めつける。
リリィは涙を拭いもせず、ルシェラへ一歩近づく。
「……それでも!」
声はまだ震えていた。
「それでも、勝手に決めるな!!」
「怖いなら言えばよかったじゃん!」
「ひとりで抱えないでよ!」
ルシェラも前へ出る。
「言えるわけないでしょ!!」
「そんなの、弱いだけじゃない!」
「弱くたっていいじゃん!!」
「よくない!!」
二人の額がぶつかりそうな距離まで近づく。
怒鳴り合い。
泣きながら。
もう理屈ではない。
感情と感情の殴り合いだった。
リリィがルシェラの肩を押す。
ルシェラも押し返す。
「馬鹿!!」
「あなたの方が馬鹿よ!!」
「死んだ方がいいとか言うな!!」
「うるさい!!」
ルシェラの拳がリリィの肩に当たる。
リリィも遠慮なく押し返す。
本当に子どもの喧嘩みたいだった。
だがそこには、偽りが何もない。
リリィは、自分の想いをぶつけている。
ルシェラは、今まで閉じ込めていた恐怖をぶつけている。
それを見て、迅はようやく分かった。
ルシェラはずっと、あの日から止まったままだったのだ。
三百年前。
セリウスを失ったあの日から。
愛情は、死の予兆になった。
温かさは、奪われる前触れになった。
だから、信じたくない。
だから、突き放す。
だから、先に消える。
全部、怖かったからだ。
その時だった。
迅の視界が、ぐらりと揺れた。
(……あれ)
遅れて、痛みが押し寄せてくる。
怒りに飲まれかけた反動。
精鋭部隊との乱戦。
族長との激突。
無理やり立っていただけの身体が、限界を迎える。
膝が折れる。
「迅!?」
リリィが振り向く。
ルシェラの顔色が変わる。
迅は何か言おうとしたが、声にならなかった。
視界が傾く。
そのまま倒れかけた身体を、誰かが受け止めた。
細い腕。
震える体温。
ルシェラだった。
「……じん」
その声は、壊れそうだった。
迅の頭が、ルシェラの胸元へ落ちる。
ルシェラは必死に抱きとめる。
「嘘……」
「ちょっと……嘘でしょ……!」
ルシェラの声が震える。
「起きて……」
返事はない。
迅の呼吸はある。
だが浅い。
意識は落ちている。
「迅!!」
ルシェラが叫ぶ。
その声には、さっきまでの怒りも、拒絶もない。
ただ、純粋な恐怖だけがあった。
「やだ……」
涙が落ちる。
「やだ……やだ、お願い……!」
「起きてよ……!」
「こんなの……こんなの嫌……!」
ルシェラは、迅を抱きしめる腕に力を込めた。
まるで、離したら本当にいなくなってしまうかのように。
「お願いだから……!」
「置いていかないで……!」
その言葉に、広場の誰もが息を止めた。
リリィは、その光景を見つめていた。
胸が痛い。
苦しい。
自分も迅が好きだ。
たぶん、ずっと前から。
だから、本当は今すぐ迅に駆け寄りたい。
自分が抱き起こしたい。
泣きたい。
縋りたい。
でも、できない。
今、迅を抱いて泣いているのはルシェラだ。
その姿を見れば、もう分かってしまう。
この二人のあいだには、自分が知らない痛みと、積み重なったものがある。
リリィは涙を拭った。
そして、泣きながらも笑った。
「……ほんと、馬鹿だなぁ」
その笑顔は、切なかった。
悔しい。
苦しい。
でも、嫌いにはなれない。
ルシェラは泣きながら、迅の頬に触れる。
「ごめん……」
「ごめんなさい……」
「だから起きて……」
その謝罪は、三百年前に言えなかったものの続きみたいだった。
セリウスに向けたまま終わっていた痛み。
守ろうとして傷つけてしまう恐怖。
誰かがいなくなる未来への絶望。
その全部を抱えたまま、ルシェラは今、迅を抱きしめて泣いている。
風が吹く。
神樹の葉が、静かに揺れる。
広場にいた民衆は、もう誰も罵声を上げなかった。
ただ、その光景を見ていた。
悪魔と呼ばれた少女が、
ひとりの少年を失うことを、あれほどまでに恐れて泣いている。
その姿は、もう“災厄”には見えなかった。
ただの、ひどく傷ついた少女だった。
そしてその中心で――
ルシェラは、ようやく自分の本当の恐怖を声にしていた。
誰かを嫌ったからではない。
失いたくなかったから。
大切になってしまったから。
だから、怖かった。
その真実が、涙と一緒に広場へ落ちていく。




