『老エルフの覚悟』
大樹宮の奥から轟音が響き、遠く離れた回廊の床まで小さく震えた。
「……まだ戦っている」
老エルフは足を止め、荒い呼吸を整えようとした。
「お祖母様、大丈夫?」
隣にいたミュリエが、すぐにその身体を支える。
「ああ……大丈夫だよ」
そう答えたものの、年老いた身体には大樹宮までの道のりだけでも十分に堪えていた。足は震え、呼吸をするたびに胸が苦しい。
「少し休もう。ここまで来たんだから、ほんの少しくらい――」
「いや」
老エルフは静かに首を振った。
「今は止まれないよ」
迅たちが家を出てから、胸の中ではずっと同じ言葉が繰り返されている。
(また黙るのか)
三百年前と同じように、今度も誰かが真実を語ってくれるのを待つのか。
その問いに、もう目を背けることはできなかった。
◇ ◇ ◇
老エルフの記憶に最も強く残っているのは、炎だった。
空を染める赤。
崩れていく家々。
泣き叫びながら逃げる人々。
逃げ遅れた自分も、あの時はもう助からないと思っていた。
そんな炎の向こうから、一人の男が現れた。
黒い剣を持った騎士。
男は逃げるのではなく、自分たちを襲う災厄へ向かっていった。
そして、もう一人。
銀白色の髪をした少女――ルシェラ。
初めてその姿を見た時は恐ろしかった。噂に聞いていた銀髪の悪魔だと思い、逃げなければとさえ思った。
だが、少女は逃げ惑う人々を追わなかった。
誰かを襲うこともしなかった。
泣き出しそうな顔で炎の中へ飛び込み、見ず知らずのエルフたちを必死に守ろうとしていた。
そして最後には、自分まで。
『……ごめんなさい』
「…………」
老エルフの足が止まる。
「お祖母様?」
ミュリエが心配そうに顔を覗き込んだ。
三百年経った今も、あの声だけは消えていない。
「謝るのは……私の方だった」
「……え?」
ミュリエには聞こえるかどうかという小さな声だった。
あの少女は自分を助けてくれた。
それなのに、自分は何も返さなかった。
意識を取り戻した時、街はすでに崩れ、多くの者が命を失っていた。
誰もが泣き、怒り、何かを憎まずにはいられなかった。
そして、誰かが言った。
『銀髪の悪魔がやった』
違う。
自分はそう言った。
一度ではない。
何度か、本当に否定したのだ。
だが、そのたびに返ってきた。
『お前は混乱していたんだ』
『あの場には銀髪の悪魔がいたんだろう?』
『なら、そいつが災厄だ』
周囲の誰もが同じことを信じていた。
その中で自分一人だけが「違う」と言い続けることが、少しずつ怖くなった。
家族を失った者たちを前に、自分の記憶だけが正しいと言い張ることもできなくなった。
そして、いつしか口を閉ざした。
「……私は、怖かっただけだ」
証拠がなかったからではない。
誰かに言い負かされたからでもない。
ただ、一人になることが怖かった。
その結果、三百年が過ぎた。
噂は歴史となり、歴史はいつしか誰も疑わない常識へ変わった。
銀髪の悪魔。
大厄災。
何が本当に起きたのかを確かめようとする者さえ、ほとんどいなくなった。
そして今、その少女が再び殺されようとしている。
「……もう嫌だ」
老エルフが再び歩き出す。
ミュリエは何も言わず、その腕を支えた。
◇ ◇ ◇
大樹宮の奥から、再び大きな衝撃音が響いた。
剣と剣が激しくぶつかったような音だった。
(あの若者が……)
迅。
三百年前の黒い騎士と同じ剣を持つ青年。
あの時と同じように、今もまたルシェラの前に立っている。
「守る者ばかりが……傷つく」
「お祖母様……」
「私が黙ったからだよ」
その思いが胸へ突き刺さる。
老エルフは足を速めようとした。
「無理しないで!」
身体がよろめき、ミュリエが慌てて支える。
「大丈夫。まだ歩ける」
「でも……」
「頼むよ、ミュリエ。もう少しだけ力を貸しておくれ」
「……分かった」
ミュリエは老エルフの腕を自分の肩へ回し、再び歩き始めた。
処刑を止めなければならない。
族長へ伝えなければならない。
そして、ここに集まった民にも。
三百年前、銀髪の少女は災厄を起こした存在ではなく、自分たちを守ろうとしていたのだと。
少なくとも自分は、その姿をこの目で見た。
それなのに、三百年間も口を閉ざしてきた。
「今度こそ……」
曲がり角を抜けると、その先に広場を覆う緑の光が見えた。
神樹の力。
族長エルディアのものだ。
「お祖母様……あれ」
「ああ」
近づくほどに、怒号や剣戟、精霊の力が唸る音が鮮明になっていく。
そして、その先に見えた。
処刑台へ繋がれた、銀白色の髪。
「…………」
三百年前と同じだった。
あの日と変わらない少女が、まるで何もかも自分のせいだと言うような顔で立っている。
老エルフの胸が締めつけられた。
「違う……」
「お祖母様?」
「違うんだよ……!」
老エルフがミュリエの肩から腕を外した。
「ちょっと、何を――」
「ここからは自分で行く」
「無理よ!」
「無理でも行くんだ」
老エルフは震える足で立った。
「三百年前、私はあの子のために声を上げ続けることができなかった。だから今度だけは……自分の足で前へ出たい」
「…………」
ミュリエは何か言おうとしたが、老エルフの表情を見て口を閉じた。
「分かった。でも、私はここにいるから」
「ああ。ありがとう、ミュリエ」
老エルフは一人で広場へ向かって歩き始めた。
その先では、エルディアと迅が向き合っている。
二人の周囲には強大な力が集まり、このままぶつかれば本人たちだけではなく、周囲まで無事では済まない。
「やめて……」
最初は声にならなかった。
老エルフは大きく息を吸う。
三百年間、出し続けることのできなかった声。
今度こそ、届かせなければならない。
喉が裂けても構わない。
「やめておくれ――!」
老エルフは広場へ踏み込んだ。
恐怖が消えたわけではない。
それでも今度は、その恐怖に黙らされるつもりはなかった。




