『エルフの王』
神樹の葉が、一斉にざわめいた。
風が強くなったわけではない。それなのに巨大な枝が揺れ、淡い光の粒が広場へ降り注いでいく。
「……来る」
ルーナが呟いた。その顔には、今までになかった緊張が浮かんでいる。
広場の奥で、兵たちが静かに道を開けた。
誰かに命じられたわけではない。全員がその人物のために、自然と左右へ分かれていく。
やがて、一人のエルフが姿を現した。
長い銀緑の髪に、深い森を思わせる瞳。白と翠を基調とした装束には、細かな金糸で樹葉の紋様が刻まれている。
武器を見せつけているわけでも、声を荒らげているわけでもない。
それでも、その人物が歩くだけで広場から音が消えていった。
「族長……」
一人の兵が膝をつき、それに続いて他の兵たちも頭を下げる。
民衆の間からも、小さく名が漏れた。
「エルディア様……」
エルディア=ヴァル=アシュレイン。
エルフ王国を率いる族長だった。
エルディアは処刑台に拘束されたルシェラを見上げ、次にその前に立つ迅へ視線を移す。最後に、広場へ倒れている兵たちを見回した。
「……死者はいないようだな」
最初に口にしたのは、それだった。
迅が僅かに目を細める。
「ああ」
「お前が?」
「俺たちが」
迅が後ろの仲間たちへ目を向けると、エルディアもリリィ、ガルド、ルーナ、ヴァロスに視線を送った。
「なるほど」
それ以上は何も評さない。
セイルがその場で膝をついた。
「族長。申し訳ありません」
「立て、セイル」
「しかし――」
「お前の報告はあとで聞く」
静かな一言だったが、それだけでセイルは口を閉じた。
エルディアの視線が、再び迅へ向く。
「名は」
「迅」
「聖王国でセイルたちの討伐を妨げ、今日ここへ侵入した者だな」
「そうだ」
「否定しないのか」
「しても意味ないだろ」
エルディアの眉が僅かに動いた。怒ったというより、迅という人間を測っているようだった。
「目的は」
「ルシェラを連れていく」
処刑台の上で、ルシェラの肩が僅かに揺れる。
エルディアは一度彼女を見たあと、迅へ視線を戻した。
「それは許可できない」
「だろうな」
「なら、なぜ来た」
「許可をもらいに来たわけじゃないから」
広場にざわめきが走る。
「迅……」
リリィが小さく名前を呼んだが、エルディアは声を荒らげなかった。
「面白い答えだ」
「でも、まず話をしたい」
「話?」
「ああ。三百年前のことだ」
エルディアの瞳が僅かに細くなる。
「この森で、当時を生きたエルフに会った。その人は、ルシェラが街を守ろうとしていたと言った」
今度は民衆の間から、さらに大きなざわめきが広がった。
「そんな……」
「守った?」
「銀髪の悪魔が?」
エルディアが民衆へ視線を向けると、声は少しずつ収まっていった。
「一人の証言か」
「ああ」
「三百年を経た記憶だ」
「だから確かめればいい」
「…………」
「俺だって、その証言だけが全部正しいなんて言ってない。でも、今まで信じられてきた話だけが正しいとも限らないだろ」
迅はエルディアから目を逸らさなかった。
しばらく沈黙したあと、エルディアが静かに口を開く。
「お前は簡単に言う。私には、この国に暮らす者たちの命を守る責任がある」
「…………」
「三百年前の災厄は、ただの物語ではない。今も、多くの家族を失った歴史として残っている」
エルディアは処刑台へ目を向けた。
「そして、この娘が現れた直後、聖王国でも戦いが起きた」
「それはルシェラが起こしたんじゃない」
「分かっている」
「……え?」
予想していなかった返答に、迅の眉が動く。
「セイルたちが戦いを起こし、その結果として民が傷ついたことも把握している」
「だったら――」
「それでもだ」
エルディアの声が、初めて僅かに強くなった。
「この娘の存在を巡って争いが起きる。本人にその意思があるかどうかだけで、国を守れるわけではない」
「…………」
迅はすぐには言い返せなかった。
完全に間違った話ではない。
ルシェラ自身が望まなくても、彼女を恐れる者がいる。利用しようとする者もいるかもしれない。
存在するだけで争いが起きる可能性は、確かにある。
「だから殺すのか」
「そうだ」
エルディアは逃げずに答えた。
「残酷だと思うか」
「思う」
「私もだ」
「……え?」
今度はリリィが小さく声を漏らした。
「一人を殺せば必ず国が救われるなど、私も思ってはいない」
「なら!」
「だが、長は可能性だけで民を危険に晒すこともできない」
その言葉に、迅はエルディアを見つめた。
目の前にいるのは、ルシェラを憎んでいるだけの男ではない。
国を守る責任を背負い、そのために残酷な選択をしようとしている者だった。
だからこそ、迅も譲ることはできない。
「俺も、守りたい人を可能性だけで殺させることはできない」
一歩前へ出る。
エルディアの目が細くなった。
「ならば平行線だな」
「ああ」
その時、処刑台から鎖の鳴る音がした。
「……迅」
ルシェラが呼ぶ。
「もういい」
「よくない」
「私は――」
「それはあとで聞く」
迅はルシェラを見る。
「何も言わずにいなくなった理由も、死んだ方がいいって言った理由も」
そして、今度こそはっきりと告げた。
「全部、助けてから聞く」
「…………」
ルシェラは言葉を失った。
エルディアは二人のやり取りを見たあと、ゆっくりと腰の剣へ手を伸ばす。
「言葉だけでは、退かぬようだな」
「そっちもだろ」
「ああ」
エルディアが剣を抜いた。
細身の刃を、淡い緑の光が流れている。
同時に周囲の空気が変わり、ルーナが息を呑んだ。
「……精霊が」
風や草木、神樹の葉までが呼応するように揺れ、大樹宮を満たしていた自然の魔力が少しずつエルディアの周囲へ集まっていく。
ガルドが斧を握り直した。
「……さっきまでとは桁が違うぞ」
ヴァロスも剣を構える。
エルディアは迅の黒剣へ目を向けた。
「三百年前にも、黒い剣を持つ者があの娘の側に立ったと伝わっている」
「…………」
迅の脳裏に、セリウスの姿が浮かんだ。
「そして今、再び同じ剣を持つ者が我らの前に立っている」
エルディアの剣先が迅へ向けられる。
「お前もまた、この国を敵に回してでも、あの娘を守るのか」
迅はすぐには答えなかった。
処刑台にいる傷だらけのルシェラを見る。
次に、広場を囲むエルフの民へ目を向けた。
この人たちまで傷つけたいわけではない。
エルフ王国を敵にしたいわけでもない。
迅は黒剣を構える。
「敵にしたいんじゃない」
「なら退け」
「それもできない」
二人の視線がぶつかる。
「俺は、ルシェラも、この国の人たちも……どっちも死なせずに終わらせたい」
エルディアが僅かに目を見開いた。
「……欲張りだな」
「よく言われる」
「ならば、その理想を私の前で示してみろ」
エルディアが腰を落とす。
風が吹き抜け、神樹の葉が一斉に舞い上がった。
迅も黒剣を構え、低く腰を落とす。
次の瞬間、二人が同時に地面を蹴った。
黒剣と翠の剣が正面からぶつかり、轟音が広場を揺らした。




