『精鋭部隊の壁』
リリィの腕が、ゆっくりと迅から離れた。
迅は一度大きく息を吐き、拾い上げた黒剣を握り直す。
怒りが消えたわけではない。
処刑台に繋がれたルシェラを見るだけで、今でも胸の奥が焼けるように痛む。それでも、もうその感情に剣を預けるつもりはなかった。
「……すまない」
迅が振り返ると、リリィは涙の残る目で睨み返した。
「あとでちゃんと怒るからね」
「……うん」
「だから今は、ルシェラを助ける」
「ああ」
迅が頷くと、ガルドも斧を肩へ担ぎ直した。
「最初からそうしろ」
「耳が痛い」
「なら忘れるな」
ルーナも二対の羽を大きく広げ、ヴァロスは何も言わずに迅の隣へ並ぶ。
今度は、迅一人で戦うわけではない。
だが、エルフ兵たちも先ほどまでとは違っていた。
「第一陣を下げろ!」
広場に号令が響く。
倒れた兵たちに代わり、奥から新たな部隊が整然と進み出てきた。
銀と緑を基調とした鎧に身を包み、前列には大型の盾を持った兵士。その隙間から長槍が伸び、後列では弓兵たちがすでに矢を番えている。
さらにその後ろには、複数の術士まで控えていた。
人数が多いだけではない。
一人ひとりが同じ歩幅で動き、隊列にはほとんど乱れがない。
「……来る」
ルーナの声が低くなる。
「さっきまでの兵とは違うわ。全員の動きが繋がってる」
「大樹宮を守る精鋭ってことか」
迅が黒剣を構える。
敵の指揮官が腕を振り下ろした。
「進め!」
一斉に盾が前へ出る。
隙間なく並んだ盾壁が、地面を揺らしながらゆっくりと迅たちへ迫ってきた。
「なら、まず崩す!」
リリィが杖を向ける。
「《フレイム・バースト》!」
放たれた爆炎が、正面から盾列へ直撃した。
轟音と共に炎と煙が広がる。
「やった――」
「まだ!」
ルーナの鋭い声が飛ぶ。
煙が晴れると、盾兵たちはほとんど位置を変えていなかった。
後方の術士たちが複数の障壁を重ね、リリィの炎を受け止めていたのだ。
「そんな……!」
「止まるな!」
指揮官の声と同時に、盾の隙間から矢が飛び出した。
「リリィ、伏せろ!」
ヴァロスが前へ出る。
剣が二本の矢を弾き落とす。
だが三本目は完全には防ぎ切れず、外套を裂いて肩を浅く掠めた。
「ヴァロス!」
「この程度なら問題ない」
ヴァロスは表情一つ変えない。
その間にも、盾壁は着実に距離を詰めてくる。
「だったら力で押し返す!」
ガルドが前へ出て斧を振り上げた。
だが、その瞬間。
「ガルド、下!」
「なっ――」
足元の石畳に淡い光が走り、その隙間から太い根が勢いよく伸びた。
根はガルドの両足へ絡みつき、一瞬で動きを封じる。
「くそっ!」
そこへ盾の隙間から三本の槍が突き出された。
ガルドは斧で二本を弾いたものの、残る一本が脇腹を掠める。
「ぐっ……!」
「ガルド!」
リリィが叫ぶ。
さらに次の槍が喉元を狙って伸びてきた。
だが、その穂先へ黒剣が割って入る。
ギィンッ!
「下がって!」
「迅――」
「根を切る!」
迅は黒剣を地面すれすれに走らせ、ガルドの足を拘束していた根を一気に断ち切った。
「ルーナ!」
「分かってる!」
すぐさま風が巻き起こる。
「《風刃》!」
ルーナが狙ったのは盾兵そのものではなく、その足元だった。
鋭い風が石畳の隙間に溜まった水や細かな砂利を巻き上げ、前衛の視界を一瞬だけ奪う。
「今!」
ガルドが踏み込んだ。
斧の刃ではなく、平らな腹を盾へ叩きつける。
ドンッ!
重い衝撃に、前列の兵が数歩後退した。
生まれた僅かな隙間へヴァロスが入る。
「力任せに広げるな。繋ぎ目を狙え」
剣先が二枚の盾の間へ滑り込み、そこから突き出されていた槍を外へ弾く。
「迅!」
「はい!」
迅も反対側から踏み込んだ。
二人の剣がほぼ同時に盾列の継ぎ目へ入り、強固だった陣形が僅かに崩れる。
「隊列を維持しろ!」
しかし、兵たちの反応も早かった。
前衛が崩れれば、後方の兵がすぐに穴を埋める。
「早い……!」
リリィが杖を握り直した。
一人倒して終わる相手ではない。
個々の強さではなく、全員で一つの壁として戦っている。
さらに高所から、再び矢が降り注いだ。
「《風渡り》!」
ルーナが地面を蹴って宙へ上がり、迅たちの前を流れる風を一気に変える。
矢の軌道が僅かに外れた。
「全部は無理!」
「十分!」
迅が残った矢を黒剣で弾きながら前へ進む。
今度は先ほどまでとは違う。
槍の穂先を払い、剣を握る手を打ち、足元を崩して相手を倒す。地面へ伏した兵士には追撃せず、そのまま次へ向かった。
そんな迅の横をガルドが守り、ルーナが風を通して死角から迫る攻撃を知らせる。ヴァロスは敵の隊列を冷静に見極め、次々と綻びを作っていった。
「リリィ!」
「分かってる!」
リリィが杖を振る。
「《ファイア・ショット》!」
小さな火球が後方の術士たちの足元へ連続して着弾した。
直接傷つけるためではない。
詠唱を途切れさせるための牽制だ。
「迅! 今!」
「ああ!」
障壁が弱まった瞬間、迅が一気に前へ出る。
黒剣の腹で盾を跳ね上げ、そのまま肩から体当たりした。
「ぐっ!」
盾壁全体が大きく揺れる。
だが。
「第二列、前へ!」
さらに後方から兵士たちが進み出た。
「まだいるの!?」
リリィが息を呑む。
大樹宮を守る精鋭部隊。
簡単に突破できる相手ではなかった。
迅の肩を一本の矢が掠め、薄く血が滲む。
「迅!
「大丈夫!」
迅は足を止めなかった。
◇ ◇ ◇
処刑台の上から、ルシェラはその光景を見ていた。
「…………」
迅がいる。
自分のために戦い、また傷ついている。
「……やめて」
声が震えた。
自分さえいなくなれば、誰も巻き込まれないと思った。
だから一人で離れた。
それなのに、結局また同じことになっている。
「…………」
だが、今度の迅はその言葉を聞いても暴走しなかった。
一度だけルシェラへ目を向ける。
「あとで聞く」
「……え?」
「今は助ける」
「…………!」
迷いのない言葉だった。
ルシェラの赤い瞳が大きく揺れる。
その直後。
広場の上空に、白い光が走った。
「全員、止まれ!」
澄んだ声が大樹宮の広場へ響き渡る。
「…………!」
戦っていたエルフ兵たちが一斉に動きを止めた。
迅も黒剣を構えたまま、空を見上げる。
白い光が降り注ぎ、その中から一人の男が広場へ降り立った。
長い金髪。
冷たい青緑色の瞳。
その顔を、迅は忘れるはずがなかった。
「……また会ったな」
「…………」
迅の目が細くなる。
「セイル」
セイル=リュミナス・フェンリオス。
聖王国でルシェラを「大厄災の悪魔」と呼び、彼女を討つためなら周囲の民まで犠牲にしようとした男。
そして、迅が怒りに呑まれ、本気で殺そうとした相手。
「…………」
セイルの視線が迅から離れ、処刑台に拘束されたルシェラへ向けられる。
「やはり来たか」
迅は黒剣を握り直した。
今度は、怒りに任せて飛びかかることはしない。
セイルから目を逸らさず、静かに口を開く。
「今度は――」
一度だけ息を吐く。
「話を聞いてもらう」




