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レベル1の冒険者が世界の調停者になる  作者: pacifian
第3章『エルフ王国編』

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『怒りの暴走』

 迅が地面を蹴った。

 次の瞬間には、群衆と処刑台を隔てていた兵士たちの目前まで迫っている。


「侵入者だ!」

「止めろ!」


 正面から槍が突き出された。

 迅は身体を僅かにずらして穂先をかわし、黒剣で横から弾き飛ばす。


 いつもの迅なら、そこで相手の武器を落とし、足を払って戦えない状態にするだけで終わっていただろう。


 だが、今日は違った。

 弾いた黒剣をそのまま返し、兵士の胸部を覆う鎧へ叩き込む。


「がっ……!」


 激しい金属音と共に鎧が大きくへこみ、兵士の身体が数メートル先まで吹き飛んだ。


「迅!」


 背後でリリィが叫ぶ。

 迅は振り返らなかった。

 目に入っているのは、処刑台に繋がれたルシェラだけだった。


「囲め!」


 左右から精鋭兵たちが押し寄せてくる。


 迅は怒鳴りもしなければ、怒りを顔に露わにすることもなかった。むしろ呼吸さえ異様なほど静かで、その冷え切った目だけが近づいてくる兵士たちの動きを追っている。


 一人目の剣を受け流し、そのまま懐へ潜り込む。鎧の隙間へ肘を叩き込むと、兵士は呻き声を上げて崩れた。


 すぐに二人目の槍が迫る。

 迅は穂先を受け流し、槍の柄ごと相手の腕へ黒剣を叩きつけた。


「ぐあっ!」


 鈍い音と共に槍が地面へ落ちる。


 さらに盾を構えた兵士が前へ出ると、迅は黒剣で盾を大きく弾き、無防備になった脇腹へ蹴りを入れた。


「ぐっ……!」


 兵士が地面へ転がる。

 迅は足を止めなかった。


「……退け」


 低く、静かな声だった。


「俺はルシェラのところへ行く」

「通すな!」


 後方にいた魔術士が杖を構え、足元へ術式を展開する。淡い光が地面を走り、迅を囲もうとした。


 だが、迅は魔法が完成するのを待たなかった。

 一気に距離を詰める。


「な――」


 魔術士が反応した時には、すでに黒剣が杖を弾き飛ばしていた。

 そのまま剣の柄を胸へ叩き込み、術者を地面へ沈める。


 殺してはいない。


 だが、これまでの迅が徹底していた「必要以上に傷つけない」という加減は、明らかに失われていた。


「…………」


 リリィはその背中を見ながら、息を呑んだ。


 迅が以前とは比べものにならないほど強くなったことは分かっている。先ほど森でエルフ兵たちを制圧した時にも、それは十分に思い知らされた。


 けれど、今は何かが違う。

 使っている技は同じでも、そこにいつもの迅がいない。


「迅、待って!」


 リリィの声にも、迅は反応しなかった。

 処刑台の上からルシェラも彼を見ている。


「……迅」


 その声さえ、今の迅には届いていないようだった。


 視界に映っているのは、傷だらけのルシェラと、その身体を縛る鎖。そして、頬や衣服に残された血だけだった。


 なぜ、ここまで傷つけた。

 なぜ、あんな顔をさせた。

 なぜ――自分なんて死んだ方がいいと、そう思わせた。


「…………」


 胸の奥で燃えていた怒りは、熱くなるどころか、さらに冷たく沈んでいった。


◇ ◇ ◇


「全員で止めろ!」


 隊長らしき男の命令に、十人近い兵士が一斉に動いた。

 迅は黒剣を握り直し、正面から迎え撃つ。

 迫る剣を避け、槍を弾き、隙を見つければ迷わず相手を倒していく。


 だが、戦いが続くにつれて、その剣筋は少しずつ危険な場所へ近づいていた。


 これまでなら避けていた急所。

 肩から胸へ。

 胸から首へ。


 確実に相手を止めるだけではなく、一歩間違えば命を奪う場所へと、黒剣の軌道が変わり始めていた。


 その時、一人の兵士が背後から剣を振り下ろした。


「――っ!」


 迅は振り返りざまに黒剣を振るう。

 相手の剣を弾き飛ばし、その勢いのまま刃を首元へ走らせた。


 兵士の目が大きく見開かれる。

 迅は止めようとしなかった。

 邪魔をするなら、殺してしまえばいい。


 ほんの一瞬、本気でそう思った。

 その時だった。


『――見失うな』

「……!」


 低い声が響いた。


 誰かが近くで口にしたわけではない。

 頭の中に浮かんだ声とも違う。

 まるで、握っている黒剣そのものから直接伝わってきたように感じられた。


 迅の刃が止まる。

 兵士の首まで、あと僅か。


「…………」


 同時に、黒剣が異様なほど重くなった。


 聖王国でセイルを殺そうとした時と同じだった。

 どれほど腕へ力を込めても、それ以上先へ進まない。

 まるで剣そのものが、殺すために振るわれることを拒んでいるようだった。


「……邪魔するな」


 迅が低く呟く。

 さらに腕へ力を込める。

 それでも黒剣は動かなかった。


「今は……こいつらが邪魔なんだ」


 処刑台を見る。

 傷だらけのルシェラがいる。

 あと少しなのに。


 目の前の兵士たちさえいなくなれば、辿り着ける。


「…………」


 迅の表情から、僅かに残っていた迷いまで消えた。

 そして突然、剣を握っていた手を開いた。


 ガァンッ――!


 黒剣が地面へ落ちる。


「迅!?」


 リリィが目を見開いた。


 迅は自分を止める黒剣へ一度も振り返らず、そのまま素手で前へ進んだ。

 剣が邪魔をするのなら、使わなければいい。

 その時の迅には、それだけのことだった。


「止めろ!」


 一人の兵士が斬りかかる。

 迅は刃を紙一重でかわし、相手の手首を掴んで捻った。


「ぐぁっ!」


 剣が地面へ落ちる。

 そのまま腹部へ拳を叩き込み、身体を折った兵士を地面へ沈めた。


 次に迫ってきた男の胸倉を掴み、横へ投げ飛ばす。

 別の兵士には蹴りを入れ、その後ろから来た者へは迷わず拳を振るった。


 感情のまま暴れているようには見えなかった。


 むしろ逆だった。

 相手がどこから来るのか。

 どこを打てば最短で倒せるのか。

 どう進めば、一秒でも早く処刑台へ辿り着けるのか。


 迅は冷静なほど正確に、それだけを選び続けていた。


 ただ一つ。


 人を必要以上に傷つけてはいけないという一線だけが、その判断から抜け落ちていた。


「……怖い」


 群衆の誰かが呟いた。

 その一言をきっかけに悲鳴が広がり、人々が迅から逃れるように後退していく。


 だが、その声さえ今の迅には届かなかった。


◇ ◇ ◇


「やめて……」


 処刑台から、ルシェラの声が聞こえた。


「迅、やめて!」


 今度ははっきりとした叫びだった。


「…………」


 迅の足が、ほんの僅かに遅くなる。


「私のために戦わないで!」

「…………」

「私は……!」


 ルシェラが身体を動かし、鎖が激しく鳴った。


「私は、死んだ方がいいんだから!」


 その言葉を聞いた瞬間、迅の目がさらに冷たくなった。

 最後に残っていた兵士が、処刑台へ続く階段の前で剣を構える。


「来るな!」


 声が震えていた。

 それでも、兵士は逃げなかった。


「来るなと言っている!」


 剣が振り下ろされる。

 迅はかわし、腕を掴んで体勢を崩すと、そのまま足を払った。


「うっ!」


 兵士が背中から地面へ倒れる。

 迅はその胸元を掴み、軽々と上半身を持ち上げた。

 この男をどかせば、その先にはルシェラがいる。


 それなら、もう二度と立ち上がれないようにすればいい。


「…………」


 迅の拳が握られる。

 狙ったのは頭だった。

 振り下ろせば、無事では済まない。


「――迅!!」


 拳を振り下ろそうとした瞬間、背中へ何かが勢いよくぶつかった。


「……!」


 細い腕が、迅の身体へ回される。

 リリィだった。

 後ろから必死に抱きつき、迅を止めている。


「離せ」


 迅の声は冷たかった。


「嫌!」

「危ないから離れろ」

「危ないのは迅だよ!!」

「…………」


 その言葉に、振り上げられていた拳が僅かに止まる。


「離してくれ」

「嫌だって言ってるでしょ!」


 リリィの声が震えていた。

 迅へ回された腕も、背中へ押しつけられた身体も震えている。


 今の迅なら、簡単に振りほどくことができる。

 それでもリリィは離れなかった。


「私たち、ずっと迅を探してたんだよ!」

「…………」

「死んだかもしれないって思って、もう会えないかもしれないって思って……それでもずっと追いかけてきた!」


 迅の呼吸が僅かに乱れた。


「やっと会えたのに……今度は迅が、こんなところで自分を見失うの!?」

「俺は……」

「ルシェラを助けるんでしょ!」

「…………」

「殺すために来たんじゃないでしょ!!」


 その言葉が、胸の奥へ深く突き刺さった。

 リリィは泣きながら、それでも声を止めなかった。


「迅はずっと、守るために強くなってきたんでしょ!」


 初めて一緒に戦った頃の迅は、今ほど強くなかった。

 何度も傷つき、倒れ、それでも誰かを守ろうとして前へ出た。


 ガルドと共に戦い。

 ヴァロスから剣を学び。

 黒淵の奈落から生還し。

 いくつもの戦いを越えてきた。


 どれだけ強くなっても、変わらなかったものがあるはずだった。


「だったら……!」


 リリィの涙が、迅の背中へ落ちる。


「戻ってきてよ、迅!!」

「…………」


 握り締めていた拳が止まった。


 完全に。


 迅はようやく、自分が掴んでいる兵士を見た。

 怯え切った顔。

 震えている身体。

 その向こうには、迅から逃げようとする民衆たちがいる。


 地面には倒れた兵士たち。


 少し離れた場所では、ガルドとルーナ、ヴァロスがこちらを見ている。

 そして処刑台には、涙を浮かべたルシェラがいる。


「…………俺」


 兵士を掴んでいた指から力が抜けた。

 男の身体が地面へ落ちる。


「……また」


 殺そうとしていた。

 守りたい相手の目の前で。

 怒りに任せて、人の命を奪おうとしていた。


「…………」


 迅は目を閉じた。

 大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。


 もう一度。

 吸って、吐く。

 乱れていた呼吸が少しずつ戻っていった。


「……リリィ」

「何……?」

「ありがとう」

「…………」


 その一言を聞いて、リリィの腕から少しだけ力が抜ける。

 迅はゆっくりと振り返った。

 涙で顔をぐしゃぐしゃにしているリリィの頭へ、そっと手を置く。


「……戻った?」

「多分」

「多分じゃ駄目!」

「……戻った」

「ほんと?」

「ああ」


 リリィはしばらく迅の顔を見つめ、それからようやく腕を離した。


◇ ◇ ◇


 迅は地面へ落ちた黒剣のもとへ歩いた。

 拾い上げる。


「…………」


 今度は、重くなかった。

 普段と変わらない感触が手の中へ戻っている。


 先ほど聞こえた声も、もうしない。

 あれが本当に黒剣から聞こえたものなのか。

 それとも怒りに呑まれかけた自分が、何かをそう感じただけなのか。


 迅には分からなかった。


 ただ。


「……分かってる」


 小さく呟く。


 誰へ向けた言葉なのかは、自分でも分からない。

 迅は黒剣を構え直した。

 怒りが消えたわけではなかった。


 ルシェラをここまで傷つけたことも、何も確かめずに処刑しようとしたことも、許せるはずがない。


 だが、その怒りに剣を握らせるつもりもなかった。


「俺は……守るために来たんだ」


 処刑台を見る。


「ルシェラを」


 今度は、はっきりと口にした。

 兵士たちも混乱から立ち直り、再び陣形を整え始めている。

 その動きを見て、ガルドが迅の横へ歩いてきた。


「ようやく俺らの出番か」


 ルーナも外套を脱ぎ、二対の羽を広げる。


「遅いくらいね」


 ヴァロスは無言で剣を抜いた。

 リリィも涙を乱暴に拭い、杖を構える。


「もう勝手に一人で突っ込まないでよ」

「……気をつける」

「絶対だからね!」

「うん」

「返事が軽い!」


 いつものリリィの声に、迅の表情がほんの僅かに緩んだ。

 そして、もう一度処刑台を見る。


「ルシェラ」

「…………」


 今度は怒りに任せてではなく、彼女へ届かせるためにその名を呼んだ。


「迎えに来た」


 ルシェラの赤い瞳が揺れる。

 広場には再び緊張が走り、兵士たちが武器を構えていく。

 だが今度の迅は、一人で前へ出ようとはしなかった。


 隣にはリリィがいる。

 ガルドがいる。

 ルーナも、ヴァロスもいる。


 そして何より。


 もう、自分が何のためにここへ来たのかを見失ってはいなかった。


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