『裁きの広場』
鐘の音が、大樹宮全体へ響き渡っていた。
ゴォン――。
巨大な神樹の葉が風に揺れ、淡く輝く光の粒が広場へ舞い落ちている。本来なら誰もが足を止めて見上げるほど、美しい光景なのだろう。
だが、その中心には処刑台があった。
円形の広場を囲むように、幾重もの人垣ができている。老人も若者も、幼い子供を連れた家族までいた。
迅たちはフードを深く被り、その群衆の中へ紛れ込んでいた。
「……人、多すぎない?」
リリィが周囲を気にしながら声を潜める。
「公開処刑だからでしょうね」
ルーナは答えながら、外套の中で僅かに羽を動かした。
風を通して周囲を探れば、高所には弓兵、処刑台の周囲には槍兵、さらにその奥には魔術士らしき者たちまで配置されている。広場だけでも、相当な数の兵が集められていた。
「逃げ道まで固められてるわ」
「最初から抵抗されることを想定してるってことか」
ガルドが低い声で呟く。
迅は何も言わず、処刑台を見つめていた。
周囲からは、集まったエルフたちの声が聞こえてくる。
「本当に、三百年前の悪魔なのか?」
「銀髪だったそうだ」
「討伐隊が捕まえたんだろう?」
「今日で終わるなら……」
「でも、もしまた暴れたら……」
聞こえてくる声に、強い憎しみはほとんどなかった。
むしろ感じるのは恐怖だ。
ここにいる者たちの多くは、ルシェラ本人を知らない。三百年前に何が起きたのかも、自分の目で見たわけではない。
それでも、長い年月をかけて語り継がれてきた「大厄災」という言葉を恐れている。
そして、その恐怖を終わらせるために、一人の少女が殺されるところを見に集まっていた。
「……気分悪い」
リリィが小さく呟いた。
「誰も楽しそうじゃないのに……」
その言葉の通り、処刑台を見つめる人々の顔に笑みはなかった。不安そうに周囲を見る者もいれば、子供の手を強く握っている親もいる。
それなのに。
「悪魔を裁け!」
群衆のどこかから声が上がった。
続いて、別の場所からも叫び声が響く。
「厄災を終わらせろ!」
「もう二度と災いを起こさせるな!」
一つだった声が、少しずつ重なっていく。
まるで、自分たちの中にある恐怖を大声で押し潰そうとしているかのようだった。
「恐れているからこそ、誰かに終わらせてもらいたいのでしょうね」
ルーナが静かに言う。
「だからって……」
「正しいとは言ってないわ」
ヴァロスも群衆を見渡した。
「人は怖い時ほど、分かりやすい答えを欲しがる。何を恐れればいいのか分からないより、目の前に敵がいた方が安心できるからな」
「…………」
迅は老エルフから聞いた話を思い返していた。
三百年前。
燃え上がるシャルディアで、ルシェラは人々を守ろうとしていた。
それでも後世へ残ったのは、「大厄災の悪魔が街を滅ぼした」という話だった。
恐怖と喪失の中で、真実は飲み込まれた。
そして三百年が経った今も、その恐怖は消えていない。
むしろ、今度はルシェラ自身を殺す理由になろうとしていた。
「…………」
迅が僅かに拳を握る。
その時、広場の奥が騒がしくなった。
「来るぞ」
ガルドの低い声に、全員の視線が向く。
兵士たちが左右へ分かれ、群衆の間に一本の道が作られていった。
やがて、その向こうから鎖の擦れる音が聞こえてくる。
迅の呼吸が止まった。
「…………」
兵士たちに囲まれながら、一人の少女が歩いてくる。
銀白色の髪。
赤い瞳。
間違えるはずがなかった。
「……ルシェラ」
名前が、無意識に口から漏れた。
その姿を見た瞬間、胸の奥を強く掴まれたような感覚に襲われる。
想像していたより、ずっと酷かった。
銀白色の髪は泥と血で汚れ、普段身につけていた黒を基調とした衣服も、あちこちが破れている。頬には乾いた血が残り、腕や足にはいくつもの新しい傷が見えた。
両手には魔力を封じるための拘束具。
足首にも鎖が繋がれ、一歩進むたびに重い金属音が鳴っている。
「……ひどい」
リリィの声が震えた。
迅は答えられなかった。
何より苦しかったのは、傷ではない。
ルシェラが抵抗していないことだった。
兵士に無理やり引きずられているわけでもない。命令されるまま、自分の足で処刑台へ向かっている。
その顔には怒りも、反抗する意思も見えなかった。
何もかもを、すでに受け入れてしまったような表情だった。
「…………」
胸が痛む。
石を投げられたと聞いた時も苦しかった。
捕らえられたと知った時も、早く助けなければと思った。
だが、実際に目の前で傷ついたルシェラを見るのは、まるで違った。
焚き火を挟んで素っ気ない返事をしていた少女。
呪いに苦しむフォルへ自分から手を伸ばした少女。
子供を庇い、アレクを治し、少しずつ人から向けられる感謝を受け入れ始めていた少女。
そのルシェラが今、大勢の前で鎖に繋がれている。
(……遅かった)
外套の中で、迅の拳が強く握られた。
怒りが胸の底からゆっくりと湧き上がってくる。
聖王国でセイルへ向けたものとは違う。
一瞬で燃え上がり、すべてを焼き尽くそうとするような怒りではない。
もっと冷たく、重い。
なぜ、何も知らない者たちがルシェラをそんな目で見られるのか。
なぜ、人を守ろうとした少女が、三百年経った今も悪魔と呼ばれなければならないのか。
「迅」
ヴァロスが小さく名を呼んだ。
「…………」
迅は一度だけ息を吐いた。
まだだ。
まだ動く時ではない。
◇ ◇ ◇
ルシェラが処刑台へ上げられた。
両手に繋がれた鎖が柱へ固定され、兵士たちが術式を確認していく。
やがて、その正面へ一人の男が進み出た。
「エルフ王国の民よ!」
よく通る声が、広場全体へ響く。
「三百年前、我らの国は大きな災厄に襲われた! 多くの命が奪われ、多くの街が失われた!」
「…………」
迅の眉が僅かに動いた。
老エルフから聞いた話では、少なくともそれだけではなかった。
ルシェラは街を守ろうとしていた。
その事実は、今ここでは誰にも語られていない。
「そして今!」
男が処刑台に立つルシェラを指差した。
「その厄災が、再び我らの前へ姿を現した!」
「…………」
ルシェラは何も言わない。
顔を伏せたまま、反論することさえなかった。
「今日この場で、三百年にわたって我らを苦しめてきた恐怖を終わらせる!」
広場から、歓声とは呼べない声が上がった。
「裁け!」
「悪魔を滅ぼせ!」
「二度と災いを起こさせるな!」
リリィが唇を強く噛む。
「違うのに……」
迅は群衆を見なかった。
処刑台にいるルシェラだけを見ていた。
怒る様子もない。
自分を悪魔と呼ぶ男を睨むことさえしない。
それが何よりも怖かった。
いつものルシェラなら、理不尽なことを言われれば黙ってはいない。
少なくとも不機嫌そうに睨み返す。
迅に対してだって、気に入らないことがあれば遠慮なく言い返してきた。
だが今のルシェラには、それすらなかった。
「…………」
やがて、処刑官が前へ出る。
兵士から長い剣を受け取り、処刑台の中央へ進んだ。
その金属音に反応したのか、ルシェラが僅かに顔を上げる。
そして。
ほんの少しだけ、笑ったように見えた。
「……っ」
迅の胸が締めつけられる。
喜んでいるわけではない。
安心しているわけでもない。
もう抵抗しなくていい。
もう何も考えなくていい。
そんなふうに、すべてを諦めた者が見せる表情に見えた。
「……やめろ」
迅の口から、小さな声が漏れた。
だが、その声はまだ誰にも届かない。
処刑官が両手で剣を掲げる。
ルシェラは静かに目を閉じた。
「…………」
その唇が僅かに動く。
「……これで」
掠れた声だった。
広場のざわめきに消えてしまいそうなほど小さい。
「もう……誰も、巻き込まれない」
「…………」
だが、迅には聞こえた。
そして、続いた言葉も。
「私なんて……死んだ方がいい」
その瞬間。
「…………」
迅の中で、何かが切れた。
怒りに我を忘れたわけではない。
目の前が真っ赤になったわけでもない。
ただ、それまで自分を押し留めていた理由が消えた。
これ以上待つ必要はない。
これ以上、ルシェラにそんなことを言わせてはいけない。
外套の中で、迅の手が黒剣の柄を掴んだ。
「迅?」
変化に気づいたリリィが声を掛ける。
同時に、処刑官が剣を大きく振り上げた。
「それでは、刑を――」
「やめろ」
今度は、はっきりと声が響いた。
「…………!」
広場を満たしていたざわめきが止まる。
処刑官の動きも止まり、兵士たちが一斉に声のした方へ振り返った。
迅はゆっくりとフードを外した。
黒い髪が朝の光の下へ現れる。
「何者だ!」
兵士が叫ぶ。
迅は答えなかった。
外套の内側から黒剣を抜き、そのまま処刑台を見つめる。
視線の先にいるのは、ただ一人だった。
「…………」
閉じていたルシェラの目が、ゆっくりと開く。
最初は何が起きたのか分からないようだった。
だが、群衆の中に立つ迅を見つけた瞬間、その赤い瞳が大きく揺れた。
「……迅?」
驚き。
戸惑い。
そして、来てほしくなかったはずなのに隠し切れなかった何かが、その一言に滲んでいた。
迅は黒剣を握ったまま、まっすぐルシェラを見る。
「……今度は」
一度置いていかれた朝を思い出す。
誰にも告げず、一人で消えたルシェラ。
その理由を聞くために、ここまで追ってきた。
「置いていかせない」
今度こそ、その言葉はルシェラへ届いた。




