『処刑台に上げる前』
暗い牢の中には、湿った石の匂いが満ちていた。
どこかで水滴が落ちている。
ぽたり、ぽたりと規則的に響く音だけが、静まり返った地下牢に残っていた。
ルシェラは冷たい壁へ背を預け、床に座り込んでいる。
両手は鎖で拘束され、足首にも冷たい鉄の枷が食い込んでいた。枷には魔力を封じるための術式が刻まれており、時間が経つほど身体から少しずつ力を奪っていく。
「…………」
身体のあちこちが痛んだ。
捕らえられてから何度も蹴られ、殴られ、ここまで引きずられてきた。頬は腫れ、裂けた唇には乾いた血がこびりついている。
それでも、ルシェラは一度も抵抗しなかった。
鉄格子の向こうから、見張りをしていた兵士たちの笑い声が聞こえてくる。
「本当にこれが厄災なのか?」
「随分と大人しいじゃないか」
「今さら怯えても遅いだろうに」
やがて、一人の兵士が鉄格子の前まで近づいてきた。
扉を開けると、ルシェラの前へしゃがみ込み、顎を乱暴に掴んで顔を上げさせる。
「なあ、悪魔。処刑されるのが怖いか?」
「…………」
ルシェラは答えず、静かに目を閉じた。
その態度が気に入らなかったのか、兵士の表情が歪む。
「無視するな」
次の瞬間、腹部へ強い衝撃が走った。
「……っ」
蹴られた身体が前へ折れ、肺から空気が押し出される。息が詰まり、すぐには呼吸すら戻らなかった。
それでも、ルシェラは声を上げなかった。
「……つまらん」
兵士は吐き捨てるように言い残し、牢から出ていった。
鉄格子が閉じられ、再び地下牢へ静寂が戻る。
「…………」
ルシェラは俯いたまま、ゆっくりと呼吸を整えた。
(……どうせ、私は悪魔だから)
その言葉を、自分へ言い聞かせるように繰り返す。
悪魔。
厄災。
三百年前から、そう呼ばれ続けてきた。
それが自分なのだと思ってしまえば、きっと楽だった。
誰かに期待する必要もない。
誰かを信じる必要もない。
優しくされるたびに胸が痛くなることも、本当ならなかったはずだ。
なのに。
「…………」
目を閉じると、迅の顔が浮かんだ。
真っ直ぐこちらを見る黒い瞳。
怒っている時も、笑っている時も、何を考えているのか分かるほど素直な表情。
そして、どんな状況でも平然と言いそうな言葉まで思い浮かぶ。
『助ける』
「…………」
ルシェラは強く目を閉じた。
(来ない)
そんなことを考えてはいけない。
(来るはずがない)
いや。
来てはいけない。
もし迅がここまで追ってきたら、きっとまた自分を守ろうとする。
傷つくかもしれない。
命を失うかもしれない。
そして自分は、また大切な誰かを失う。
セリウスの時と同じように。
「…………」
胸の奥が強く痛んだ。
それでも、ほんの一瞬だけ思ってしまう。
(……追ってくるかもしれない)
あの男なら。
自分が何も言わずにいなくなったくらいで、諦めるとは思えない。
その考えが浮かんだ途端、ルシェラは自分の中で無理やり押し潰した。
温かさを信じれば、離れられなくなる。
期待すれば、失った時にまた壊れる。
信じたものが消える痛みを、ルシェラはもう知っていた。
(私は……悪魔なんだから)
そう思えばいい。
そう思わなければならない。
でなければ、あの焚き火のそばへ戻りたいと願ってしまうから。
◇ ◇ ◇
やがて、地上から低い鐘の音が聞こえてきた。
ゴォン――。
少し間を置き、もう一度響く。
ゴォン――。
「…………」
処刑の時間が近づいているのだと、説明されなくても分かった。
しばらくすると廊下の奥から複数の足音が近づき、鉄格子の前で止まった。
鍵が回る。
「時間だ」
数人の兵士が牢へ入り、ルシェラの腕を掴んだ。
鎖を強く引かれ、無理やり立たされる。
「……っ」
足元がふらついた。
魔力を封じる枷に長時間力を奪われていたうえ、まともに食事も休息も取っていない。身体へ受けた傷の痛みも残っていた。
それでも、ルシェラは抗わなかった。
兵士たちに囲まれたまま、薄暗い廊下を歩かされる。
壁に映った自分の影は細く、頼りなく揺れていた。
(……これでいい)
ルシェラは前を見ないまま歩く。
(これで終わればいい)
自分がいなくなれば、もう誰も巻き込まれない。
迅も。
フォルも。
そうすれば、あの暖かな時間だって――最初からなかったものとして忘れられる。
忘れられるはずだった。
「…………」
胸が痛む。
それでも足を止めなかった。
やがて、長い階段へ辿り着く。
兵士に促されるまま一段ずつ上がっていくと、暗闇の向こうから少しずつ光が差し込んできた。
地下牢の薄暗さに慣れていた目には、その光があまりにも眩しい。
ルシェラは僅かに目を細めた。
そして地上へ出た瞬間、地下とはまるで違う空気に包まれた。
「…………」
ざわめき。
幾重にも重なる人の声。
数え切れないほどの視線。
目の前には、神樹の根に囲まれた巨大な広場が広がっていた。
中央には高い台座があり、そこへ続く道の両脇をエルフ兵たちが固めている。
さらにその外側には、多くの民衆が集まっていた。
「悪魔だ……」
「あれが……」
「銀髪の……」
ざわめきが少しずつ広がっていく。
ルシェラは何も言わなかった。
顔を上げることもない。
兵士に鎖を引かれ、処刑台へ向かって歩いていく。
美しい神樹の都の中心で、一人の少女を裁くための儀式が始まろうとしていた。




