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レベル1の冒険者が世界の調停者になる  作者: pacifian
第3章『エルフ王国編』

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『処刑台に上げる前』

 暗い牢の中には、湿った石の匂いが満ちていた。


 どこかで水滴が落ちている。

 ぽたり、ぽたりと規則的に響く音だけが、静まり返った地下牢に残っていた。


 ルシェラは冷たい壁へ背を預け、床に座り込んでいる。


 両手は鎖で拘束され、足首にも冷たい鉄の枷が食い込んでいた。枷には魔力を封じるための術式が刻まれており、時間が経つほど身体から少しずつ力を奪っていく。


「…………」


 身体のあちこちが痛んだ。


 捕らえられてから何度も蹴られ、殴られ、ここまで引きずられてきた。頬は腫れ、裂けた唇には乾いた血がこびりついている。


 それでも、ルシェラは一度も抵抗しなかった。

 鉄格子の向こうから、見張りをしていた兵士たちの笑い声が聞こえてくる。


「本当にこれが厄災なのか?」

「随分と大人しいじゃないか」

「今さら怯えても遅いだろうに」


 やがて、一人の兵士が鉄格子の前まで近づいてきた。

 扉を開けると、ルシェラの前へしゃがみ込み、顎を乱暴に掴んで顔を上げさせる。


「なあ、悪魔。処刑されるのが怖いか?」

「…………」


 ルシェラは答えず、静かに目を閉じた。

 その態度が気に入らなかったのか、兵士の表情が歪む。


「無視するな」


 次の瞬間、腹部へ強い衝撃が走った。


「……っ」


 蹴られた身体が前へ折れ、肺から空気が押し出される。息が詰まり、すぐには呼吸すら戻らなかった。

 それでも、ルシェラは声を上げなかった。


「……つまらん」


 兵士は吐き捨てるように言い残し、牢から出ていった。

 鉄格子が閉じられ、再び地下牢へ静寂が戻る。


「…………」


 ルシェラは俯いたまま、ゆっくりと呼吸を整えた。


(……どうせ、私は悪魔だから)


 その言葉を、自分へ言い聞かせるように繰り返す。


 悪魔。

 厄災。

 三百年前から、そう呼ばれ続けてきた。


 それが自分なのだと思ってしまえば、きっと楽だった。


 誰かに期待する必要もない。

 誰かを信じる必要もない。


 優しくされるたびに胸が痛くなることも、本当ならなかったはずだ。


 なのに。


「…………」


 目を閉じると、迅の顔が浮かんだ。


 真っ直ぐこちらを見る黒い瞳。

 怒っている時も、笑っている時も、何を考えているのか分かるほど素直な表情。


 そして、どんな状況でも平然と言いそうな言葉まで思い浮かぶ。


『助ける』

「…………」


 ルシェラは強く目を閉じた。


(来ない)


 そんなことを考えてはいけない。


(来るはずがない)


 いや。

 来てはいけない。


 もし迅がここまで追ってきたら、きっとまた自分を守ろうとする。


 傷つくかもしれない。

 命を失うかもしれない。

 そして自分は、また大切な誰かを失う。


 セリウスの時と同じように。


「…………」


 胸の奥が強く痛んだ。

 それでも、ほんの一瞬だけ思ってしまう。


(……追ってくるかもしれない)


 あの男なら。


 自分が何も言わずにいなくなったくらいで、諦めるとは思えない。

 その考えが浮かんだ途端、ルシェラは自分の中で無理やり押し潰した。


 温かさを信じれば、離れられなくなる。

 期待すれば、失った時にまた壊れる。

 信じたものが消える痛みを、ルシェラはもう知っていた。


(私は……悪魔なんだから)


 そう思えばいい。

 そう思わなければならない。


 でなければ、あの焚き火のそばへ戻りたいと願ってしまうから。


◇ ◇ ◇


 やがて、地上から低い鐘の音が聞こえてきた。


 ゴォン――。


 少し間を置き、もう一度響く。


 ゴォン――。


「…………」


 処刑の時間が近づいているのだと、説明されなくても分かった。

 しばらくすると廊下の奥から複数の足音が近づき、鉄格子の前で止まった。


 鍵が回る。


「時間だ」


 数人の兵士が牢へ入り、ルシェラの腕を掴んだ。

 鎖を強く引かれ、無理やり立たされる。


「……っ」


 足元がふらついた。


 魔力を封じる枷に長時間力を奪われていたうえ、まともに食事も休息も取っていない。身体へ受けた傷の痛みも残っていた。


 それでも、ルシェラは抗わなかった。

 兵士たちに囲まれたまま、薄暗い廊下を歩かされる。

 壁に映った自分の影は細く、頼りなく揺れていた。


(……これでいい)


 ルシェラは前を見ないまま歩く。


(これで終わればいい)


 自分がいなくなれば、もう誰も巻き込まれない。


 迅も。

 フォルも。


 そうすれば、あの暖かな時間だって――最初からなかったものとして忘れられる。

 忘れられるはずだった。


「…………」


 胸が痛む。

 それでも足を止めなかった。

 やがて、長い階段へ辿り着く。


 兵士に促されるまま一段ずつ上がっていくと、暗闇の向こうから少しずつ光が差し込んできた。


 地下牢の薄暗さに慣れていた目には、その光があまりにも眩しい。

 ルシェラは僅かに目を細めた。

 そして地上へ出た瞬間、地下とはまるで違う空気に包まれた。


「…………」


 ざわめき。


 幾重にも重なる人の声。

 数え切れないほどの視線。


 目の前には、神樹の根に囲まれた巨大な広場が広がっていた。


 中央には高い台座があり、そこへ続く道の両脇をエルフ兵たちが固めている。

 さらにその外側には、多くの民衆が集まっていた。


「悪魔だ……」

「あれが……」

「銀髪の……」


 ざわめきが少しずつ広がっていく。


 ルシェラは何も言わなかった。

 顔を上げることもない。

 兵士に鎖を引かれ、処刑台へ向かって歩いていく。


 美しい神樹の都の中心で、一人の少女を裁くための儀式が始まろうとしていた。

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