『公開処刑の知らせ』
森は、昨夜までの雨が嘘だったかのように静かだった。
雲の切れ間から差し込んだ朝日が、濡れた葉の上で淡く輝いている。鳥の声も戻り始め、一見すれば穏やかな朝だった。
けれど、老エルフの家の中には、その景色とは正反対の重い空気が残っていた。
三百年前の出来事を語り終えた老エルフは、しばらく炉の火を見つめたまま動かなかった。
リリィの目はまだ赤い。ガルドは腕を組んだまま険しい顔をし、ルーナも先ほど聞いた話を整理するように考え込んでいる。ヴァロスは何も言わず、窓の外へ視線を向けていた。
迅も椅子へ腰掛けたまま、膝の上に置いた黒剣を見つめていた。
三百年前。
街を守ろうとしたルシェラ。
彼女と共に戦ったセリウス。
それでも後世へ残ったのは、「銀髪の悪魔が街を滅ぼした」という話だけだった。
「…………」
迅が何かを言おうとした、その時だった。
ドン、ドン、と扉を強く叩く音が響いた。
規則的で、遠慮のない叩き方だった。
家の中にいた全員が一斉に扉を見る。
「……誰?」
ミュリエが立ち上がって尋ねると、すぐに外から硬い声が返ってきた。
「エルフ王国巡察隊だ。開けてもらいたい」
老エルフの目が細くなる。
ミュリエは一瞬ためらったものの、そのまま扉へ向かった。
扉を開けると、外には二人のエルフ兵が立っていた。緑と銀を基調とした装備を身につけ、手には整えられた槍を持っている。
二人は家の中を確認すると、迅たちを見てすぐに眉を寄せた。
「……人間がいるな」
その視線が、迅たちへ向けられる。
ガルドが僅かに前へ出かけたが、迅が手を上げて制した。
「この方たちには助けてもらったんです」
ミュリエが説明する。
「昨日、森で魔狼に襲われた私と息子を助けてくれました」
「恩義があることは理解する」
兵士は感情を見せずに答えた。
「だが、今は非常時だ。外部の者を不用意に大樹宮へ近づけないよう、周辺の住民にも警告している」
「非常時?」
ミュリエが尋ねる。
兵士は淡々と告げた。
「本日、大樹宮で公開処刑が行われる」
「…………」
部屋の空気が、一瞬で張り詰めた。
リリィが息を呑む。
「……処刑?」
「対象は、昨日捕らえられた『銀髪の悪魔』だ」
「――っ」
迅の表情が変わった。
兵士はその反応に気づかないまま続ける。
「正午より、裁きの広場にて執行される。王国の民に秩序が戻ったことを示すための裁きだ」
「そんな……」
リリィが椅子から立ち上がった。
「待ってよ! 何も確かめないまま殺すの!?」
「悪魔を生かしておけば、再び災厄が起きる」
兵士の声に迷いはない。
「民は恐怖から解放されなければならない。そのために、悪魔は滅ぼされる」
「…………」
迅がゆっくりと顔を上げた。
それまで俯いていた黒い瞳が、兵士たちを捉える。
声を荒らげたわけではない。
黒剣を抜いたわけでもない。
それでも、向けられた視線だけで兵士の一人が僅かに身体を強張らせた。
「……正午なんだな」
「あ、ああ」
兵士は一瞬言葉を詰まらせたものの、すぐに表情を戻した。
「正午だ。これは王国が正式に決めた裁きだ」
「分かった」
迅はそれ以上何も言わなかった。
兵士たちは不審そうに迅を見る。
「外部の者が大樹宮へ近づけば拘束される。余計なことは考えず、この森から出ることだ」
最後にそう警告し、二人は家を離れていった。
扉が閉じる。
遠ざかっていく足音が聞こえなくなっても、しばらく誰も口を開かなかった。
◇ ◇ ◇
「迅……」
最初に声を出したのはリリィだった。
迅は返事をせず、膝の上にあった黒剣を手に取った。
その動きはゆっくりとしていたが、迷いはない。
「大樹宮は、この森の中心にある」
老エルフが静かに言った。
「巨大な神樹を囲むように築かれた都市だ。その中心にある裁きの広場で、昔から王国にとって重大な罪を裁いてきた」
「ここからなら?」
迅が尋ねる。
「急げば、まだ間に合う」
「…………」
迅が頷く。
ルーナも外の空を確認しながら口を開いた。
「処刑が正午なら、まだ時間はあります。公開処刑ということは、すぐに殺すのではなく、民衆を集める時間も必要なはずです」
「わざわざ人前でやる以上、見せることそのものに意味があるんだろうな」
ヴァロスが続ける。
「自分たちが災厄を討ったと、民に示したいわけか」
ガルドが苦々しそうに鼻を鳴らした。
「つまり、ルシェラを殺して『これで安全になった』って見せつける気か」
「おそらくは」
ルーナが答える。
「…………」
迅は黒剣の柄を握った。
三百年前、恐怖の中で生まれた噂が事実として残った。
そして今、その恐怖を終わらせるという名目で、同じ少女が再び裁かれようとしている。
胸の奥に怒りが湧く。
だが、迅はそれに任せて動こうとはしなかった。
怒りだけで剣を振れば、また聖王国での自分に戻ってしまう。
今やるべきなのは、誰かを憎むことではない。
ルシェラを助けることだ。
「俺は行く」
迅が静かに言った。
「もちろん私も行くよ」
リリィは目元を拭い、杖を握った。
「ルシェラが三百年前に何をしたのか、私はまだ全部知らない。でも……何も確かめないまま殺されるのを見てるなんて絶対に嫌」
ガルドも斧を背負い直す。
「俺も行く。ここまで来て、放っておけるかよ」
ルーナも頷いた。
「私もです。恐怖だけを理由に結論を決めるなら、それは裁きとは呼べません」
「師匠は?」
迅がヴァロスを見る。
ヴァロスは腰の剣を確かめながら、小さく息を吐いた。
「ここで帰ると思うか?」
「……思いません」
「なら聞くな」
迅の口元に、ほんの僅かに笑みが浮かんだ。
「ワウ!」
フォルも迅の足元へ歩み寄る。
迅はその白い頭へ軽く手を置いたあと、仲間たちを見回した。
「……全員で行こう」
誰も迷わなかった。
◇ ◇ ◇
「私も行くよ」
背後から聞こえた声に、迅たちが振り返る。
老エルフだった。
「お祖母様!?」
ミュリエが驚いて駆け寄る。
「何を言ってるの。大樹宮までどれだけあると思ってるの?」
「分かっているよ」
「だったら――」
「三百年前、私は黙った」
その一言で、ミュリエの声が止まった。
老エルフは杖へ手を伸ばし、ゆっくりと立ち上がる。
「何度話しても誰にも信じてもらえず、最後には怖くなって口を閉ざした。その結果、あの子は三百年もの間、『街を滅ぼした悪魔』として語られ続けた」
老エルフの身体は老いている。
それでも、その目に迷いはなかった。
「今度も黙っていれば、私はあの時と同じことを繰り返す」
「…………」
「だから行くよ。今度は私自身の口で、私が見たことを話す」
迅はしばらく老エルフを見つめた。
「無理はしないでください」
「分かっているさ」
老エルフは小さく笑った。
「三百年も背負ってきたんだ。これくらいで倒れてはいられない」
だが、迅たちと同じ速度で森を走れる状態ではない。
そのことは本人も理解しているらしく、老エルフは続けた。
「お前たちは先に行きなさい。処刑を止める方が先だ。私はミュリエと後から向かう」
「お祖母様、私も?」
「当たり前だろう。私一人で大樹宮まで歩けというのかい」
「もう……」
ミュリエは困ったような顔をしたが、止めることはしなかった。
迅は老エルフへ頷く。
「分かりました。先に行きます」
「ああ」
老エルフは黒剣へ一度だけ目を向けた。
「あの子を……今度こそ一人にしないでやっておくれ」
「はい」
迅は迷わず答えた。
◇ ◇ ◇
家を出ると、朝の森には眩しいほどの光が差し込んでいた。
雨に洗われた木々は美しく、濡れた葉からいくつもの雫が落ちている。
そんな穏やかな景色の向こうから、低い鐘の音が響いてきた。
ゴォン――。
少し間を置き、もう一度。
ゴォン――。
リリィが森の奥を見る。
「……鐘?」
「大樹宮の方角です」
ルーナが答えた。
老エルフも家の入口からその音を聞いていた。
「裁きを知らせる鐘だよ」
「…………」
迅は森の奥へ目を向けた。
木々の遥か先。
大樹宮がある方角だ。
「急ごう」
その一言で全員が動いた。
フォルが先頭へ飛び出し、迅がその後を追う。リリィ、ガルド、ルーナ、ヴァロスも一斉に駆け出した。
「待ってろ、ルシェラ」
迅は走りながら、小さくその名を呼んだ。
処刑が始まる前に追いつく。
そして今度こそ、何も言わずに一人で消えた理由を本人の口から聞く。
迅たちは速度を上げ、神樹の都――大樹宮へと続く森を駆け抜けていった。




