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レベル1の冒険者が世界の調停者になる  作者: pacifian
第3章『エルフ王国編』

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『恐怖は真実を曲げる』

 老エルフは、しばらく何も言わずに迅の黒剣を見つめていた。


 その瞳に恐怖がないわけではない。三百年前の記憶を思い出したのか、細い指は僅かに震えている。


 それでも、老エルフは目を逸らさなかった。


「私は……もう終わりだと思った」


 掠れた声でそう言い、一度言葉を止める。

 そして、もう一度黒剣へ目を向けた。


「その時……私は見たんだ。炎の向こうから、一人の男が歩いてくるのを」

「男……?」

「ああ。黒い鎧を身につけ、黒い剣を持っていた。そして何より……恐ろしいほど静かな目をしていた」

「…………」


 迅の胸が僅かにざわついた。


 黒い鎧。

 黒い剣。

 その姿から思い浮かぶ者は、一人しかいない。


(セリウス……)


 迅は何も言わず、続きを待った。


「その男は、私たちの敵ではなかった。むしろ反対だ。燃え上がる街を逃げることもなく、あの災厄へ向かって歩いていった」


 周囲の者たちは必死に止めたという。


 死ぬぞ。

 逃げろ。

 そんな声がいくつも飛んだ。


「けれど、彼は止まらなかった。そして炎の前で、あの黒い剣を抜いたんだ」


 老エルフは、その光景を今も目の前で見ているかのように話す。


「剣を振るうたびに炎が裂け、空から降ってくる火まで斬り払われていった。私は長く生きてきたが、あんな戦いは後にも先にも見たことがない」


 その声には、三百年を経た今も消えない驚きが残っていた。


「まるで……自分たちではどうすることもできなかった災厄そのものを、剣一本で押し返しているようだったよ」

「……その人、人間だったの?」


 リリィが恐る恐る尋ねる。


「分からない。ただ、少なくともエルフではなかった」


 老エルフはそこで一度息を整えた。


「そして、その男の後ろから……もう一人現れた」

「…………」


 老エルフの表情が変わる。


「銀白色の髪をした少女だった」


 部屋の空気が、一瞬で張り詰めた。

 リリィが息を呑み、ガルドの耳がぴくりと動く。ルーナも表情を引き締めた。

 迅だけは何も言わず、老エルフを見つめていた。


「白い肌に、銀白色の長い髪。本当に……まだ少女だった」


 老エルフは静かに続ける。


「だが、ただの少女ではないことだけは、私にも分かった。彼女が現れた途端、周囲の空気が変わったんだ。光とも闇とも言い切れない……その両方を抱えているような、不思議な魔力だった」

「…………」

「皆、恐れたよ。当然だ。すでにエルフ領では『銀髪の悪魔が街を焼いている』という噂が広まっていたからね」


 だからこそ、人々は少女を見るなり叫んだ。


『悪魔だ!』

『銀髪の悪魔が来た!』

『もう終わりだ!』


 老エルフの声が僅かに震える。


「私も、そう思った」

「…………」

「けれど……違ったんだ」


 その一言に、迅の目が僅かに動いた。


「少女は、私たちを見ていた。燃える家を見て、泣き叫びながら逃げる人たちを見て……今にも泣き出しそうな顔をしていた」


 リリィの表情が変わる。


「そして、あの子は叫んだんだ。大きな声じゃなかった。それでも、近くにいた私は確かに聞いた」


 老エルフは、三百年前の声を思い出すように目を閉じた。


『やめて……!』

『もう、やめて……!』

「そう言って、少女は燃え上がる街の中心へ走っていった」

「ルシェラが……?」


 リリィが呟く。


「黒剣の男は止めようとした。『来るな!』と叫んでいたよ」


 老エルフは唇を噛んだ。


「今なら分かる。あれは怒鳴っていたんじゃない。怖かったんだ。あの少女が傷つくことが」

「…………」


 迅は無意識に拳を握った。


 セリウスはずっと、ルシェラを守っていた。

 黒淵の奈落で聞いた話とも重なる。

 老エルフの証言が、三百年前の二人の姿を少しずつ形にしていく。


「少女は炎へ向かって手を伸ばした。すると、その身体から光が溢れたんだ」

「光?」

「ああ。街を覆っていた炎が、一瞬だけ押し返された。燃え広がる地獄へ、白い霧が降りたようだった」


 老エルフは震える手を胸元へ当てた。


「私は、確かにこの目で見た。あの少女は……街を滅ぼそうとしていたんじゃない」


 目尻に涙が滲む。


「守ろうとしていたんだ」

「…………」


 部屋に、雨音だけが響く。


「だが、炎はあまりにも強かった。押し返しても押し返しても再び燃え上がり、地面は崩れ、辺りは次々と壊れていった。それでも少女は小さな身体で必死に耐えていた」


 その前には、常に黒剣の男が立っていた。

 少女へ向かう炎を斬り払い、彼女を守るように戦い続けていたという。


「私は、その途中で逃げ遅れた」


 老エルフの声が小さくなる。


「いつの間にか妹ともはぐれていた。あれほど強く握っていたはずの手がなくなっていて……辺りを探しても、もう姿が見えなかった」

「…………」

「気づいた時には、すぐ近くまで炎が迫っていたよ。逃げる場所なんてなかった」


 老エルフは目を閉じる。


「私は、死ぬと思った」


 当時の恐怖が蘇ったのか、肩が僅かに震えていた。


「けれど、その時……誰かが私の前へ飛び込んできた」


 ゆっくりと目を開く。


「銀髪の少女だった」


 リリィが息を止めた。


「少女は私を庇い、その細い腕で抱き寄せてくれた。私は恐ろしくて声も出せなかったよ。ついさっきまで、あの子こそ街を滅ぼした悪魔だと思っていたんだから」


 老エルフの瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。


「そんな私を見て……あの子は、泣きそうな顔で言った」

『……ごめんなさい』

「…………」


 その言葉が落ちると、誰もすぐには声を出せなかった。

 リリィの頬を涙が伝う。


「……なんで……」


 震える声が漏れた。


「なんで、ルシェラが謝るの……」


 老エルフも涙を拭おうとはしなかった。


「私も、その言葉を聞いた時……胸が裂けそうだったよ」


 悪魔だと思っていた。

 街を滅ぼした張本人だと思っていた。

 それなのに、その少女は自分を守っていた。


「街を滅ぼそうとしている者が、どうして命懸けで私を庇う? どうして泣きそうな顔で謝る?」


 老エルフは静かに首を振った。


「少なくとも、あの時の私には……あの少女が街を滅ぼした者には見えなかった」


 それが、彼女自身の目で見た真実だった。


◇ ◇ ◇


「その直後、私は意識を失った」


 老エルフは胸元へ手を置いたまま続ける。


「次に目を覚ました時には、街はほとんど崩れ、至るところが焼けていた」


 それでも自分は生きていた。

 誰が最後まで守ったのかは分からない。

 だが、少なくとも炎に呑まれる直前、自分の前にいたのは銀白色の少女だった。


「生き残った者は、ほんの僅かだった。そして皆、同じことを言っていたよ」


 老エルフの表情が苦しげに歪んだ。


『銀髪の悪魔が、シャルディアを滅ぼした』

「私は否定した」


 その声に、少しずつ力が戻る。


「違う、と何度も言った。銀髪の少女は街を守ろうとしていた。黒剣の男も、あの炎と戦っていた。私は自分の目で見たんだと」


 だが、誰も耳を貸さなかった。


『お前も銀髪を見たんだろう?』

『なら、あの悪魔だ』

『あいつが来てから街が焼けた』

『悪魔が滅ぼしたんだ』


「……皆、家族や友人を失っていた。怒り、怯え、何かを憎まずにはいられなかったんだと思う」


 老エルフは悲しそうに目を伏せた。


「私が何を言っても、『なら何が街を滅ぼしたんだ』と返された」


 誰にも答えられなかった。

 本当の敵が何者だったのか。

 なぜ街が焼かれたのか。

 生き残った者たちには、それを知る術がなかった。


「だから皆、目の前にいた銀髪の少女を原因だと信じた。そうすれば……少なくとも、自分たちが憎む相手だけは分かるから」


 ルーナが静かに目を伏せる。


「恐怖と喪失が大きすぎたんですね。理解できないものに理由を求めた」

「ああ」


 老エルフは小さく頷いた。


「恐怖は、人の見たものまで変えてしまう。大勢が同じことを信じ始めれば、それがいつの間にか真実として残ってしまうこともある」


 ヴァロスも黙ったまま聞いている。

 ガルドは拳を握り、苦々しそうに口を開いた。


「……それで三百年か」

「ああ」


 老エルフは迅を見る。


「三百年だ」


◇ ◇ ◇


「そして私は……黙った」


 その言葉に、リリィが顔を上げる。


「どうして……?」

「怖かったんだよ」


 老エルフは自嘲するように笑った。


「何度言っても誰も信じなかった。それどころか、悪魔を庇う私まで疑う者が現れ始めた」


 あの惨劇の直後。

 誰もが傷つき、憎しみに満ちていた。


 そこで一人だけ違うことを言い続ければ、新たな争いを生むかもしれない。


「私は……逃げたんだ」


 老エルフは震える手を握る。


「これ以上誰かと争うのが怖くて、口を閉ざした。それから三百年間、一度もあの日のことを話さなかった」

「…………」

「だが、その剣を見た瞬間……全部蘇った」


 視線が迅の腰へ落ちる。


「炎の中で剣を振るっていた男の姿も、あの少女の涙も……『ごめんなさい』という声も」


 老エルフの顔が歪んだ。


「私は、ずっと後悔していた」


 声が震える。


「私はあの子に助けられた。それなのに……助けてくれた者のことを、何一つ守れなかった」

「…………」

「私が黙っている間にも、『銀髪の悪魔』という話だけが残り続けた」


 リリィは涙を拭いながら、唇を噛んだ。


「ルシェラは……守ろうとしたのに……」


 迅も何も言わなかった。

 胸の奥には、確かに怒りがあった。

 三百年前から続く誤解。


 それを理由に、今もルシェラは追われている。


 だが、迅はその怒りに任せて立ち上がることはしなかった。

 聖王国で、自分が何をしかけたのかを覚えている。


 恐怖が人の目を曇らせるのなら、怒りだって同じだ。

 感情だけで答えを決めれば、また大切なものを見失う。


 迅はゆっくりと立ち上がり、腰の黒剣へ手を置いた。


「……まだ、全部が分かったわけじゃない」


 老エルフが顔を上げる。


「三百年前に本当は何が起きていたのか。街を焼いたのが誰なのか。それは、まだ俺たちには分からない」

「…………」

「でも、一つだけ分かった」


 迅は老エルフをまっすぐ見た。


「少なくとも、ルシェラが街を滅ぼした『大厄災の悪魔』だったって話は……あなたが見たものとは違う」


 老エルフの瞳が揺れる。


「ああ」

「なら、まずルシェラを助けます」


 迅は静かに言った。


「三百年前のことを理由に、何も確かめないまま今のルシェラを殺させるわけにはいかない」


 大声ではなかった。

 それでも、その言葉には迷いがなかった。


「それから、本当は何があったのかを確かめる」

「…………」

「恐怖や憎しみだけで決められた話を、そのまま終わらせたくない」


 老エルフの頬を、再び涙が伝った。


「……頼む」


 震える声だった。


「私はもう……あの夜のように、誰かが死ぬところを見たくない」

「はい」


 迅は短く頷いた。

 リリィも涙を拭き、立ち上がる。


「私も行く」


 ガルドとルーナも続いて腰を上げ、ヴァロスは何も言わずに剣を確かめた。

 フォルも炉の前から立ち上がり、迅の足元へ寄ってくる。


「フォル」

「ワウ」


 迅は白い頭へ軽く手を置いた。

 外ではまだ雨が降っている。

 風が森を揺らし、濡れた葉の擦れ合う音が家の中まで届いていた。


 三百年前に何が起きたのか、そのすべてはまだ分からない。


 けれど、ルシェラがただ街を滅ぼした悪魔ではなかったことを知る者が、ここに一人いた。

 そして今、そのルシェラは大樹宮に捕らえられている。


「行こう」


 迅は黒剣を腰へ戻し、扉へ向かった。


「今度こそ、追いつく」


 もう迷っている時間はなかった。

 ルシェラが裁かれる前に。

 彼女自身の言葉を聞くために。


 迅たちは、大樹宮へ向かう準備を始めた。

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