『恐怖は真実を曲げる』
老エルフは、しばらく何も言わずに迅の黒剣を見つめていた。
その瞳に恐怖がないわけではない。三百年前の記憶を思い出したのか、細い指は僅かに震えている。
それでも、老エルフは目を逸らさなかった。
「私は……もう終わりだと思った」
掠れた声でそう言い、一度言葉を止める。
そして、もう一度黒剣へ目を向けた。
「その時……私は見たんだ。炎の向こうから、一人の男が歩いてくるのを」
「男……?」
「ああ。黒い鎧を身につけ、黒い剣を持っていた。そして何より……恐ろしいほど静かな目をしていた」
「…………」
迅の胸が僅かにざわついた。
黒い鎧。
黒い剣。
その姿から思い浮かぶ者は、一人しかいない。
(セリウス……)
迅は何も言わず、続きを待った。
「その男は、私たちの敵ではなかった。むしろ反対だ。燃え上がる街を逃げることもなく、あの災厄へ向かって歩いていった」
周囲の者たちは必死に止めたという。
死ぬぞ。
逃げろ。
そんな声がいくつも飛んだ。
「けれど、彼は止まらなかった。そして炎の前で、あの黒い剣を抜いたんだ」
老エルフは、その光景を今も目の前で見ているかのように話す。
「剣を振るうたびに炎が裂け、空から降ってくる火まで斬り払われていった。私は長く生きてきたが、あんな戦いは後にも先にも見たことがない」
その声には、三百年を経た今も消えない驚きが残っていた。
「まるで……自分たちではどうすることもできなかった災厄そのものを、剣一本で押し返しているようだったよ」
「……その人、人間だったの?」
リリィが恐る恐る尋ねる。
「分からない。ただ、少なくともエルフではなかった」
老エルフはそこで一度息を整えた。
「そして、その男の後ろから……もう一人現れた」
「…………」
老エルフの表情が変わる。
「銀白色の髪をした少女だった」
部屋の空気が、一瞬で張り詰めた。
リリィが息を呑み、ガルドの耳がぴくりと動く。ルーナも表情を引き締めた。
迅だけは何も言わず、老エルフを見つめていた。
「白い肌に、銀白色の長い髪。本当に……まだ少女だった」
老エルフは静かに続ける。
「だが、ただの少女ではないことだけは、私にも分かった。彼女が現れた途端、周囲の空気が変わったんだ。光とも闇とも言い切れない……その両方を抱えているような、不思議な魔力だった」
「…………」
「皆、恐れたよ。当然だ。すでにエルフ領では『銀髪の悪魔が街を焼いている』という噂が広まっていたからね」
だからこそ、人々は少女を見るなり叫んだ。
『悪魔だ!』
『銀髪の悪魔が来た!』
『もう終わりだ!』
老エルフの声が僅かに震える。
「私も、そう思った」
「…………」
「けれど……違ったんだ」
その一言に、迅の目が僅かに動いた。
「少女は、私たちを見ていた。燃える家を見て、泣き叫びながら逃げる人たちを見て……今にも泣き出しそうな顔をしていた」
リリィの表情が変わる。
「そして、あの子は叫んだんだ。大きな声じゃなかった。それでも、近くにいた私は確かに聞いた」
老エルフは、三百年前の声を思い出すように目を閉じた。
『やめて……!』
『もう、やめて……!』
「そう言って、少女は燃え上がる街の中心へ走っていった」
「ルシェラが……?」
リリィが呟く。
「黒剣の男は止めようとした。『来るな!』と叫んでいたよ」
老エルフは唇を噛んだ。
「今なら分かる。あれは怒鳴っていたんじゃない。怖かったんだ。あの少女が傷つくことが」
「…………」
迅は無意識に拳を握った。
セリウスはずっと、ルシェラを守っていた。
黒淵の奈落で聞いた話とも重なる。
老エルフの証言が、三百年前の二人の姿を少しずつ形にしていく。
「少女は炎へ向かって手を伸ばした。すると、その身体から光が溢れたんだ」
「光?」
「ああ。街を覆っていた炎が、一瞬だけ押し返された。燃え広がる地獄へ、白い霧が降りたようだった」
老エルフは震える手を胸元へ当てた。
「私は、確かにこの目で見た。あの少女は……街を滅ぼそうとしていたんじゃない」
目尻に涙が滲む。
「守ろうとしていたんだ」
「…………」
部屋に、雨音だけが響く。
「だが、炎はあまりにも強かった。押し返しても押し返しても再び燃え上がり、地面は崩れ、辺りは次々と壊れていった。それでも少女は小さな身体で必死に耐えていた」
その前には、常に黒剣の男が立っていた。
少女へ向かう炎を斬り払い、彼女を守るように戦い続けていたという。
「私は、その途中で逃げ遅れた」
老エルフの声が小さくなる。
「いつの間にか妹ともはぐれていた。あれほど強く握っていたはずの手がなくなっていて……辺りを探しても、もう姿が見えなかった」
「…………」
「気づいた時には、すぐ近くまで炎が迫っていたよ。逃げる場所なんてなかった」
老エルフは目を閉じる。
「私は、死ぬと思った」
当時の恐怖が蘇ったのか、肩が僅かに震えていた。
「けれど、その時……誰かが私の前へ飛び込んできた」
ゆっくりと目を開く。
「銀髪の少女だった」
リリィが息を止めた。
「少女は私を庇い、その細い腕で抱き寄せてくれた。私は恐ろしくて声も出せなかったよ。ついさっきまで、あの子こそ街を滅ぼした悪魔だと思っていたんだから」
老エルフの瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。
「そんな私を見て……あの子は、泣きそうな顔で言った」
『……ごめんなさい』
「…………」
その言葉が落ちると、誰もすぐには声を出せなかった。
リリィの頬を涙が伝う。
「……なんで……」
震える声が漏れた。
「なんで、ルシェラが謝るの……」
老エルフも涙を拭おうとはしなかった。
「私も、その言葉を聞いた時……胸が裂けそうだったよ」
悪魔だと思っていた。
街を滅ぼした張本人だと思っていた。
それなのに、その少女は自分を守っていた。
「街を滅ぼそうとしている者が、どうして命懸けで私を庇う? どうして泣きそうな顔で謝る?」
老エルフは静かに首を振った。
「少なくとも、あの時の私には……あの少女が街を滅ぼした者には見えなかった」
それが、彼女自身の目で見た真実だった。
◇ ◇ ◇
「その直後、私は意識を失った」
老エルフは胸元へ手を置いたまま続ける。
「次に目を覚ました時には、街はほとんど崩れ、至るところが焼けていた」
それでも自分は生きていた。
誰が最後まで守ったのかは分からない。
だが、少なくとも炎に呑まれる直前、自分の前にいたのは銀白色の少女だった。
「生き残った者は、ほんの僅かだった。そして皆、同じことを言っていたよ」
老エルフの表情が苦しげに歪んだ。
『銀髪の悪魔が、シャルディアを滅ぼした』
「私は否定した」
その声に、少しずつ力が戻る。
「違う、と何度も言った。銀髪の少女は街を守ろうとしていた。黒剣の男も、あの炎と戦っていた。私は自分の目で見たんだと」
だが、誰も耳を貸さなかった。
『お前も銀髪を見たんだろう?』
『なら、あの悪魔だ』
『あいつが来てから街が焼けた』
『悪魔が滅ぼしたんだ』
「……皆、家族や友人を失っていた。怒り、怯え、何かを憎まずにはいられなかったんだと思う」
老エルフは悲しそうに目を伏せた。
「私が何を言っても、『なら何が街を滅ぼしたんだ』と返された」
誰にも答えられなかった。
本当の敵が何者だったのか。
なぜ街が焼かれたのか。
生き残った者たちには、それを知る術がなかった。
「だから皆、目の前にいた銀髪の少女を原因だと信じた。そうすれば……少なくとも、自分たちが憎む相手だけは分かるから」
ルーナが静かに目を伏せる。
「恐怖と喪失が大きすぎたんですね。理解できないものに理由を求めた」
「ああ」
老エルフは小さく頷いた。
「恐怖は、人の見たものまで変えてしまう。大勢が同じことを信じ始めれば、それがいつの間にか真実として残ってしまうこともある」
ヴァロスも黙ったまま聞いている。
ガルドは拳を握り、苦々しそうに口を開いた。
「……それで三百年か」
「ああ」
老エルフは迅を見る。
「三百年だ」
◇ ◇ ◇
「そして私は……黙った」
その言葉に、リリィが顔を上げる。
「どうして……?」
「怖かったんだよ」
老エルフは自嘲するように笑った。
「何度言っても誰も信じなかった。それどころか、悪魔を庇う私まで疑う者が現れ始めた」
あの惨劇の直後。
誰もが傷つき、憎しみに満ちていた。
そこで一人だけ違うことを言い続ければ、新たな争いを生むかもしれない。
「私は……逃げたんだ」
老エルフは震える手を握る。
「これ以上誰かと争うのが怖くて、口を閉ざした。それから三百年間、一度もあの日のことを話さなかった」
「…………」
「だが、その剣を見た瞬間……全部蘇った」
視線が迅の腰へ落ちる。
「炎の中で剣を振るっていた男の姿も、あの少女の涙も……『ごめんなさい』という声も」
老エルフの顔が歪んだ。
「私は、ずっと後悔していた」
声が震える。
「私はあの子に助けられた。それなのに……助けてくれた者のことを、何一つ守れなかった」
「…………」
「私が黙っている間にも、『銀髪の悪魔』という話だけが残り続けた」
リリィは涙を拭いながら、唇を噛んだ。
「ルシェラは……守ろうとしたのに……」
迅も何も言わなかった。
胸の奥には、確かに怒りがあった。
三百年前から続く誤解。
それを理由に、今もルシェラは追われている。
だが、迅はその怒りに任せて立ち上がることはしなかった。
聖王国で、自分が何をしかけたのかを覚えている。
恐怖が人の目を曇らせるのなら、怒りだって同じだ。
感情だけで答えを決めれば、また大切なものを見失う。
迅はゆっくりと立ち上がり、腰の黒剣へ手を置いた。
「……まだ、全部が分かったわけじゃない」
老エルフが顔を上げる。
「三百年前に本当は何が起きていたのか。街を焼いたのが誰なのか。それは、まだ俺たちには分からない」
「…………」
「でも、一つだけ分かった」
迅は老エルフをまっすぐ見た。
「少なくとも、ルシェラが街を滅ぼした『大厄災の悪魔』だったって話は……あなたが見たものとは違う」
老エルフの瞳が揺れる。
「ああ」
「なら、まずルシェラを助けます」
迅は静かに言った。
「三百年前のことを理由に、何も確かめないまま今のルシェラを殺させるわけにはいかない」
大声ではなかった。
それでも、その言葉には迷いがなかった。
「それから、本当は何があったのかを確かめる」
「…………」
「恐怖や憎しみだけで決められた話を、そのまま終わらせたくない」
老エルフの頬を、再び涙が伝った。
「……頼む」
震える声だった。
「私はもう……あの夜のように、誰かが死ぬところを見たくない」
「はい」
迅は短く頷いた。
リリィも涙を拭き、立ち上がる。
「私も行く」
ガルドとルーナも続いて腰を上げ、ヴァロスは何も言わずに剣を確かめた。
フォルも炉の前から立ち上がり、迅の足元へ寄ってくる。
「フォル」
「ワウ」
迅は白い頭へ軽く手を置いた。
外ではまだ雨が降っている。
風が森を揺らし、濡れた葉の擦れ合う音が家の中まで届いていた。
三百年前に何が起きたのか、そのすべてはまだ分からない。
けれど、ルシェラがただ街を滅ぼした悪魔ではなかったことを知る者が、ここに一人いた。
そして今、そのルシェラは大樹宮に捕らえられている。
「行こう」
迅は黒剣を腰へ戻し、扉へ向かった。
「今度こそ、追いつく」
もう迷っている時間はなかった。
ルシェラが裁かれる前に。
彼女自身の言葉を聞くために。
迅たちは、大樹宮へ向かう準備を始めた。




