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レベル1の冒険者が世界の調停者になる  作者: pacifian
第3章『エルフ王国編』

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『三百年前の焼け跡』

 炉の火が、ぱちりと小さく音を立てた。


 外では雨が降り続き、屋根を叩く音が静かに響いている。エルフの家の中は暖かかったが、その温もりがかえって、これから語られる記憶の冷たさを際立たせているようだった。


 老エルフは、目の前に置かれた湯気の立つ茶にも手を伸ばさず、しばらく動かなかった。

 その視線は炉の炎ではなく、遥か昔の何かを見つめている。


「……無理に話さなくていいよ」


 ミュリエが気遣うように声を掛ける。

 だが、老エルフは静かに首を横へ振った。


「……いい。もう隠す必要もない」


 掠れた声だったが、そこには確かな意志があった。

 老エルフはゆっくりと顔を上げ、迅を見る。


「その剣を持つ者が、こうして私の前へ現れた。ならば……また何かが動き始めたということなのだろう」

「…………」


 迅は何も答えず、腰の黒剣へ指を添えた。


 リリィも、ガルドも、ルーナも、ヴァロスも口を挟まない。フォルだけが炉のそばで身体を丸めながら、老エルフの声を聞くように耳を立てていた。


 しばらくして、老エルフが小さく息を吐く。


「三百年前――」


 その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が僅かに変わったように感じられた。

 炉の炎が揺れ、壁へ映った影がゆっくりと形を変えていく。


「当時のエルフ領には、五つの街と、大樹宮を中心とした大都市があった。今よりも多くの者が暮らし、森も豊かで……大樹宮の加護を疑う者など、ほとんどいなかったよ」


 ミュリエが唇を強く結ぶ。

 リュクも母親の腕に抱かれたまま、不安そうに祖母を見つめていた。


「だが、ある夜を境に……すべてが崩れ始めた」


 ちょうどその時、炉の火がぱちりと弾けた。

 老エルフの瞳に、遠い記憶の影が浮かぶ。


「最初に滅びたのは、南にあった小さな交易都市だった。森の端にあり、人間の商人も時折訪れるような街だったよ」

「滅びたって……」


 リリィが小さく息を呑む。

 老エルフは頷いた。


「一晩だった」

「……一晩で?」

「ああ。朝になって偵察隊が入った時、そこに残っていたのは焼け跡だけだったそうだ」


 語る声が僅かに震える。


「木も、石も、土も焼け、街中が黒い灰に覆われていた。溶けた鉄の匂いが残り、街の中心では朝になってもまだ火が燻っていたという」


 そこで一度、老エルフは目を伏せた。


「死体すら、ほとんど残っていなかった」

「…………」

「それほどまでに、すべてが焼かれた」


 部屋が静まり返る。

 ルーナが考えるように口を開いた。


「普通の火災では、そこまで完全には焼けません。強い魔力が使われたと考える方が自然ですね」


 老エルフは力なく笑った。


「そうだ。あれは普通の炎ではなかった」


 そして、ゆっくりと顔を上げる。


「銀髪の悪魔がいた――そう伝えられた」

「銀髪……」


 リリィの肩が僅かに強張る。

 迅も目を逸らさなかった。


(ルシェラ……)


 名前が頭に浮かぶ。


 だが、老エルフの口から語られる「銀髪の悪魔」と、迅が旅の中で見てきたルシェラの姿は、あまりにもかけ離れていた。


「噂は瞬く間に広がったよ。『銀髪の悪魔が街を焼いた』とな」


 老エルフは続ける。


「そして次は北の街。その次は北東の街……五つあった街のうち、四つが短い間に滅んだ」

「……侵略って感じじゃねぇな」


 ガルドが低い声で呟く。


「まるで災害だ」

「ああ」


 老エルフはゆっくり頷いた。


「戦争ではなかった。領土を奪われたわけでもない。降伏を求められたわけでもない。ただ、街が消えていった」


 膝の上で組んでいた手に力が入る。

 皺の刻まれた指が、白くなるほど強く握られていた。


「どの街も同じだった。夜になると火が降り、森が赤く染まり、空が割れたような音が響く。そして朝になれば、残っているのは灰ばかりだった」


 ミュリエは俯き、静かに目を伏せている。

 やがて老エルフは胸元へ手を当てた。


「私の街は……五つ目だった」

「…………」


 その言葉で、誰もが息を潜めた。


「私の故郷は、大樹宮の近くにあった街だ。名をシャルディアという。歌と薬草、それに穏やかな水辺で知られた、静かな街だった」


 老エルフの声が少しだけ柔らかくなる。


「私はそこで、妹と二人で暮らしていた。当時の私はまだ若く、世界はこれからも変わらないと思っていた。大樹の加護がある限り、この森の平穏は永遠に続くのだと……そう信じていたよ」


 だが、その表情はすぐに沈んだ。


「その夜、空が赤く染まった」


 炉の炎が一瞬だけ大きく揺れる。


「外から悲鳴が聞こえた。皆が叫んでいたよ。『悪魔が来た』と」


 リリィは無意識に胸元へ手を当てていた。

 老エルフは遠くを見るような目で話を続ける。


「私は家を飛び出した。そして森の向こうを見た」


 一度、息を飲む。


「闇の中に、巨大な炎が見えた」

「…………」

「ただの火ではなかったよ。森を焼き、夜空まで染め上げるような光だった。あまりにも大きくて……当時の私には、世界そのものが壊れていくように見えた」


 リリィの喉が小さく鳴る。


「……それが、銀髪の悪魔だったの?」


 老エルフはすぐには答えなかった。

 震える息を吐き、記憶の中へさらに深く沈んでいく。


「街では皆が逃げていた。子供を抱く者、老人を背負う者、何が起きているのかも分からず泣きながら走る者……誰もが必死だった」


 街の門は閉じられ、結界も張られたという。


「けれど、そんなものは何の役にも立たなかった」


 老エルフの声が低くなる。


「炎は森を越えてきた」

「…………」

「街の外壁が焼け、見張り塔が崩れた。木造の家々へ火が移り、次々に燃え上がっていった。どこを見ても火と煙ばかりで、悲鳴が途切れることはなかった」


 ミュリエが口元を押さえる。

 リュクは母親の服を強く握り、祖母から目を離せずにいた。


「私は妹の手を握って、『逃げよう』と叫んだ」


 そこで、老エルフの声が僅かに掠れた。


「だが、妹は戻ろうとしたんだ」

「戻る……?」

「逃げ遅れた人たちがいた。妹は……『みんなを助けないと』と言った」


 老エルフは唇を強く噛んだ。


「私は引き留めた。今戻れば、二人とも死ぬと思ったから」


 握られていた手が、さらに震える。


「その時だった」


 迅たちは何も言わず、続きを待った。


「空から、何かが降りてきた」

「…………」

「私は見たんだ」


 老エルフの瞳が、ゆっくりと見開かれる。


「燃え上がる街の中に立つ、一つの影を」


 その言葉に、迅の背筋が僅かに強張った。

 老エルフはそこで口を閉じた。

 しばらくの沈黙のあと、その視線が再び迅の腰へ向かう。


 黒剣へ。


「……その剣」

「…………」


 先ほどまで昔の惨劇を語っていた表情とは明らかに違う。


 恐怖だけではない。

 何か、ずっと胸の奥へ押し込めてきた事実を確かめるような目だった。

 迅も黒剣へ一度視線を落とし、老エルフを見る。


 部屋には再び雨音と炉の火が弾ける音だけが残った。


 三百年前のシャルディアで、この老エルフは何を見たのか。

 そして、そこに迅の持つ黒剣がどう関わっていたのか。


 彼女の次の言葉が、それを明らかにしようとしていた。

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