『三百年前の焼け跡』
炉の火が、ぱちりと小さく音を立てた。
外では雨が降り続き、屋根を叩く音が静かに響いている。エルフの家の中は暖かかったが、その温もりがかえって、これから語られる記憶の冷たさを際立たせているようだった。
老エルフは、目の前に置かれた湯気の立つ茶にも手を伸ばさず、しばらく動かなかった。
その視線は炉の炎ではなく、遥か昔の何かを見つめている。
「……無理に話さなくていいよ」
ミュリエが気遣うように声を掛ける。
だが、老エルフは静かに首を横へ振った。
「……いい。もう隠す必要もない」
掠れた声だったが、そこには確かな意志があった。
老エルフはゆっくりと顔を上げ、迅を見る。
「その剣を持つ者が、こうして私の前へ現れた。ならば……また何かが動き始めたということなのだろう」
「…………」
迅は何も答えず、腰の黒剣へ指を添えた。
リリィも、ガルドも、ルーナも、ヴァロスも口を挟まない。フォルだけが炉のそばで身体を丸めながら、老エルフの声を聞くように耳を立てていた。
しばらくして、老エルフが小さく息を吐く。
「三百年前――」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が僅かに変わったように感じられた。
炉の炎が揺れ、壁へ映った影がゆっくりと形を変えていく。
「当時のエルフ領には、五つの街と、大樹宮を中心とした大都市があった。今よりも多くの者が暮らし、森も豊かで……大樹宮の加護を疑う者など、ほとんどいなかったよ」
ミュリエが唇を強く結ぶ。
リュクも母親の腕に抱かれたまま、不安そうに祖母を見つめていた。
「だが、ある夜を境に……すべてが崩れ始めた」
ちょうどその時、炉の火がぱちりと弾けた。
老エルフの瞳に、遠い記憶の影が浮かぶ。
「最初に滅びたのは、南にあった小さな交易都市だった。森の端にあり、人間の商人も時折訪れるような街だったよ」
「滅びたって……」
リリィが小さく息を呑む。
老エルフは頷いた。
「一晩だった」
「……一晩で?」
「ああ。朝になって偵察隊が入った時、そこに残っていたのは焼け跡だけだったそうだ」
語る声が僅かに震える。
「木も、石も、土も焼け、街中が黒い灰に覆われていた。溶けた鉄の匂いが残り、街の中心では朝になってもまだ火が燻っていたという」
そこで一度、老エルフは目を伏せた。
「死体すら、ほとんど残っていなかった」
「…………」
「それほどまでに、すべてが焼かれた」
部屋が静まり返る。
ルーナが考えるように口を開いた。
「普通の火災では、そこまで完全には焼けません。強い魔力が使われたと考える方が自然ですね」
老エルフは力なく笑った。
「そうだ。あれは普通の炎ではなかった」
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「銀髪の悪魔がいた――そう伝えられた」
「銀髪……」
リリィの肩が僅かに強張る。
迅も目を逸らさなかった。
(ルシェラ……)
名前が頭に浮かぶ。
だが、老エルフの口から語られる「銀髪の悪魔」と、迅が旅の中で見てきたルシェラの姿は、あまりにもかけ離れていた。
「噂は瞬く間に広がったよ。『銀髪の悪魔が街を焼いた』とな」
老エルフは続ける。
「そして次は北の街。その次は北東の街……五つあった街のうち、四つが短い間に滅んだ」
「……侵略って感じじゃねぇな」
ガルドが低い声で呟く。
「まるで災害だ」
「ああ」
老エルフはゆっくり頷いた。
「戦争ではなかった。領土を奪われたわけでもない。降伏を求められたわけでもない。ただ、街が消えていった」
膝の上で組んでいた手に力が入る。
皺の刻まれた指が、白くなるほど強く握られていた。
「どの街も同じだった。夜になると火が降り、森が赤く染まり、空が割れたような音が響く。そして朝になれば、残っているのは灰ばかりだった」
ミュリエは俯き、静かに目を伏せている。
やがて老エルフは胸元へ手を当てた。
「私の街は……五つ目だった」
「…………」
その言葉で、誰もが息を潜めた。
「私の故郷は、大樹宮の近くにあった街だ。名をシャルディアという。歌と薬草、それに穏やかな水辺で知られた、静かな街だった」
老エルフの声が少しだけ柔らかくなる。
「私はそこで、妹と二人で暮らしていた。当時の私はまだ若く、世界はこれからも変わらないと思っていた。大樹の加護がある限り、この森の平穏は永遠に続くのだと……そう信じていたよ」
だが、その表情はすぐに沈んだ。
「その夜、空が赤く染まった」
炉の炎が一瞬だけ大きく揺れる。
「外から悲鳴が聞こえた。皆が叫んでいたよ。『悪魔が来た』と」
リリィは無意識に胸元へ手を当てていた。
老エルフは遠くを見るような目で話を続ける。
「私は家を飛び出した。そして森の向こうを見た」
一度、息を飲む。
「闇の中に、巨大な炎が見えた」
「…………」
「ただの火ではなかったよ。森を焼き、夜空まで染め上げるような光だった。あまりにも大きくて……当時の私には、世界そのものが壊れていくように見えた」
リリィの喉が小さく鳴る。
「……それが、銀髪の悪魔だったの?」
老エルフはすぐには答えなかった。
震える息を吐き、記憶の中へさらに深く沈んでいく。
「街では皆が逃げていた。子供を抱く者、老人を背負う者、何が起きているのかも分からず泣きながら走る者……誰もが必死だった」
街の門は閉じられ、結界も張られたという。
「けれど、そんなものは何の役にも立たなかった」
老エルフの声が低くなる。
「炎は森を越えてきた」
「…………」
「街の外壁が焼け、見張り塔が崩れた。木造の家々へ火が移り、次々に燃え上がっていった。どこを見ても火と煙ばかりで、悲鳴が途切れることはなかった」
ミュリエが口元を押さえる。
リュクは母親の服を強く握り、祖母から目を離せずにいた。
「私は妹の手を握って、『逃げよう』と叫んだ」
そこで、老エルフの声が僅かに掠れた。
「だが、妹は戻ろうとしたんだ」
「戻る……?」
「逃げ遅れた人たちがいた。妹は……『みんなを助けないと』と言った」
老エルフは唇を強く噛んだ。
「私は引き留めた。今戻れば、二人とも死ぬと思ったから」
握られていた手が、さらに震える。
「その時だった」
迅たちは何も言わず、続きを待った。
「空から、何かが降りてきた」
「…………」
「私は見たんだ」
老エルフの瞳が、ゆっくりと見開かれる。
「燃え上がる街の中に立つ、一つの影を」
その言葉に、迅の背筋が僅かに強張った。
老エルフはそこで口を閉じた。
しばらくの沈黙のあと、その視線が再び迅の腰へ向かう。
黒剣へ。
「……その剣」
「…………」
先ほどまで昔の惨劇を語っていた表情とは明らかに違う。
恐怖だけではない。
何か、ずっと胸の奥へ押し込めてきた事実を確かめるような目だった。
迅も黒剣へ一度視線を落とし、老エルフを見る。
部屋には再び雨音と炉の火が弾ける音だけが残った。
三百年前のシャルディアで、この老エルフは何を見たのか。
そして、そこに迅の持つ黒剣がどう関わっていたのか。
彼女の次の言葉が、それを明らかにしようとしていた。




