『エルフの親子』
エルフ兵たちを退けてから、迅たちは一度も休まず森を進んでいた。
目的地は大樹宮。
捕らえられたルシェラが、裁定を受けるために連れていかれた場所だ。
「このまま北ね」
歩きながら地図を確認していたルーナが顔を上げる。
「大樹宮へ続く道そのものは合ってる。でも、少し先から森がさらに深くなるわ」
「抜けられる?」
「道を選べば。ただし――」
そこでルーナは言葉を切り、二対の羽を僅かに震わせた。
周囲を流れていた風が彼女のもとへ集まり、緑の髪を揺らしていく。
「右前方に大型の獣が一体。こっちには近づいてない」
「分かるの?」
リリィが尋ねる。
「風が教えてくれるの。枝の揺れ方や匂い、それに音も拾えるから」
ルーナは周囲を確認しながら再び歩き始めた。
「左は今のところ問題なし。前方にも人の気配はないわ」
「頼む」
迅が頷く。
「ええ。フォルが匂いを追って、私が周囲を見る。その方が早いでしょう」
名前を聞いたフォルが一度だけ振り返り、「ワウ」と鳴いた。
「なんかコンビみたいになってる」
リリィが呟く。
「優秀な相棒ね」
「私より評価高くない?」
「比較はしてない」
「絶対してる!」
「喋る余裕があるなら歩け」
ガルドの声に、リリィが不満そうに口を尖らせる。
そんなやり取りを聞きながらも、迅の足は止まらなかった。
表情こそ落ち着いているものの、その歩調は明らかに速い。
リリィは何も言わず、その背中を追った。
◇ ◇ ◇
森を進んでしばらく経った頃、ルーナが再び足を止めた。
「……待って」
今度は先ほどよりも表情が険しい。
迅もすぐに立ち止まる。
「人?」
「違う」
ルーナは目を閉じ、周囲を流れる風へ意識を向けた。
「獣……それと、人が二人」
次の瞬間。
「きゃああっ!」
甲高い悲鳴が森へ響いた。
子供の声だった。
続いて、低い咆哮が聞こえる。
「近い!」
ガルドが斧を掴む。
「こっち!」
ルーナが迷わず右手を指した。
全員が一斉に走り出し、フォルが真っ先に先へ飛び出していく。
濡れた枝葉を掻き分け、斜面を下った先にいたのは、一人のエルフの女性と小さな男の子だった。
女性は子供を背後へ庇い、震える手で弓を構えている。
その正面には、黒い毛皮を持つ魔狼が低く身体を沈めていた。
赤い目。
剥き出しになった牙。
「下がって!」
迅が叫ぶ。
「えっ!」
女性が振り返った、その瞬間だった。
魔狼が地面を蹴る。
「グルァッ!」
「――っ!」
迅が二人の間へ滑り込み、黒剣を横薙ぎに振るった。
刃が魔狼の前脚を浅く斬り、飛びかかってきた軌道を逸らす。地面へ転がった魔狼はすぐに起き上がり、再び牙を剥いた。
「グルルル……!」
だが、その時。
「ウォオオッ!」
フォルが迅の横へ並び、全身の白い毛を逆立てた。
自分より大きな白い獣の威嚇に、魔狼の動きが一瞬止まる。
迅は黒剣を構えたまま、その赤い目を見据えた。
「来るなら止める」
「…………」
魔狼は迅とフォルを交互に見る。
やがて低い唸り声を残し、傷ついた前脚を庇いながら森の奥へ消えていった。
迅はしばらくその方向を見つめ、気配が完全に遠ざかったことを確認してから黒剣を収めた。
「怪我は?」
「…………」
エルフの女性は、すぐには答えられなかった。
子供を強く抱き寄せたまま、迅たちを見つめている。
「……ありません」
ようやく声を絞り出し、深く息を吐いた。
「ありがとうございます」
迅が子供へ目を向けると、幼い少年はまだ身体を震わせていた。
リリィがそばへしゃがみ、目線を合わせる。
「もう大丈夫だよ」
「……ほんと?」
「うん。あの怖いの、もう行ったから」
少年は不安そうに森を見たあと、小さく頷いた
母親もようやく緊張を解き、迅たちへ深く頭を下げる。
「私はミュリエ。この子は息子のリュクです」
「迅」
迅も短く名乗った。
「こっちは仲間」
「仲間……」
ミュリエは迅の後ろにいる者たちへ目を向ける。
人間。
獣人。
精霊族。
そして、白い獣。
エルフ領では明らかに珍しい一行だった。
「皆さんは、なぜこんな森へ?」
「大樹宮へ向かってる」
迅が答えると、ミュリエの表情が僅かに強張った。
「……大樹宮へ?」
「ああ」
「この先は、巡回している兵も多くなります」
「分かってる。それでも行かないといけない」
「…………」
ミュリエは迅の顔をじっと見た。
何かを尋ねようとしたようだったが、やがて口を閉じる。
「……ここで立ち話をするのも危険ですね」
彼女は森の奥を気にするように振り返った。
「私の家が近くにあります。せめて少し、雨を避けていきませんか?」
「でも俺たちは急いで――」
「大樹宮へ向かうなら、道のことも話せます」
「…………」
迅はルーナへ目を向けた。
「少しなら問題ないわ」
ルーナは周囲へ風を流しながら答える。
「今のところ近くに別の気配もない。それに、この先の道を知っている人から話を聞いた方が、結果的には早いかもしれない」
迅は少しだけ考え、頷いた。
「分かった」
◇ ◇ ◇
森を十分ほど進んだ場所に、ミュリエたちの家はあった。
大木のそばに建つ小さな木造の家で、庭には薬草らしい植物がいくつも並んでいる。屋根の下には、落ちてくる雨水を受けるための桶も置かれていた。
「森で薬草を採っていたんです」
扉を開けながら、ミュリエが言う。
「この辺りまで魔狼が下りてくることは滅多にないのですが……」
「森で何か変わった?」
ルーナが尋ねる。
「最近、兵の往来が増えました。それで魔物の縄張りが少し乱れているのかもしれません」
ただし確かなことではないらしく、ミュリエは小さく首を振った。
「どうぞ」
案内されて家へ入ると、炉には火が入っており、外の冷たい雨とはまるで違う暖かな空気が迅たちを包んだ。
その奥に、一人の老いたエルフが座っている。
白い髪。
年齢を重ねた細い身体。
だが、その目だけは年齢を感じさせないほど鋭かった。
「ミュリエ」
「お祖母様」
「遅かったね」
「ごめんなさい。森で魔狼に襲われて……この方たちが助けてくれたの」
老エルフの視線が、ゆっくりと迅たちへ向けられる。
リュクも祖母のそばへ駆け寄った。
「おばあちゃん。このお兄ちゃん、すごかったよ」
「そうかい」
老エルフは一度迅を見ると、静かに頭を下げた。
「それなら、きちんと礼を言わないとね。孫たちを助けてくれてありがとう」
「たまたま近くにいただけです」
迅が答える。
ミュリエは濡れた外套を掛ける場所を示し、温かな茶を用意し始めた。
だが、迅は椅子へ深く腰掛けようとはしなかった。
「すみません。聞きたいことがあります」
ミュリエが振り返る。
「大樹宮への道ですね?」
「それもある。でも、その前に聞きたいことがある」
迅は迷わず続けた。
「銀白色の髪をした悪魔族の少女が、大樹宮へ連れていかれた」
「…………」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
ミュリエの手が止まる。
「……悪魔族?」
老エルフも顔を上げた。
「俺は、その子を追ってる」
「なぜ……」
「助けるためです」
迅が答えると、老エルフの目が僅かに細くなった。
しばらく何も言わずに迅の顔を見つめていたが、やがてその視線が腰へ移る。
そこにある黒剣へ。
「…………」
老エルフの表情が、はっきりと変わった。
「その剣……」
迅も腰の黒剣へ目を落とす。
「知ってるんですか?」
だが、老エルフはすぐには答えなかった。
何かを確かめるように、黒剣をじっと見つめている。
「まさか……」
掠れた声が漏れた。
「三百年前の……」
「お祖母様?」
ミュリエが不安そうに祖母を見る。
それから少し迷い、迅たちへ説明した。
「お祖母様は、三百年前の戦いを経験しているんです」
「……三百年前?」
リリィが息を呑む。
迅も老エルフへ視線を戻した。
三百年前。
セリウス。
ルシェラ。
その言葉だけで、いくつものものが頭に浮かぶ。
老エルフは膝の上で指を組み、長い沈黙のあと、ゆっくりと口を開いた。
「その黒い剣を、私は知っている」
「…………」
迅の表情が変わる。
老エルフはさらに続けた。
「それだけじゃない」
その目には、遠い過去を見つめるような色が宿っていた。
「銀白色の髪をした、悪魔族の娘も知っている」
「……ルシェラを?」
「ああ」
老エルフの声には、単純な憎しみだけでは説明できない感情が混じっていた。
痛み。
恐怖。
そして、三百年という時間を経ても消えなかった何か。
やがて老エルフは炉の火へ視線を落とした。
「三百年前……私たちの街は焼けた」
「…………」
迅は何も言わなかった。
誰が焼いたのか。
なぜ、そんなことが起きたのか。
今の時点では、まだ何も分からない。
だからこそ、勝手に答えを決めつけることはせず、老エルフの次の言葉を待った。
静かな家の中に、屋根を叩く雨音だけが響いている。
三百年前。
ルシェラに何があったのか。
その過去を知る手掛かりが、今まさに目の前にあった。




