『調停者の戦い方』
霧雨に包まれた森は、まるで侵入者を拒むように静まり返っていた。
高く伸びた木々から重そうな枝葉が垂れ下がり、淡い霧が遠くの景色をぼかしている。湿った土の匂いが鼻をつき、一歩踏み出すたびにぬかるんだ地面が靴底へまとわりついた。
迅たちは、ルシェラを連行したと思われる者たちの足跡を追っていた。
先頭を進むフォルは、雨で薄れた匂いを丁寧に拾いながら迷いなく森の奥へ進んでいく。迅たちも周囲を警戒しながら、その白い背中を追っていた。
だが、しばらく進んだところで空気が変わった。
「…………」
最初に反応したのはフォルだった。
ぴたりと足を止め、耳を立てる。
ほぼ同時に、ルーナも歩みを止めた。
「……囲まれてる」
「え……?」
リリィが息を呑み、杖を握り直す。
ガルドもすぐに斧の柄へ手を掛けた。
「来るぞ」
ヴァロスはすでに剣へ手を置き、霧の向こうへ鋭い視線を向けている。
それまで何も聞こえなかった森の中に、複数の気配が増えていた。
鳥の声はない。
虫の音すら聞こえない。
代わりに、木々の陰から向けられる殺気だけがはっきりと伝わってくる。
迅は黒剣の柄へ手を添えた。
「……出てこい」
低い声が、霧の中へ消えていく。
返事はなかった。
代わりに飛んできたのは、一筋の矢だった。
「迅!」
リリィが声を上げるより早く、迅は黒剣を抜いた。
鋭い金属音と共に、矢が剣の側面で弾かれる。そのまま軌道を変え、近くの木の幹へ深く突き刺さった。
それを合図にしたように、左右の木々の陰から次々とエルフたちが姿を現す。
弓を構えた者。
槍を手にした者。
魔術士らしき者。
軽装の斥候も含めれば、その数は二十を超えていた。
全員が武器を構え、明確な敵意を向けている。
「人間がエルフ領へ侵入した!」
先頭に立つ隊長らしき男が叫んだ。
「ここから先は大樹宮の領域だ! 今すぐ立ち去れ!」
「待って!」
リリィが一歩前へ出る。
「私たちは争いに来たんじゃ――」
言葉が終わる前に、目の前のエルフが槍を突き出した。
「っ!」
威嚇ではない。
確実に相手を傷つけるための一撃だった。
迅が間へ入り、黒剣で槍を弾く。
「話くらい聞いてくれ」
「侵入者の言葉など聞く必要はない!」
「俺たちは人を探してるだけだ」
迅は黒剣を構えながらも、自分から距離を詰めようとはしなかった。
「銀白色の髪をした女の子を見なかったか」
その言葉を聞いた瞬間、隊長の表情が変わった。
「……銀白色?」
後ろにいた兵士たちもざわめき始める。
「まさか……」
「悪魔族のことか?」
「こいつら、あの悪魔の仲間なのか……?」
空気が一段と張り詰めた。
迅はその反応を見逃さなかった。
「知ってるんだな」
「悪魔族を追っているだと……?」
隊長が険しい顔で剣を抜く。
「ならば貴様らも同類だ!」
「違う。俺たちは――」
「討て!」
迅の言葉を遮り、命令が飛んだ。
次の瞬間、弓兵たちが一斉に矢を放つ。
無数の矢が霧の中を切り裂き、迅たちへ降り注いだ。
「来る!」
リリィが杖を構え、ルーナもすぐに魔法を使おうとする。
ガルドとヴァロスも前へ出ようとした。
だが、その一瞬前に迅が踏み込んだ。
「迅!?」
黒剣を振るう。
一度。
二度。
三度。
迫ってきた矢を斬り、弾き、僅かに軌道を逸らしていく。
すべてを真正面から受け止めるのではない。
力の向きをずらし、必要最小限の動きで自分たちへ届かない軌道へ変えていく。
かつてヴァロスから叩き込まれた、力をまともに受けない剣。
それを迅は、以前とは比べものにならない速度で繰り返していた。
最後の一本が木の幹へ突き刺さる。
「……嘘」
リリィが目を見開いた。
エルフ兵たちも、すぐには次の矢を放てなかった。
その僅かな隙を、迅は逃さない。
地面を蹴る。
「なっ――」
一気に距離を詰め、最も近くにいた弓兵の懐へ入った。
黒剣の刃は使わない。
柄で顎を打ち抜く。
「ぐっ……!」
弓兵がその場へ崩れ落ちた。
すぐ横から槍が突き出される。
迅は身体を半歩ずらしてかわし、柄を掴んだ。そのまま力の方向を変えて地面へ押し込み、槍を深く突き刺す。
「なっ……!」
武器を奪われた兵士の膝裏を軽く蹴り、その場へ倒す。
さらに別の兵が剣を振り下ろしてきた。
迅は黒剣で受け流し、その勢いのまま相手の手首を打った。
「ぐあっ!」
剣が泥の上へ落ちる。
迅は追撃しなかった。
「下がれ」
「……っ」
エルフ兵が息を呑み、後退する。
迅は相手を倒すために動いているのではない。
攻撃してくる者だけを無力化し、戦いそのものを終わらせようとしていた。
「速い……」
リリィが思わず呟いた。
迅が強くなったことは知っている。
けれど、今目の前にいる迅は、自分が一緒に旅をしていた頃とは明らかに違っていた。
ただ力が増しただけではない。
相手の動きを見て、必要な場所へ入り、必要なだけの力で止める。
その判断までが、恐ろしく速い。
「…………」
ガルドも斧を構えたまま、迅の動きを目で追っている。
「俺たちが入る隙がねぇな」
ヴァロスは剣を抜いていたが、前には出なかった。
「無理に入る必要はない」
静かに迅を見つめる。
「あいつは自分で何をするべきか分かっている」
◇ ◇ ◇
「退くな! 囲め!」
隊長が声を張り上げた。
だが、兵士たちの動きは明らかに鈍っていた。
すでに何人もの仲間が倒れている。
それでも、誰一人として命を奪われてはいない。
迅が本気で殺しに来ているわけではないことは分かる。
だからこそ、兵士たちには余計に理解できなかった。
「何をしている! 相手は一人だぞ!」
隊長が苛立ったように叫び、自ら剣を構えて走り出す。
「人間ごときが!」
「…………」
迅は逃げなかった。
振り下ろされた剣を、黒剣で受ける。
ガギィン――!
重い金属音が森へ響いた。
「ぐっ……!」
隊長の腕が大きく震え、身体が僅かに沈む。
迅はそのまま力比べをすることなく、剣を滑らせて相手の刃を外へ流した。
体勢を崩した隊長の手から剣を弾き飛ばす。
武器が泥の上へ落ちた。
次の瞬間には、黒剣の切っ先が隊長の喉元で止まっていた。
「終わりだ」
「……っ」
隊長の顔から血の気が引く。
霧雨の中、荒い呼吸だけが聞こえた。
迅は剣先を動かさないまま尋ねる。
「銀白色の悪魔族が連れて行かれた先を教えてくれ」
「……言うと思うか……!」
隊長は怯えながらも、歯を食いしばった。
「…………」
迅は数秒だけ相手を見たあと、黒剣を下ろした。
「……分かった」
「え?」
隊長だけでなく、リリィまで声を上げる。
「ちょっと迅!?」
迅は答えず、隊長の後ろへ視線を向けた。
そこには、先ほど迅に倒された若い斥候がいた。
負傷は軽い。
だが、目の前で起きた戦いにすっかり怯え、座り込んだままこちらを見ている。
「お前は知ってるか?」
「……っ」
「知ってるなら教えてくれ」
迅は黒剣を下げたまま続けた。
「俺たちは、その子を助けたいだけだ」
「黙れ!」
隊長が叫んだ。
「余計なことを言うな!」
迅が隊長を見る。
「…………」
それだけで、男の声が止まった。
迅は殺気を向けてはいない。
だが、これ以上邪魔をすれば再び制圧される。
その事実は十分に伝わっていた。
若い斥候の喉が小さく鳴る。
「……大樹宮だ」
「おい!」
「銀白色の悪魔族は……大樹宮へ連れて行かれた」
斥候は隊長の声を振り切るように続けた。
「裁定の間だ。そこで……裁きを受ける」
「裁き……?」
リリィの表情が強張る。
ルーナも険しい顔になった。
「この状況での『裁定』なら、拘束だけで済むとは考えにくいですね」
「処刑される可能性があるってことか?」
ガルドが低く尋ねる。
「否定はできません」
「くそ……!」
ガルドが拳を握る。
ヴァロスも森の奥へ視線を向けた。
「急いだ方がいいな」
「…………」
迅は何も答えなかった。
ただ、黒剣を強く握る。
ルシェラは大樹宮にいる。
どんな状態なのかは分からない。
傷ついているのかもしれない。
すでに何もかも諦めてしまっているのかもしれない。
それでも。
今度こそ、追いつく。
「行こう」
迅は黒剣を鞘へ戻した。
そのまま歩き出そうとすると、背後から隊長の声が飛んできた。
「待て……!」
迅が足を止める。
「……なぜ殺さない」
隊長は泥の上へ膝をついたまま、理解できないという顔で迅を見ていた。
「俺たちはお前たちを殺そうとした。なのに、なぜ……」
「…………」
迅は少しだけ振り返った。
「俺は、お前たちを殺すためにここへ来たんじゃない」
「何……?」
「ルシェラを助けに来ただけだ」
それだけ答えると、迅は今度こそ背を向けた。
敵を倒すことが目的ではない。
ましてや、エルフ族への復讐などするつもりもない。
助けたい人がいる。
だから、その人のところへ向かう。
迅にとっては、それだけのことだった。
◇ ◇ ◇
再び歩き始めた迅の背中を、リリィは黙って見つめていた。
以前から迅が強くなっていることは分かっていた。
けれど、今目の前で見たものは、それだけではなかった。
あれほど圧倒的な差がありながら、一人も殺さなかった。
自分たちへ矢を放ち、剣を向けてきた相手にさえ、必要以上の傷を負わせようとしなかった。
「……変わらないね、迅」
小さく漏れた声に、ルーナが隣から尋ねる。
「悪い意味で?」
「ううん」
リリィは首を横に振った。
「すごく遠くまで行っちゃった感じはするけど……迅は迅のままだなって」
「そうですね」
ルーナも迅の背中を見る。
「強くなっても、守るために力を使うところは変わっていません」
ヴァロスが二人の横を通り過ぎる。
「感心するのは後にしろ」
「」
「あいつに追いつきたいなら、立ち止まってる暇はないぞ」
リリィは一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。
「はい!」
ガルドも斧を背負い直す。
「まったくだ。今度は迅じゃなく、あいつの仲間にも追いつかなきゃならねぇ」
先頭ではフォルがすでに大樹宮の方角へ鼻先を向けていた。
「ワウ!」
「フォル、頼む」
迅が声を掛けると、フォルは森の奥へ走り出す。
迅たちも一斉にその後を追った。
ルシェラが大樹宮へ連行されたことは分かった。
そして「裁定」という言葉が、穏やかな意味ではないことも。
もう迷っている時間はない。
「待ってろ、ルシェラ」
迅は前を見据えたまま、小さく呟いた。
雨と霧に覆われた森を抜け、そのさらに先にある大樹宮へ。
六人は速度を上げて駆けていった。




