『追う者たち』
「……静かすぎるね」
リリィが杖を握ったまま、周囲へ視線を巡らせる。
「鳥もほとんどいない」
ルーナも風の流れを確かめるように顔を上げた。
「自然の魔力が濃いわ。人間の領域にある森とは、少し性質そのものが違うみたい」
「獣の気配も薄いな」
ガルドが鼻を鳴らしながら周囲を警戒する。
「何がいるか分からん。警戒した方がいい」
「分かった」
迅は短く答え、再びフォルの背中へ視線を戻した。
周囲への警戒は怠っていない。それでも、頭の中にあるのはルシェラのことばかりだった。
彼女も、この森を一人で進んだ。
何を考えながら歩いていたのか。なぜ自分たちのもとを離れたのか。その答えはまだ何一つ分からない。
だからこそ今は、少しでも早く追いつくことだけを考えていた。
◇ ◇ ◇
しばらく森を進んだところで、フォルが突然足を止めた。
「フォル?」
「クゥ……」
白い狼は低く鳴きながら、鼻先を一本の枝へ近づけている。
迅もすぐにそちらへ向かい、フォルが見つめているものへ目を向けた。
「……これは」
枝の棘に、小さな黒い布切れが引っかかっていた。
迅はそれを慎重に摘まみ上げる。雨を吸ってすっかり濡れていたが、見覚えがあった。
「ルシェラの服だ」
「分かるの?」
リリィが尋ねる。
「ああ」
迅は布切れを見つめながら頷いた。
ずっと隣を歩いてきたのだ。もう、身につけていた服の一部を見間違えるほど遠い存在ではなかった。
フォルも布へ鼻を近づけ、匂いを確かめる。
「ワウ」
そしてすぐに、森の奥へ顔を向けた。
「間違いなさそうね」
ルーナが周囲を確認する。
その時、ガルドが何かに気づいたように足元へ目を落とした。
「迅、これを見ろ」
「何?」
泥の上には、いくつもの足跡が残っていた。
一人や二人ではない。同じような形の靴底が同じ方向から現れ、この場所を通って森の奥へ続いている。
「複数人ね」
ルーナがしゃがみ込み、足跡を確認した。
「旅人が偶然ここへ集まったようには見えないわ」
「動きが揃いすぎてる」
ガルドも頷く。
「訓練された兵士かもしれん」
「エルフ族の?」
リリィの表情が曇った。
「……まだ分からない」
迅はそう答えた。
今の段階で決めつけるつもりはない。だが、胸の奥に生まれた嫌な予感だけは消えてくれなかった。
「フォル」
「ワウ!」
迅が呼ぶと、フォルは再び森の奥へ向かって走り出した。
五人もすぐに歩調を速め、その白い背中を追った。
◇ ◇ ◇
さらに森の奥へ進むうち、雨が少しずつ強くなってきた。
濡れた枝葉が頬や腕を掠め、足元の泥は何度も靴へ絡みつく。それでも、誰一人として足を止めようとはしなかった。
やがて、フォルが再び立ち止まる。
「グルル……」
今度は、先ほどとは明らかに様子が違っていた。
全身の白い毛を逆立て、森の一点を睨んでいる。
「何かあったのか?」
迅が駆け寄り、その先を見た瞬間、表情を変えた。
地面の草が大きく倒れ、何本もの枝が折れている。木の幹にも細かな傷が残り、足元の泥も激しく踏み荒らされていた。
誰かがここで争ったことは明らかだった。
「……戦ったの?」
リリィが小さく呟く。
迅は周囲へ視線を巡らせた。
木の幹に残る傷。
乱れた足跡。
さらに少し離れた場所には、折れた矢の一部まで落ちている。
「ここで何かあったな」
ヴァロスが静かに言った。
「人数は?」
ガルドが足跡を追いながら確認する。
「多い。さっき見つけた足跡と同じ連中だと思う」
「…………」
迅は何も言わず、さらに森の奥へ視線を向けた。
その時だった。
「迅!」
リリィの声が上がる。
彼女が指差した先には、雨で薄まりながらも泥の上に赤い跡が残っていた。
「……血」
迅はすぐにその場へ膝をついた。
直接触れることはせず、じっとその跡を見る。
雨に流されているとはいえ、まだ完全には消えていない。それほど古いものではないのだろう。
「ルシェラの……?」
リリィが恐る恐る尋ねる。
「分からない」
迅はすぐに答えた。
この場所には複数の者がいた。見ただけで誰の血なのか判断できるはずがない。
それでも、胸の奥が強く締めつけられる。
「フォル」
白い狼が血の跡へ鼻を近づけた。
匂いを嗅いだ直後、フォルは低く唸る。
「グルルル……」
その反応が正確に何を意味しているのか、迅には分からない。
だが、フォルもこの場所で何か良くないことが起きたと感じ取っている。それだけは確かだった。
「痕跡は、まだ先まで続いてる」
ルーナが前方を指差した。
泥の上には複数の足跡が残り、そのまま森の奥へ続いている。
しかし、よく見ると、その中に別の痕跡が混じっていた。
何かが地面を擦ったような、細長い跡だ。
「……これ、何?」
リリィの声が小さくなる。
ヴァロスがしゃがみ込み、その痕跡をじっと確認した。
「何かを引きずった可能性があるな」
周囲の足跡へ視線を移す。
「あるいは、誰かを拘束したまま連れていったか」
「…………」
迅の拳が強く握られる。
その変化に気づいたヴァロスが、すぐに声を掛けた。
「まだ断定するな」
「……はい」
「焦れば、見えるものまで見えなくなる」
迅は一度目を閉じた。
聖王国での自分が蘇る。
傷ついたルシェラを見て怒りに飲まれ、セイルを殺すことしか考えられなくなった自分。
あの時と同じことを繰り返してはいけない。
大きく息を吸い、ゆっくり吐く。
怒りも不安も消えたわけではない。それでも、今やるべきことだけは分かっていた。
「……大丈夫です」
迅は目を開き、立ち上がった。
「痕跡を追います。もしルシェラがこの先にいるなら、まず追いつく」
「もし誰かに捕まってるなら?」
ガルドが尋ねる。
迅は迷わなかった。
「助ける」
「それだけか?」
「ああ」
腰の黒剣へ手を置く。
自分は何のためにこの剣を振るうのか。
もう一度、胸の中で確かめる。
「相手を倒すことが目的じゃない」
迅は森の奥を見据えた。
「ルシェラを助けて、連れ戻す。それだけだ」
「うん」
リリィが強く頷いた。
ルーナも風の流れと森の様子を確かめる。
「足跡はまだ消えていません。雨がもっと強くなる前に進みましょう」
「行くぞ」
ガルドが斧を握り直す。
ヴァロスもすでに森の奥へ目を向けていた。
「ワウ!」
フォルが再び駆け出す。
迅たちも、その白い背中を追った。
残された複数の足跡と、争った跡。雨に薄れかけた血痕。そして、何かを引きずるように森の奥へ続いている不自然な痕跡。
何が起きたのかは、まだ分からない。
ルシェラが無事なのかどうかさえ分からない。
だからこそ、自分たちの目で確かめるまでは止まれなかった。
雨と霧に覆われた森のさらに奥。
エルフ王国へ続く道を目指し、迅たちは追跡の速度を上げていった。




