君の傍に
「……ぁ…ぐっ……」
「末恐ろしい娘だ」
先ほどの魔法……
あれは世間で言う天災級の魔法だ。
どれだけ不利な状況だったとしても盤面をひっくり返す一発逆転の手段。
歴史でも大規模国家の国家に小国が大勝利を掴んだという事例がいくつもある。
それも維持制御型と瞬間火力型の中間。
蔓延する呪いや疫病が継続する前者と隕石のような災害の後者。
その二つをシエル=アルギエバは無自覚に組み合わせて必殺を編み出した。
経緯は知らないし、知ろうとも思わない。
ただ、分かること。
それは、この娘は10という若すぎる年齢で恐ろしい才能を秘めている。
視線を別に向ける。
そこには氷像と化した部下と氷像になり、崩れ落ちたことで赤黒い氷をまき散らしている部下がいる。
吹雪に吞み込まれた瞬間、即死。
かくいう私も結界が間に合わなかったら同じ運命だったろう。
しかし、その結界も完全ではない。
左腕は凍てついて機能していない。
頬もひびが入っていて今にも割れてしまいそうになる。
「だが、ここまでだ」
目の前の小娘は息も絶え絶え。
目の焦点はあっておらず光もない。
全身が霜で覆われており、指先は黒く感覚がないようだ。
術の維持を阻止するために槍を投擲し、肩が抉れ傷口は自身の血で固められたことでギリギリくっついているといったところ。
もはや、なぜその体で生きているのかが疑問で仕方ない。
辛うじてまだ生きているが、時間の問題だろう。
(任務は失敗か……)
任務はシエル=アルギエバの抹殺ではない。
あくまでも捜索し、捕縛の後帝国で処刑を公開するというもの。
このような状態で連れ帰っても途中で息絶える。
命令を出したガルド大臣は激怒することだろう。
だが、致し方ない。
自滅を選んだこの娘の方が一枚上手だった。
そもそも、下手をすれば我々捜索隊の全滅もあり得た。
「賞賛しよう」
槍を握る手に力を籠める。
侮蔑などない。
もし、この娘を侮辱するようなら私が殺す。
「せめてもの情けだ」
そして、槍を振り下ろす。
ーーーーー
走る。
風を纏い、強化した体で走る。
木々の間を縫うように駆け抜ける。
枝が顔に当たり、傷がつく。
服が裂け、皮膚から血が滴り落ちる。
だけど、そんなことはどうでもいい。
いや、正確には気にする余裕がない。
どこだ。
どこにシエルはいるんだ!
「くっそ!」
奥歯を噛みしめる。
遅い。
もっと早く。
もっともっと早く。
無意識にブーストのレベルを引き上げる。
骨が軋み、肺が悲鳴を上げる。
あの時、無理やりにでも買い出しに着いて行けばよかったと後悔する。
あの胸騒ぎは気のせいでなかった!
シエルが危ないと、本能が叫び続けている。
『俺も行く』
無自覚に言った言葉。
父さんにからかい、母さんは微笑み、シエルが困ったような笑みを浮かべた過保護な発言。
『大丈夫だよ』
そうシエルは言った。
「何も大丈夫じゃないじゃねぇか……!」
拳を握る。
自分に腹が立ってしょうがない。
どうして引き下がった。
どうして無理やりにでも着いて行かなかった。
どうして大丈夫だと思った。
どうして傍に居てやらなかった。
どうして。
その単語が無限に頭の中で反芻している。
そんな時だった。
「っ!?」
周りの異常を察知して一度足を止める。
寒い。
ここら辺から明らかに気温が下がった。
ありえない。
今の季節は夏だ。
森の奥とはいえ、こんな冷えるような気温はーー
「……ちっ!!」
違う。
これは気候の異常じゃない!
この冷気はシエルの魔法。
それもこの冷気はあの父さんに禁止されていた魔法だ!
再度駆けだす。
「シエル!!」
まずい。
そう思った瞬間、さらに加速する。
木を避ける暇もない。
前方に風の障壁を貼り、なぎ倒して進む。
頼む。
間に合ってくれ。
無事でいてくれ。
そんな願いを抱いた瞬間だった。
風に乗って、微かに……
血の臭いがした。
「っ!!」
心臓が止まりそうになる。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
嫌な想像が頭をよぎる。
倒れているシエル。
動かないシエル。
冷たくなったシエル。
「やめろ……!」
認めたくない。
あの笑顔が見れないなんて信じたくない。
首を振る。
そんな運命はないと。
シエルが死んでしまう事実はないと。
自分に言い聞かせるように。
癇癪を起した子供のように駄々をこねる。
頼む。
無事でいてくれ。
その願いだけを胸に、ついに冷気の中心部にたどり着く。
「……う、そ」
眼前に広がるのは真っ白な世界。
しかし、そんなキャンバスに唯一の色がある。
赤。
一面に赤が広がっている。
間に合わなかった。
俺は間に合わなかった。
絶望して、膝が崩れ落ちる。
ただしそこで俺は気づく。
何かが貪るような音。
「……グルゥ?」
魔物だ。
約三メートルほどの巨大な熊の魔物。
ここからだけで分かってしまう。
あれは格上の魔物だと。
魔物が振り返り、突然現れた俺を観察する。
「あ……」
魔物が貪っていた何かを見て頭の中が真っ白になる。
人肉だ。
「殺す」
自分でも驚いていた。
すっとその言葉がでたことを。
さっき格上だと理解したのに、気づけばそう呟いていた。
風が今までにない精度で研ぎ澄まされ、鉄の剣が風の刃を纏う。
地を蹴る。
魔物との距離を一気に詰めて剣を振りぬく。
「……は?」
今、何をされた?
「ごふっ」
口から血を吐き出す。
背中が猛烈に痛い。
後ろを振り返り、ようやく何をされたか理解する。
魔物はただ、その俺の胴体ほどある太さの腕で薙ぎ払っただけ。
それだけで俺は吹き飛ばされて木に衝突した。
「ふざ、けるな……!!」
殺す。
何が何でもこいつだけは俺が殺す。
そう思ったとき、ふと視界の端に誰かの姿が映る。
「シエル!!」
シエルはそこにいた。
吹き飛ばされて、衝突した木の傍でシエルは倒れていた。
激痛を無視して近づく。
酷いのは明白だった。
目は虚ろでコヒューコヒューと苦しそうに息をしている。
肩は抉れて、指先は変色して凍傷を起こしている。
幸いなのは血は流れすぎてはいないこと。
体外に出た血が凍ったことで疑似的に止血していた。
シエルは生きている。
その事実だけで張り裂けそうだった胸が少しだけ軽くなった。
「おい…しっかりしてくれ!」
震える手で頬に触れる。
冷たい。
嫌になるくらい冷たい。
「ステ……ラ……?」
かすかな声。
聞き間違いかと思うほど小さな声。
「っ!」
よかった。
また、その声を聞けた。
表情が柔らかくなり、シエルに向けて微笑みを返す。
「大丈夫だ」
嘘だ。
全然大丈夫じゃない。
明らかに最悪な状況。
さっきので内臓は傷ついている。
長くは持ちこたえられない。
でも言わずにはいられなかった。
「もう大丈夫だから」
その言葉を聞いて、シエルは少しだけ笑った。
安心したように本当に少しだけ。
そして、意識を手放した。
「大丈夫」
もう一度。
震える自分を鼓舞するためにも、安心させるためにも宣言する。
立ち上がる。
倒れてなんかいられるか。
守る。
何が何でも守り抜く。
たとえ、死んだとしても。
生きて帰る誓いを違えたとしても、初めてこんなに好きになったシエルを守る。
「グルル……」
魔物が近づいてきて、同じように俺も前に出る。
赤黒い毛皮に異常な筋肉。
そして、誰かの腕を咥えている。
恐れはもちろんある。
死の予感もある。
だけど、退く理由だけは見つからなかった。
「来いよ」
次の瞬間。
魔物は突進する。
避けない。
オーラに質量を持たせ。
風の障壁を展開し。
全力のブーストで身体能力を最大限まで強化する。
両手を前に突き出す。
「っ!」
簡単に障壁は砕け、オーラの腕と両腕で受け止める。
ーーピシッ
「がぁぁぁぁ!!!」
両腕の骨が砕ける。
だけど強化した筋肉で無理やり芯の代わりを果たし、真正面から立ち向かう。
突進を止めるために全力で対抗する。
足元の地面が抉れる。
一歩。
二歩。
三歩。
押されてしまい、魔物は止まらない。
圧倒的なパワーは山そのものが突っ込んできたと錯覚させる。
「止まれぇぇぇぇぇぇ!!!!」
魔物を掴んでいる手のひらから風を起こし、攻撃する。
しかし硬すぎる毛皮に阻まれて自分の手を傷つけてしまう。
想定以上のパワーに、限界以上のブーストで体への負担が大きく。
血が口からあふれ、血管が浮き出て数か所破れて噴き出している。
それでも。
「ッ!!」
半分以上、無意識だった。
魔物の突進が一瞬緩んで、その隙に片手を離す。
その手で魔物の顔を鷲掴みにして一気に風の刃を放つ。
風の刃は毛皮は通さないものの、的確にその目を切り裂いた。
瞬間。
至近距離での絶叫。
「グォォォォォォォォォォォッ!!!!」
魔物が苦痛で暴れる。
巨体がのけ反って、両目から大量の血が噴き出した。
そして、俺の体はまたも勝手に動いていた。
「ーーッ!!」
跳び上がり、魔物の口の中に腕を突っ込む。
鋭い牙が皮膚を裂いて肉を抉り、突き刺さる。
痛いなんて比じゃない痛み。
それでも構わず、最適な行動を俺の体は取り続ける。
「死ねぇぇぇ!!!」
掌から風の刃を解放する。
至近距離なんてものじゃない。
直接体内を裂く。
舌を切り裂き、牙を傷つけて喉の奥に尚も送り込み続ける。
「ガァァァァァッ!!」
暴れ狂う魔物に必死にしがみ続けて風の刃を放ち続ける。
俺を引き剝がそうとなんどもなんども首を振る。
だが、俺は離れない。
なんどもなんども地面や木に体当たりして俺を潰そうと試みる。
だが、俺は壊れない。
執念。
シエルを守りたいだけのそれが俺を突き動かす。
「っぁ……!!」
視界が反転する。
魔物の腕がついに俺を捉えて吹き飛ばした。
それで突っ込んでいた腕はついに千切れる。
背中から岩に衝突して、肋骨がいくつも逝った。
視界も明滅しているし、感覚ももうない。
だけど、立つ。
魔物がこっちを見ている。
両目を失っている。
喉を裂かれて体内もズタズタにした。
しかし、健在。
むしろ怒り狂っている。
それでいい。
お前が俺だけを見てくれるならそれでいい。
次だ。
次でお前を仕留めてやる。
「来い!」
つたない足取りで走る。
ふらふらだ。
到底、走っているスピードじゃない。
情けないと自分では思う。
集中しろ。
魔物の動きを見極めて、止めの一撃を当てろ。
「ぐぅぅぅっ!!!」
再び、突進を受ける。
今度は止めるのではない。
全力で張り付く。
魔物は止まらず、俺を盾に木をなぎ倒していく。
背中の皮膚は削られて肉が現れる。
骨は形もなく粉砕され、勢いに負けて体がのけ反る。
だが。
「っっあ!!!」
喉から血が溜まりすぎて声にならない声を発する。
残った左腕を魔物の耳に押し当てる。
風を放つ。
魔物の鼓膜を風の刃が突き破り、そのまま脳へと侵入する。
必死だ。
殺すことだけを考えている。
まだだ。
もっともっと風の刃を研いで鋭くしろ。
そうして、どれくらい経ったのだろうか。
最後に立っていたのはーー
「はぁ……はぁ…」
息をするたびに胸が痛む。
立っているのも気合だった。
少し、違う。
死闘を繰り広げた目の前の魔物に敬意を表すために立っている。
視界は赤い。
血が目に入っているのか、それとも失血でおかしくなっているのか分からない。
耳も聞こえにくい。
おそらく至近距離で咆哮を喰らった時に鼓膜がイカれかけている。
それでも。
倒れた熊の魔物を見て、小さく息を吐いた。
「……終わった」
勝った。
いや、勝ったというより生き残った。
シエルを守れた。
それだけで十分だった。
後は誰か来てくれれば。
その時だった。
ドンッ。
地面が揺れた。
「……?」
ドンッ。
ドンッ。
ドンッ。
まるで巨人が歩いているような振動。
嫌な汗が流れる。
そして。
森の木々が左右に吹き飛んだ。
直径一メートルを超える巨木がへし折れる。
その中心から現れたのは――
さらに巨大な熊だった。
五メートル。
いや、六メートルはある。
さっき倒した個体より明らかに大きい。
筋肉の厚みも、牙の長さも、纏う威圧感も。
まるで別物。
「…………は?」
思考が停止する。
理解したくなかった。
理解した瞬間。
その熊の視線が地面に転がる死体へ向く。
さっき倒した個体。
そして、低く。
地鳴りのような唸り声が響く。
「グルルルルルルルルルルルルルルル……!!」
怒っている。
誰が見ても分かる。
目の前で子供を殺された親だ。
怒っていないわけがない。
熊は死体へ近づく。
鼻先で軽く押す。
動かない。
もう二度と起きない。
それを理解した瞬間。
空気が変わった。
森全体が震える。
鳥が一斉に飛び立つ。
離れた場所の魔物達が逃げ出す。
圧。
殺意。
怒り。
それらが物理的な重さを持って押し寄せてくる。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
勝てるわけがない。
今の自分では。
万全の状態でも怪しい。
なのに今は瀕死。
片腕は無いし、立つのも気を抜けば難しい。
魔力も残っていない。
終わりだ。
本来ならそう思う。
そう思うはずなのに。
視線だけは自然とそこに向く。
そこには。
木の根元に倒れているシエル。
「……」
安心したように眠っている。
俺を信じて。
全部任せるみたいに。
だから。
不思議と恐怖が消えた。
「悪いな」
血まみれの顔で笑う。
「まだ倒れられねぇんだ」
親熊がこちらを見る。
殺意が向けられる。
それだけで骨が軋む。
だけど。
俺は前に出た。
一歩。
また一歩。
千切れた腕から血を流しながら。
砕けた骨を引きずりながら。
「来いよ」
声は掠れている。
それでも。
「シエルには」
剣は弾かれて遠くにある。
まともに魔法も使えない。
それでも嫌に冷静に、笑みを浮かべる。
「指一本触れさせない」
親熊が咆哮した。
森が揺れる。
空気が震える。
そして。
圧倒的な巨体が突進を開始する。
ーーーーー
酷く鈍い音で目を覚ます。
視界はぼやけていて何が起きているか分からない。
体も動かない。
なのに、耳だけは機能してその嫌な音を拾う。
肉が潰れる音。
何かが暴れる音。
そして。
「……ぁ、ぐ」
誰かの苦しそうな声。
少しづつ顔を動かす。
私の視界に、さっき帝国兵の隊長を嬲り殺した熊型の魔物が息絶えている姿が映る。
誰が?
そう思ったとき、ステラが助けに来てくれたことを思い出す。
あれを倒したの?
認めたくはないけどあの強かった隊長が為すすべもなく死んだ相手に?
そんな怪物にステラが勝利したなんて信じられない。
いや、違う。
正確には、信じられないのはステラが五体満足で勝ったこと。
父さんの戦闘センスを継いでいるステラなら勝てるかもしれない。
だけど、まだ開花しきってない才能であれになんの犠牲もなくいれるなんて思わない。
ボトッ。
「……え?」
目の前に腕が落ちる。
誰の?
理解が追いつかない。
理解したくない。
血塗れの腕、指先が痙攣している。
どこか見覚えがある気がして。
だけど考えたくなくて。
視線をゆっくりと上げる。
「ーーぁ」
ステラだった。
そこに立っていたのは。
いや。
立っている、と呼んでいいのかも分からない。
両腕がない。
右腕は肘から先が消えていて、左腕は肩と肘の間から先がない。
全身が傷だらけ。
砕けた骨が見えている場所もある。
片目は潰れて開いていない。
それでも。
辛うじて膝で体を支えている。
「はぁ……っ……はぁ……っ……」
まだ終わってない。
ステラのその惨状が物語っている。
ステラの視線の先を見る。
いた。
さっきの魔物より一回り大きな熊の魔物。
見てわかる。
あれは、親なんだと。
怒り狂った目でステラを見ている。
その巨木のような腕にはびっしりと血が付着していて、一通りステラを嬲った後なのを察する。
「ぁ…………」
やめて。
お願いだから。
もうやめて。
ステラは限界を超えている。
命の灯も消える寸前。
誰が見てもわかる。
あと、一撃。
本当にあと一撃でこの世からステラはいなくなってしまう。
「ふぅ……」
だけど立つ。
ステラは立ってしまう。
私に注意が向かないように自分を囮にして。
「なん、で……」
そうまでする理由は分かっている。
だって私も同じ理由で戦ったから。
だけど、そう問わずにはいられない。
もう無理だ。
もう戦えるわけがない。
逃げてほしい。
私のことなんか捨てて、逃げてほしい。
聞こえるような声はでない。
涙だけが零れる。
死んじゃう。
ステラが死んじゃう。
「まだだ!」
掠れた声。
声帯も無事じゃないのかもしれない。
嫌だ。
そんな言葉、聞きたくない。
親熊が動く。
捉えられる速さ。
しかし、全身から放っている気迫が避けることを許さない。
ーードゴォォォォォッ!!!
ステラの体がまるでボールのように吹き飛ぶ。
木を何本もへし折って。
岩を砕いてようやく止まる。
なんとか原型は保っている。
だけど、動かない。
終わった。
そう思った。
だけど。
違った。
違った。
違った。
血塗れの体が、また起き上がる。
「なんで……」
涙が止まらない。
理解できない。
もう意識なんて残っていない。
目の焦点が合っていない。
呼吸もまともじゃない。
なのに。
体だけが。
意思だけが。
前へと進む。
私を守る。
それだけのために。
親熊が腕を振るう。
叩き潰される。
だが、立つ。
踏み潰される。
でも、立つ。
吹き飛ばされる。
また立つ。
何度も。
何度も何度も。
何度も何度も何度も。
その姿はもう人間じゃなかった。
執念だった。
もはや親熊も何度も立ち上がるステラに、恐慌状態で嬲り続ける。
理解できない生物に。
瀕死なのに立つ人間に、早く死ねよと焦るように。
「いや……」
やめて。
お願いだから。
「もう……やめて……」
私なんかのために、そんな顔をしないで。
守らないで逃げて。
二度とステラの顔を見れないよりも、この世界からステラがいなくなる方が嫌だ。
その時だった。
親熊が大きく咆哮をあげ、腕を振り上げる。
今度こそ終わる。
そう確信した。
ステラは動けない。
避けられない。
防げない。
死ぬ。
なのに。
ステラは。
最後まで。
私の前から退かなかった。
「ーーーー」
声にならない。
叫びたいのに。
届かない。
そして。
巨大な腕が振り下ろされる直前。
世界から音が消えた。
「……ぇ?」
我ながら情けない声だと思う。
しかし、目の前の光景がそうさせた。
消えた。
そう、親熊が消えた。
一瞬で。
次の瞬間、とてつもない衝撃が遅れてやってくる。
何が起きたのか。
止まった思考が再び動き出した時、誰よりも頼りになる人の声が聞こえた。
「俺の子供たちに何しやがる」
助かった。
その一言だけが頭に浮かぶ。
安堵の涙が溢れそうになる。
ああ。
もう大丈夫なんだと。
お父さんが来てくれた。
それだけで全部終わる。
そう思った。
だけど。
「……っ」
なぜだろう。
安心したはずなのに。
背筋が凍った。
お父さんはゆっくり歩く。
いつもと変わらない。
慌てもせずにただこっちに向かって。
その両腕にはいつの間にかステラが抱きかかえられていた。
いつ?
いつステラを保護したの?
「遅れてすまない」
お父さんは私の傍に着くと、そう謝罪した。
次の瞬間。
お父さんの背後から、血塗れになった親熊が腕を振り下ろした。
危ない。
その言葉は余計だった。
「邪魔すんな」
お父さんはステラを抱えたまま。
振り返りもせず淡々と呟くのみ。
何もしていないように見える。
だけど、親熊の動きは停止していた。
「グガァァァァ!!??」
絶叫。
親熊の腕があらぬ方向に捻じ曲がる。
「うるせぇ」
お父さんが右足で親熊の胴体を蹴る。
軽い動き。
まるで力が入っていなくて、道端の石を避けるような仕草。
それなのに。
ーーボゴッ
聞いたことのない音が鳴る
親熊の巨体が軽々と浮きあがる。
数十メートル先まで吹き飛び、木々を何本もへし折りながら転がっていく。
途中で岩にぶつかるものの、岩のほうが先に砕ける。
「……え」
親熊が戻ってきたのを見て、呟く。
理解できない。
あの魔物は。
ステラをここまで追い詰めた化け物は。
今のお父さんの一撃で。
胸部が半分潰れていた。
それだけじゃない。
岩にぶつかった時に偶然左肩に突き刺さって取れていた。
それでも尚、お父さんを睨みつける。
殺意。
激怒。
憎悪。
それらを目に宿した親熊が再び踏み込む。
しかし、お父さんは意に返さない。
まるで興味がない。
ただ腕の中のステラを優しく見ているだけ。
「流石、俺の息子だ」
小さく。
本当に小さく呟いた。
親熊が迫る。
もう、あと一歩ってところでお父さんは遂に振り返る。
「………」
お父さんは何も言わない。
ただ、指先を前に向けて横に垂直に動かすだけ。
たったそれだけで親熊は縦に二つに割れた。
ズシンッと巨体が倒れる。
お父さんが勝ったのだと理解するのに少し時間がかかった。
なんせ、圧倒的。
一歩も動かずただカウンターを決めただけ。
それで、あの怪物を一瞬で倒した。
もはや戦いではなかった。
一方的な蹂躙とも違う。
例えるならそう……
鬱陶しい虫をはねのけた、処理の過程。
静かすぎる勝利だった。
「シエル」
「お……とう」
「大丈夫。無理に喋らなくていい」
手が伸びる。
頭を撫でられる。
怖いと思った。
怒っているお父さんは誰よりも怖い。
激昂するでもなく悲しむのでもない。
深海の如く、冷たく静かに怒る。
底の知れない波がない激怒。
だけど酷く安心している。
それが自分たちのための怒りだと思うと、嬉しくてしかたない。
そう思うとやけに瞼が重くなってきた。
「あとは任せて寝てなさい」
うん。
そうする。
そして、私は意識を手放すのだった。




