好き
暖かい。
最初に感じたのはそれだった。
身体中が重い。
痛みはある。
だけど不思議と苦しくない。
まるで柔らかい毛布に包まれているみたいな安心感。
「……ん……」
ゆっくり目を開く。
見慣れた天井。
見慣れた部屋。
アルカナ家の俺の自室。
「起きましたか?」
優しい声。
視線だけ動かすと、ベッドの横に母さんがいた。
両手からは緑色の光が溢れている。
回復魔法だ。
「かあ……さん?」
「はい。お母さんですよ」
母さんは微笑む。
その笑顔を見た瞬間、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
そして、すぐに思い出す。
「シエル!!」
起き上がろうとして。
「痛っ!?」
全身が悲鳴を上げた。
母さんが額を軽くデコピンする。
「安静です」
「でもシエルが!」
「大丈夫です。私はあの英雄譚の聖女ですよ」
即答だった。
そうだった。
「シエルちゃんも無事です」
その言葉に胸の奥から息が漏れる。
「……よかった」
本当に。
本当によかった。
あそこで死んでいたら。
守れなかったら。
そう思うだけで怖くなる。
「父さんは?」
「あなた達を助けてくれました」
「……そっか」
なら安心だ。
父さんが来たなら全部終わったようなものだ。
実際その通りだったんだろう。
母さんは治療を続けながら静かに言う。
「あなた達を見た時は驚きましたよ」
「……」
「特にステラ」
優しい声。
なのに少しだけ怖い。
いや、大分怖い。
なんか般若?鬼?みたいな顔を背負っているように見える。
「熊型魔物相手にあそこまで粘ったんですね」
「いや、その……」
「しかもシエルちゃんを庇って」
「……」
「ほぼ全身骨折」
「え」
「筋肉はあちこち千切れていました」
「え」
「内臓損傷に加え、両腕の欠損。おまけに鼓膜も半壊」
「え」
「あと少し遅れていたら死んでいました」
「……ごめんなさい」
「てか一瞬死んでました」
「ほんっとうにごめんなさい!!」
え、嘘でしょ。
俺死んでたの。
母さんはため息を吐く。
だけど怒っているわけじゃない。
「本当に無茶をしましたね」
「……」
「母親としては褒められません」
俺は視線を逸らす。
その通りだと思った。
母さんからしたら、大切な息子と娘が瀕死で帰ってきて。
見るのも嫌なのに治療のために直視し続けないといけない。
それがどれだけ苦痛なのか想像もできない。
もし逆の立場なら自分も怒る。
「でも」
母さんの手が頭に乗る。
温かい。
優しい。
「誇らしかったですよ」
「……え?」
「大切な人を守るために最後まで立ち続けたのでしょう?」
優しく髪を撫でられる。
「それはとても立派なことです」
「……」
「ノクも同じことをしたでしょうし」
「それはそう」
「ふふ」
思わず二人で笑ってしまう。
父さんならもっと無茶をする。
間違いなく。
「よく、頑張りましたね」
「……うん」
少しの間、俺と母さんの間に静寂が訪れる。
だけどなんというか心地良い。
こう言うのは恥ずかしいけど、母さんの愛を感じて温かい。
「でもね、ステラ」
「うん?」
「次からは」
母さんが少しだけ困ったように笑う。
「ちゃんと生きて帰ってきてください」
「……」
「誇らしいのと心配なのは両立するんですよ」
悲しそうな顔だ。
そして、俺は気づいた。
化粧で誤魔化しているけど母さんの隈が酷いことに。
眠れなかったのだろう。
治療に専念していたからではない。
心配で心配で、目を覚ますか不安で仕方なくて。
「うん、約束する」
「ありがとう」
母さんは目尻にたまった涙を拭い取った。
「少し、眠くなるまでお話しましょうか。何か聞きたいことはありますか?」
「……そういえば、今父さんはなにしてるの?」
「今は仕事を終えてぐっすり寝ています」
「仕事?」
「大切な娘を殺そうとして、結果的に息子も死にかけたのです。ノクがそれで怒らないと思いますか?」
「……」
想像する。
「思わない」
「でしょう?」
「ってことはつまり」
「ステラ」
「はい」
「世の中、知らない方がいいってことはたくさんなのですよ」
「はい!」
うん、母さんの言う通りだ。
「あ、そうだ。腕に違和感はありませんか?」
「うーん……特に何も?」
「完璧に元通りにできたようですね。安心しました」
「ねぇ母さん」
「はい」
「しれっと母さんが両腕が無くなっても再生できることにツッコんでいい?」
「やめたほうがいいですよ」
「ですよねー」
どう考えても聞かない方がいい。
というか聞いたら世界の常識が壊れそうだ。
父さんの強さは分かる。
実際に見たわけじゃないけど、俺がここに居るってことはあの親熊を倒したってこと。
化け物だった親熊を圧倒できる化け物。
それが父さん。
でも母さんも冷静に考えると大概だ。
「母さんってさ」
「はい」
「父さんの影に隠れてるだけで、理不尽側だよね」
ぴたりと治療の手が止まる。
母さんは少し考えるように首を傾げた。
「そうですね」
自覚あるんだ。
「昔は大聖女やら奇跡の使い手やら言われてましたから」
「昔は?」
「今はただのお母さんです」
にこり。
優しい笑顔。
悔しいけど可愛い。
だけど。
死んだ人間を蘇生できる人間がただのお母さんな訳がない。
「恥ずかしいですよね~昔よりも今のほうが治せるのに」
「そこは昔が全盛期のパターンじゃないんかい」
今の方が強いってのあるんだ。
「ちなみに」
「はい」
「俺の腕ってどうやって治したの?」
「生やしました」
「なるほど」
「はい」
「なるほどじゃないよ」
思わずツッコむ。
母さんは楽しそうに笑った。
「大丈夫ですよ」
「何が?」
「ちゃんと左右同じ長さです」
「そこじゃない」
ーーコンコンッ
「あら、いらっしゃいシエルちゃん」
扉が少しだけ開く。
そこから覗いた空色の髪を見た瞬間、母さんの表情がぱっと明るくなった。
「え、ちょま」
俺が何か言う前に。
「ちょうどよかったです」
母さんは立ち上がる。
いや待って。
嫌な予感しかしない。
「お母さん、お茶を淹れてきますね」
「いや別に今じゃなくても」
「ついでにノクを起こしてきます」
「絶対嘘だろ」
「ではごゆっくり」
「待てって!」
バタン。
閉まる扉。
静寂。
「……」
「……」
やりやがった。
絶対わざとだ。
母さんのやつ……
部屋に残されたのは俺とシエルだけ。
気まずい。
ものすごく気まずい。
さっきまで普通に母さんと話していたのに。
なんでだろう。
急に緊張してきた。
「……その」
先に口を開いたのはシエルだった。
手には小さな花瓶。
淡い青色の花が何本か入っている。
「お見舞い」
「お、おう」
受け取る。
なんか変な声が出た。
シエルもシエルで落ち着かないのか視線が泳いでいる。
しばらく沈黙。
気まずい。
いや、別に嫌じゃない。
嫌じゃないけど。
なんというか。
「……身体」
「え?」
「大丈夫?」
シエルが聞いてくる。
その声は少し震えていた。
「ああ。母さんが治してくれたし」
そう言いながら腕を軽く動かす。
問題ない。
違和感もない。
本当に元通りだ。
いや、なんでほんとに完全に治ってんだよ。
「そっか」
安心したように笑う。
だけど。
その笑顔は少しだけ無理をしていた。
「シエル?」
呼ぶ。
すると。
ぽたり、雫が落ちた。
「……え」
涙だった。
シエルは俯いたまま肩を震わせている。
「ごめん……なさい」
小さな声。
「ごめんなさい……」
また。
一滴。
一滴。
涙が落ちる。
「私のせいで」
震える声。
「私のせいでステラが……」
そこで言葉が詰まる。
死んだ。
その言葉を言えないんだろう。
母さんから聞いたのだろう。
俺が一度死んだことを。
「シエル」
「私が勝手に行ったから」
「シエル」
「私があんな魔法を使ったから」
「シエル」
「私が弱かったから――」
「違う」
ぴたりと止まる。
シエルが顔を上げる。
涙でぐしゃぐしゃの顔。
俺は少し困ったように笑った。
「守れたじゃん」
「……え?」
「俺、シエルを守れた」
シエルが呆然とする。
「シエルを守るって決めてたから」
そう。
俺は守れた。
確かに死にかけた。
いや、一回死んだらしい。
だけど。
「後悔してない」
その言葉だけは本心だった。
「でも……」
「むしろ」
言葉を遮る。
「間に合ってよかった」
心の底から本当にそう思う。
あの時。
森で見つけた時。
もし間に合わなかったら。
もしシエルが死んでいたら。
俺はきっと今も後悔していた。
だから。
「だから謝るな」
シエルの瞳からまた涙が零れる。
だけど今度は少しだけ違った。
悲しいだけじゃない。
安心したような。
救われたような涙。
「……ばか」
「なんでだよ」
「ステラのばか」
泣きながら言う。
俺は苦笑するしかなかった。
「でも、好き」
「え?」
「そういう、ステラの全部が好き」
その瞬間。
時間が止まった。
「――――は?」
思考が追いつかない。
今。
シエルはなんて言った?
「えっと」
聞き間違いだろうか。
いや、聞き間違いであってくれ。
だって今。
『好き』
って。
そう言わなかったか?
「シエル?」
「なに?」
涙を拭いながら首を傾げる。
いつも通りだ。
だけど俺はいつも通りじゃない。
「今、なんて」
「好き」
「即答しないで」
心臓が跳ねた。
なんだこの破壊力。
シエルは不思議そうな顔をしている。
「変?」
「変というか」
「?」
「いや、えっと」
言葉が出てこない。
普段ならもっと上手く喋れるのに。
熊相手なら死ぬ気で戦えるのに。
なんでこういう時だけダメなんだ。
シエルはしばらく俺を見ていた。
そして。
「もしかして」
何かに気づいたように目を瞬かせる。
「照れてる?」
「照れてない」
「照れてる」
「照れてない」
「耳赤い」
「うるさい」
シエルが小さく笑った。
さっきまで泣いていたくせに。
その笑顔を見ていると、なんだかこっちまで安心してしまう。
「ステラ」
「なんだよ」
「ありがとう」
今度は真面目な声だった。
「助けに来てくれて」
「当然だろ」
即答だった。
「だってシエルだし」
「……そっか」
嬉しそうに笑う。
それだけで、あんな地獄みたいな戦いも少し報われた気がした。
すると。
「でも」
シエルが少しだけ眉を下げる。
「もう無茶しないで」
「それは」
「しないで」
「努力する」
「約束」
「……」
無理だ。
シエルが危なくなったら絶対飛び込む。
断言できる。
だけど。
そのことを正直に言ったら怒られそうだった。
「約束」
「……善処します」
「約束」
「はい」
負けた。
シエルは満足そうに頷く。
「よろしい」
どこの母さんだ。
そんなことを思っていると。
シエルがベッドの傍に置かれた椅子へ座る。
そして。
そっと俺の手を握った。
「っ」
反射的に肩が跳ねる。
「シエル?」
「もう少しだけ」
小さな声。
「ここにいてもいい?」
断れるわけがなかった。
「……あぁ」
そう答えると。
シエルは安心したように目を細めた。
そして静かに呟く。
「よかった」
握る手に少しだけ力が入る。
温かい。
生きている。
俺も。
シエルも。
あの地獄みたいな森から帰ってこられた。
それだけで十分だった。
しばらく二人とも何も話さなかった。
だけど不思議と気まずくない。
むしろ心地いい。
窓から入る風がカーテンを揺らす。
花瓶の青い花が静かに揺れる。
平和だった。
本当に平和で。
だからこそ。
「俺も好きだよ」
言った。
言ってから気づいた。
「あ」
やばい。
なんか自然に出た。
だけど撤回する気はない。
だって本当だから。
シエルが好きだ。
昔から一緒にいて。
泣き虫で、優しくて。
なのに無茶ばかりして、守りたくて仕方ない。
だから自然に出た。
ただ。
「……」
シエルが動かない。
瞬きもしない。
完全に停止している。
「シエル?」
返事がない。
大丈夫か?
心配になって顔を覗き込む。
すると。
「…………ぇ」
小さな声。
「え?」
「……え?」
こっちが聞きたい。
シエルはゆっくり。
本当にゆっくり顔を赤くしていく。
耳まで。
首まで。
みるみる真っ赤になっていく。
「ちょっ」
今度は俺が焦る。
「シエル?」
「ま、待って」
待つ。
「待って」
「お、おう」
「今のは反則」
「何が?」
「全部」
意味が分からない。
シエルは空いている方の手で顔を覆う。
隠しきれていない耳が真っ赤だった。
「だって」
消えそうな声。
「ステラ、絶対そういうの言わないと思ってた」
「なんだそれ」
「だって鈍いし」
「酷くない?」
「酷くない」
即答だった。
傷ついた。
「でも」
シエルが指の隙間からこちらを見る。
赤い顔のまま。
少しだけ泣きそうで。
少しだけ嬉しそうで。
「すごく嬉しい」
胸が跳ねる。
なんなんだこの破壊力。
熊より強い。
絶対強い。
「……そっか」
それしか言えない。
シエルは小さく笑う。
「うん」
そして。
握っていた手を両手で包み込んだ。
「じゃあ」
「ん?」
「これで両想い」
にへら。
そんな表現が似合うくらい柔らかい笑顔だった。
その瞬間。
ーーガチャ
部屋の扉が開いた。
「お茶が入りましたよー」
母さんだった
絶対タイミングを見計らっていた。
間違いない。
「ふふふ」
なんで笑ってるんだ。
「若いですねぇ」
「母さん!!」
「お母さん!!」
二人同時に叫ぶ。
すると廊下の向こうから。
「何やってんだお前ら」
寝起きらしい父さんの声。
そして。
「お、付き合い始めたか?」
「父さんまで!?」
「お父さんまで!?」
今度は完全にハモった。
廊下には愉快そうな笑い声が響き。
シエルは恥ずかしそうに俯き。
それでも。
繋いだ手だけは離さなかった。
ーーーーー
これは、ステラとシエルが救出された直後の話。
ノクティスは二人を連れて自宅へ戻っていた。
「……お帰りなさい、ノクティス」
ルーナが珍しく愛称ではなく名前で呼ぶ。
その声は静かだった。
だが、長年連れ添ったノクティスには分かる。
今のルーナは限界寸前だ。
「頼めるか」
短く告げる。
腕の中には意識のないステラ。
背中には抱えたシエル。
どちらも血塗れ。
生きていることが奇跡みたいな状態だった。
「もちろんです」
ルーナは即答する。
だが。
その視線が二人に向いた瞬間。
僅かに肩が震えた。
「早く奥へ」
「あぁ」
ノクティスは何も言わず治療室へ向かう。
今は時間が惜しい。
そして何より。
今のルーナに余計な言葉は必要ない。
治療室へ到着すると、ルーナはまずシエルを寝台へ寝かせた。
「……っ」
息を呑む。
右肩は抉れている。
全身には凍傷。
魔力枯渇。
生命力の枯渇。
無茶苦茶だった。
次にステラ。
こちらはもっと酷い。
「…………」
言葉が出ない。
両腕欠損。
全身骨折。
内臓破裂。
失血。
死の一歩手前。
いや。
既に片足どころか半身くらい向こう側へ突っ込んでいる。
「ルーナ」
ノクティスが呼ぶ。
しかし返事はない。
ルーナはただ二人を見つめていた。
母親としてどうしても見てしまう。
幼かった頃の姿を。
初めて歩いた日を。
初めて喋った日を。
初めてやってきた日を。
泣きながら抱きついてきた日を。
料理を手伝ってくれた日を
全部。
全部覚えている。
その子供達が今。
こんな姿になっている。
今にも泣きだしてしまいそうになる。
「……ノク」
小さな声。
「なんだ」
「少しだけ」
ルーナが俯く。
「少しだけ怒ってもいいですか?」
ノクティスは答えない。
代わりに静かに隣へ立つ。
ルーナは拳を握った。
「なんでこんなになるまで頑張ったんですか」
声が震える。
「なんで助けを待ってくれなかったんですか」
涙が零れる。
「なんでこんな傷だらけになるまで」
ぽたり。
涙がシエルの手に落ちた。
「お母さんに治させてくれなかったんですか……」
堪えていたものが溢れる。
大聖女じゃない。
英雄でもない。
母親だった。
ただの子供を愛している母親。
「私がもっと早く気付いていたら」
「ルーナ」
「私がもっと強かったら」
「ルーナ」
ノクティスが肩へ手を置く。
「二人は生きている」
静かな声。
「お前が助ける」
その言葉に。
ルーナは目を閉じた。
大きく息を吸う。
そして。
吐く。
涙を拭う。
「……そうですね」
顔を上げる。
そこにいたのは英雄だった。
大聖女だった。
世界最高の治癒術師だった。
「後でたくさん叱ります」
「あぁ」
「たくさん抱きしめます」
「あぁ」
「たくさん褒めます」
「あぁ」
ルーナは笑った。
少しだけ泣きそうな笑顔で。
「だから今は」
両手を掲げる。
膨大な聖力が溢れ出す。
部屋全体が暖かな光に包まれた。
「お母さんの仕事をしましょう」
その瞬間。
奇跡が始まった。
そして、ノクティスはあとを任せて行動に移すのだった。
ーーーーー
「報告です!南門が何者かにより、突破されました!」
玉座の間に緊張が走る。
「続けて報告致します! その襲撃によって南にて待機していた隊が壊滅!」
「何者だ!?」
将軍の怒声。
伝令兵は青ざめた顔で答える。
「わ、分かりません! たった一人です!」
ざわめきが起こる。
あり得ない。
帝都の防衛軍は1万。
南門だけでも精鋭が常駐している。
それを一人?
「馬鹿なことを言うな!」
「ですが事実です!」
伝令兵の声は震えていた。
「防衛部隊は接触から三十秒で壊滅!」
「三十秒だと……?」
「現在も侵攻を継続中! 止められません!」
場の空気が変わる。
異常だ。
あまりにも異常だった。
「敵の特徴は!」
「黒い外套のためよくは確認できませんでしたが、灰色の髪と青の瞳とのことです!」
その瞬間。
重すぎる静寂が訪れる。
まさか。
いや、本当に?
他人の空似ではないのか?
報告に来た兵を除き、その場にいた全員が認めたくない様子で狼狽えていた。
なんせその特徴は。
そしてたった一人で南門を突破したという事実。
嘘だと思いたい。
違うと思いたい。
だけど、嫌に予感がある。
あいつが来たと。
「ノクティス・アルカナ」
帝王が誰も言うのを躊躇うその名前を呟く。
誰も反論できなかった。
灰色の髪。
青い瞳。
そして。
たった一人で帝都へ侵攻する存在。
そんな人間は世界に一人しかいない。
『ノクティス・アルカナ』
英雄譚の事実を知る者ほど、その男の恐ろしさを理解していた。
魔族と人間の戦争を阻止した立役者。
魔王と単独で渡り合った人間を超えた人間。
英雄譚に書かれている七人の英雄ーー『大罪』の『強欲』を背負う錬成師。
そして、世界最強。
「あの悪夢がなぜ!」
「知るか!」
ノクティス・アルカナ含めた大罪が表舞台から姿を消したのは十数年前。
魔族との和平を結んだ時から。
そして、一度帝国はノクティス・アルカナ。
触れてはならない禁忌に踏み込み、壊滅しかけている。
その時から上層部では悪夢と呼ばれ話題に出すのを避けてきた。
「いる」
誰かが震える声で呟く。
その場にいた全員の視線が玉座の前へ向く。
いつの間にそこに立っていたのか。
誰も見ていない。
誰も気付けなかった。
ただ一人の男がそこにいた。
灰色の髪。
青い瞳。
黒い外套。
英雄譚で何度も語られた姿。
だが、その場にいる誰も英雄などと思わなかった。
英雄なら希望を連れてくる。
今ここにいる男が連れてきたのは絶望だった。
「ノクティス・アルカナ……」
帝王が掠れた声で名を呼ぶ。
「久しぶりだな」
悪魔の囁き。
静かに周囲を見渡した。
その青い瞳が向いただけで、歴戦の将軍達が息を呑む。
殺気はない。
怒声もない。
だが分かる。
この男は怒っている。
誰よりも。
何よりも。
静かに。
深く。
だからこそ恐ろしい。
「安心しろ。別にお前たちをどうこうするつもりはない」
「では、なぜこの場に来たのだ」
帝王が質問をする。
「交渉だ」
誰もがその言葉に胸を撫で下ろした。
しかし、ほっとしたのもつかの間。
次の瞬間、12枚の大剣が突如として姿を現して自分たちを取り囲む。
「選択しろ」
誰も動けない。
剣から放たれる圧力だけで嫌でも理解してしまう。
機嫌を損なった瞬間に、自分たちはあの世に旅立つことになる。
そして、ノクティスは指を一本立てる。
「ひとつ。今回の件に関わった全員を差し出すか」
静かな声。
だが。
それだけで空気が凍る。
「ふたつ」
さらに一本、指を立てる。
「俺がそいつらを探す」
誰かが息を呑んだ。
探す。
それだけの言葉なのに。
その場の全員が理解してしまった。
それは捜査ではない。
裁きだ。
「三つ」
最後の指を立てる。
「帝国ごと消える」
恐ろしいことを言っているはずなのに本人は穏やかな笑みを浮かべている。
沈黙。
誰も声を出せない。
冗談ではない。
脅しでもない。
この男は本当にできる。
だからこそ恐ろしい。
ノクティスはゆっくりと玉座へ視線を向ける。
「俺の娘を殺そうとした」
初めて。
感情が滲んだ。
「息子も死にかけた」
青い瞳が冷たい。
あまりにも冷たい。
「俺は今、かなり譲歩している」
将軍の一人が膝をついた。
無意識だった。
殺気を向けられている訳ではない。
なのに立っていられない。
「さっきはあぁ言ったが、勘違いするな」
ノクティスが続ける。
「これは交渉じゃない」
十二本の剣が唸る。
空間そのものが軋む。
「お前たちが生き残るための説明だ」
いつの間にか、帝王は玉座を降りて頭を地面に擦り付けていた。
「個人的には三つ目はオススメしない。先代の二の舞になりたいなら別だがな」
以前、先代帝王はノクティスの妻。
ルーナ・アルカナを自身の正妻にしようと画策した。
その結果逆鱗に触れたことで軍が崩壊し、城が跡形もなく消え去った。
誰もがその惨劇を目の当たりにしている。
あの絶望は絶対に避けなければならない。
だが、ノクティスが言っている「件」というのがまったく見当がつかない。
全員が焦っていた。
娘を殺そうとした?
そんなの身に覚えがない。
息子が死にかけた?
そもそもノクティスに息子がいたのか?
何を言えばいい?
何を言えば助かる?
そう、考えた時にもう一度ノクティスは口を開いた。
「シエル=アルギエバ」
誰もがハッとする。
なんで、その名前を知っている?
なんで、その名前が出てくる?
なんで?
それを繰り返すたびに当事者たちの顔が青ざめる。
理解してしまったからだ。
三年以上前に行方をくらました王女。
その名前を知り、ノクティスは娘を殺そうとしたと主張している。
つまり、今のシエル=アルギエバはーー
「あいつは今じゃ俺の娘だ」
最悪だ。
よりにもよってノクティス・アルカナに拾われるとは。
そう、シエルが生きて王位継承権を持つ限り地位がもっとも危うくなるガルド大臣の冷や汗が止まらない。
本人の口から聞いて完全に繋がってしまった。
三年前から企てていた暗殺計画。
追手の派遣。
証拠の隠滅。
そして、つい最近送ったはずの追手が帰還しない事実。
全て。
全てがこの男に繋がってしまった。
「そんな……」
思わず声が漏れる。
気付く。
ノクティスがこちらを見ていた。
青い瞳。
逃げ場のない視線。
その瞬間。
ガルドは理解した。
この男は知っている。
全部。
全部知った上でここにいる。
「なるほど」
ノクティスが小さく呟く。
ガルドの肩が跳ねた。
「どうやら一人見つかったらしい」
全員の視線がガルドへ向く。
「ち、違う! 私はーー」
ノクティスは笑う。
穏やかに。
優しく。
それが余計に怖かった。
「先に言っておこう、ガルド」
終わった。
そう思っていた。
「詫びも謝罪も賠償もいらない」
目を見開く。
誰も予想していなかった言葉。
なら、この男は何を求めるのか。
「俺の要求は一つ」
ゆっくりと淡々に。
「二度とシエルに関わるな」
空気が張り詰める。
「王位継承権も放棄させ、俺からもそうならないよう動く」
ノクティスは続けた。
「だからお前たちも関わるな。それで今回の件は水に流そう」
誰も喋れなかった。
二度と関わるな。
それだけ。
世界最強の男が帝国へ単身乗り込み、数万の軍を蹂躙し、玉座の間を制圧した末の要求がそれだけだった。
安い。
あまりにも安い。
だからこそ恐ろしい。
「……それだけ、なのか」
帝王が震える声で問う。
ノクティスは首を傾げた。
「十分だろう」
当然のように言う。
「シエルは今幸せに暮らしている」
その言葉に誰も反論できない。
「家族もいる」
ステラ。
ルーナ。
そしてノクティス。
血は繋がっていなくとも。
今のシエルには確かに家族がいる。
「だから俺はあいつが望まないことをしたくない」
静かな声だった。
だが。
そこに込められた想いは重い。
「もしシエルが復讐したいと言ったなら俺は協力した」
全員の背筋が凍る。
「王位を取り戻したいと言ったなら玉座ごと持って行った」
冗談ではない。
この男ならできる。
「だが、あいつはそんなこと望まなかった」
ノクティスは少しだけ笑った。
優しく。
どこか誇らしげに。
「優しい子だからな」
その瞬間。
ガルドは理解した。
助かったのではない。
許されたのだ。
シエルによって。
ノクティスによってではない。
もし彼女が一言でも恨みを口にしていたなら。
今頃この帝国は存在していない。
ノクティスは踵を返した。
「話は終わりだ」
十二本の剣が消える。
誰もが安堵しかけた。
その時。
ノクティスが足を止める。
「ガルド」
呼ばれた瞬間。
ガルドの身体が震えた。
「ひっ……」
「勘違いするな」
振り返らないまま。
淡々と言う。
「お前含め賛同した者を俺は許したわけじゃない」
心臓が止まりそうになる。
静寂。
「だから次はない」
その一言だけ。
それだけで十分だった。
「何もしてこなければ俺が帝国に牙を向けることはない。覚えておけ」
そして、ノクティスは姿を消したのだった。




