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部室へ

続きです!読んでください!

翌朝、目が覚めた瞬間に真っ先に頭に浮かんだのは昨夜の出来事だった。カーテンの隙間から差し込む5月の爽やかな朝陽を浴びながら、俺は自分の右手のひらをじっと見つめる。あの細くて、少し冷たくて、でも驚くほどあたたかかった美玲先輩の感触がまだ肌に残っているような気がした。


「……夢じゃないよな」

ベッドから跳ね起き、急いでスマホの画面を確認する。そこには昨夜別れ際に交換したばかりの、先輩の連絡先が確かに登録されていた。

プロフィールのアイコンは宇宙のイラスト。それを見ただけで、胸の奥がドクンと跳ねる。


完全に舞い上がっていた。昨日までの、あのコンクリートに吸い込まれそうだったため息は何だったのだろう。アパートを出て大学へ向かう道すがら俺は自分がにやけてしまわないように、必死で口元を引き締めなければならなかった。


いつもの並木道を歩く。昨日まではあれほど鬱陶しく感じていた周りのグループたちの談笑も不思議と今は全く気にならない。むしろ、新緑の隙間から覗く青空を見上げて、「今日の夜も晴れるかな」なんて考えている自分がいた。


『下ばっかり見て、スマホばっかり見て歩いてるから気づかないだけなんだよ』

脳裏に蘇る先輩の声。その通りだった。意識して顔を上げて歩くだけで、世界がいつもより少しだけ鮮やかに見える。


1限の経済学部の講義室。俺はいつものように後ろの方の席に座った。けれど、ノートを開いてペンを握る手の感覚が昨日までとは明らかに違っていた。これまでは時間を潰すための落書きで埋め尽くされていたノートの端に、気がつけば『ポルタII A80Mf』と、昨夜必死に記憶した望遠鏡の名前を小さくメモしていた。


(今日の放課後も、先輩に会えるかな……)

講義中だというのに頭の中は完全に星のこと――いや、美玲先輩のことでいっぱいだった。


そんな時、机の上のスマホが短い振動を刻んだ。画面を覗き込むと、そこには新着メッセージの通知。送り主は『みれい』。


(美玲先輩……!)

緊張でゴクリと唾を飲み込みながら、俺はそっと画面をタップした。


『衣織くんおはよー! 昨日は遅くまで付き合ってくれてありがとね。筋肉痛になってない?』

画面に躍り出たフランクな文面と、語尾についた星の絵文字。それを見ただけで俺の心臓は一限の退屈なマクロ経済学の講義を一気に置き去りにして、激しく脈打ち始めた。


(筋肉痛……全然、むしろめちゃくちゃ元気です)

画面を睨みつけながら、どう返そうか必死に頭を回転させる。あまりガツガツしすぎても引かれるかもしれないし、かといって冷たすぎるのも違う。二分ほど悩んで、できるだけ自然な文面を打ち込んだ。


【おはようございます! 筋肉痛は全然大丈夫です。こちらこそ、昨日は綺麗な星を見せていただきありがとうございました】

送信ボタンを押してから「ちょっと堅苦しかったか?」とすぐに後悔が押し寄せる。スマホを握りしめたまま画面をじっと見つめていると、1分もしないうちに既読がついた。


【綺麗って思ってくれたなら嬉しい!それと、今日の放課後って空いてる?】

心臓がドクッ、と跳ねた。放課後。空いてるかという文字。


(空いてる。何なら今日から四年間、先輩のためならいつでも空けられる――)

さすがにそんな思考をそのまま送るわけにはいかない。俺は震える指先で『空いてます!』とだけ、勢いに任せて返信した。


『やった!じゃあ四限が終わったら、学生会館の3階にある307室にきて! 鍵開けて待ってるから。新入部員歓迎、天文部作戦会議しよー!』

作戦会議。部室。その響きだけで、胸の奥からじわじわと熱いものが込み上げてくる。昨日までの俺とは違う。学生会館に俺の行くべき場所が、俺を待ってくれている人ができたのだ。


「……よし」

小さく声が漏れた。ノートの端に書いた『ポルタII A80Mf』の文字を、愛おしくペン先でなぞる。まだ講義は始まったばかりなのに俺の意識はもう、放課後の学生会館へと向かっていた。窓の外に見える五月の青空が、昨日よりもずっと近くに感じられた。


⭐︎


そして、待ちに待った放課後。4限の終了を告げるチャイムが鳴り響くと同時に俺は教科書をカバンへ押し込み、弾かれるように講義室を飛び出した。


向かうは学生会館。昨日まで、大学の中で最も縁のない建物だと思っていた。軽音サークルの音が漏れ聞こえ、いかにも「大学生活を満喫しています」という風風の奴らがたむろする場所。俺のようなタイプの人間にとっては近づくことすら心理的ハードルの高い魔境だ。


(3階の……307号室、だよな)

学生会館の重い扉を押し開け、一歩中へ足を踏み入れる。その瞬間、昼間の爽やかな空気とは一変した独特の熱気と混沌とした空気に気圧されそうになった。


「うわ……」

階段を上がろうとした、その時だった。踊り場のあたりに見るからに派手な金髪や、ジャラジャラとチェーンをつけた男たちが数人、大声で笑いながら固まっていた。俺が一番苦手とする「陽キャ」のオーラがそこから強烈に放たれている。


(怖……いかついな……」

一瞬、足がすくんだ。四月のテニサー新歓で味わった、あの冷や汗が背中を伝う感覚が蘇る。できるだけ目を合わせないように壁際に身体を寄せ、気配を消してすり抜けようとする。


「あはははっ!!」

金髪の一人が笑い声を上げた瞬間、ビクッと肩が跳ねた。心臓が嫌な音を立ててバクバクと暴れ出す。俺が笑われたわけじゃないと分かっていても、どうしても身体が恐怖で強張ってしまうのだ。


(やっぱり、俺みたいな奴が来るところじゃなかったんじゃ……)

情けない弱音が頭をよぎる。けれどその時。胸のポケットの中で、スマホが一度だけ震えた。画面を見る。そこにはさっき美玲先輩から届いた、星の絵文字が並ぶメッセージ。


『鍵開いてるよ〜』

(……そうだ。先輩が待ってるんだ)一人きりであの重い望遠鏡を抱えて、誰も来ない部室で。そう思うと、不思議と足に力が戻ってきた。ここで逃げたら、昨日の夜に「俺が機材を運びます」って大見得を切ったあの決意まで、全部嘘になってしまう。


俺はごくりと息を呑み、金髪の集団の脇を視線を斜め下に落としたまま早足で通り抜けた。「……すいません」と蚊の鳴くような声で呟きながら、一気に階段を駆け上がる。背後から聞こえる笑い声を振り切るようにして、一歩、また一歩と三階へのステップを上がっていった。


薄暗い廊下に並ぶ、古びたドアの数々。その中に目的のプレートを見つけた。


【307 天文部】

そう書かれた、少し色褪せた紙が貼られている。ドアの隙間からはうっすらと明かりが漏れていた。俺は深く呼吸を一つ整えると、緊張で汗ばんだ手で、そのドアをコンコンとノックした。


「失礼します……」

ドアノブを回して、ゆっくりと扉を押し開ける。部屋の奥に、机に向かって座っている後ろ姿が見えた。長い黒髪が背中に綺麗に流れている。


(美玲先輩だ……!)

陽キャの巣窟を潜り抜けてきた安堵感から、俺はホッとして声をかけた。


「美玲先輩、お疲れ様です! 遅くなってすみま――」

その時、椅子がクルリと回転した。振り返ったその人は俺の予想を綺麗に裏切る、全くの『別人』だった。


「…………え?」

そこにいたのは美玲先輩よりも明らかに頭1つ分は小柄な女子学生だった。腰まで届きそうな艶のある茶色のロングヘアに、くりっとした大きな猫のような目。小動物のような可愛らしさがあるけれど、どこかツンとした、意思の強そうな雰囲気を纏っている。


お互いに完全にフリーズした。沈黙の中、俺の頭は「え? 誰? でもめちゃくちゃかわいい……じゃなくて誰!?」と大パニックを起こす。


「あっ……す、すみません! 部屋、間違えましたっ!」

平謝りしながら大慌てで1歩下がり、ドアを閉めようとする。すると、その女子学生が「あ!」と声を上げて机を叩き、勢いよく立ち上がった。


「ちょーっと待った!間違えてないわよ!美玲に会いにきたんでしょ?」

ずいと1歩詰め寄ってきた彼女の口から、予想外の名前が飛び出した。

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