星の巡り合わせ
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最初は真っ暗で自分のまつ毛の影しか見えなかった。
「先輩、何も見えないです……」
「あはは、焦らない焦らない。レンズの真ん中に黒い丸があるでしょ? そこに視線をまっすぐ合わせる感じ。ほらもうちょっとだけ顔を近づけてみて」
言われた通り、息を止めてレンズにそっと近づく。すぐ横から先輩の甘い香りがして、また心臓が小さく跳ねた。その瞬間――視界のピントがカチリと合った。
「……っ!」
思わず息を呑んだ。レンズの向こうに広がっていたのはただの夜空の延長ではなかった。漆黒の宇宙にぽつんと浮かぶ真珠のような球体。その表面には教科書でしか見たことのない、はっきりとした横縞の模様が見える。そしてその両脇には、まるでお供のようにより小さな光の粒が、針で突いたように鋭く、美しく一列に並んでいた。
「これ……木星ですか?」
「正解! 周りに並んでるちっちゃい光はガリレオ衛星ね。どう? 綺麗でしょ?」
覗き込んだまま固まっている俺の横で、星野先輩の声が誇らしげに弾んだ。
「……すごいです。本当にちゃんと見えるんですね。こんな街の中にある大学の真ん中からでも」
「でしょ? みんな下ばっかり見て、スマホばっかり見て歩いてるから気づかないだけなんだよ。上を向けばいつでもこういう世界が広がってるのにさ」
先輩のその言葉がなぜかズシッと胸の奥に響いた。下ばかり向いて、周りの目を気にして、すり抜けるように歩いていたここ最近の自分。そんな灰色の視界のずっと上にこんなにも鮮やかで、圧倒的な光の世界があったなんて、思いもしなかった。
レンズから目を離し、顔を上げる。すぐ隣で先輩は満足そうに微笑みながら肉眼で夜空を見上げていた。街灯の光を浴びた横顔がやけに綺麗で見惚れてしまう。
「あ、そうだ。はい、これ」
先輩は思い出したように上着のポケットから小さな缶コーヒーを取り出し、俺の頬にピトッと押し当てた。
「冷たっ……」
「ふふ、手伝ってくれたお礼。本当はもっといいもの奢りたいんだけどうちの部、予算が底を突いててさ」
冷えた缶コーヒーを受け取り、プルタブを引く。微糖の苦味が緊張していた身体にじんわりと染み渡っていく。
「先輩……『うちの部』って……?」
「ん? ああ天文部。あ、でもね、半年前くらいに先輩たちが多忙で引退しちゃって、新入部員も入らなくてさ。気づいたら今、私一人になっちゃったんだよね」
先輩はどこか寂しそうに笑った。
「一人、ですか……」
「そう。だからさ、こんな重い機材を一人で運ばなきゃいけないし、学生課には屋上の鍵を貸してもらえないしでけっこう詰んでたんだ。……だから今日は衣織くんがいてくれてほんと助かったよ〜」
先輩は少しだけはにかむようにして俺を見た。
「今日、ここで衣織くんに会えたのも星の巡り合わせだったのかも」
「星の巡り合わせ……」
その言葉がなんだか気恥ずかしくて、俺は慌てて缶コーヒーを喉に流し込んだ。
「……ねえ、衣織くん」
不意に先輩が缶コーヒーを両手で包み込んだまま、ぽつりと言った。
それまでの台風みたいに元気だった声色が急にトーンを落として、どこか弱々しく夜の空気に混ざる。
「衣織くんも……やっぱり天文部には入らない、よね?」
少しだけ伏せられた長い睫毛。その声の響きだけで、先輩がこれまでどれだけの人に同じ勧誘をして、そして断られ続けてきたのかが痛いほど伝わってきた。新歓の時期だって、たった一人で必死にビラを配っていたのかもしれない。誰も足を止めてくれない並木道で、一人きりで。
その寂しげな表情に俺の胸がズキリと痛んだ。
「あ、えっと……」
俺は思わずたじろいだ。さっきまで「この灰色の日々を変えたい」なんて感傷に浸っていたくせにいざ差し出された現実の選択肢を前にして、ヘタレな自分が急ブレーキをかける。
待て。落ち着け。こんな偶然の出会いで、おまけに機材を運ぶのをちょっと手伝っただけの流れで、サークルに入部なんて決めていいのか?経済学部の講義を後ろの席で受けているだけの、何の取り柄もない俺が。
いやそれ以上に……。
(先輩がかわいいからって、不純な動機で流されようとしてないか!?)
自問自答のスピードが加速する。大学に入って二ヶ月、女子とまともに話したことすらなかった男だ。それが突然、こんな綺麗な先輩と夜のキャンパスで二人きり。しかも「星の巡り合わせ」なんて言われて、完全に舞い上がっている。
(なんなら先輩と二人きりのサークルって、もしかして最高なんじゃ……? とか思ってしまっている……!」
下心がゼロだと言えば神様に一発殴られても文句は言えない。そんな邪な気持ちで、先輩が大切に守ろうとしている場所に足を踏み入れていいはずがない。真面目ででも中途半端に臆病な俺の思考回路が、頭の中でぐるぐると警報を鳴らしていた。
俺が言葉に詰まって黙り込んでしまうと、先輩はすぐに「あはは!」と無理に作ったような明るい笑顔を浮かべた。
「ごめんごめん! 今のなんか重かったよね! 気にしないで! 突然変なこと聞いてさ――」
慌てて手を振る先輩の指先が寒さのせいか、少しだけ震えているのが見えた。
「いや、俺は……」
「……ううん。無理に入ってなんて言わないよ。機材運ぶの手伝ってくれただけで十分。ありがとね衣織くん」
先輩はそう言って、寂しさを隠すように微笑んだ。その寂しそうな笑顔を見た瞬間、胸の奥のモヤモヤとした葛藤が一気に吹き飛んだ。
下心があるのは事実だ。先輩と二人きりで過ごせるキャンパスライフを「最高かもしれない」と思ってしまった自分もいる。でもそれの何が悪いんだ?
テニサーの新歓で、ノリについていけずに逃げ出したあの日の夜、俺は激しく後悔した。何も行動を起こさないまま、傷つかない安全な場所で終わっていく自分のことが大嫌いだった。
でも今は違う。目の前には一人になっても大好きな星を見上げ続けている、不器用で、一生懸命で、とびきり魅力的な先輩がいる。そんな人が、を必要としてくれている。
流れでも下心でもいい。ここで一歩踏み出さなきゃ、俺は一生このままだ。
ゴクリ、と喉を鳴らして、俺は冷たくなった缶コーヒーをベンチの横に置いた。そして夜空から視線を落とした先輩の目をまっすぐに見つめ返す。
「先輩」
「ん?」
「俺、入ります」
「え……?」
先輩の大きな瞳が驚きでさらに丸くなった。
「天文部、星のこととかカメラとか何もわからないですけど……俺にも手伝わせてください。不純な動機かもしれないですけど……」
「ふ、不純な動機!?」
急に真っ直ぐ宣言されたからか先輩の頬が街灯の光の中でも分かるくらい、ふっと赤くなった。
「あ、いや!変な意味じゃなくて!その……大学に入ってから毎日つまらなくて、下ばっかり見て歩いてたんですけど、さっき先輩に言われて上を向いたら、あんなに綺麗な木星が見えて。俺、感動したんです」
一気にまくし立てる。心臓のバクバク音が静かな芝生広場に響いてしまいそうだった。
「だから……先輩が一人で守ってきたその場所を俺も一緒に見たいです。機材だって、これからいくらでも俺が運びますから」
言い切ると、急に恥ずかしさが襲ってきて、今度は俺の方が視線を泳がせてしまった。静寂が二人を包み込む。
やばい、調子に乗りすぎただろうか。やっぱり引かれたかもしれない。そう思った瞬間――。
「……ぷっ、あはははは!」
先輩が突然、お腹を抱えて笑い出した。
「な、何ですか先輩!」
「いや、だって……あはは! 衣織くん真面目な顔して『不純な動機』なんて言うからどんな下心かと思ったら……ただのピュアな男の子じゃん!」
先輩は涙を浮かべながら笑い、それから本当に嬉しそうに、 慈しむような優しい笑みを俺に向けた。
「……ほんとに入ってくれるの?」
「はい。嘘じゃないですよ」
勢いだけで口から出た言葉に自分でも驚いて心臓が跳ね上がる。
「先輩のこと」なんて、完全にドサクサに紛れて口にしていた。
「……そっか。入ってくれるんだ」
先輩はそう呟くと一歩、また一歩と俺との距離を詰めてきた。初夏の生ぬるい風が先輩の甘い香りをもう一度俺の鼻腔に届ける。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った芝生広場で、先輩は俺の目の前まで来ると、その綺麗な瞳でじっと俺を見上げてきた。
「じゃあ今日から立河衣織くんは、天文部の新入部員ね! 私が部長の星野美玲。よろしくね、衣織くん」
先輩は満足そうに胸を張ると、小さくて細い手を俺の前に差し出してきた。街灯の光に照らされたその手は少しだけ白く光って見えた。
「はい。よろしくお願いします、美玲先輩」
俺がそう言ってその手を握り返すと、美玲先輩は「あ、美玲先輩って呼んだ!」と嬉しそうに目を細めた。細い指先からはさっきまで脚立にしがみついていた時の冷たさと、それとは対照的な、驚くほどあたたかい体温が伝わってくる。
「よーし! そうと決まれば、新入部員歓迎の特別レクチャーといきますか!」
「え、今からですか?」
「当然! 今日の星空は一晩中最高なんだから。ほら次はあっちの明るい星を狙うよ。あれはね――」
さっきまでの弱々しさはどこへやら、先輩はいつもの台風のようなテンションを取り戻し、俺の手を引いて望遠鏡へと引っ張っていく。
5月の終わり。あれほど重苦しかった灰色の日常はもうどこにもなかった。下ばかり向いて歩いていた俺の視界に満天の星空と、一人の眩しい先輩が飛び込んできた。ただの「通行人」でしかなかった俺の大学生活がこの場所から、熱を帯びて静かに動き始めた。
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