Under the stars
『ミッドナイトランデヴー』をよろしくお願いします!
楽しくて綺麗な青春ラブコメとなっております!
5月の終わり。大学のキャンパスは既にできあがった"グループ"たちの熱気で満ちていた。4月の初めの、あの誰もがキョロキョロと周囲を伺っていた独特な空気はもうない。すっかり大学に馴染んだ奴らは気の合う友人たちと談笑しながら、新緑の並木道を歩いている。
その間を俺――立河衣織は視線を斜め下に落としたまま、すり抜けるように歩いていた。
(……いいなぁ)
すれ違った男女の二人組が、何がおかしいのか顔を見合わせて笑う。女の子の軽い笑い声が初夏の生ぬるい風に溶けていく。
大学に入ったら、勝手にきらきらした生活が始まるものだと思っていた。友達に囲まれて、毎日のように居酒屋やカラオケでバカ騒ぎして。そのうち自然と気が合う女の子と出会って、大切な彼女ができる……そんな、ありきたりで、でも最高のキャンパスライフ。
現実は驚くほど何も起きなかった。
「……はぁ」
ため息が足元のコンクリートに吸い込まれる。受け身な自分が悪いのは分かっている。でもどうすればいいのかが分からないのだ。4月に入った経済学部の講義には生真面目に出席している。サボるだけの度胸もない。かといって、前列で教授の話に熱心に耳を傾けるわけでもない。いつも後ろの方の席に座り、スマホをいじるか、ノートの端に落書きをして時間を潰す。
堕落したとも言えない、中途半端に真面目なだけの灰色の日々。サークルだって、4月の最初に一つだけテニサーの見学に行った。けれど、新歓のコールと内輪のノリに圧倒され、笑顔の仮面を貼り付けたまま、逃げるように帰ってきてしまった。
気づけばもうすぐ6月だ。このままじゃ、本当にマズいかもしれない。大学の4年間を俺はただの「通行人」として終わらせてしまうのだろうか。
気がつけば、いつの間にか陽はとっぷりと暮れていた。四限の講義が終わった後、なんとなく帰るのが億劫で、図書館の自習室でスマホをいじっていたら、いつの間にか閉館時間を過ぎていたのだ。
夜のキャンパスは昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。ぽつぽつと灯る街灯が長く伸びた自分の影を地面に映し出す。急に寂しさが押し寄せてきて、俺は歩調を速めた。早くアパートに帰って、コンビニの弁当を食べて寝よう。それしかない。
「あー、もうっ!なんであと数センチ届かないかなぁ……!」
静まり返った構内に突飛な声が響いた。はっきりと聞こえる、透き通った、でも焦りを含んだ女の子の声。俺は思わず足を止めた。声のした方を見る。講義棟の裏手、普段は学生もあまり立ち入らない、古い資材置き場の近く。そこにある1本の大きな銀杏の木の根元に、誰かがいた。
街灯の光に照らされて浮かび上がっていたのは1人の女子学生だった。彼女はどこから持ってきたのか、お世辞にも安定しているとは言えない年季の入った脚立の上に立っていた。白いブラウスにネイビーのロングスカート。そんなお洒落な格好をしているのに、両手には不釣り合いなほど大きな、大砲のような黒い筒を抱えている。
「よいしょ、っと……あ、危なっ!?」
彼女の身体がグラリと大きく揺れた。脚立の足が、土の地面にめり込んで傾いたのだ。
「うわ、ちょっと……っ!」
「危ない!」
考えるより先に身体が動いていた。いつもなら「関わらないでおこう」とスルーするはずの俺がなぜかその時は、地面を蹴って駆け出していた。
ガシャ、と派手な音を立てて脚立が倒れる。それと同時に俺は飛び込むようにして彼女の身体を受け止めた。
「ぶふっ……!」
思った以上の衝撃が全身に走る。
背中から容赦なく地面に叩きつけられ、目の前が一瞬チカチカした。息が詰まる。けれど、腕の中には確かに柔らかくて、ほんのり甘い香りのする「誰か」の重みがあった。
「つ、つうう……痛たた……」
「あ、あの……大丈夫ですか?」
腕の中で声がした。恐る恐る目を開けると、すぐ目の前に大きな瞳があった。綺麗な二重まぶた。街灯の光を反射して、夜空みたいにキラキラと輝いている瞳が至近距離で俺を見つめていた。彼女の黒髪が、俺の頬をチクチクと刺す。自分が今、とんでもない状況にあることに気づき、心臓が爆発しそうなほど跳ね上がった。
「す、すみません! 大丈夫ですか!?」
慌てて手を離し、飛び退くようにして起き上がる。彼女もまたスカートの砂を払いながら「痛た……」と腰を押さえて立ち上がった。
「あ、ううん、大丈夫! むしろありがとう!君が受け止めてくれなかったら、今頃頭からコンクリートに突っ込んで、星を見る前に私が星になってたところだった」
彼女はそう言って、へらっと屈託のない笑顔を浮かべた。
……綺麗な人だ。少し大人びて見える。先輩だろうか。
「……それは大丈夫なんですか?」
俺は地面に転がっている大きな黒い筒を指差した。彼女は「あ!」と声を上げると、大慌てでその筒を抱き起こした。
「よかった……! 奇跡的にレンズは無傷! こいつが入院することになったらうちの部は完全に破産するところだったよ……」
胸を撫で下ろす彼女を見て、俺は思わず首を傾げた。
「レンズ?」
「気になる?望遠鏡だよ。ポルタII A80Mf。初心者用だけど、すごくいい仕事をする可愛い子なんだ」
彼女は愛おしそうにその筒を撫でる。望遠鏡。そんな単語、理科の授業以来、聞いたことがなかった。
「夜に大学の敷地内で天体観測……ですか?」
「そう! 今日の夜はね、月が出てなくて星を見るには最高条件なの。本当は屋上に行きたかったんだけど、鍵の管理をしてる学生課の職員に『ダメだよ』って怒られちゃってさ。仕方が無いから、ここで木の間から見える木星を狙ってたんだけど……」
彼女は不満そうに唇を尖らせた。早口で距離感が近い。いつも周囲の顔色を伺って生きている俺にとって、彼女のその台風のような空気感は、新鮮で、少しだけ眩しかった。
「君、名前は?」
唐突に尋ねられ、俺はドギマギしながら答えた。
「立河です。立河衣織経済学部の1年です」
「衣織くんね! 私は星野美玲文学部の2年。じゃあ私が先輩だね」
星野先輩はふふっと悪戯っぽく笑った。
「ねえ衣織くん。今、時間ある?」
「え? あ、はい。帰るだけですけど……」
「決まり!」
星野先輩は俺の腕をがしっと掴んだ。細い指なのに驚くほど強い力だった。
「助けてもらってなんだけどさ……もうちょっとだけ私を助けてくれない?」
「え?」
俺が戸惑うのもお構いなしに星野先輩は倒れた脚立をひょいと起こし、その場に手際よく望遠鏡をセットし直していく。
「さっきも言った通り、ここだと木が邪魔でさ。あっちの開けた芝生広場までこれを持っていきたいんだけど、私一人じゃこの大砲と脚立を一度に運ぶのは無理でしょ? だから衣織くんに手伝ってほしいの」
「いやでも、俺……」
「これはお礼でもあるんだよ?」
先輩はセットしかけた望遠鏡から顔を上げ、悪戯っぽくウインクした。
「お礼ですか?」
「そう。私を助けてくれたお礼に最高の星空を見せてあげる。ちゃんと見れたら、街の中のこんなキャンパスからでも、何よりも綺麗なんだから!」
「そうですか……じゃあ手伝います」
「やった!」
自信満々に胸を張る先輩の勢いに気圧され、俺はそれ以上断る言葉を見つけられなかった。あと……大学に入ってこんなかわいい人と初めて話したから正直もうちょっと一緒にいたかった。
「よーし! 行こう!」
星野先輩はそう言って、両手で大事そうに望遠鏡の筒を抱えると、夜のキャンパスを意気揚々と歩き出した。
「あ……脚立と三脚は俺が持ちます」
「頼んだ衣織くん! 意外と重いから気をつけてね」
振り返った先輩が街灯の光の中でにこっと笑う。言われた通り、ずっしりとした金属の重みが両腕にかかった。けれど、不思議と嫌な重さじゃない。むしろさっきまで俺の心を占めていた、あの泥みたいに重いため息がどこかへ吹き飛んでいくような感覚があった。
一歩引いた「通行人」の視界から抜け出して、先輩のネイビーのロングスカートが夜風に揺れるのをすぐ後ろから追いかけている。
(……なんか夢みたいだな)
少し緊張しながらも、俺の足取りは自然と軽くなっていた。
「ほらあそこ!あそこなら遮るものもないし、バッチリだよ!」
先輩が示したのは講義棟の間に広がる中央の芝生広場だった。昼間はたくさんの学生が寝転がったりサークルのミーティングをしたりしている場所だが今は完全に静まり返り、まるで俺たち2人だけのプライベート空間のようだった。
「よし、ここに設置しよう。衣織くん、そこに三脚を立ててくれる?」
「あ、はい。こうですか?」
「そうそう、上手上手。じゃあそこにこの子を載せるから……ちょっと支えてて」
手際よく指示を出す先輩の顔はさっきまでのコミカルな雰囲気から一転して、真剣そのものだった。作業の途中、先輩の指先が俺の手にそっと触れる。驚くほど冷たいのに触れた場所から熱が広がっていくようで、心臓の鼓動がまた少し速くなった。
「……よし、セッティング完了!」
先輩は満足そうにパチリと手を叩くと、かがみ込んで望遠鏡のレンズを覗き込み、いくつかのネジをカチカチと細かく調整し始めた。
「うーん……もうちょっと右かな。あ、行き過ぎ……よし捉えた!」
勢いよく顔を上げた先輩は満面の笑みで俺を振り返り、ポンポンと望遠鏡の横を叩いた。
「さあ、お待たせ! 記念すべき今夜最初の観測者は衣織くんだよ。ここに片目を近づけて、覗いてみて」
「え、俺が最初でいいんですか?」
「もちろん。命の恩人の特権。ほらほら、早く!」
促されるまま、俺は緊張で強張る身体をかがめ、小さな接眼レンズにそっと片目を近づけた。
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