第99話 未照合の予定
三日後予定。
その表示は、朝になっても残っていた。
【三日後予定:未照合】
昨日と同じ。
ただ、同じに見えることが、今朝は少し気味悪かった。
消えていない。
進んでもいない。
ただ、そこに残っている。
予定というものは、本来なら人間の側にある。
何日に来る。
どこに座る。
何を食べる。
水をどこに置く。
そういう、まだ起きていないことを、こちらが先に決めるためのものだ。
けれど、端末に表示された途端、それは予定ではなく、記録に近づく。
まだ起きていないのに、もう見られている。
アルトは画面を閉じた。
「気に入らないな」
ブルーノが紙を持ったまま顔を上げる。
「表示そのものが、ですか」
「予定まで向こうの言葉になるのが」
マルタが厨房で芋を洗っていた。
ざり。
ざり。
今日はいつもより多い。
三日後のために増やした分もある。
けれど、それを口に出すと、また名前がつきそうだった。
「こっちの予定はこっちの予定だよ」
マルタが言う。
「画面に出たからって、向こうのものになるわけじゃない」
「でも見られてる」
「見られても、煮るのはこっち」
芋が水の中で転がる。
ごろ。
その音だけで、少し腹が減る。
ミアが横から覗き込んだ。
「今日も芋多い」
「多いね」
「三日後の?」
「今日の分もあるよ」
「三日後の芋、今日食べたら?」
「ただの今日の芋になる」
ミアは目を丸くした。
「三日後、減る」
「だから食べすぎない」
「難しい」
「難しくないよ。つまみ食いしなきゃいい」
ミアは露骨に目を逸らした。
マルタが包丁を持ったまま言う。
「今、何か考えたね」
「考えてない」
「考えた顔だよ」
「芋の顔はしてた」
「それを考えたって言うんだよ」
アルトは少し笑った。
予定が画面に出ても、芋は水の中で転がる。
三日後のための芋も、今洗えば今の音を立てる。
それが少し、救いだった。
◇
朝食の前に、三日後席を見た。
真ん中の席。
入口が見える。
厨房が見える。
傷は、見ようとすれば見える。
普通に座れば見えない。
ミナが、その席に水を置いた。
こと。
昨日決めた場所。
少しだけ、椀から離す。
手を伸ばせば届くが、視界の中央には入らない位置。
レオンが来た時、何も言わなくても水があると分かる場所。
水面は静かだった。
アルトはそれを見た。
見て、少し安心しかけた。
その時、水面が揺れた。
誰も触れていない。
床も揺れていない。
戸口も閉じている。
鈴も鳴っていない。
ただ、三日後席の水だけが、小さく丸く揺れた。
一度。
それから、もう一度。
ミナが息を止める。
ミアが芋の籠を抱えたまま固まる。
アルトは椅子へ近づいた。
「触るな」
自分で言って、自分にも言い聞かせる。
水に触れない。
席にも触れない。
見る。
見すぎない。
ブルーノが端末を開く。
布はすでに敷いてある。
最近、布の方が先に出るようになった。
画面に表示が出た。
【三日後予定:未照合】
【予定反応:微弱】
【対象反応:変化なし】
【外部注視圧:低位】
アルトは眉を寄せる。
「予定反応」
ブルーノが頷く。
「対象反応ではありません」
「傷は動いてない」
「はい」
「神々でもない」
「外部注視圧は低位です」
つまり。
誰かが見たからではない。
傷の発信側が強く反応したわけでもない。
ただ、予定だけが微かに揺れた。
マルタが水面を見て言った。
「来る前の緊張みたいなものかね」
「水にも緊張があるのか」
アルトが聞く。
「うちの水は働き者だからね」
ミアが小さく言う。
「水、えらい」
「そうだな」
「紙もえらい」
「紙もえらい」
「芋は?」
マルタが即答する。
「芋は前からえらい」
ミアは大きく頷いた。
場が少し緩む。
だが、水面の揺れは消えたわけではなかった。
揺れた事実だけが残っている。
予定が、少しだけ触れられた。
そう感じた。
◇
レオンから連絡が来たのは、その直後だった。
《道を確認しました》
アルトは画面を見る。
来る日を決めた翌日。
道を確認した。
ただそれだけの文。
しかし、三日後席の水が揺れた直後に来ると、ただの報告には見えない。
《どこまで》
既読。
少し間。
《赤猫亭のある通りの手前までです》
《来たのか》
《行っていません》
さらに間。
《確認だけです》
確かめに来るのではない。
食べに来る。
そのはずなのに、道を確認する行為は、確かめることに似ている。
アルトは返信に迷った。
急ぐな。
それはもう言った。
水を置け。
それも言った。
座れ。
それも。
今必要なのは、別の言葉だ。
《道は逃げない》
送ってから、少し変な文だと思った。
だが、消せない。
既読がつく。
長い間。
《はい》
それから。
《でも、自分が逃げそうで》
アルトは息を吸った。
店の中の音が少し遠くなる。
マルタがこちらを見る。
ミアも見る。
ルナは水を持ったまま、視線を落とした。
《逃げてもいい》
打って、止める。
それだけでは違う。
逃げてもいい。
来てもいい。
だが、どちらも自分で決めなければ意味がない。
アルトは打ち直した。
《逃げる日も、自分で決めろ》
既読。
かなり長く返事がない。
アルトは端末を握りしめそうになって、手を緩めた。
強く持っても返事は早くならない。
レオンは今、返事を一つ遅らせている。
待つ。
赤猫亭の待つ。
ただ待つのではない。
芋を煮ながら待つ。
水を置きながら待つ。
席を空けながら待つ。
やがて、返事が来た。
《今日は逃げません》
アルトは、少しだけ笑った。
《明日は》
《明日決めます》
いい返事だった。
かなりいい返事だった。
《聞いた》
送る。
今度はそれだけでよかった。
◇
朝食は少し遅れた。
でも、ちゃんと食べた。
芋のスープ。
黒パン。
水。
茶。
三日後席の水は替えた。
揺れた水をそのままにしない。
ミナが新しい水を置く。
こと。
今度は揺れない。
ミアはそれを見ていた。
「水、交代」
「そうだな」
「働いたから?」
「たぶん」
「水、おつかれ」
ミアは真面目に言った。
マルタが笑わずに頷く。
「あとで流しに返すよ」
「水、帰る?」
「流れる」
「流れるのは帰る?」
「場合による」
ミアは難しい顔をした。
「水は難しい」
「水に限らないよ」
マルタはスープをよそう。
その声は軽い。
でも、少しだけ奥があった。
ルナが三日後席の水を見ている。
自分のコップも持っている。
昨日決めた合図の位置に、今日は何も置いていない。
言える時は、置かなくていい。
言えない時のために、場所だけがある。
ルナは言った。
「予定は、呼び方に似ています」
ブルーノがペンを持ちかける。
マルタが見る。
ブルーノはペンを置いた。
「今は聞きます」
ルナは続ける。
「まだ起きていないことに向かって、こちらから形を作るからです。けれど、予定は呼び方そのものではありません」
アルトは聞く。
「何が違う」
「予定は、相手が来なくても残ります」
その言葉は、少し痛かった。
三日後席。
水。
芋。
来る日。
もしレオンが来なかったとしても、予定は残る。
来なかった席として。
来られなかった日として。
アルトはスープを飲んだ。
熱い。
今朝はその熱さが必要だった。
「だから、向こうは予定を見ているのか」
ブルーノが言う。
「予定が、呼称残滓に近い形を持っているからかもしれません」
アルトは傷を見る。
見すぎない。
傷は動いていない。
「呼称残滓は、読めるのか」
その問いに、店の中の音が一段静かになった。
ルナは水を飲む。
ブルーノは端末ではなく、紙を見た。
ガルドが先に言った。
「読むものじゃないんだろ」
アルトはガルドを見る。
ガルドは壁にもたれている。
「傷も同じだ。傷は読まん。どうついたか、何で痛むか、どこを避けるかを見る。読むんじゃなく、扱う」
ルナは頷いた。
「近いです」
ブルーノも言う。
「無理に読むと、こちらの呼び方で補ってしまう危険があります。ですが、正しい呼び方が近づいた時、残滓の方が薄くなる可能性はあります」
「薄くなる?」
「はい。こちらが解読するのではなく、向こうの残りが、自分の形を保つ必要を失う」
アルトはゆっくり息を吐いた。
読む条件。
それは、解析ではない。
正しい呼び方が近づくこと。
あるいは、呼ばれるべき相手が、呼ばれるための場所に近づくこと。
「レオンが来ることか」
ブルーノはすぐ否定しなかった。
「可能性はあります。ただし、レオンさんが該当者という意味ではありません。自分で来る者が赤猫亭に近づくことで、戻る場所を作ろうとした発信側の残滓が反応する可能性です」
マルタがため息をついた。
「難しいね」
ミアが芋を食べながら言う。
「レオンが来たら、さみしいのが少し薄くなる?」
誰も笑わなかった。
ただ、その言い方が一番分かりやすかった。
アルトは頷く。
「そうかもしれない」
ミアは芋を飲み込んだ。
「じゃあ、芋も多め」
「結局そこか」
「薄くなるなら、お腹すく」
マルタが吹き出した。
今度は我慢しなかった。
「よし、多めにしよう」
重い理屈の真ん中に、芋が割り込んだ。
赤猫亭では、だいたいそうなる。
◇
昼過ぎ、外部注視圧が少し上がった。
配信を開いていないのに、通知が増えている。
昨日の「三日後、客が一人来る予定です」が、まだ尾を引いているのだろう。
ブルーノが画面を見る。
【外部注視圧:微増】
【境界宣言:有効】
【三日後予定:未照合】
【予定反応:微弱】
アルトは画面を見て、少し考えた。
「今日は何も出さない」
ブルーノが頷く。
「はい」
「ただ、閉じるだけでもない」
「どうしますか」
アルトは店を見る。
普通の客がいる。
今日の人ではない。
ただの客だ。
窓際でスープを飲んでいる。
傷の机には近づかない。
三日後席は空いている。
水は置かれている。
マルタは厨房で芋を煮ている。
ミアは皿を拭いている。
ルナは自分のコップを持っている。
これを見せる必要はない。
だが、外から押されていることは分かっている。
アルトは端末に一文だけ打った。
《赤猫亭、準備中》
送信しない。
入力欄に置いたまま。
ブルーノが見る。
「送らないのですか」
「まだ」
「では、なぜ打ったのですか」
「こっちが何を出すか、先に形にしておく」
マルタが厨房から言う。
「出す前の味見みたいなもんだね」
「文にも味見があるのか」
「あるよ。変な味なら出さない」
ミアが顔を上げる。
「文、食べる?」
「食べない」
「味見なのに?」
「例えだよ」
ミアは少し不満そうだった。
アルトは入力欄を見た。
《赤猫亭、準備中》
悪くない。
だが、今日は送らない。
入力欄を閉じる。
外部注視圧は少し上がったままだが、それ以上は跳ねなかった。
出さない文にも、意味がある。
少なくとも、こちらの中では。
◇
午後、席の準備を少し変えた。
昨日決めた真ん中の席。
今日、そこに置く椀を選ぶ。
マルタは戸棚から三つ出した。
一つは普通の椀。
一つは少し大きい椀。
一つは縁が欠けた古い椀。
ミアがすぐ言う。
「欠けてる」
「欠けてるね」
「だめ?」
「だめじゃない」
マルタは古い椀を手に取る。
「これは昔からある。欠けてるけど、手に馴染む」
「レオン、欠けてるの使う?」
ミアの声に悪気はない。
だが、少しだけ店の中が静かになる。
アルトはミアを見る。
ミアはすぐ気づいた。
「違う?」
マルタが言った。
「違わない。でも、今日は普通のにしよう」
「なんで?」
「初めて来る客に、いきなり店の古い傷を持たせなくていい」
ミアは椀を見る。
それから、机の傷を見ないようにしながら、頷いた。
「普通の椀」
「そう」
「でも欠けてるのも、だめじゃない」
「そう」
アルトは古い椀を見た。
欠けていても使える。
だが、初めての日には渡さない。
これも距離だった。
マルタは普通の椀を三日後席に置いた。
まだ何も入っていない。
空の椀。
水。
席。
予定。
未照合。
そこに、小さな緊張がある。
ガルムが席の下の匂いを嗅いだ。
「何かあるか」
アルトが聞く。
「まだない」
「まだ?」
「三日後の匂いは、まだ来ていない」
ミアが驚く。
「三日後、匂いある?」
「来ればある」
「じゃあ、今は?」
「今日の匂い」
ミアは納得した。
「今日の席」
マルタがすぐ言う。
「名前を増やさない」
「仮もだめ?」
「今日はだめ」
「今日は今日なのに」
「ややこしいからだよ」
アルトはまた笑った。
三日後席を準備しているのに、今日の名前が増えていく。
予定とは、そういうものかもしれない。
◇
夕方、レオンから短い連絡が来た。
《今日は、道を見ませんでした》
アルトは端末を見る。
《水は》
《置いています》
《座っているか》
《座っています》
《逃げる日は》
送ってから、少し強すぎたかと思った。
だが、既読の後、返事は落ち着いていた。
《今日は決めません》
アルトは画面を見た。
逃げる日を決めるでもなく。
逃げない日を決めるでもなく。
今日は決めない。
それも選択だった。
《分かった》
既読。
《でも、三日後は行きます》
アルトは少しだけ息を吐いた。
《聞いた》
《芋は》
《多め》
既読。
いつもより早く返事が来た。
《ありがとうございます》
アルトは笑った。
芋の返事だけ早い。
いい傾向なのか、悪い傾向なのかは分からない。
たぶん、いい。
◇
夜、傷を見る時間を短くした。
今日は、半分よりさらに少し短い。
マルタが砂時計を返して、途中で指で止めた。
「今日はここ」
ブルーノが端末を見る。
【対象反応:低位安定】
【反応方向:発信側】
【発信意図:帰還補助】
【照合候補:呼称残滓】
【三日後予定:参照待機】
アルトは最後の行を見た。
「参照待機」
未照合から変わった。
照合されたわけではない。
だが、待機になった。
「向こうが待っているのか」
ブルーノは首を横に振る。
「待機、という言葉は危険です。旧待機区画を連想します」
「じゃあ何だ」
「まだ繋がっていないが、変化を検出する準備状態。そう読むのが近いと思います」
マルタが言う。
「見張られてるってこと?」
「見張りとは少し違います」
ブルーノは珍しく、そこで言い切った。
「予定が動いた時に、反応する構えです」
アルトは三日後席を見る。
水。
空の椀。
真ん中の椅子。
まだ誰も座っていない。
だが、予定がある。
来る者がいる。
その予定が、向こうのどこかに引っかかり始めている。
レオン本人ではない。
傷そのものでもない。
予定。
自分で来ると決めた者の予定。
アルトは言った。
「明日は、準備しすぎない」
マルタが頷く。
「そうだね」
「席も、水も、椀も決めた。あとは煮る」
「芋をね」
「芋を」
ミアが遠くから言った。
「多め!」
「分かってるよ!」
マルタの声が返る。
そのやり取りで、少しだけ緊張が下がった。
◇
寝る前、ルナが三日後席の横に立っていた。
ひとりではない。
アルトが近くにいる。
彼女の手には水がある。
置いてはいない。
「予定は、怖いです」
ルナが言った。
「来るかもしれないものを、先に形にしてしまうから」
「そうだな」
「でも、予定がないと、迎えられません」
「ああ」
「旧待機区画には、予定があったのでしょうか」
アルトは答えられなかった。
帰還準備。
未完了。
帰還先、未成立。
停止不能。
呼称履歴、破損。
そこに予定はあったのか。
ただ待つ形だけがあったのか。
ルナは自分で答えた。
「たぶん、形だけでした」
「予定じゃなくて?」
「はい。予定には、誰かが何かをする余地があります。あそこには、それがなかったのだと思います」
アルトは三日後席を見る。
明日も空ける。
明後日、レオンが来る。
来ない可能性もある。
逃げる可能性もある。
それでも、芋を煮る。
水を置く。
席を空ける。
それは待機ではなく、予定だ。
「じゃあ、これは予定だな」
アルトが言う。
ルナは頷いた。
「はい」
少しだけ、安心したように。
アルトは灯りを落とす前に、端末を確認した。
【三日後予定:参照待機】
【対象反応:低位安定】
【外部注視圧:低下】
【境界宣言:有効】
【接触者影響:経過観察】
ミアはまだ経過観察。
レオンの予定は参照待機。
傷は低位安定。
全部、完全には終わっていない。
でも、全部が暴れているわけでもない。
アルトは画面を閉じる。
下で、マルタが芋を水に浸す音がした。
ざぶ。
明日のため。
三日後のため。
いや、明後日のため。
予定は少しずつ近づいている。
アルトは横になる。
道は逃げない。
芋も、たぶん逃げない。
逃げる日も、来る日も、自分で決める。
そのために、赤猫亭は席を一つ空けている。




