第98話 呼び方の残り
呼称残滓。
その言葉は、朝になっても消えなかった。
端末の画面に出ているわけではない。
机の傷が、その形になっているわけでもない。
ただ、店の中に残っていた。
呼び方の残り。
名前の残りではない。
声の残りでもない。
誰かが、誰かへ向けて呼ぼうとした形の残り。
ブルーノは朝から紙の前に座っていた。
何も書いていない。
ペンを持ち、置き、また持ち、また置く。
それを三回繰り返して、マルタに見つかった。
「紙がかわいそうだよ」
「書いていません」
「だからだよ」
ブルーノはペンを置いた。
「書くと、決まりすぎる気がします」
「書かないと、あんたが固まる」
「それも困ります」
「じゃあ、薄く書きな」
「薄く?」
「濃く書くから偉そうになるんだよ」
ブルーノはしばらく考え、ペンを少し寝かせた。
紙の端に、小さく書く。
【呼称残滓】
それから、さらに小さく。
【名前ではない】
マルタはそれを見て頷いた。
「それくらいなら、紙も我慢する」
「紙にも我慢があるのですか」
「あるよ。うちの紙は特に苦労してる」
ミアが横から覗き込む。
「紙、えらい?」
「えらい」
「じゃあ紙にも芋?」
「食べないよ」
「じゃあ、えらいだけ?」
「そういう日もある」
ミアは納得したような、していないような顔で頷いた。
アルトはその横で茶を飲んでいた。
昨日より少しだけ、朝の音が戻っている。
鍋。
器。
水。
紙。
ペン。
そして、芋。
重い言葉の横に、芋がある。
それだけで、赤猫亭は少し強かった。
◇
机の傷を見る時間は、今日は朝食の後にした。
先に食べる。
マルタが決めた。
「腹が空いたまま見ると、何でも大きく見える」
「本当か」
アルトが聞く。
「知らないけど、腹が空くと人はだいたい面倒になる」
「それは本当だな」
「だろ」
普通の芋のスープが出る。
黒パン。
水。
茶。
そして、今日は小さな焼き芋も出た。
ミアが目を丸くする。
「朝から焼き芋」
「今日は席を決めるからね」
「席と芋?」
「関係ある」
「どう関係ある?」
マルタは即答した。
「座る場所を決める時、人はだいたい口がさみしい」
ブルーノが真面目に頷きかけた。
アルトが止めた。
「今のは記録しなくていい」
「ですが、赤猫亭の運用上――」
「しなくていい」
ミアは焼き芋を両手で持った。
熱い。
ふう、と息を吹きかける。
「レオンの席、どこ?」
その言葉で、店の空気が少し変わった。
重くはならなかった。
ただ、全員が同じ方向を見る。
奥の席。
傷のある机。
窓際。
入口に近い席。
厨房に近い席。
どこに座らせるか。
それは、ただの席決めではない。
レオンが三日後、確かめるためではなく、食べに来る。
その人を、どこで迎えるか。
マルタは焼き芋を割りながら言った。
「傷の机はだめ」
「だろうな」
アルトが答える。
「入口のすぐ横もだめ」
ガルムが言った。
珍しく早い。
「近すぎる」
「じゃあ奥?」
ミアが言う。
ガルドが首を横に振った。
「奥は逃げ道が遠い」
「逃げるの?」
「逃げなくていい席がいい」
ミアはさらに考える。
「じゃあ真ん中?」
全員が店の真ん中を見る。
真ん中の席。
厨房から見える。
入口も見える。
傷の机から少し離れている。
水を置きやすい。
マルタが頷いた。
「悪くない」
アルトも見る。
真ん中の席は、特別ではない。
でも、放っておかれもしない。
レオンには、それくらいがいい気がした。
「そこだな」
アルトが言った。
ミアは焼き芋をかじりながら、真ん中の席を見た。
「レオン席」
マルタがすぐ言う。
「名前をつけすぎない」
「仮」
「仮が増えすぎだよ」
「じゃあ、三日だけレオン席」
マルタは少し考えた。
「三日だけならいい」
ブルーノが小さく書きかける。
アルトが見る。
ブルーノはペンを止めた。
「……書きません」
「えらい」
ミアが言った。
ブルーノは少しだけ困った顔をした。
◇
朝食の後、ミアがアルトのところへ来た。
焼き芋は食べ終えている。
指は少し黄色い。
拭いたはずなのに、まだ少し残っている。
「アルト」
「何だ」
「昨日の、さみしかったやつ」
「ああ」
ミアは少しだけ視線を落とした。
「言ってよかった?」
アルトはすぐ答えなかった。
すぐ答えると、軽くなる気がした。
椅子を引いて、ミアの目線に合わせる。
今度は音を気にしなかった。
ぎい、と椅子が鳴る。
それでいい。
ちゃんとこちらを向くための音だった。
「よく分かったな」
ミアは瞬きをした。
「分かった?」
「ああ」
「ミア、分かった?」
「たぶん、俺たちより先に分かった」
ミアは口を少し開けた。
それから、閉じた。
照れているのか、困っているのか分からない顔だった。
アルトは続ける。
「怖かったのに、言ってくれて助かった」
ミアは指先を見た。
昨日、傷に触れた指。
今日、焼き芋を持った指。
「助かった?」
「ああ」
「誰が?」
「俺たちが」
ミアはしばらく黙った。
それから、急に小さく胸を張った。
「じゃあ、ミア、えらい」
「そうだな」
「でも、傷は触らない」
「それもえらい」
「芋は触る」
「それは普通だ」
「普通もえらい?」
マルタが横から言った。
「普通は、だいたいえらいよ」
ミアは満足した。
かなり満足した顔で、厨房の方へ走っていく。
「ミア、普通にえらい!」
「走るな!」
マルタの声が飛ぶ。
ミアは走るのをやめ、早歩きになった。
ほとんど走っている。
だが、本人は早歩きのつもりらしい。
アルトは少し笑った。
ミアの言葉は、ちゃんとミアに返った。
昨日、ルナの顔を崩しただけでは終わらなかった。
それでよかった。
◇
傷を見る時間。
今日は、砂時計を使う前に、ブルーノが紙を一枚置いた。
今度は濃く書いていない。
小さく、端に。
【呼称残滓】
【名前ではない】
【呼び方の残り】
アルトはそれを見る。
「呼び方の残り」
ブルーノは頷く。
「名前が残っているなら、対象の特定に近づきます。けれど、これは名前ではありません。誰かが、誰かをどう呼ぼうとしたか。その形だけが残っています」
「形だけ」
「はい。ですから、無理に読むと、こちらの呼び方で補ってしまう危険があります」
ルナが水を持っている。
今日は、最初から持っていた。
「昨日、アルトは呼んだ者の意図を聞きました」
「ああ」
「戻る場所を作ろうとしていた」
「はい」
「それは誰にとっての救いだった」
アルトが聞くと、ルナは少し目を伏せた。
この問いを待っていたようでもあり、怖がっていたようでもあった。
「呼ばれていた者にとっての救いです」
まず、そう言った。
「呼んだ者は、呼ばれていた者を責めていませんでした。帰れなかったことも、止まれなかったことも、責めていませんでした。ただ、戻れるように呼んでいました」
水面が少し揺れる。
だが、ルナはこぼさない。
「では、私にとっての救いかと言われると」
そこで、一度止まる。
水を飲む。
「違います」
はっきり言った。
アルトは黙って聞く。
「私は、呼んだ者ではありません。呼ばれていた者でもありません。聞いていた側です。呼んだ者が責めていなかったことは、呼ばれていた者への救いです。私が返せなかったことの言い訳にはなりません」
マルタが、少しだけ目を細めた。
ルナは続ける。
「でも」
その一語のあと、声が少し変わった。
「私が聞いていたものが、怒りではなかった。命令でもなかった。誰かを責める声ではなかった。それを、今は知っています」
アルトはルナを見る。
「それは、お前にとって何だ」
ルナはすぐ答えなかった。
長い沈黙。
店の外で、誰かが通る足音。
厨房で、鍋の蓋が小さく鳴る。
砂時計はまだ返していない。
時間は切られていない。
ルナはようやく答えた。
「罰ではありませんでした」
静かな言葉だった。
「私が聞いていたものは、罰ではありませんでした」
その一言で、アルトは少し息を吐いた。
ルナ自身への救いではない。
だが、罰ではないと知ること。
それは、彼女が自分を責め続ける形を、ほんの少し変える。
マルタが低く言った。
「それは、覚えておきな」
ルナは頷いた。
「はい」
今日は紙には書かなかった。
水を、少し離れた場所に置いた。
こと。
言えた合図ではなく、言った後の合図だった。
◇
砂時計を返す。
傷を見る。
黒い輪郭は、昨日より変わっていない。
端の曲がりもそのまま。
文字になりそうで、ならない。
ブルーノが端末を確認する。
【対象反応:継続】
【反応方向:発信側】
【発信意図:帰還補助】
【照合候補:呼称残滓】
【外部注視圧:低下】
安定している。
不気味なほどではない。
危険がないわけでもない。
ただ、今日は暴れない。
ミアは見ない席にいる。
けれど、顔だけ少しこちらへ向いている。
完全に見ないのではなく、見ないことを見張っているような顔だ。
アルトは少し笑いそうになった。
マルタが砂時計を見て言う。
「あと少し」
その時、戸口の鈴が鳴った。
ちりん。
全員がそちらを見る。
普通の客だった。
常連の男。
昼間から腹を空かせた顔をしている。
「やってる?」
マルタは少しだけ間を置いてから答えた。
「やってるよ」
男は店の中に入り、真ん中の席へ向かった。
レオンの三日だけ席。
ミアが立ち上がった。
「そこ、三日だけレオン席!」
店が止まった。
男も止まった。
マルタが額に手を当てた。
「言ったそばから」
男は困惑した。
「レオン?」
「三日後の人」
「俺は?」
「今日の人」
ミアが即答する。
男はますます困った顔になる。
「今日の人は、どこに座ればいいんだ」
ミアは真剣に店を見回した。
アルトは肩を震わせた。
笑ってはいけない。
でも、無理だった。
少し笑った。
マルタがため息をつく。
「窓際に座りな。今日の人」
「俺、今日の人なのか」
「今日の人だよ」
男は首を傾げながら窓際に座った。
ミアは満足そうに頷く。
「今日の人、窓際」
ブルーノがペンを動かしかける。
アルトが見た。
ブルーノは止まる。
「書きません」
「書くな」
「はい」
マルタがスープをよそいながら言った。
「まったく、席に名前をつけると面倒になるって言っただろ」
ミアは言う。
「三日だけ」
「今日もう面倒になってる」
「一日目から?」
「一日目から」
ミアは少し考えた。
「じゃあ、レオン席じゃなくて、三日後席」
男が窓際から言う。
「それ、もっと怖くないか?」
アルトは今度こそ笑った。
ルナも、ほんの少し口元を緩めた。
傷のある机の横で、くだらない席の話ができる。
それが、今は必要だった。
◇
昼過ぎ、レオンから連絡が来た。
《今日は、返事を一つ遅らせています》
アルトは読む。
すぐには返さない。
こちらも一つ遅らせる。
茶を飲む。
それから返した。
《できているか》
既読。
間。
《少し疲れます》
アルトは頷いた。
画面に向かってではない。
レオンの疲れ方が、少し分かる気がした。
急がずに返すのは、ただ遅くするだけではない。
自分の中に浮かんだ反応を、一度持って、置いて、それから選び直すことだ。
疲れるに決まっている。
《疲れたら水》
《置いています》
《座れ》
《座っています》
《なら、今日は短くする》
既読。
《はい》
そこで終わるかと思った。
だが、少しして、もう一文来た。
《三日後の席は、どこですか》
アルトは店の真ん中を見る。
三日後席。
今日の人が避けた席。
今は空いている。
《真ん中》
既読。
《入口は見えますか》
《見える》
《厨房は》
《見える》
《傷は》
アルトは少し止まった。
正直に返す。
《見ようとすれば見える。普通に座れば見えない》
返事はしばらく来なかった。
レオンは、遅らせている。
やがて。
《それがいいです》
アルトは息を吐いた。
《水を置く場所も決める》
《ありがとうございます》
《芋も出る》
既読。
長い間。
《それが一番安心しました》
アルトは少し笑った。
やはり芋は強い。
◇
夕方、席の準備をした。
三日後席。
名前をつけすぎないため、正式にはそう呼ばない。
だが、全員がそう思っている。
椅子のぐらつきをガルドが直す。
ミナが水差しを置く位置を確かめる。
マルタが「まだ三日前だよ」と言いながら、椀の数を確認する。
ミアは席の横に立ち、真剣な顔で言った。
「ここ、見える」
「何が」
アルトが聞く。
「入口」
「ああ」
「厨房」
「ああ」
「アルト」
「俺もか」
「たぶん」
「たぶんか」
「アルト、動くから」
マルタが笑った。
「確かに動くね」
アルトは少し不満だった。
「俺はそこまで落ち着きがないか」
ミアは真剣に頷いた。
「ある時と、ない時がある」
「ない時が多いみたいな言い方だな」
「昨日はなかった」
それを言われると、弱かった。
アルトは黙る。
ミアは少し慌てた。
「でも、今日はある」
「そうか」
「たぶん」
「最後にたぶんをつけるな」
ミアは少し笑った。
この席は、入口も厨房も見える。
傷は、見ようとすれば見える。
普通に座れば見えない。
それが、今のレオンにちょうどいい。
確かめに来るのではない。
食べに来る。
だから、見えすぎない席にする。
◇
夜、ルナは傷の前に立った。
ひとりではない。
アルトが少し離れている。
ミナが水を持っている。
マルタは厨房にいる。
ガルムは入口の近く。
ミアは、今日は見ない席。
ルナは言った。
「罰ではありませんでした」
二度目。
自分に言い聞かせているようだった。
「でも、責任はあります」
アルトは頷く。
「それでいい」
言ってから、少し考える。
「いや」
ルナが見る。
「それで終わりじゃない」
アルトは言い直した。
「責任があるなら、次にどうするか決める」
ルナは少し目を伏せた。
そして、水を置いた。
こと。
今日は、言葉が出ない合図だった。
アルトは待つ。
急がない。
レオンに言ったのと同じように。
返事を一つ遅らせる。
ルナは少ししてから言った。
「私は、聞いていた側です」
「ああ」
「聞いていたのに、届かせられませんでした」
「ああ」
「でも、次に聞こえた時は」
そこで止まる。
水を見る。
「ひとりで返しません」
「それは聞いた」
「はい」
ルナは顔を上げた。
「次に聞こえた時は、誰に向けられた呼び方なのかを、先に確かめます」
アルトは少しだけ目を細めた。
これは新しい。
返すか返さないかの前。
誰へ向けられているのか。
呼び方の向き。
「それを、ひとりでやるな」
「はい」
「水を置け」
「置きました」
ルナは小さく、ほんの少しだけ笑った。
アルトも頷く。
水は置かれている。
気づける。
それだけで、昨日より少し強い。
◇
寝る前、端末の表示は落ち着いていた。
【対象反応:低位安定】
【反応方向:発信側】
【発信意図:帰還補助】
【照合候補:呼称残滓】
【外部注視圧:低下】
【三日後予定:未照合】
最後の行だけが、少し気になった。
三日後予定。
未照合。
レオンの来訪が、まだ向こうの何かと結びついていない。
だが、予定としては検出されている。
アルトは画面を閉じた。
明日、もう一日ある。
その次の日もある。
そして三日後。
席は決まった。
水を置く場所も決まった。
傷はまだ残っている。
呼び方の残りも、まだそこにある。
だが、今日の人は窓際に座り、三日後席は空いたまま残った。
ミアは芋を見て、傷は見なかった。
ルナは罰ではなかったと言えた。
レオンは疲れながら返事を遅らせた。
アルトは灯りを落とす。
下で、マルタが戸締まりをする。
かちゃり。
鈴が鳴る。
ちりん。
普通の音。
その普通の音の中に、少しだけ笑いが残っていた。
今日の人。
三日後席。
紙にも芋にも我慢があるらしい。
重いものは、まだ重い。
けれど、重いものの隣に、くだらない言葉を置ける。
それが赤猫亭だった。




