表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
97/144

第97話 行く日を決める

 朝、外部注視圧は下がっていた。


 端末の表示は、昨夜のままではなかった。


【外部注視圧:下降中】


【境界宣言:有効】


【対象反応:継続】


【照合状態:不安定】


 ブルーノはそれを見て、少しだけ肩の力を抜いた。


「神々の反応は、落ち着きつつあります」


 アルトは机の傷を見る。


 見すぎない。


 けれど、見ないふりもしない。


 傷は、昨日より薄くなっていた。


 薄くなっているのに、消える感じはしない。


 紙に染みた墨を拭いても、繊維の奥に残るような、そういう薄さだった。


「対象反応は残ってる」


「はい」


「なら、神々とは別か」


 ブルーノは頷く。


「完全には切り分けられません。ただ、外部注視圧が下がっても、対象反応は継続しています。神々の注視だけで維持されているわけではない、と見ていいと思います」


「じゃあ、もっと奥だ」


 アルトが言うと、ガルドが壁にもたれたまま頷いた。


「外から覗いてる連中とは違う。これは、店についたものだ」


 マルタが湯を注ぎながら言う。


「じゃあ、店の中で見る。外に見せるんじゃなくてね」


 今日は、湯ではなく茶に近かった。


 薄く煮出した葉の匂いがする。


 マルタがいつものように、何も説明せず器を配る。


 ミアは自分の手首を見せに来た。


 赤みはほとんど消えている。


「手首」


 ミアが言う。


 アルトは見た。


「赤くない」


「痛くない」


「指は」


「覚えてる」


「そうか」


「でも、今日は芋見る」


 ミアはそう言って、残す芋の布を見た。


 触らない。


 確認もしない。


 ただ見る。


 そして、傷の方は見なかった。


「決めた通りだな」


「うん」


 ミアは胸を張った。


 その横で、ルナが自分のコップを持っていた。


 水ではない。


 茶だ。


 手は震えていない。


 ただ、机の傷には近づかない。


 昨日、水を置く位置を決めた場所に、今日は空のコップを置いていた。


 言葉にならない時の合図。


 今日はまだ使っていない。


 使わないまま、置いてある。


 それも、一つの準備だった。


 ◇


 レオンからの連絡は、朝食の途中に来た。


《今日は、返事を待ってから送ります》


 アルトは端末を見る。


 すぐには返さなかった。


 レオンが待つと言っているのなら、こちらも急がない。


 芋のスープを一口飲む。


 黒パンを割る。


 それから返した。


《分かった》


 既読。


 間。


 すぐには返事が来ない。


 レオンは待っている。


 それを見て、アルトは少しだけ息を吐いた。


 やがて、次の文が届いた。


《赤猫亭に行く日を、決めました》


 店の音が変わった。


 誰も何も落としていない。


 鍋も鳴らない。


 鈴も鳴らない。


 だが、全員が同じ文字を見た。


 ミアが、芋を口に入れたまま固まる。


 マルタが鍋の火を弱める。


 ブルーノがペンを持ちかけて、置いた。


 ルナはコップに手を添えた。


 アルトは画面を見たまま聞く。


《いつだ》


 既読。


 しばらく、返事は来ない。


 急いでいない。


 レオンは、今も待っている。


 待ってから、送っている。


《三日後》


 アルトは画面を握り直した。


 三日後。


 すぐではない。


 遠すぎもしない。


 逃げるには近い。


 準備するには短い。


 覚悟するには、ちょうど嫌な日数だった。


《自分で決めたのか》


《はい》


《誰かに言われたか》


《いいえ》


《確かめに来るのか》


 ここだけ、返事が遅かった。


 長い沈黙。


 それから。


《違います》


 さらに。


《食べに行きます》


 アルトは少しだけ笑った。


 笑ったつもりはなかった。


 でも、口元が動いた。


 マルタがそれを見て、鍋を強く混ぜた。


「じゃあ、三日後の芋は柔らかくしないとね」


 ミアが急に飲み込んだ。


「レオン、芋食べる?」


「食べに来るらしい」


「なら食べる芋」


「そうだな」


「残す芋は?」


「残す」


 ミアは頷く。


 久しぶりに、分類が戻った。


 ただし、前より少し違う。


 怖さから逃げるためではなく、来る人を迎えるための分類だった。


 アルトは返信した。


《席は空けておく》


 既読。


《ありがとうございます》


 少し間。


《行く日は、自分で決めました》


 もう一度。


 同じ言葉。


 確認ではなく、レオン自身の印のようだった。


 アルトは返す。


《聞いた》


 送信した瞬間、机の傷がわずかに濃くなった。


 ◇


 誰も触れていない。


 誰も傷を見ていなかった。


 それなのに、傷の端が、少しだけ黒くなった。


 ミアが息を呑む。


 ルナが水ではなく、茶の器を置く。


 こと。


 音が少し高い。


 アルトは机を見た。


「今、反応した」


 ブルーノが端末を開く。


 今度は布を敷いてから。


 手元は落ち着いている。


 画面に表示が出る。


【対象反応:上昇】


【外部注視圧:変化なし】


【照合状態:不安定】


【反応方向:発信側】


 アルトは最後の行を読んだ。


「発信側」


 ブルーノが息を止める。


 ガルドが壁から体を離した。


 マルタの手が鍋の柄を握る。


 ルナの顔色が変わった。


「レオンじゃないのか」


 アルトが聞く。


 ブルーノはすぐには答えない。


 だが、今度は「分かりません」で止まらなかった。


「レオンさんの決定が引き金になった可能性はあります。ただ、この反応の向きは、レオンさん本人ではありません」


「じゃあ誰だ」


「呼ばれている側ではなく」


 ブルーノは画面を見る。


「呼んでいた側に近い反応です」


 ルナの器が、少し震えた。


 こぼれない。


 だが、茶の水面が揺れる。


 アルトはルナを見る。


「呼んでいた側」


 ルナは頷く。


 声が出るまで、少し時間がかかった。


「はい」


 その一言だけで、店の温度が変わった気がした。


 呼ばれていた者。


 呼んだ者。


 ずっと曖昧だった二つのうち、傷は今、呼んだ者の方へわずかに傾いた。


 完全な答えではない。


 だが、初めて向きが出た。


 ルナは茶を飲んだ。


 一口。


 そして、言った。


「私は、その声を聞いていました」


「昨日も聞いた」


「はい」


「でも、今は違うのか」


 ルナは、傷を見なかった。


 自分の器を見ている。


「今は、少しだけ分かっています」


 アルトは黙る。


 ルナは続けた。


「その声は、呼ばれていた者を責めてはいませんでした」


 マルタが鍋の火を止めた。


 小さな音。


 かち。


「じゃあ、何をしていた」


 アルトが聞く。


 ルナはゆっくり息を吸う。


「戻る場所を、作ろうとしていました」


 誰もすぐには言葉を出さなかった。


 今のは、可能性ではなかった。


 ルナの断定だった。


「分かっています」


 ルナは言った。


「少なくとも、その声は、帰れと命じていたのではありません。戻れるように、何度も呼んでいました」


 机の傷が、また少しだけ濃くなった。


 今度は全員が見た。


 見すぎるな、と誰も言わなかった。


 今だけは、見る必要があった。


 ◇


 端末の表示が変わる。


【反応方向:発信側】


【発信履歴:残存】


【到達結果:失敗】


【再発信履歴:複数】


 その下に、初めて新しい行が出た。


【発信意図:帰還補助】


 ブルーノの手が止まった。


 マルタが低く言う。


「補助」


 ルナは目を閉じた。


 閉じて、すぐ開いた。


 逃げるためではなく、一度だけ受け止めるための瞬きだった。


「呼んだ者は、連れ戻そうとしていたのではありません」


 アルトは画面を見る。


 帰還補助。


 その言葉が、嫌なほど静かだった。


 強制でもない。


 命令でもない。


 救助にも少し似ている。


 だが、失敗した。


 何度も。


 再発信履歴、複数。


 何度も呼んだ。


 何度も届かなかった。


 それが、赤猫亭の机についた傷に残っている。


 ミアが小さく言った。


「助けようとした?」


 誰もすぐ答えなかった。


 マルタが、鍋ではなく机を見て言う。


「たぶんね」


 ミアは唇を結んだ。


「でも、届かなかった」


「ああ」


 アルトが答えた。


「届かなかった」


 ミアは自分の指先を握った。


 昨日と同じ。


 でも、今日は少し違う。


「声じゃないやつ、怒ってなかった」


 アルトはミアを見る。


「分かるのか」


「怒ってなかった」


 ミアは短く言った。


「さみしかった」


 ルナの顔が、崩れた。


 涙は出なかった。


 だが、顔が先に泣いた。


 声が追いつかなかった。


 マルタがすぐ水を取ろうとして、止める。


 ルナの前には、もう器がある。


 ルナは自分でそれを持った。


 飲む。


 喉を通す。


 それから、震える声で言った。


「そうです」


 断定だった。


「私は、それを聞いていました」


 アルトは息を吸った。


 この瞬間、傷はただの危険物ではなくなった。


 触れてはいけない。


 見すぎてもいけない。


 だが、そこには、誰かが何度も呼んだ跡がある。


 助けようとした跡がある。


 届かなかった跡がある。


 赤猫亭の傷は、少しだけ別の意味を持った。


 ◇


 昼の配信は開けなかった。


 昨日のようにコメント欄に返すこともしなかった。


 境界宣言は有効。


 外部注視圧は変化なし。


 今は、神々に見せる時ではない。


 だが、完全に閉じてもいない。


 ブルーノが配信文だけを用意する。


《赤猫亭、本日も開いています》


 アルトはそれを見て、少し考える。


「足りない」


「何を足しますか」


「席の話」


 ブルーノが顔を上げる。


 アルトは言った。


《三日後、客が一人来る予定です》


 ブルーノは一瞬、迷った。


「レオンさんのことを出しますか」


「名前は出さない」


「ですが、神々は推測します」


「するだろうな」


「よろしいのですか」


 アルトは端末を見る。


「隠さない。でも、渡しすぎない」


 ブルーノは頷く。


 送信。


《赤猫亭、本日も開いています》


《三日後、客が一人来る予定です》


 コメント欄は開かない。


 ただ、通知が跳ねた。


 数字が増える。


 外部注視圧も、少しだけ上がる。


 ブルーノが確認する。


【外部注視圧:微増】


【境界宣言:有効】


【対象反応:変化なし】


 アルトは頷いた。


 よし。


 神々の注視は揺れた。


 だが、傷は反応していない。


 レオンの来訪予定を外へ出しても、対象反応は変わらない。


 さっきの反応は、神々の期待ではない。


 傷は、別のものを見ている。


 その切り分けが、一つ進んだ。


 ◇


 午後、レオンに連絡を返した。


《三日後、席を空ける》


 既読。


《ありがとうございます》


《食べに来るんだな》


《はい》


《何を食べる》


 少し間があった。


 レオンは考えている。


 急いで返していない。


 それだけで、前より良い。


《芋》


 アルトは笑った。


 今度は、ちゃんと笑った。


《分かった》


《あと》


《水》


《水はある》


《音も》


 アルトは画面を見た。


《音はある》


《でも、確かめに行くのではありません》


 レオンの文は、少し震えているように見えた。


 文字が震えるはずはない。


 それでも、そう見えた。


《食べに行きます》


 アルトは返信した。


《待ってる》


 打ってから、少し迷う。


 待っている。


 それは、待機区画の言葉に近い。


 だが、赤猫亭の待つは違う。


 待つだけの場所ではない。


 水を出し、芋を煮て、席を空けて、来なければ次の日も開ける。


 アルトは文を変えなかった。


《待ってる》


 送信。


 既読。


 返事はすぐ来なかった。


 遅らせている。


 それでいい。


 やがて。


《行きます》


 その一文が来た。


 アルトは端末を伏せた。


 店の奥で、マルタが芋を洗う音がした。


 ざり。


 ざり。


 その音が、やけに強く聞こえた。


 ◇


 夕方、ミアは残す芋の布を直した。


 今日二度目だった。


 触る場所は布だけ。


 芋には触らない。


 傷にも触らない。


 自分で決めた通りに動いている。


「三日後、芋増える?」


「増えるな」


 アルトが答える。


「レオンの分」


「ああ」


「神様の分は?」


「ない」


「見てるだけ?」


「見てるだけ」


 ミアは少し考えた。


「見てるだけでも、お腹すく?」


「知らん」


「すいたら?」


「自分で何とかするだろ」


 ミアは少し笑った。


 それから、傷のある机を見ないまま言った。


「さみしいの、ここにいる?」


 アルトはすぐには答えられなかった。


 さみしいの。


 声じゃないやつ。


 呼んだ者。


 帰還補助。


 発信側。


 全部が、ミアの中ではそういう言葉になっている。


「いるというより、残ってる」


「消えない?」


「まだな」


「触らない?」


「触らない」


「でも、聞く?」


 アルトは息を吐いた。


「今は、聞きすぎない」


 ミアは頷いた。


「三日後は?」


「レオンが来る」


「その時、さみしいのも来る?」


 アルトは言葉に詰まった。


 来るかもしれない。


 来ないかもしれない。


 だが、それをそのまま言いたくなかった。


 ルナが近くで聞いていた。


 水を持っている。


 今日は置かない。


 持っている。


 ルナが言った。


「来るのではなく、反応すると思います」


 アルトはルナを見る。


 ルナは今度は逃げなかった。


「レオンさんが来ること自体に、ではありません。誰かが、自分で来ると決めたことに」


「それが、呼んだ者の声に近いのか」


「はい」


 ルナは頷く。


「戻る場所を作ろうとした声と、自分で行くと決めた声は、逆向きですが、同じ場所へ向かっています」


 アルトは少し考えた。


 呼ぶ声。


 行く声。


 待つ場所。


 戻る場所。


 それらが、赤猫亭の傷の周りで少しずつ重なっている。


 危ない。


 でも、進んでいる。


 ◇


 夜、傷を見る時間は短くした。


 砂時計を半分だけ使う。


 マルタが途中で横に倒した。


 砂が止まる。


「今日はここまで」


 ブルーノが端末を見る。


【対象反応:微増】


【反応方向:発信側】


【発信意図:帰還補助】


【照合状態:不安定】


 その下に、新しい行。


【照合候補:呼称残滓】


 アルトは目を細めた。


「呼称残滓」


 ブルーノが頷く。


「名前ではありません。呼び方の残りです」


 マルタが言う。


「残り物が多い店だね」


 ミアが少し笑った。


 ルナも、ほんの少しだけ息を緩めた。


 だが、ブルーノの顔はまだ硬い。


「ただし、照合候補です。確定ではありません」


「候補で十分だ」


 アルトは言った。


「昨日より近い」


 ブルーノは、その言葉に少しだけ頷いた。


 今日の記録はそこまでにした。


 ◇


 寝る前、アルトはレオンへの最後の連絡を送った。


《三日後、来る前に一度だけ連絡しろ》


 既読。


《はい》


《返事は急がなくていい》


 間。


《遅らせます》


 アルトは少し笑った。


《それでいい》


 送ってから、少しだけ嫌な予感がした。


 その言い方は、使いすぎている。


 だが、今日は訂正しなかった。


 たまには、同じ言葉が戻ってきてもいい。


 同じでも、中身が違う日がある。


 レオンから最後に届いた。


《行きます》


 二度目。


 アルトは画面を閉じた。


 下では、マルタが戸締まりをしている。


 かちゃり。


 鈴が鳴る。


 ちりん。


 普通の音。


 そのあと、少しだけ間があった。


 机の傷は見えない。


 布もかかっていない。


 暗がりの中にある。


 アルトは階段を上がる途中で、振り返った。


 傷は見えない。


 だが、そこにある。


 誰かが何度も呼んだ跡。


 助けようとして、届かなかった跡。


 その跡のある店に、三日後、レオンが来る。


 確かめるためではない。


 食べるために。


 それが、なぜかとても大きなことに思えた。


 アルトは部屋に入る。


 灯りを落とす。


 明日から、席を一つ空ける準備が始まる。


 呼ばれたからではない。


 自分で来る者のために。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ