第97話 行く日を決める
朝、外部注視圧は下がっていた。
端末の表示は、昨夜のままではなかった。
【外部注視圧:下降中】
【境界宣言:有効】
【対象反応:継続】
【照合状態:不安定】
ブルーノはそれを見て、少しだけ肩の力を抜いた。
「神々の反応は、落ち着きつつあります」
アルトは机の傷を見る。
見すぎない。
けれど、見ないふりもしない。
傷は、昨日より薄くなっていた。
薄くなっているのに、消える感じはしない。
紙に染みた墨を拭いても、繊維の奥に残るような、そういう薄さだった。
「対象反応は残ってる」
「はい」
「なら、神々とは別か」
ブルーノは頷く。
「完全には切り分けられません。ただ、外部注視圧が下がっても、対象反応は継続しています。神々の注視だけで維持されているわけではない、と見ていいと思います」
「じゃあ、もっと奥だ」
アルトが言うと、ガルドが壁にもたれたまま頷いた。
「外から覗いてる連中とは違う。これは、店についたものだ」
マルタが湯を注ぎながら言う。
「じゃあ、店の中で見る。外に見せるんじゃなくてね」
今日は、湯ではなく茶に近かった。
薄く煮出した葉の匂いがする。
マルタがいつものように、何も説明せず器を配る。
ミアは自分の手首を見せに来た。
赤みはほとんど消えている。
「手首」
ミアが言う。
アルトは見た。
「赤くない」
「痛くない」
「指は」
「覚えてる」
「そうか」
「でも、今日は芋見る」
ミアはそう言って、残す芋の布を見た。
触らない。
確認もしない。
ただ見る。
そして、傷の方は見なかった。
「決めた通りだな」
「うん」
ミアは胸を張った。
その横で、ルナが自分のコップを持っていた。
水ではない。
茶だ。
手は震えていない。
ただ、机の傷には近づかない。
昨日、水を置く位置を決めた場所に、今日は空のコップを置いていた。
言葉にならない時の合図。
今日はまだ使っていない。
使わないまま、置いてある。
それも、一つの準備だった。
◇
レオンからの連絡は、朝食の途中に来た。
《今日は、返事を待ってから送ります》
アルトは端末を見る。
すぐには返さなかった。
レオンが待つと言っているのなら、こちらも急がない。
芋のスープを一口飲む。
黒パンを割る。
それから返した。
《分かった》
既読。
間。
すぐには返事が来ない。
レオンは待っている。
それを見て、アルトは少しだけ息を吐いた。
やがて、次の文が届いた。
《赤猫亭に行く日を、決めました》
店の音が変わった。
誰も何も落としていない。
鍋も鳴らない。
鈴も鳴らない。
だが、全員が同じ文字を見た。
ミアが、芋を口に入れたまま固まる。
マルタが鍋の火を弱める。
ブルーノがペンを持ちかけて、置いた。
ルナはコップに手を添えた。
アルトは画面を見たまま聞く。
《いつだ》
既読。
しばらく、返事は来ない。
急いでいない。
レオンは、今も待っている。
待ってから、送っている。
《三日後》
アルトは画面を握り直した。
三日後。
すぐではない。
遠すぎもしない。
逃げるには近い。
準備するには短い。
覚悟するには、ちょうど嫌な日数だった。
《自分で決めたのか》
《はい》
《誰かに言われたか》
《いいえ》
《確かめに来るのか》
ここだけ、返事が遅かった。
長い沈黙。
それから。
《違います》
さらに。
《食べに行きます》
アルトは少しだけ笑った。
笑ったつもりはなかった。
でも、口元が動いた。
マルタがそれを見て、鍋を強く混ぜた。
「じゃあ、三日後の芋は柔らかくしないとね」
ミアが急に飲み込んだ。
「レオン、芋食べる?」
「食べに来るらしい」
「なら食べる芋」
「そうだな」
「残す芋は?」
「残す」
ミアは頷く。
久しぶりに、分類が戻った。
ただし、前より少し違う。
怖さから逃げるためではなく、来る人を迎えるための分類だった。
アルトは返信した。
《席は空けておく》
既読。
《ありがとうございます》
少し間。
《行く日は、自分で決めました》
もう一度。
同じ言葉。
確認ではなく、レオン自身の印のようだった。
アルトは返す。
《聞いた》
送信した瞬間、机の傷がわずかに濃くなった。
◇
誰も触れていない。
誰も傷を見ていなかった。
それなのに、傷の端が、少しだけ黒くなった。
ミアが息を呑む。
ルナが水ではなく、茶の器を置く。
こと。
音が少し高い。
アルトは机を見た。
「今、反応した」
ブルーノが端末を開く。
今度は布を敷いてから。
手元は落ち着いている。
画面に表示が出る。
【対象反応:上昇】
【外部注視圧:変化なし】
【照合状態:不安定】
【反応方向:発信側】
アルトは最後の行を読んだ。
「発信側」
ブルーノが息を止める。
ガルドが壁から体を離した。
マルタの手が鍋の柄を握る。
ルナの顔色が変わった。
「レオンじゃないのか」
アルトが聞く。
ブルーノはすぐには答えない。
だが、今度は「分かりません」で止まらなかった。
「レオンさんの決定が引き金になった可能性はあります。ただ、この反応の向きは、レオンさん本人ではありません」
「じゃあ誰だ」
「呼ばれている側ではなく」
ブルーノは画面を見る。
「呼んでいた側に近い反応です」
ルナの器が、少し震えた。
こぼれない。
だが、茶の水面が揺れる。
アルトはルナを見る。
「呼んでいた側」
ルナは頷く。
声が出るまで、少し時間がかかった。
「はい」
その一言だけで、店の温度が変わった気がした。
呼ばれていた者。
呼んだ者。
ずっと曖昧だった二つのうち、傷は今、呼んだ者の方へわずかに傾いた。
完全な答えではない。
だが、初めて向きが出た。
ルナは茶を飲んだ。
一口。
そして、言った。
「私は、その声を聞いていました」
「昨日も聞いた」
「はい」
「でも、今は違うのか」
ルナは、傷を見なかった。
自分の器を見ている。
「今は、少しだけ分かっています」
アルトは黙る。
ルナは続けた。
「その声は、呼ばれていた者を責めてはいませんでした」
マルタが鍋の火を止めた。
小さな音。
かち。
「じゃあ、何をしていた」
アルトが聞く。
ルナはゆっくり息を吸う。
「戻る場所を、作ろうとしていました」
誰もすぐには言葉を出さなかった。
今のは、可能性ではなかった。
ルナの断定だった。
「分かっています」
ルナは言った。
「少なくとも、その声は、帰れと命じていたのではありません。戻れるように、何度も呼んでいました」
机の傷が、また少しだけ濃くなった。
今度は全員が見た。
見すぎるな、と誰も言わなかった。
今だけは、見る必要があった。
◇
端末の表示が変わる。
【反応方向:発信側】
【発信履歴:残存】
【到達結果:失敗】
【再発信履歴:複数】
その下に、初めて新しい行が出た。
【発信意図:帰還補助】
ブルーノの手が止まった。
マルタが低く言う。
「補助」
ルナは目を閉じた。
閉じて、すぐ開いた。
逃げるためではなく、一度だけ受け止めるための瞬きだった。
「呼んだ者は、連れ戻そうとしていたのではありません」
アルトは画面を見る。
帰還補助。
その言葉が、嫌なほど静かだった。
強制でもない。
命令でもない。
救助にも少し似ている。
だが、失敗した。
何度も。
再発信履歴、複数。
何度も呼んだ。
何度も届かなかった。
それが、赤猫亭の机についた傷に残っている。
ミアが小さく言った。
「助けようとした?」
誰もすぐ答えなかった。
マルタが、鍋ではなく机を見て言う。
「たぶんね」
ミアは唇を結んだ。
「でも、届かなかった」
「ああ」
アルトが答えた。
「届かなかった」
ミアは自分の指先を握った。
昨日と同じ。
でも、今日は少し違う。
「声じゃないやつ、怒ってなかった」
アルトはミアを見る。
「分かるのか」
「怒ってなかった」
ミアは短く言った。
「さみしかった」
ルナの顔が、崩れた。
涙は出なかった。
だが、顔が先に泣いた。
声が追いつかなかった。
マルタがすぐ水を取ろうとして、止める。
ルナの前には、もう器がある。
ルナは自分でそれを持った。
飲む。
喉を通す。
それから、震える声で言った。
「そうです」
断定だった。
「私は、それを聞いていました」
アルトは息を吸った。
この瞬間、傷はただの危険物ではなくなった。
触れてはいけない。
見すぎてもいけない。
だが、そこには、誰かが何度も呼んだ跡がある。
助けようとした跡がある。
届かなかった跡がある。
赤猫亭の傷は、少しだけ別の意味を持った。
◇
昼の配信は開けなかった。
昨日のようにコメント欄に返すこともしなかった。
境界宣言は有効。
外部注視圧は変化なし。
今は、神々に見せる時ではない。
だが、完全に閉じてもいない。
ブルーノが配信文だけを用意する。
《赤猫亭、本日も開いています》
アルトはそれを見て、少し考える。
「足りない」
「何を足しますか」
「席の話」
ブルーノが顔を上げる。
アルトは言った。
《三日後、客が一人来る予定です》
ブルーノは一瞬、迷った。
「レオンさんのことを出しますか」
「名前は出さない」
「ですが、神々は推測します」
「するだろうな」
「よろしいのですか」
アルトは端末を見る。
「隠さない。でも、渡しすぎない」
ブルーノは頷く。
送信。
《赤猫亭、本日も開いています》
《三日後、客が一人来る予定です》
コメント欄は開かない。
ただ、通知が跳ねた。
数字が増える。
外部注視圧も、少しだけ上がる。
ブルーノが確認する。
【外部注視圧:微増】
【境界宣言:有効】
【対象反応:変化なし】
アルトは頷いた。
よし。
神々の注視は揺れた。
だが、傷は反応していない。
レオンの来訪予定を外へ出しても、対象反応は変わらない。
さっきの反応は、神々の期待ではない。
傷は、別のものを見ている。
その切り分けが、一つ進んだ。
◇
午後、レオンに連絡を返した。
《三日後、席を空ける》
既読。
《ありがとうございます》
《食べに来るんだな》
《はい》
《何を食べる》
少し間があった。
レオンは考えている。
急いで返していない。
それだけで、前より良い。
《芋》
アルトは笑った。
今度は、ちゃんと笑った。
《分かった》
《あと》
《水》
《水はある》
《音も》
アルトは画面を見た。
《音はある》
《でも、確かめに行くのではありません》
レオンの文は、少し震えているように見えた。
文字が震えるはずはない。
それでも、そう見えた。
《食べに行きます》
アルトは返信した。
《待ってる》
打ってから、少し迷う。
待っている。
それは、待機区画の言葉に近い。
だが、赤猫亭の待つは違う。
待つだけの場所ではない。
水を出し、芋を煮て、席を空けて、来なければ次の日も開ける。
アルトは文を変えなかった。
《待ってる》
送信。
既読。
返事はすぐ来なかった。
遅らせている。
それでいい。
やがて。
《行きます》
その一文が来た。
アルトは端末を伏せた。
店の奥で、マルタが芋を洗う音がした。
ざり。
ざり。
その音が、やけに強く聞こえた。
◇
夕方、ミアは残す芋の布を直した。
今日二度目だった。
触る場所は布だけ。
芋には触らない。
傷にも触らない。
自分で決めた通りに動いている。
「三日後、芋増える?」
「増えるな」
アルトが答える。
「レオンの分」
「ああ」
「神様の分は?」
「ない」
「見てるだけ?」
「見てるだけ」
ミアは少し考えた。
「見てるだけでも、お腹すく?」
「知らん」
「すいたら?」
「自分で何とかするだろ」
ミアは少し笑った。
それから、傷のある机を見ないまま言った。
「さみしいの、ここにいる?」
アルトはすぐには答えられなかった。
さみしいの。
声じゃないやつ。
呼んだ者。
帰還補助。
発信側。
全部が、ミアの中ではそういう言葉になっている。
「いるというより、残ってる」
「消えない?」
「まだな」
「触らない?」
「触らない」
「でも、聞く?」
アルトは息を吐いた。
「今は、聞きすぎない」
ミアは頷いた。
「三日後は?」
「レオンが来る」
「その時、さみしいのも来る?」
アルトは言葉に詰まった。
来るかもしれない。
来ないかもしれない。
だが、それをそのまま言いたくなかった。
ルナが近くで聞いていた。
水を持っている。
今日は置かない。
持っている。
ルナが言った。
「来るのではなく、反応すると思います」
アルトはルナを見る。
ルナは今度は逃げなかった。
「レオンさんが来ること自体に、ではありません。誰かが、自分で来ると決めたことに」
「それが、呼んだ者の声に近いのか」
「はい」
ルナは頷く。
「戻る場所を作ろうとした声と、自分で行くと決めた声は、逆向きですが、同じ場所へ向かっています」
アルトは少し考えた。
呼ぶ声。
行く声。
待つ場所。
戻る場所。
それらが、赤猫亭の傷の周りで少しずつ重なっている。
危ない。
でも、進んでいる。
◇
夜、傷を見る時間は短くした。
砂時計を半分だけ使う。
マルタが途中で横に倒した。
砂が止まる。
「今日はここまで」
ブルーノが端末を見る。
【対象反応:微増】
【反応方向:発信側】
【発信意図:帰還補助】
【照合状態:不安定】
その下に、新しい行。
【照合候補:呼称残滓】
アルトは目を細めた。
「呼称残滓」
ブルーノが頷く。
「名前ではありません。呼び方の残りです」
マルタが言う。
「残り物が多い店だね」
ミアが少し笑った。
ルナも、ほんの少しだけ息を緩めた。
だが、ブルーノの顔はまだ硬い。
「ただし、照合候補です。確定ではありません」
「候補で十分だ」
アルトは言った。
「昨日より近い」
ブルーノは、その言葉に少しだけ頷いた。
今日の記録はそこまでにした。
◇
寝る前、アルトはレオンへの最後の連絡を送った。
《三日後、来る前に一度だけ連絡しろ》
既読。
《はい》
《返事は急がなくていい》
間。
《遅らせます》
アルトは少し笑った。
《それでいい》
送ってから、少しだけ嫌な予感がした。
その言い方は、使いすぎている。
だが、今日は訂正しなかった。
たまには、同じ言葉が戻ってきてもいい。
同じでも、中身が違う日がある。
レオンから最後に届いた。
《行きます》
二度目。
アルトは画面を閉じた。
下では、マルタが戸締まりをしている。
かちゃり。
鈴が鳴る。
ちりん。
普通の音。
そのあと、少しだけ間があった。
机の傷は見えない。
布もかかっていない。
暗がりの中にある。
アルトは階段を上がる途中で、振り返った。
傷は見えない。
だが、そこにある。
誰かが何度も呼んだ跡。
助けようとして、届かなかった跡。
その跡のある店に、三日後、レオンが来る。
確かめるためではない。
食べるために。
それが、なぜかとても大きなことに思えた。
アルトは部屋に入る。
灯りを落とす。
明日から、席を一つ空ける準備が始まる。
呼ばれたからではない。
自分で来る者のために。




