第96話 声じゃないやつ
ミアは、朝から芋を確認しなかった。
それが一番おかしかった。
残す芋の布は、きちんとかかっている。
食べる芋の籠も、いつもの場所にある。
机の傷は、その少し横。
黒い輪郭は昨日より薄い。
だが、消えてはいない。
ミアはその全部を見た。
見たのに、何も言わなかった。
食べる芋。
残す芋。
消えなかった傷。
昨日なら、何かを確認していたはずだ。
今日は、しない。
黙って、椅子に座る。
両手は膝の上。
昨日触れた指先を、反対の手で軽く握っている。
アルトは水を飲んだ。
いつもなら先に声をかける。
だが、今日は少し待った。
待ったまま、ミアの指を見る。
赤くはない。
黒くもない。
傷もない。
端末上は、接触者影響なし。
だが、端末上の話だ。
「指、痛むか」
アルトが聞いた。
ミアは首を横に振る。
「痛くない」
「変な感じは」
ミアは少し考えた。
すぐに答えない。
膝の上の指を、ぎゅっと握った。
「ある」
アルトは椅子を引こうとして、やめた。
音が大きくなる気がしたからだ。
「どんな」
「声じゃないやつ」
昨日と同じ言葉。
だが、昨日より少しはっきりしていた。
「まだあるのか」
「ううん」
ミアは首を横に振る。
「残ってない。でも、覚えてる」
ミナが水差しを置いた。
こと。
音は小さい。
ミアはその音を聞いてから、続けた。
「声じゃないのに、こっちを向いてた」
アルトは机の傷を見そうになって、止めた。
ミアの顔を見る。
「怖かったか」
「うん」
ミアは、今日は頷いた。
「でも、触ったのは私」
「そうだな」
「アルト、怖かった」
「ああ」
「でも、傷のほうがもっと怖かった」
アルトは何も言わなかった。
ミアは続ける。
「だから、次は早く呼んで」
「ああ」
「でも、痛くしないで」
「分かった」
ミアは少しだけ目を細めた。
「分かっただけじゃなくて」
アルトは詰まった。
マルタが厨房から笑った。
小さく。
「言われてるよ」
アルトは頭をかいた。
「次は、まず名前を呼ぶ。止まらなかったら、肩を押さえる。手首はつかまない」
ミアは考えた。
「肩ならいい」
「それも強くしない」
「うん」
ミアはようやく手をほどいた。
指先は、何も変わっていない。
だが、ミアは少しだけ変わっていた。
◇
朝食は、いつもより少し賑やかだった。
マルタがそうした。
鍋を大きく鳴らす。
かん。
水を注ぐ音も隠さない。
器を置く音も、少し強い。
赤猫亭の朝を、白い静けさに負けないように、わざと店へ広げているようだった。
普通の芋のスープ。
黒パン。
水。
湯ではない。
今日は水。
ルナは自分でコップを取りに行った。
昨日と同じ。
だが、今日は紙を書かなかった。
ブルーノが少し気にしている。
「今日は記録しないのですか」
ルナはコップを持ったまま言った。
「今日は、書かずに覚えます」
ブルーノは頷きかけて、途中で止まる。
「なぜですか」
「書くと、昨日と同じ形になります」
ルナは水を一口飲む。
「昨日は、書く必要がありました。今日は、覚えておく日にします」
ブルーノはペンを置いた。
「分かりました」
それから、少し遅れて言い直す。
「いえ。分かりました、ではなく、そうします」
マルタが鍋を混ぜながら言う。
「みんな言い直しが増えたね」
「悪いですか」
ブルーノが真面目に聞く。
「悪くないよ。言い直せるうちは、まだ口が動いてる」
ミアがスープを飲む。
熱いのか、少し舌を出した。
「熱い」
「吹け」
アルトが言う。
「言われなくても吹く」
ミアは息を吹きかけた。
ふう。
それから、芋を食べた。
少しだけ、いつものミアに戻った。
ただ、机の傷は見なかった。
見ないことを選んでいる。
それが分かった。
◇
昼前、神々のコメント欄が勝手に騒ぎ出した。
配信は開けていない。
それでも、通知だけが増えている。
ブルーノが眉を寄せる。
「未読が増えています」
「放っておけ」
アルトが言う。
「ですが、数が」
「数で扉を開けるな」
言ってから、自分でも少し驚いた。
強い言い方だった。
だが、訂正しなかった。
ブルーノは端末を見る。
画面は閉じている。
通知だけ。
数だけ。
数字は声ではない。
だが、声のふりをする。
赤猫亭が見えない。
何があった。
生きてるのか。
芋は。
扉は。
コメントの中身は読まない。
でも、通知数の増え方だけで、向こうの圧が分かる。
アルトは手を伸ばした。
端末を取る。
ブルーノが止めかける。
アルトは首を横に振った。
「開ける」
マルタが厨房から顔を出す。
「どこまで」
「こっちで決める」
「なら、言いな」
アルトは画面を開いた。
コメント欄が走る。
『何があった?』
『赤猫亭、昨日から静かすぎ』
『配信事故?』
『アルト生きてる?』
『ルナ様は?』
『芋は?』
『鈴鳴った?』
『扉開いた?』
『焦らすな』
『見せろ』
『見せろ』
『見せろ』
最後の三つだけが、やけに目についた。
同じ言葉が並ぶと、声ではなく壁になる。
アルトはコメント欄を閉じなかった。
代わりに、入力欄を開いた。
ブルーノが息を止める。
マルタが鍋の火を弱める。
ミアがスープの器を両手で持った。
アルトは打つ。
《赤猫亭は開いている》
一度止まる。
足りない。
続ける。
《でも、見せないものがある》
さらに。
《見せないのは、隠すためじゃない。こちらで扱うためだ》
送信。
コメント欄が一瞬跳ねた。
『おお』
『生きてた』
『何があったんだよ』
『見せないもの?』
『やっぱ扉?』
『説明して』
『こっちで扱うって何』
『かっこよ』
『芋は?』
アルトはもう一文だけ送った。
《芋は食べる》
マルタが吹き出した。
ミアが少し笑った。
コメント欄が荒れる。
『そこは教えるのかよ』
『芋生存確認』
『食べるならヨシ』
『情報の選別おかしいだろ』
『でも安心した』
アルトは画面を閉じた。
全部は見せない。
だが、全部閉じない。
これは今日の一手だった。
神々の数に押されて開けたわけではない。
こちらから、出すものを選んだ。
アルトは端末を置く。
少しだけ、胸が熱かった。
怖くないわけではない。
だが、今のは後手ではなかった。
こちらの声だった。
◇
昼、レオンから連絡が来た。
《見ました》
アルトは端末を開く。
《何を》
《赤猫亭は開いている》
少し間。
《見せないものがある》
アルトは眉を寄せる。
《コメント欄を見たのか》
《少しだけ》
《ざわつきは》
《あります》
《廊下か》
《今日は、廊下ではありません》
次の文まで、少し長かった。
《自分が、返事を急いでいます》
アルトは画面を見る。
レオン自身が気づいている。
呼ばれていないのに返事をしようとした昨日のずれ。
今日は、それを自分で言葉にしている。
《急がなくていい》
打って、消す。
それでは足りない。
《返事は、呼ばれてからでいい》
送る。
既読。
《呼ばれたかどうか、分からない時があります》
アルトは少し考える。
これは軽い話ではない。
レオンの場所でも、呼び方の境界が揺れている。
《その時は、水を置け》
既読。
《置いています》
《座れ》
《座っています》
《なら、返事を一つ遅らせろ》
既読がつく。
しばらく返事が来ない。
その沈黙が、今日は少し良かった。
遅らせている。
待っている。
やがて届いた。
《遅らせました》
アルトは息を吐いた。
《それで来る日は》
そこで止める。
今は誘導しない。
打ち直す。
《来る日は、自分で決めろ》
既読。
返事。
《はい》
短い。
硬い。
だが、急いでいない。
今日はそれが進歩だった。
◇
午後、傷を見る時間になった。
砂時計を返す。
砂が落ちる。
今日は、全員では見ない。
アルト。
ルナ。
ブルーノ。
ガルド。
ミナは少し離れて水を持つ。
ミアは見ない席にいた。
自分でそうした。
「今日は見ない」
ミアが言った。
誰も理由を聞かなかった。
ミアは続ける。
「でも、ここにいる」
アルトは頷いた。
「分かった」
「肩ならいい」
「分かった」
「手首はだめ」
「ああ」
ミアはそれで満足したらしい。
スープ皿を拭く手伝いに戻った。
傷を見る。
黒い輪郭は、昨日より少し薄い。
ただ、端の曲がりは残っている。
文字には見えない。
見えそうになる前に、目を戻す。
砂が落ちる。
ルナの手は震えている。
だが、彼女は水をこぼさない。
ブルーノは端末を確認する。
【対象反応:継続】
【照合状態:不安定】
【接触反応:残留】
【視認反応:制御内】
新しい行。
【外部注視圧:上昇】
アルトは顔を上げる。
「神々か」
ブルーノが頷く。
「おそらく。先ほどコメント欄を開いた影響もあります」
「悪手だったか」
マルタが離れたところから言う。
「そうとも限らないよ」
アルトは振り返る。
「圧が上がった」
「こっちが何も出さなければ、もっと勝手な名前をつけられてたかもしれない」
マルタは皿を拭きながら続ける。
「あんたは、見せないものがあるって言った。あれは境界線だよ。境界線を引くと、外から押される。でも、引かなきゃ外と内が混ざる。押されたから失敗じゃない。押されてるのが分かったなら、次は支え方を考えればいい」
長い。
だが、今日の長さだった。
ブルーノが端末を見る。
【外部注視圧:上昇】
その下に、少し遅れて表示。
【境界宣言:検出】
アルトは文字を読んだ。
境界宣言。
こちらで扱う。
見せないものがある。
それが、向こうにも検出されている。
良いことだけではない。
だが、後手ではない。
アルトは砂時計を見る。
最後の砂が落ちた。
マルタが布をかける。
傷を見る時間は終わる。
◇
夕方、赤猫亭は少し混んだ。
配信を見た神々ではなく、普通の客が多かった。
理由は分からない。
たぶん、寒いからだ。
たぶん、芋が柔らかいからだ。
たぶん、そういう日だからだ。
ミアは皿を運んだ。
少し遅い。
でも落とさない。
客に「ありがとう」と言われると、いつもなら胸を張る。
今日は、少しだけ頷いた。
それでも、二回目には小さく笑った。
アルトはそれを見ていた。
接触者影響なし。
端末上は。
でも、ミアには昨日の怖さが残っている。
その残り方は、端末に出ない。
だから見ておく。
見張るのではなく、見る。
途中で、ミアが戻ってきた。
「アルト」
「何だ」
「客には肩もしないで」
「しない」
「手首もしないで」
「しない」
「皿落としそうな時は?」
「皿を取る」
「ミアは?」
「名前を呼ぶ」
ミアは頷いた。
「よし」
少しだけ、いつもの調子が戻った。
アルトは笑った。
ミアも笑った。
その時、戸口の鈴が鳴った。
ちりん。
普通の客が入ってきた。
「やってる?」
マルタが答える。
「やってるよ」
普通の音。
普通の声。
境界を宣言した日にも、客は普通に来る。
それが少し、面白かった。
◇
夜、ルナは紙を出さなかった。
触れなかった日、とも書かない。
代わりに、水を持って、机の傷から少し離れた席に座った。
アルトは向かいではなく、斜めに座る。
近すぎない。
遠すぎない。
ルナは言った。
「今日は、返そうとしませんでした」
「触ろうとは」
「しました」
正直だった。
「でも、しませんでした」
「書かないのか」
ルナは頷いた。
「今日は書きません。覚えておきます」
「そうか」
「毎日書くと、書くための日になります」
アルトは少し笑った。
「分かってきたな」
「はい」
ルナは水を飲む。
今日は、こぼさない。
「ただ、怖いです」
その言葉は、静かに出た。
強くもない。
弱くもない。
ただ、置かれた。
「また返そうとするかもしれないことが」
アルトは頷く。
「その時は先に言え」
「はい」
「言えなかったら」
ルナが顔を上げる。
アルトは続けた。
「水を置け。紙じゃなくていい。水を置けば、誰かが気づく」
ルナはコップを見る。
それから、少し離れた場所に置いた。
こと。
「この位置ですか」
「見える」
「届きますか」
「届く」
ルナは小さく息を吐いた。
その音は、少しだけ笑いに近かった。
◇
寝る前、アルトは端末を確認した。
今日最後の確認。
【対象反応:低下】
【照合状態:不安定】
【外部注視圧:下降中】
【境界宣言:有効】
【接触者影響:経過観察】
ミアへの表示が変わっていた。
影響なし、ではない。
経過観察。
アルトは画面を閉じずに、しばらく見た。
やはり、完全に無傷ではない。
ただし、悪化とも出ていない。
経過観察。
その言葉を、今日は受け取る。
明日も見る。
ただし、ミアを検査対象のようには見ない。
アルトは画面を閉じた。
下で戸締まりの音がする。
かちゃり。
鈴が鳴る。
ちりん。
普通の音。
少しして、ミアの声がした。
「アルト」
アルトは階段の上で振り返る。
「何だ」
「明日、芋見る」
「見ればいい」
「でも、傷は見ない」
「自分で決めろ」
「決めた」
ミアは少し胸を張った。
「芋は見る。傷は見ない。手首は見せる」
アルトは頷いた。
「分かった」
「分かっただけ?」
アルトは少し笑った。
「明日、声をかける」
「早く」
「早く」
ミアは満足そうに頷いた。
それから、厨房の方へ戻っていく。
アルトは部屋へ入った。
灯りを落とす。
今日は、神々に境界を出した。
レオンは返事を遅らせた。
ルナは書かずに覚えることを選んだ。
ミアは見るものと見ないものを自分で決めた。
傷は残っている。
対象反応も残っている。
でも、少し下がった。
完全な解決ではない。
それでも、昨日よりは、こちらの手が増えた。
アルトは横になる。
ページを閉じるように、目を閉じる。
明日も赤猫亭は開く。
見せるものと、見せないものを、自分たちで決めながら。




