第95話 傷に触れる
机の傷は、朝になって少し形を変えていた。
消えてはいない。
濃くもなっていない。
ただ、輪郭が昨日と違う。
昨日は、黒い点を拭いた後に残った薄い焦げ跡のようだった。
今朝は、その端が少しだけ伸びている。
文字ではない。
線でもない。
けれど、何かを書こうとして、途中でやめたように見える。
アルトは、それを見つけてから、しばらく誰も呼ばなかった。
呼べば、始まる。
始まれば、誰かが水を出し、誰かが紙を出し、誰かが見すぎるなと言い、誰かが距離を決める。
それは必要なことだ。
でも、今は一瞬だけ、誰かの言葉が入る前の傷を見ていた。
店の傷。
消えなかった傷。
そこに、朝の光が当たっている。
昨日より少しだけ、形が動いている。
アルトは膝を曲げた。
痛む。
昨日の一歩の痛みが、まだ残っている。
その痛みで、自分が前へ出すぎないように止められている気がした。
背後で、足音がした。
ミアだった。
いつものように、すぐには聞かなかった。
今日は食べる芋、とも。
残す芋、とも。
傷は何、とも。
何も言わず、机の横に立った。
アルトは振り返る。
「ミア」
ミアは返事をしなかった。
傷を見ている。
目が、いつもより丸くない。
眠い顔でもない。
怖がっている顔でもない。
ただ、見ている。
アルトは嫌な予感がした。
「触るな」
言った時には、ミアの指が伸びていた。
速くはない。
ゆっくりだった。
止められる速さだった。
なのに、アルトの足は痛みで一瞬遅れた。
ミアの指先が、机の傷に触れた。
◇
何も起きなかった。
少なくとも、最初の一息のあいだは。
ミアの指は、黒い輪郭の上にある。
傷は熱くもならない。
光りもしない。
鈴も鳴らない。
端末も震えない。
ガルムも唸らない。
その静けさが、逆に悪かった。
アルトはミアの手首をつかんだ。
少し強かった。
ミアが顔をしかめる。
「痛い」
その声で、アルトは手の力を緩めた。
遅かった。
もう、触れている。
机の傷が、ほんの少しだけ濃くなった。
線が滲む。
黒ではなく、灰色に近い。
文字にはならない。
だが、さっきよりも文字に近い。
ミアは傷から指を離した。
自分の指先を見る。
黒くはない。
汚れてもいない。
何もついていない。
それなのに、ミアの顔から血の気が少し引いた。
「……あった」
声が小さい。
アルトは聞き返す。
「何が」
ミアは指先を見たまま言った。
「声じゃないやつ」
マルタが厨房から出てきた。
今日は鍋より先に、足音が来た。
ガルムも起きている。
ガルドが階段の途中からこちらを見ていた。
ミナは水差しを持ったまま、止まらずに歩いてくる。
水を置く。
こと。
いつもの音なのに、少し低く聞こえた。
「ミア、座りな」
マルタが言った。
ミアはすぐには座らなかった。
指先を見る。
それから、傷を見る。
そして、ようやく椅子に座った。
アルトは自分の手を見た。
ミアの手首を強くつかんだ感触が残っている。
自分が苛立っていたことに、その時気づいた。
「何で触った」
声が荒くなった。
ミアは肩を少しすくめる。
アルトは続けた。
「触るなって言っただろ」
「言う前」
「言った」
「指、もう近かった」
「だから止めた」
「痛かった」
アルトは言葉に詰まった。
正しいことを言っているつもりだった。
でも、ミアの手首は赤くなっている。
マルタが近づいて、ミアの手首を見る。
「強くつかみすぎだね」
アルトは息を吐いた。
「悪い」
ミアは頷かない。
泣きもしない。
ただ、自分の手首と傷を交互に見ている。
今日は、いつものように質問で場を整えない。
それが余計に怖かった。
◇
端末は、ブルーノが持ってきた。
だが、いつもより雑だった。
布を敷く前に置きかけて、ミナが止めた。
「布」
「あ」
ブルーノは慌てて端末を持ち上げる。
手元が滑り、角が机に当たった。
こつ。
小さな音。
ブルーノの顔が青くなる。
「すみません」
「謝る前に布」
マルタが言う。
いつもより少しきつい。
ミナが布を敷く。
ブルーノはそこに端末を置いた。
画面はすでに光っている。
【対象反応:継続】
【照合状態:不安定】
その下に、新しい表示。
【接触反応:微弱】
【媒介:未登録】
アルトはミアを見る。
ミアは指先を握っている。
媒介。
嫌な言葉だった。
「ミアが媒介ってことか」
アルトが言う。
ブルーノはすぐに答えない。
答えようとして、口を閉じた。
それから、首を横に振った。
「まだ断定できません」
またその言い方か、とアルトは思った。
思ってしまった。
「断定できないなら、何ができる」
声が少し低くなった。
ブルーノが顔を上げる。
アルトは続けた。
「毎回、分からない、可能性、未照合。それで止めて、昨日は一歩出た。今日はミアが触った。分からないで済む段階なのか」
ブルーノは唇を噛んだ。
マルタがアルトを止めようとした。
だが、ブルーノが先に言った。
「済みません」
「謝れって言ってるんじゃない」
「分かっています」
ブルーノは端末を見た。
そして、いつもよりはっきり言った。
「これは、接触です。ミアさんが傷に触れたことで、対象反応が増えました。媒介がミアさん本人なのか、指先なのか、赤猫亭側の接触行為なのかは分かりません。でも、接触で反応したことは、分かっています」
断定だった。
アルトは黙った。
ブルーノは紙を出さない。
そのまま続ける。
「そして、今はもう一度触ってはいけません」
ミアが指を握ったまま、少しだけ顔を上げた。
「もう触らない」
小さい声。
いつもの疑問形ではない。
言い切った。
マルタが頷く。
「それでいい、とは言わないよ。触ったことは消えない。でも、もう触らないなら、今はそこから始める」
アルトはミアの手首を見た。
「俺も、もう強くつかまない」
ミアはアルトを見た。
しばらく見た。
それから、少しだけ頷いた。
◇
ルナは遅れて降りてきた。
昨夜、あまり眠れていないのだろう。
顔色が悪い。
だが、階段を降りる足取りは乱れていない。
ミナが水を出す。
ルナは受け取る前に、机の傷を見た。
そして、ミアの手首を見た。
そこで、表情が変わった。
水を受け取らなかった。
ミナの手が宙で止まる。
「触れたのですか」
ルナの声は、昨日より細かった。
アルトが答える。
「少しだけだ」
「誰が」
ミアが自分で言った。
「私」
ルナは一歩近づいた。
アルトが止めようとしたが、ルナの足は止まっていた。
自分で止まった。
それでも、息が浅い。
「ごめんなさい」
ルナが言った。
ミアは首を傾げた。
「なんで女神が謝る?」
「私が昨日、間違えたから」
「でも触ったの私」
「それでも」
ルナの声が崩れた。
言葉の最後が、うまく形にならない。
「それでも、あれがここに残ったのは、私が――」
続かない。
水を飲んでいない。
アルトはミナからコップを受け取り、ルナの手に持たせた。
「飲め」
ルナは首を横に振りかけた。
アルトは少し強く言った。
「飲め」
ルナは水を飲んだ。
一口。
こぼさずに。
だが、飲み終えた後、肩が震えた。
涙は出ていない。
出そうなのに、出ない顔だった。
その方が苦しそうだった。
「私は、ひとりで返しませんと言いました」
「ああ」
「でも、もう残っています」
「ああ」
「私が先に言う前に、傷が誰かに触れました」
「それはミアが触った」
「私が残したものです」
アルトは言い返そうとして、やめた。
全部お前のせいじゃない。
そう言えば、少し楽になるかもしれない。
でも、ルナは今、それを受け取れない。
マルタが代わりに言った。
「責任を全部持ちたがるのは、反省じゃなくて横取りだよ」
ルナが顔を上げる。
マルタは布巾を机に置いた。
「ミアが触った。アルトが強くつかんだ。ブルーノが端末を置きかけた。あんたは昨日間違えた。どれも別々だよ。全部あんた一人のものにしたら、他の者の失敗も手順も奪うことになる」
長い言葉ではない。
だが、強かった。
ルナはコップを握る。
水面が揺れる。
「……はい」
やっと出た声だった。
◇
朝食は遅れた。
それでも作った。
普通の芋のスープ。
ただし、ミアはいつものように確認しなかった。
皿を受け取って、黙って座った。
食べる芋かどうかを聞かない。
残す芋も見ない。
スープの中の芋を、スプーンでつつく。
マルタが言う。
「食べな」
ミアは頷いた。
食べる。
少しだけ。
また黙る。
アルトはその向かいに座った。
手首の赤みが気になる。
ミアはそれを隠さない。
隠すほどではない傷。
でも、ある。
「痛むか」
アルトが聞いた。
ミアは首を横に振った。
それから、小さく言った。
「びっくりした」
「傷か」
「アルト」
アルトは黙った。
ミアはスープを見る。
「アルトが怖かった」
その言葉は、思ったより深く刺さった。
アルトはすぐ謝ろうとして、止まった。
謝って終わる話にしてはいけない。
「悪かった」
結局、それしか言えなかった。
だが、続けた。
「次は、触る前に止める。強くつかむ前に、名前を呼ぶ」
ミアはスープを見たまま言う。
「呼んだ?」
「呼んだ」
「でも、指が先だった」
「ああ」
「じゃあ、次は早く呼んで」
「そうする」
ミアは頷いた。
それから、ようやく芋を食べた。
いつものように「分かりやすい」とは言わなかった。
今日は、分かりやすくなかった。
◇
神々への配信は、今日も開かなかった。
ブルーノはそれについて、何も言わなかった。
端末の前に座り、ただ履歴だけを見ている。
手元に紙はない。
代わりに、机の上には水がある。
傷から少し離れた場所。
ミナが置いた。
ブルーノは言った。
「接触反応は、まだ残っています」
アルトは聞く。
「増えているのか」
「いいえ」
「減っているのか」
「変動しています」
「どういう変動だ」
ブルーノは、今度は慎重に言葉を選びすぎなかった。
「傷を見ている人数が増えると、少し強くなります。誰も見ていない時は弱くなります。触れなければ、一定以上には上がりません」
「つまり、見るだけでも揺れる」
「はい。ただし、触れるより弱い」
アルトは頷いた。
手がかりが出た。
対象反応の継続は、勝手に増殖しているわけではない。
見られることで揺れる。
触れることで増える。
それなら、扱い方は決められる。
マルタが言う。
「じゃあ布をかける?」
ガルドが首を横に振った。
「隠しっぱなしは特別になる」
「じゃあどうする」
「見る時間を決める」
ガルドは机を見る。
「傷も、客と同じだ。四六時中相手をしてたら店が回らん」
マルタが笑わずに頷いた。
「いいね」
ブルーノが初めて紙を出した。
書いたのは短い。
【傷を見る時間を決める】
その下。
【触らない】
さらに。
【ひとりで見ない】
今回は、紙に書いてよかった。
全員が少しずつ間違えたあとだからだ。
紙が正しさの押しつけではなく、忘れないためのものに見えた。
◇
昼前、レオンから連絡が来た。
《今日は、少しざわついています》
アルトは画面を見る。
赤猫亭の事件は届いていない。
だが、何かは揺れている。
《何が》
《廊下》
《音か》
《足音ではありません》
間が空く。
《人がいないのに、人が立ち止まっている感じがします》
アルトは机の傷を見る。
見すぎないよう、すぐ視線を戻す。
《追うな》
送る。
既読。
《水を置け》
《置いています》
もう置いている。
レオンも手順が早くなっている。
だが、今日はそれだけでは終わらなかった。
《アルトさん》
《はい》
レオンがそう返した。
アルトは画面を見て、少し眉を寄せる。
呼んだつもりはなかった。
でも、レオンは返事をした。
アルトさん。
はい。
呼び方と返事が、少しだけずれている。
《今のは呼んでいない》
送る。
既読。
長い間。
《すみません》
アルトは息を吐いた。
レオンも少し過敏になっている。
届く、届かない、呼ぶ、返す。
それが全部、鋭くなっている。
《謝るな》
少し考える。
《今日は短くする》
既読。
《はい》
それで終わった。
レオンとの距離も、少し揺れている。
◇
午後、傷を見る時間を決めた。
長くはしない。
マルタが砂時計を持ってきた。
どこにあったのか分からない。
小さな砂時計。
古い。
「これで十分」
アルトが聞く。
「何分だ」
「知らない」
「知らないのか」
「昔から厨房にある。卵を待つには短い。湯を冷ますには長い。傷を見るには、たぶんちょうどいい」
適当なのか、経験なのか分からない。
だが、マルタらしかった。
砂時計を返す。
砂が落ち始める。
アルト。
ルナ。
ブルーノ。
ミナ。
ガルド。
ガルム。
ミア。
全員ではない。
ミアは少し離れた席にした。
本人がそうした。
傷を見る。
黒い輪郭。
朝より少し薄い。
だが、触れた時よりははっきりしている。
端が、ほんの少しだけ曲がっている。
文字のように見える。
見えそうになる。
アルトは目を細めない。
読み取ろうとしない。
ルナは水を持っている。
今日は自分で持っている。
手は震えている。
だが、落とさない。
砂が落ちる。
誰も話さない。
会話ではなく、砂の音のない落下が時間を切る。
最後の粒が落ちた。
マルタが布をかけた。
見る時間は終わり。
端末を見る。
【対象反応:低下】
【照合状態:不安定】
【接触反応:残留】
【視認反応:制御内】
制御内。
アルトはその言葉を見た。
制御できている、ではない。
制御内。
範囲の中。
ぎりぎりの中。
今日は、それで足りた。
◇
夕方、店を開けた。
配信は開けない。
普通の客だけ。
傷のある机には、布をかけていない。
ただし、そこには誰も座らせない。
休ませるのとは違う。
見せ物にもしない。
今日は使わない。
マルタがそう決めた。
ミアは、客が来ても傷の方を見なかった。
スープを運ぶのを手伝った。
途中で少しこぼした。
マルタが布巾を渡す。
「拭きな」
ミアは黙って拭いた。
いつもなら何か言う。
今日は言わない。
拭く。
布巾を返す。
それから、アルトのところへ来た。
「手首、もう痛くない」
アルトはミアを見る。
「そうか」
「でも、びっくりは残ってる」
「ああ」
「傷と同じ?」
アルトは少し考えた。
「似てるかもしれない」
「消えなかったら?」
「残る」
「残ったら?」
「次に触る時、気をつける」
ミアは頷いた。
少しだけ、いつもの顔に戻った。
「じゃあ、気をつける傷」
「名前を増やすな」
「仮」
「今日だけな」
ミアは小さく笑った。
その笑いで、ようやく店の中の息が少しほどけた。
◇
夜。
ルナは傷を見る時間のあと、自分からアルトのところへ来た。
水を持っている。
ミナのものではない。
自分で取ったものだ。
「今日は、返そうとしませんでした」
アルトは頷いた。
「触りたくなったか」
「はい」
ルナは正直に言った。
「触れれば、少し分かる気がしました」
「触らなかった」
「はい」
「それは、できなかったのか。しなかったのか」
ルナは少しだけ息を吸った。
「今日は、しませんでした」
断定だった。
昨日より、少しだけ違う。
できなかったのではない。
しなかった。
自分で選んだ。
アルトは言った。
「なら、今日はそこに印をつけろ」
「印?」
「触らなかった日」
ルナは少し迷った。
それから、ブルーノに紙をもらった。
端末の記録ではない。
赤猫亭の紙。
そこに、短く書いた。
【触れなかった日】
字は少し震えていた。
だが、読めた。
アルトはそれを見て、頷いた。
ルナは紙を机に置かず、自分で持った。
自分の手順として。
◇
寝る前、アルトは端末を確認した。
短く。
布越しに。
【対象反応:継続】
【照合状態:不安定】
【接触反応:残留】
【視認反応:制御内】
【記録補足:接触者影響なし】
アルトは最後の行を見て、息を吐いた。
ミアに影響はない。
少なくとも、端末上は。
それがどれほど信用できるかは分からない。
でも、今夜はその行を受け取る。
画面を閉じる。
下の階で、マルタが戸締まりをしている。
かちゃり。
鈴が鳴る。
ちりん。
普通の音。
昨日と同じようで、昨日とは違う。
アルトは膝をさする。
まだ痛む。
ミアの手首の赤み。
ルナの震えた字。
ブルーノの置きかけた端末。
全部が今日の中に残っている。
正しく処理できたわけではない。
少しずつ間違えた。
そのたびに、直した。
赤猫亭は今日も閉まる。
傷は残る。
でも、触らない時間も作れた。
見ない時間も作れた。
触れなかった日、という記録も一つ増えた。
アルトは灯りを落とす。
明日、また店は開く。
傷のある机と、少し赤かった手首と、震えた字と、普通に鳴る鈴を抱えたまま。




