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第94話 店の傷

 朝になっても、机の傷は残っていた。


 黒い点ではない。


 もう点ではなかった。


 マルタが拭き、ガルドが見て、ミナが水を替えて、ミアが布を直して、それでも残ったあと。


 薄い輪郭。


 小さな焦げ跡にも見える。


 水をこぼした跡にも見える。


 だが、昨日まではなかった。


 赤猫亭の机に、新しい傷がある。


 アルトはその前に座っていた。


 寝たのか、寝ていないのか分からない。


 横にはなった。


 目も閉じた。


 でも、眠ったという感じはしなかった。


 膝が痛い。


 服の裂けたところは、マルタがまだ縫っていない。


 ガルムが噛んで引いた跡が、布に残っている。


 服も、机も、膝も、全部が昨日の一歩を覚えていた。


 端末は、布の上に置かれている。


 素手では触らない。


 ブルーノが夜のうちにそう決めた。


 画面には、昨夜の記録が残っている。


【開扉条件:強制接近】


【警告送信:失敗】


【呼称照合:誤接続】


【対象反応:発生】


【侵入深度:一歩】


 そして、今朝、新しい行が出ていた。


【復帰履歴:あり】


 アルトはその一行を見た。


 侵入深度、一歩。


 復帰履歴、あり。


 並んでいる。


 どちらかが消えるわけではない。


 一歩出たことも、戻ったことも、同じ画面に残っている。


「分類は」


 アルトが聞いた。


 ブルーノは、端末を布越しに操作した。


 指先が少しぎこちない。


 画面が切り替わる。


【対象分類:止まれる者】


 消えていなかった。


 アルトは息を吐きかけて、途中で止めた。


 安心していいのか分からない。


 その下に、もう一行がある。


【侵入履歴:一歩】


 さらに。


【復帰履歴:あり】


 止まれる者。


 侵入履歴。


 復帰履歴。


 全部が並ぶ。


 きれいな分類ではない。


 傷のついた分類だった。


 ブルーノは紙に写さなかった。


 写す代わりに、端末の下へ布をもう一枚敷いた。


「消えません」


 ブルーノが言った。


「でしょうね」


 アルトは答えた。


 短く言うつもりだったが、声が少し掠れた。


 ◇


 マルタは、いつもより遅く鍋を火にかけた。


 朝食ではない。


 まず湯だった。


 昨夜と同じ。


 水ではなく、湯。


 マルタは湯気を見ながら言った。


「今日は、いきなり飯じゃないよ」


「朝飯抜きか」


「抜かない。順番を変えるだけ」


 湯が器に注がれる。


 アルト。


 ルナ。


 ミア。


 ブルーノ。


 ミナ。


 ガルド。


 ガルムの器にも、少し冷ました湯が入る。


 マルタは自分の分を最後にした。


 全員が器を持つ。


 誰も急いで飲まない。


 湯は熱い。


 急げない。


 それが今朝の手順だった。


 ミアは器を覗き込んで言った。


「芋なし」


「まだ」


 マルタが答える。


「朝なのに?」


「朝になる前の湯」


「もう朝」


「体がまだ夜のままなんだよ」


 ミアは少し考えた。


「じゃあ湯」


「そう」


 ミアは器を両手で持った。


 湯気が鼻に当たり、少し目を細める。


 その横で、ルナは器を持ったまま、机の傷を見ていた。


 湯気が顔の前を上がる。


 昨日、ルナは「間違えました」と言った。


 今朝、その言葉はまだ店の中にある。


 だが、ルナはそれを繰り返さなかった。


 代わりに、器を置いた。


 こと。


「次に、返そうとした時は」


 ルナが言った。


 誰かに促されたわけではない。


「先に言います」


 アルトはルナを見る。


 ルナは机の傷ではなく、アルトを見ていた。


「止めてもらうためだけではありません」


「ああ」


「返す呼び方を、探すために」


 アルトは頷いた。


 昨日の言葉を、ルナが自分の手順に変えている。


 謝罪ではない。


 言い訳でもない。


 次にどうするか。


 そこへ進んでいる。


 マルタが湯を飲んだ。


 少し熱かったのか、眉を寄せる。


「それなら、まず湯を飲みな」


 ルナは器を取り、今度はゆっくり飲んだ。


 ◇


 朝食は、湯のあとになった。


 普通の芋のスープ。


 黒パン。


 水。


 残す芋は布の下。


 食べる芋は鍋の中。


 マルタがはっきり分けた。


 ミアは確認した。


「今日は食べる芋」


「そう」


「残す芋は残る」


「そう」


「傷は?」


 ミアの問いは急だった。


 マルタはスープをよそいながら答える。


「残る」


「食べる?」


「食べない」


「拭く?」


「拭いた」


「消えない?」


「消えなかった」


 ミアは机の傷を見た。


 それから、自分のスープを見た。


「じゃあ、傷は残す傷」


 アルトは少しだけ笑いそうになった。


 傷まで分類しはじめるのは危ない。


 だが、ミアの中では、そうやって置くしかないのだろう。


 ガルドが言った。


「残す傷じゃない。残った傷だ」


 ミアが首を傾げる。


「違う?」


「残すと決めたわけじゃない。消えなかった」


「じゃあ、消えなかった傷」


「そうだ」


 ミアは頷いた。


「消えなかった傷」


 その言い方の方が、今朝には合っていた。


 アルトはスープを飲む。


 熱い。


 昨日の湯とは違う熱さ。


 具がある。


 塩気がある。


 芋の甘さがある。


 机に傷があっても、スープは味を持っていた。


 ◇


 神々への配信文は、出さなかった。


 赤猫亭が開いているかどうか。


 今日は、それすら出さなかった。


 ブルーノが端末の前で迷っていると、マルタが言った。


「今日は、店の扉だけ開ける」


「配信は」


「あと」


「神々が騒ぎます」


「騒ぐだろうね」


「いいんですか」


 マルタは鍋を混ぜながら、珍しく長く答えた。


「よくはないよ。でも、今朝は店の中に傷がある。あんたたちはそれを見て、湯を飲んで、飯を食べて、机を拭いて、それでも消えないことを確かめた。そういう朝を、まだ外に出すには早い。神々が悪いんじゃない。見られると形が決まりすぎる。『傷回』だの『侵入一歩』だの、そういう名前がついた瞬間に、こっちがまだ触り方を決めてないものまで、あっちの言葉で固まる。だから今日は、店の扉は開ける。でも画面は開けない」


 ブルーノは、端末から手を離した。


 アルトも何も言わなかった。


 マルタの言う通りだった。


 神々に見せる前に、店の中で扱う。


 それが今日の順番だった。


 ガルムが戸口へ向かう。


 外を確認する。


 来客がいるわけではない。


 ただ、店の扉を開ける時間だった。


 マルタが頷く。


 ガルムが扉を開けた。


 鈴が鳴る。


 ちりん。


 今日は鳴った。


 普通に鳴った。


 戸口が開いたから鳴った。


 その音に、全員が少しだけ反応した。


 だが、誰も止まらなかった。


 鈴が普通に鳴ることも、今朝は必要だった。


 ◇


 午前の客は、何も知らずに入ってきた。


 近所の老人。


 いつも奥の席ではなく、窓際に座る客だ。


 今日も窓際に座った。


 傷のある机には近づかない。


 スープを頼み、水を飲み、マルタに天気の話をした。


 マルタは普通に返した。


「今日は少し冷えるね」


「そうだな」


「芋は柔らかいよ」


「じゃあもらおう」


 それだけ。


 赤猫亭の中では、白い床も、呼称照合も、侵入深度も、何も知らない客が普通に芋を食べる。


 アルトはそれを見ていた。


 店が営業するというのは、傷を忘れることではない。


 傷のあるまま、人に水を出すことだ。


 ミナが、傷のある机に水を置いた。


 客用ではない。


 自分たちのためでもない。


 ただ、机に水を置いた。


 こと。


 水面が少し揺れる。


 傷の横に、水がある。


 ミナは何も言わなかった。


 そのまま厨房へ戻る。


 アルトは、その音を覚えた。


 ◇


 昼前、端末を一度だけ確認した。


 配信ではない。


 履歴だけ。


 布越しに、ブルーノが操作する。


【対象分類:止まれる者】


【侵入履歴:一歩】


【復帰履歴:あり】


 その下に、新しい表示があった。


【分類補足:復帰可能】


 アルトはその文字を読んだ。


「復帰可能」


 ブルーノが頷く。


「止まれる者の分類は消えていません。ただ、補足が追加されています」


「良いことか」


「良いだけではないと思います」


「だろうな」


 アルトは画面を見る。


 復帰可能。


 つまり、戻ったことも見られている。


 引き戻されたことも。


 水を飲んだことも。


 店に傷を残して戻ったことも。


 全部ではないにしても、向こうは何かを記録している。


 さらに表示が続く。


【対象反応:継続】


【照合状態:不安定】


 ブルーノの手が止まる。


 アルトは画面から目を離さない。


 対象反応は、発生で終わっていなかった。


 継続している。


 照合は不安定。


 まだ名前も呼び方も出ない。


 だが、反応は続いている。


「黒い傷か」


 アルトが言う。


 ガルドが机を見る。


「たぶん、そこが一番近い」


 マルタがすぐ言った。


「見すぎない」


 アルトは視線を外した。


 ガルドも離れた。


 ブルーノは紙を出さない。


 端末を閉じる。


 今日の確認はそこまでだった。


 引きすぎではない。


 逃げでもない。


 今は、傷を見すぎると近づく。


 それが昨日分かったばかりだった。


 ◇


 午後、ルナは机の傷の前に立った。


 触らない。


 座らない。


 ただ、立つ。


 アルトは少し離れて見ている。


 ミナは水を持っている。


 マルタは厨房にいるが、こちらを見ている。


 ガルムは戸口ではなく、机と扉の間で伏せている。


 ガルドは壁に背を預けていた。


 ルナは言った。


「私は、あの声に返そうとしました」


 朝と同じことを、もう一度言う。


 だが、今度は机の傷へ向けている。


「返せませんでした。返さないことも選びました。届かない返事になると分かっていたからです」


 アルトは口を挟まなかった。


 ルナは続ける。


「でも昨日は、返せる気がしました。ここには赤猫亭があって、鈴があって、呼び方が届く場所があったから」


 水を飲む。


 今度は自分で。


「それで、間違えました」


 机の傷は動かない。


 黒い輪郭のまま、そこにある。


「次に返そうとした時は、先に言います」


 ルナは机ではなく、アルトを見た。


「ひとりで返しません」


 アルトは頷いた。


 マルタが厨房から言う。


「それを言えたなら、今日は一つ進んだよ」


 ルナは小さく頭を下げた。


 謝罪ではなかった。


 約束に近かった。


 ◇


 レオンからの連絡は、夕方に来た。


《今日は静かです》


 アルトは端末を見る。


 少し迷ってから返す。


《水は》


《置いた》


《音は》


《少ない》


《赤猫亭は》


 間が空いた。


 アルトは、しまったと思った。


 聞くべきではなかったかもしれない。


 今日は配信も開けていない。


 赤猫亭で起きたことは、レオンには聞こえなかった。


 だが、既読はついている。


 しばらくして、返事が来た。


《聞こえません》


 昨日と同じではない。


 今日は、少し違う。


《でも、あるのは分かります》


 アルトは画面を見る。


 レオンの場所に、赤猫亭の音は届かない。


 でも、あるのは分かる。


 呼び方とは違う。


 音とも違う。


 場所の気配に近い。


《来るか》


 打ちかけて、消した。


 今日は違う。


 来させる日ではない。


 代わりに打つ。


《来る日は自分で決めろ》


 また同じ文になった。


 だが、今日は意味が少し違う。


 既読。


《はい》


 それだけ。


 アルトは端末を伏せた。


 レオンの「はい」は、昨日より少し近かった。


 来ないことを選んでいる。


 だが、赤猫亭があることは分かっている。


 それなら、まだいい。


 今は、そこまでで止める。


 ◇


 夕方、マルタが服を縫った。


 アルトが着ていた上着。


 ガルムが噛んで裂いたところ。


 テーブルの横で、マルタは針を通した。


 ちく。


 布を引く。


 また、ちく。


 ミアが隣で見ている。


「ガルムの傷?」


「服の傷だよ」


「ガルムがつけた」


「アルトを引くためにね」


「いい傷?」


 マルタは少し考えた。


「役に立った傷だね」


「机の傷は?」


「まだ分からない」


「いい傷?」


「そう言うには早い」


「悪い傷?」


「それも早い」


 ミアは眉を寄せた。


「じゃあ、傷」


「そう。傷」


 マルタは針を通す。


「傷ってのは、すぐに良い悪いで分けなくていい。痛い時は痛いし、残る時は残るし、あとになって見た時に、あの時ここを縫ったな、あの時あそこを拭いたな、あの時誰が引っ張ったなって思い出す。それで少し意味が変わる。最初から意味を決めると、傷まで窮屈になる」


 アルトはそれを聞いていた。


 服の裂け目が、少しずつ閉じていく。


 完全に元通りではない。


 縫い目は残る。


 だが、着られるようにはなる。


 それでよかった。


 ◇


 夜、赤猫亭はいつもより早く閉めた。


 配信は最後まで開かなかった。


 コメント欄も見なかった。


 神々がどう騒いでいるかは分からない。


 分からないままにした。


 戸締まりをする時、マルタが鈴を見た。


 アルトも見た。


 昨日は鳴らなかった。


 今日は、開けた時に普通に鳴った。


 そして今、閉める時にも鳴った。


 ちりん。


 普通の音。


 店を閉める音。


 それを聞いて、アルトは少しだけ肩の力を抜いた。


 普通に鳴る鈴が、こんなにありがたい日が来るとは思わなかった。


 机の傷は、布で隠さない。


 マルタがそう決めた。


 隠すと、特別になりすぎる。


 見せすぎると、呼びすぎる。


 だから、ただ机として置く。


 水差しは少し離した。


 残す芋は布の下。


 食べる芋は夕飯で食べた。


 湯はもうない。


 アルトは二階へ上がる前に、ルナを見た。


 ルナは自分のコップを持っている。


 ミナに渡されたものではない。


 自分で取りに行ったものだ。


「水か」


「はい」


「湯じゃなくていいのか」


「今日は水で大丈夫です」


 その言い方に、少しだけ力があった。


 大丈夫です、ではなく、大丈夫にします、に近い声だった。


 アルトは頷く。


「返したくなったら」


「先に言います」


「ひとりで返すな」


「はい」


 短いやり取りだった。


 だが、昨日の夜とは違う。


 ルナは自分で手順を持っている。


 ◇


 部屋に戻ると、膝の痛みが少し強くなった。


 階段を上がったからだ。


 アルトは寝台に座り、膝を見る。


 少し赤い。


 大きな怪我ではない。


 だが、あの一歩の痛みだ。


 服の裂け目は縫われている。


 縫い目がある。


 机には傷がある。


 端末には履歴がある。


 全部が残った。


 アルトは灯りを落とす前に、端末を見た。


 布越しではない。


 自分の手で持つ。


 少し迷ったが、持った。


 画面を開く。


【対象分類:止まれる者】


【侵入履歴:一歩】


【復帰履歴:あり】


【分類補足:復帰可能】


 アルトは、その四行を読んだ。


 止まれる者。


 一歩出た者。


 戻った者。


 復帰可能。


 どれか一つではない。


 全部、自分についた。


 それを見てから、画面を閉じる。


 布に戻す。


 灯りを落とす。


 下で、戸締まりの金具が鳴る。


 かちゃり。


 今日は、閉める音がした。


 明日また開けるための音。


 アルトは横になった。


 眠れるかどうかは分からない。


 それでも、横になる。


 マルタの言葉を思い出す。


 立っていると、次の一歩を考える。


 横になると、少しだけ何も考えない時間が入る。


 膝が痛む。


 机の傷が頭に浮かぶ。


 ルナの「ひとりで返しません」という声も残っている。


 赤猫亭は元通りではない。


 でも、閉じた。


 明日、また開く。


 そのことを聞きながら、アルトは目を閉じた。


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