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第93話 鈴は鳴らなかった

 鈴は鳴らなかった。


 アルトが目を覚ました時、最初に気づいたのはそのことだった。


 音がしたから起きたのではない。


 音がしなかったから、起きた。


 赤猫亭の夜には、何かしらの音がある。


 水差しが置かれる音。


 椅子が戻される音。


 床が軋む音。


 マルタが戸締まりをする音。


 誰かが二階の廊下を歩く音。


 それらが全部、少しずつ遠のいて、最後に店が眠る。


 そのはずだった。


 だが、その夜は違った。


 静かすぎた。


 白い場所の静けさに、似ていた。


 アルトは寝台から起き上がった。


 端末は棚にある。


 光っていない。


 手帳は布の中。


 金属片も鳴らない。


 下の階から、鍋の音もしない。


 水の音もしない。


 鈴も鳴らない。


 何も鳴らないのに、何かが開いている。


 そう感じた。


 アルトは上着をつかみ、部屋を出た。


 廊下は暗い。


 ルナの部屋の前を通る。


 声をかけようとして、やめた。


 先に下を見る。


 階段を降りる途中で、足が止まった。


 赤猫亭の戸口が、開いていた。


 ほんの少し。


 指一本分ほど。


 外の夜が、そこから細く入り込んでいる。


 鈴は、その上で揺れていない。


 鳴っていない。


 戸口が開いているのに、鳴らなかった。


 アルトは階段を降りきった。


 床板が鳴る。


 こつ。


 その音で、ようやく店の中に赤猫亭の音が戻った気がした。


 だが、遅い。


 遅すぎる。


 戸口の前に、ルナが立っていた。


 外へ出ようとしているのではない。


 中へ戻ろうとしているのでもない。


 開いた戸口のこちら側で、ただ、扉に手をかけている。


 指先が白い。


 力が入りすぎている。


「ルナ」


 アルトが呼んだ。


 ルナは振り返らなかった。


 聞こえていない。


 アルトは一歩近づく。


「ルナ」


 二度目。


 届かない。


 胸の奥が冷えた。


 名前ではない。


 呼び方として呼んだ。


 それでも届かない。


 アルトはさらに近づいた。


 その瞬間、戸口の外から、何かが赤猫亭を呼んだ。


 声ではなかった。


 文字でもなかった。


 だが、呼んでいる。


 誰かの名を。


 誰かの場所を。


 誰かが返せなかった返事の続きを。


 頭の内側を爪で撫でられるような感覚が走り、アルトは奥歯を噛んだ。


 鈴は鳴らない。


 鳴らないまま、戸口がもう少し開いた。


 ◇


 マルタの声がした。


「止まりな」


 低い声だった。


 叱る声ではない。


 店の奥から、こちらへ届く声。


 いつもなら、それで止まる。


 アルトも。


 ルナも。


 赤猫亭そのものも。


 だが、今夜は違った。


 ルナの手が、扉を押した。


 わずかに。


 ほんの少し。


 外の夜が、幅を増して店へ入る。


 マルタがもう一度言った。


「止まりな、ルナ」


 届かない。


 ルナは動いている。


 ゆっくり。


 自分で動いているのか、呼ばれているのか分からない。


 アルトはルナの腕をつかもうとした。


 その手が、途中で止まる。


 見えた。


 扉の隙間の向こうに、白い床が見えた。


 赤猫亭の外ではない。


 夜の通りではない。


 白い床。


 白い壁。


 音のない場所。


 旧待機区画。


 扉の向こうにあるはずのない場所が、赤猫亭の戸口の隙間に重なっていた。


 アルトの足が、一歩前に出た。


 出してしまった。


 床の合図は鳴らない。


 こつ、もない。


 三回の警告もない。


 水を飲む手順もない。


 マルタの声も、今は遠い。


 白い床の奥に、黒い染みが見えた。


 文字ではない。


 文字になりかけているもの。


 呼び方になる前の残り。


 その染みが、こちらを向いていた。


 向いている、と思った。


 そんなはずはない。


 染みがこちらを見るわけがない。


 それでも、アルトは見たと思った。


 そして、呼ばれた。


 アルト。


 いや、違う。


 アルトではない。


 誰かの呼び方の破片が、アルトの名に似た形で触れてきた。


 違うのに、似ている。


 自分ではないのに、自分へ向けられたように感じる。


 それが一番危なかった。


 アルトはもう一歩出そうになった。


 その時、背中に衝撃が来た。


 ガルムだった。


 横から体当たりされたのではない。


 後ろから押し倒されたのでもない。


 ガルムはアルトの服を噛んで、引いた。


 乱暴に。


 痛いほど強く。


 布が裂ける音がした。


 アルトは後ろへ倒れかけ、膝を床についた。


 そこで、ようやく音が戻った。


 床。


 膝。


 水差し。


 誰かの息。


 ミアの小さな悲鳴。


 マルタが走る足音。


 ルナの指が、まだ扉にかかっている。


 アルトは叫んだ。


「ルナ!」


 今度は届いた。


 ルナの肩が跳ねた。


 扉が止まる。


 止まっただけだ。


 閉じていない。


 マルタがルナの手をつかんだ。


 強く。


 優しくはない。


 優しくしている余裕はなかった。


「戻りな」


 今度の声は、届いた。


 ルナの手から力が抜ける。


 戸口が、ゆっくり閉じる。


 鈴は最後まで鳴らなかった。


 扉が閉まる音だけがした。


 かちゃり。


 軽い音だった。


 軽すぎる音だった。


 ◇


 しばらく、誰も言葉を出さなかった。


 代わりに、ミナが動いた。


 台詞はなかった。


 水差しを取る。


 コップを三つ出す。


 一つをアルトの前へ。


 一つをルナの前へ。


 一つをマルタの手元へ。


 水が注がれる。


 とく。


 とく。


 とく。


 その音だけが、店の中を縫った。


 アルトは膝をついたまま、水を受け取った。


 手が少し震えている。


 水面が揺れる。


 飲む。


 喉に入る。


 冷たい。


 ようやく、自分の体の中へ戻った気がした。


 ルナはコップを持てなかった。


 ミナが手を添える。


 ルナの指がコップに触れる。


 それでも、しばらく飲めない。


 マルタはその様子を見て、何も言わずにルナの肩へ布をかけた。


 叱らない。


 まだ、叱る時間ではない。


 ガルムはアルトの裂けた服を口から離した。


 床に落ちた布片を見て、鼻を鳴らす。


「間に合わなかった」


 ガルムが言った。


 アルトは水をもう一口飲む。


「いや、引いた」


「一歩、出た」


 ガルムの声は低い。


「お前も、出た」


 言い返せなかった。


 アルトは一歩出た。


 自分で。


 止まれなかった。


 マルタの声も、床の合図も、水も、間に合わなかった。


 ガルムが物理的に引かなければ、もう一歩出ていた。


 マルタが、裂けた服を見た。


「明日、縫う」


「今じゃないのか」


「今は飲みな」


 アルトは水を飲んだ。


 ルナもようやく飲んだ。


 一口だけ。


 水が喉を通ったのを見て、ミナが初めて息を吐いた。


 ◇


 端末は、床に落ちていた。


 いつの間に落ちたのか分からない。


 棚から落ちたのではない。


 アルトが持っていた覚えもない。


 ただ、床にある。


 画面は光っている。


 ブルーノが拾おうとした。


 マルタが止めた。


「手袋」


 ブルーノは言われてから、自分の手を見た。


 何もつけていない。


 すぐに布を取りに行く。


 布で包むように端末を持ち上げた。


 表示が出ている。


【開扉条件:強制接近】


【警告送信:失敗】


【呼称照合:誤接続】


【対象反応:発生】


【侵入深度:一歩】


 アルトは最後の行を見た。


 侵入深度。


 一歩。


 あの一歩が記録されている。


 止まれた者。


 止まれる者。


 その分類に、傷が入った気がした。


 ブルーノは紙を出しかけて、やめた。


 紙に写すには早すぎる。


 いや、紙に写せば落ち着くと思ったのかもしれない。


 でも、今は違う。


 書けば済むものではない。


 ルナが、ようやく声を出した。


「分かっています」


 その一言は、これまでのどの「分からない」よりも重かった。


 アルトはルナを見る。


 ルナはコップを握っている。


 水はまだ半分残っている。


「何が」


 アルトが聞く。


 ルナは戸口を見た。


 閉じている扉。


 鳴らなかった鈴。


 その下の隙間。


「私は、返事をしようとしました」


「昨日聞いた」


「違います」


 ルナは首を横に振った。


「今夜もです」


 マルタの手が、布巾を握ったまま止まる。


 ルナは続ける。


「今夜、あの声に返そうとしました。返せると思ったからではありません。返さなければ、また届かないと思ったからです」


 アルトは何も言えなかった。


 ルナは水を見ない。


 戸口を見る。


「そして、間違えました」


 断定だった。


 可能性ではない。


 分からない、ではない。


 ルナは初めて、自分の判断をそう呼んだ。


「私は間違えました」


 ミアが階段の途中で立っている。


 降りてきたまま、動けないでいる。


 マルタがその姿に気づき、手招きした。


 ミアはゆっくり降りてくる。


 残す芋の方を見た。


 布はかかったままだ。


 でも、机の端に黒い小さな点がついていた。


 アルトはそれを見た。


 見てしまった。


 黒い染み。


 白い床にあったものより小さい。


 インクの飛沫のような点。


 赤猫亭の机に、ついている。


 何かが実際に変わった。


 ◇


 マルタは、すぐに拭かなかった。


 布巾を持っている。


 手を伸ばせば拭ける。


 それでも拭かない。


「ブルーノ」


「はい」


「書くのは後」


「はい」


「ミナ」


「はい」


「水を替えて」


「はい」


「ガルド」


「起きてる」


 いつの間にか、ガルドも階段の影にいた。


 寝ていたはずなのに、起きている。


 壁に手をついて、机の黒い点を見ていた。


「これは床か、机か」


 マルタが聞く。


 ガルドは、ゆっくり近づいた。


 床を見ない。


 椅子も見ない。


 机の端を見る。


 それから、壁を見る。


 最後に戸口を見る。


「店だ」


 短い答えだった。


「店についた」


 アルトは息を飲む。


 黒い点は、机だけのものではない。


 赤猫亭についた。


 そういう言い方だった。


 マルタは布巾を水に浸した。


 絞る。


 まだ拭かない。


 ガルドが続けた。


 珍しく、長く話した。


「こういうものは、慌てて消すと跡が変わる。残せば広がる。見すぎれば呼ぶ。見なければ、踏む。だから、まず店のものとして扱う。神のものでも、白い場所のものでも、呪いでも、印でもなく、今ここについた汚れとして扱う。汚れなら、どこについたかを見る。何で拭くか決める。誰が触るか決める。拭けなかったら、板を替える。それでも残ったら、傷になる。傷になったら、店の傷として覚える」


 誰も途中で挟まなかった。


 ガルドがそこまで話すのは珍しかった。


 ミアが小さく聞いた。


「じゃあ、拭く?」


 ガルドは頷く。


「拭く」


「消える?」


「分からん」


「消えなかったら?」


「傷だ」


 マルタが布巾を持って、黒い点へ近づく。


「私がやる」


 アルトが言いかけた。


 俺が、と。


 だが、マルタが先に言った。


「あんたは一歩出た。今は座ってな」


 その言い方に、反論できなかった。


 アルトは椅子に座った。


 座らされたのではない。


 自分で座った。


 止まるために。


 マルタが黒い点を拭いた。


 一度。


 二度。


 布巾に黒が移る。


 机の点は薄くなった。


 消えはしない。


 薄い輪郭だけが残る。


 ミアが息を止めて見ている。


 マルタは言った。


「残ったね」


 ガルドが頷く。


「傷だ」


 赤猫亭に、新しい傷が残った。


 ◇


 夜は、もう戻らなかった。


 朝にもならなかった。


 その中間みたいな時間が続いた。


 鍋は鳴らない。


 スープも作らない。


 芋も焼かない。


 残す芋は布の下にある。


 誰も食べようと言わない。


 ミアは布の端を直した。


 ただ、それだけ。


 レオンから端末に通知が来た。


 ブルーノが布越しに画面を見る。


 アルトは頷く。


 読んだ。


《聞こえませんでした》


 その一文だけだった。


 アルトはしばらく返せなかった。


 レオンには聞こえなかった。


 赤猫亭で起きたことは、レオンの場所には届かなかった。


 それが救いなのか、切断なのか分からない。


 アルトは返信する。


《水を置け》


 既読。


 しばらくして。


《置きました》


 それだけ。


 今日は呼ばない。


 呼ばせない。


 届かない声が増えすぎている。


 アルトは端末を伏せた。


 ルナはまだ戸口を見ている。


 マルタが声をかけた。


「ルナ」


 ルナは振り返る。


 マルタは続けた。


「座りな」


 ルナは一瞬、立ったままだった。


 それから、椅子に座った。


 水を飲む。


 一口。


 こぼさなかった。


 アルトは机の傷を見る。


 薄い黒い輪郭。


 拭いても残ったもの。


 安全装置は間に合わなかった。


 でも、全部が失われたわけではない。


 それが慰めになるかどうかは、まだ分からない。


 いや。


 今は、分からないと言って逃げる場面ではない。


 アルトは自分の膝を見た。


 床についた膝が少し痛む。


 一歩出た。


 その事実は消えない。


 ルナが間違えた。


 その言葉も消えない。


 赤猫亭に傷が残った。


 それも消えない。


 今日は、消えないものが三つ増えた。


 ◇


 明け方近くになって、マルタが鍋を火にかけた。


 朝食ではない。


 夜を終わらせるための湯だった。


 水が温まる。


 小さな泡が鍋の底に生まれる。


 誰も話さない時間が長く続いたあと、マルタが初めて長く息を吐いた。


「今日は寝られないだろうけど、横にはなりな。寝るのと横になるのは違う。横になるだけでも、体は床から少し離れる。床から離れたら、さっきの一歩も少し遠くなる。遠くなったから消えるわけじゃないけど、抱えたまま立っているよりはましだよ。立ってると、人は次の一歩を考える。座ってると、次に立つことを考える。横になると、少しだけ何も考えない時間が入る。そういう隙間を作らないと、また呼ばれた時に全部持っていかれる」


 アルトはマルタを見た。


 長い。


 珍しく長い言葉だった。


 ミアも目を丸くしている。


 マルタは照れた様子もなく、湯を器へ注いだ。


「飲みな」


 アルトは受け取った。


 湯だった。


 水ではない。


 スープでもない。


 ただの湯。


 熱い。


 飲むには少し待つ必要がある。


 アルトは器を両手で持った。


 ルナも湯を受け取る。


 マルタが言う。


「今日は水じゃなくて湯だよ」


 ルナは頷いた。


 湯気が顔の前を上がる。


 ミアは自分の器を覗き込む。


「芋なし」


「芋なし」


「朝じゃない?」


「まだ朝じゃない」


「でも湯」


「そういう日もある」


 ミアは器を持って、少し待った。


 全員が、少し待った。


 熱いものは、すぐには飲めない。


 その待つ時間が、今夜は必要だった。


 ◇


 アルトは二階へ上がらなかった。


 かといって、一階で眠る準備もしなかった。


 長椅子に座り、湯を持ったまま、赤猫亭の戸口を見た。


 閉じている。


 鈴は鳴らない。


 鳴らなかったから、開いた。


 その事実が、鈴の意味を少し変えた。


 鳴ることだけが警告ではない。


 鳴らないことも、警告になる。


 机の端には、薄い黒い傷がある。


 マルタが拭いたあと。


 ガルドが店の傷だと言ったあと。


 アルトは湯を一口飲んだ。


 熱い。


 喉をゆっくり降りる。


 ルナは椅子に座っている。


 目を閉じてはいない。


 だが、戸口からは目を離している。


 それで、少しだけましだった。


 アルトは言った。


「ルナ」


 ルナがこちらを見る。


「次に返そうとする時は、先に言え」


 ルナは何か言おうとした。


 言葉を探している。


 アルトは続けた。


「止めるためじゃない。返す呼び方を、一緒に探すためだ」


 ルナは、ゆっくり頷いた。


「はい」


 その返事は、小さかった。


 でも届いた。


 戸口は開かない。


 鈴も鳴らない。


 端末も光らない。


 ガルムは扉の前で伏せている。


 今度は眠っていない。


 アルトも眠らない。


 ただ、湯を飲む。


 夜が終わるまで、少しずつ。


 赤猫亭は戻った。


 だが、元通りではない。


 机に傷がある。


 服が裂れている。


 膝が痛む。


 ルナが間違えたと言った。


 その全部を抱えたまま、店は閉じている。


 明日、また開けるために。


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