第92話 返事をしようとした
ルナが、赤猫亭の外にいた。
朝だった。
まだ店は開いていない。
戸口の鈴も鳴っていない。
端末も光っていない。
ガルムも唸っていない。
それなのに、アルトが下へ降りた時、ルナの姿だけが店の中になかった。
扉の向こう。
朝の薄い光の中。
ルナは、赤猫亭の戸口から三歩ほど離れた場所に立っていた。
外へ出た、というより。
戻る前の場所に立っているように見えた。
アルトは扉を開ける。
鈴が鳴る。
ちりん。
今日は、自分で鳴らした音だった。
ルナは振り返らない。
アルトは戸口に立ったまま言う。
「何してる」
ルナは少し遅れて振り返った。
顔色は悪くない。
ただ、水を飲む前の顔だった。
「確かめていました」
「何を」
「外から、赤猫亭がどう聞こえるのか」
アルトは店の中を振り返る。
まだ鍋は鳴っていない。
マルタの足音は厨房にある。
ミナが水差しを動かす音。
ミアの寝ぼけた声。
ガルムが床に爪を立てる小さな音。
中にいれば、聞こえる。
外に立つと、少し遠い。
でも、消えない。
「聞こえたか」
ルナは頷いた。
「はい」
「なら入れ」
ルナは少しだけ、戸口を見た。
入れる距離。
呼べば届く距離。
それなのに、足はすぐ動かなかった。
アルトは言う。
「ルナ」
その呼び方で、ルナが一歩動いた。
扉の前まで戻ってくる。
中へ入る。
鈴が、もう一度鳴った。
ちりん。
今度は、ルナが入った音だった。
◇
ミナがすぐ水を出した。
ルナは受け取る。
一口。
もう一口。
三口目に行く前に、コップを置いた。
こと。
マルタが厨房から言った。
「朝っぱらから外に立ってるんじゃないよ。冷える」
「すみません」
「謝る前に飲みな」
ルナはもう一口飲んだ。
ミアが階段から降りてくる。
目をこすりながら、ルナを見る。
「女神、外お泊まり?」
「していません」
「朝だけ外?」
「はい」
「寒い」
「少し」
ミアは考え込む。
それから、厨房に向かって言った。
「マルタさん、スープ濃いめ」
「勝手に注文しない」
「女神、外だった」
「理由になってるようで、なってないね」
それでも、マルタは鍋に少しだけ具を足した。
普通の芋。
食べる芋。
残す芋は布の下。
今日は、芋の話はそこまでだった。
アルトはルナの向かいに座る。
「昨日の続きか」
ルナはコップを両手で包む。
「はい」
「返事をしなかったのか、できなかったのか」
その言葉に、ルナの指が少しだけ動いた。
水面が揺れる。
「昨日、そう言いました」
「ああ」
「夜、考えました」
「寝たのか」
「少し」
「ならいい」
ルナは水を見たまま言う。
「私は、返事をしようとしていました」
アルトはすぐには聞き返さなかった。
マルタの鍋が、かん、と小さく鳴った。
強い音ではない。
朝の端に置かれる音だった。
「しようとはした」
「はい」
「できなかったのか」
ルナは唇を少し開いた。
だが、すぐには答えない。
水を飲む。
それから言った。
「返す呼び方が、ありませんでした」
アルトは眉を寄せる。
「呼び方がない?」
「はい」
「名前じゃなくて」
「名前では足りません」
ルナはようやくアルトを見る。
「呼ばれた声に返すには、こちらからも、その人へ向ける呼び方が必要でした」
アルトは、昨日までの言葉を思い出す。
名前は区別。
呼び方は、誰かが誰かを呼ぶためのもの。
呼ばれても届かなかった。
呼び方が壊れていた。
そして今度は、返す呼び方がなかった。
マルタが鍋の火を弱める。
今度は、音を立てなかった。
◇
朝食は、少し遅れて始まった。
普通の芋のスープは、少し濃かった。
ミアは満足げに頷く。
「外だったから」
「だから勝手に理由を増やすな」
アルトが言う。
「でも濃い」
「それは事実だな」
「いい」
「それも言うな」
ミアはスープを飲んだ。
ルナも飲む。
熱くて、少し息を吹きかける。
アルトはその動きを見ていた。
呼び方がない。
返事をしようとしても、返すための言葉がない。
それは、黙っていたのとは違う。
だが、何もできなかったのとも違う。
「返事って、名前を呼べばいいんじゃないの?」
ミアが聞いた。
ルナはスープの器を置く。
「名前を呼ぶことはできます」
「じゃあ返事できる」
「でも、届かないことがあります」
「なんで」
ルナは少し考える。
ミアに説明するための言葉を探している。
「たとえば、ミアさんが、誰かに『そこの人』と言われたら」
「見る」
「でも、マルタさんに『ミア』と呼ばれたら」
「行く」
「その違いです」
ミアはすぐに納得した。
「違う」
「はい」
「そこの人は、名前じゃない」
「そうですね」
「でもミアはミア」
「はい」
マルタが横から言う。
「ただ、誰が呼ぶかでも違うよ」
ミアがマルタを見る。
「マルタさんのミアと、アルトのミア?」
「そう」
「違う」
「そういうこと」
ルナは頷いた。
「呼び方は、言葉だけではありません。誰が、誰へ向けて言ったかも含まれます」
ブルーノが紙を出していた。
だが、すぐには書かない。
少し待ってから、一行だけ置いた。
【返事には、返す呼び方が必要】
その下に書きかけて、止める。
ペンを置いた。
今日は、それ以上いらなかった。
◇
神々のコメント欄は開かなかった。
配信文だけを出す。
《赤猫亭、営業中》
昨日と同じ文。
ただし、今日はブルーノが送る前にアルトが止めた。
「毎日同じにするな」
ブルーノは指を止める。
「では、どうしますか」
マルタが鍋を混ぜながら言う。
「今日は『開いてるよ』でいいんじゃないかい」
ブルーノが少し困る。
「くだけすぎでは」
「店だよ」
「神々向けです」
「客向けでもあるんだろ」
アルトは少し考える。
「それでいけ」
ブルーノは文を変えた。
《赤猫亭、開いています》
送る。
コメント欄は読まない。
すぐ閉じる。
同じ意味でも、少し違う呼び方。
営業中。
開いています。
どちらも店の状態を示す。
だが、届き方は違う。
今日の話には、そちらの方が合っていた。
◇
昼前、レオンから連絡が来た。
《水を置いた》
次に。
《今日は行きません》
アルトは画面を見る。
ここ数日、レオンは行かないことを選んでいる。
ただ、今日は続きが早かった。
《行かないと決めるのが、少し楽になりました》
アルトは返信する。
《来る日は》
少し迷ってから、送る。
《自分で決めろ》
既読。
間。
《はい》
それから、もう一文。
《アルトさん》
昨日と同じ呼び方。
しかし、そのあとが違った。
《呼んでもいいですか》
アルトは指を止めた。
呼んでもいいですか。
もう呼んでいる。
だが、レオンにとっては違うのだろう。
ただ名前を書くことと、呼ぶことは違う。
呼び方を使うことには、向きがある。
アルトは返信する。
《いい》
短すぎる。
すぐに消す。
別の文を打つ。
《聞く》
送信する。
既読。
しばらくして。
《アルトさん》
もう一度。
今度は、それだけだった。
アルトは端末を見た。
胸の奥に、軽く触れるものがある。
名前ではない。
記録でもない。
レオンがこちらへ向けた呼び方。
アルトは返す。
《聞こえてる》
少し待つ。
返事。
《今日は、それだけです》
アルトは端末を伏せた。
鈴は鳴らなかった。
今日は、届いている。
届くと、鳴らないこともある。
それを、もう一度確認した。
◇
午後、ルナは奥の席に座った。
マルタが座らせたのではない。
アルトが促したのでもない。
ルナが自分で椅子を引いた。
ぎい。
その音が店に落ちる。
奥の席。
入口でもあり、席でもあり、休ませ、使い、また戻した場所。
ルナはそこに座った。
ミナが水を置く。
ルナは礼を言って、飲む。
ブルーノは紙を持っているが、近づかない。
ガルドは壁の傷を見ている。
ガルムは入口ではなく、店の中央で伏せている。
ミアは残す芋が見える席に座っている。
今日は、全員の位置がいつもと違う。
だが、それを誰も説明しなかった。
ルナは言った。
「呼んでいた声は、私の名前を呼んでいたわけではありません」
アルトは向かいには座らない。
少し離れた席に座る。
「じゃあ誰を」
「分かりません」
ルナは水を飲む。
コップを置く。
「でも、私はその声に返さなければいけないと思いました」
「なぜ」
「聞こえたからです」
単純な答えだった。
だが、重かった。
聞こえたから、返さなければいけないと思った。
でも、返す呼び方がなかった。
「その声は、誰かを呼んでいた」
「はい」
「お前ではなかった」
「はい」
「でも聞こえた」
「はい」
「返そうとした」
「はい」
「返せなかった」
ルナは少しだけ目を伏せた。
「届かない返事になると、分かっていました」
アルトは黙った。
今の沈黙は、空気ではなく、椅子の音で区切られた。
ガルドが、少しだけ椅子を直した。
ぎい。
ルナは続ける。
「呼ばれていない者が返すと、呼び方がずれます」
「ずれる?」
「はい。呼んだ者にも、呼ばれた者にも届かない。別のものになる」
黒い染み。
文字ではないが、文字になりかけていたもの。
呼び方になる前の残り方。
アルトはそこにつながるのを感じた。
「だから返せなかった」
「はい」
「できなかった、に近いのか」
ルナは少し考えた。
「しなかった、でもあります」
アルトはルナを見る。
ルナは水のコップから手を離していた。
「私は、返さないことを選びました。届かない返事になると分かっていたからです」
言葉が、店の中に落ちた。
誰も拾わない。
誰かがすぐ受け止めるには、重すぎた。
マルタは厨房で皿を拭く手を続けている。
布が皿を擦る音。
しゅ。
しゅ。
その音だけが、話を壊さずに残った。
◇
夕方、客が奥の席に座った。
ルナが座った後の席に、普通の客が座った。
その客は何も知らない。
スープを頼み、黒パンを食べ、芋を少し残した。
マルタが言った。
「残すなら言いな。包むから」
「いや、食べます」
客は慌てて芋を食べた。
ミアがそれを見て、アルトに小声で言う。
「あれは残す芋じゃない」
「食べる芋だな」
「食べた」
「そうだな」
普通の会話。
ルナは少し離れた席で水を飲んでいる。
さっき話したことは、まだ店に残っている。
でも、客は知らない。
知らないまま、芋を食べる。
それが赤猫亭だった。
重い話があっても、飯は出る。
飯が出るから、話だけで場所が固まらない。
◇
夜。
アルトは外へ出なかった。
階段にも座らなかった。
奥の席にも近づきすぎなかった。
戸口の鈴も見張らなかった。
今日は、厨房の横に立った。
マルタが皿を洗っている。
水が流れる。
皿が触れる。
手の甲に湯気が当たる。
アルトはそこに立って、少しだけ話した。
「届かない返事になると分かっていて、返さないのは」
マルタは皿を洗う手を止めない。
「優しさか、臆病かって?」
「そこまでは言ってない」
「似たようなもんだよ」
マルタは皿を棚に置く。
「返した方が壊れる時もある。返さなかったから残る傷もある」
「どっちが正しい」
「正しい方が分かってたら、悩まないだろ」
水の音が続く。
アルトはそれを聞いていた。
「ルナは、返事をしようとした」
「そうだね」
「でも、返さないことを選んだ」
「そう言ってたね」
「できなかった、でもある」
「そういうことはあるよ」
マルタは布巾で手を拭いた。
「やろうとして、できない。できないと分かって、しない。あとから見たら、どっちも自分のせいに見える」
アルトはマルタを見る。
マルタは視線を返さない。
棚の皿を整えている。
「それでも、腹は減る」
「結局そこか」
「そこだよ」
マルタは小さく笑った。
「明日の朝も食べな」
アルトは頷いた。
◇
寝る前、ルナは二階へ上がる途中で立ち止まった。
階段の途中。
昨日アルトが座ったあたり。
アルトは下から見上げる。
ルナは振り返った。
「アルト」
呼び方だった。
名前ではなく、声だった。
「はい」
アルトは、わざとそう返した。
ルナは少しだけ目を細めた。
「聞こえていますか」
「ああ」
「届いていますか」
「ああ」
ルナは階段の手すりを握った。
「なら、今日は寝ます」
「寝ろ」
「はい」
ルナは二階へ上がった。
鈴は鳴らない。
端末も震えない。
ガルムも唸らない。
ただ、下で水差しが置かれる音がした。
こと。
アルトは部屋へ戻る。
灯りを落とす。
返事をしようとした。
返す呼び方がなかった。
届かない返事になると分かっていた。
だから返さなかった。
それは、しなかったのか。
できなかったのか。
どちらでもあり、どちらかだけではなかった。
アルトは目を閉じる。
明日、また水を飲む。
明日、また誰かが誰かを呼ぶ。
届く声もある。
届かない声もある。
返せる時もある。
返せない時もある。
その全部を、今夜のうちに裁かない。
下で、マルタが戸締まりをする音がした。
かちゃり。
赤猫亭が閉まる音。
閉じるためではなく、明日また開けるための音だった。




