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第91話 呼んでいる

 ガルムが、戸口の前で低く唸った。


 朝だった。


 まだ鍋は鳴っていない。


 鈴も鳴っていない。


 端末も光っていない。


 誰も戸口には立っていない。


 それでも、ガルムは扉の前から動かなかった。


 毛並みが、首筋のあたりだけ少し逆立っている。


 アルトは水を飲む前に、そちらを見た。


「来たのか」


 ガルムは首を横に振った。


「違う」


「じゃあ何だ」


 ガルムは扉の下の隙間を見ていた。


 そこには朝の光が薄く差しているだけだ。


 足音もない。


 影もない。


 外から誰かが息をしている気配もない。


 ガルムは低く言った。


「呼んでいる」


 その言葉で、アルトはようやく水を飲んだ。


 冷たい。


 喉に落ちる。


 飲み込んでから、もう一度戸口を見る。


「誰が」


「分からん」


「どこから」


「外じゃない」


 ガルムは扉に鼻先を近づける。


 匂いを嗅ぐように。


 だが、すぐに離れた。


「匂いじゃない」


「音か」


「音でもない」


「じゃあ何だよ」


 ガルムは、しばらく答えなかった。


 戸口を見たまま、尻尾だけを一度動かす。


「入口が、先に気づいている」


 鈴はまだ鳴らない。


 ただ、棚の上で小さく光っている。


 鳴る前の鈴。


 鳴らなかった鈴。


 アルトは端末を見た。


 まだ何も表示されていない。


 ブルーノは端末の前に座りかけて、手を止めている。


 いつもなら、先に端末を見る。


 今日は違った。


 先に、入口が反応した。


 先に、ガルムが唸った。


 ◇


 マルタが厨房から顔を出した。


「何だい」


「ガルムが戸口から動かない」


「客かい」


「違うらしい」


「じゃあ朝飯の前に面倒なやつだね」


 言いながら、マルタは鍋を火にかけた。


 かん。


 遅れて、朝の音が入ってくる。


 その音で、店の中に少しだけ体温が戻った。


 ミナが水差しを持ってきた。


 今日は水を、入口から少し離れた机に置く。


 近すぎない。


 遠すぎない。


 アルトはそれを見てから、ガルムに言った。


「まだ呼んでるのか」


「弱い」


「届いてるのか」


「届いてはいない」


「でも、入口が気づいた」


 ガルムは頷いた。


「そうだ」


 ミアが階段から降りてくる。


 寝癖が少し残っている。


 それを手で押さえながら、戸口を見た。


「誰か来た?」


「来てない」


 アルトが答える。


「じゃあ鈴?」


「鳴ってない」


「じゃあ何?」


「呼んでるらしい」


 ミアは眉を寄せた。


「呼んでるのに、来てない?」


「そうだな」


「届いてない?」


「たぶん」


 ミアは少し考えてから、戸口に向かって小さく手を振った。


「聞こえないよ」


 マルタが鍋を混ぜる手を止めずに言った。


「ミア、勝手に返事しない」


「返事じゃない」


「じゃあ何」


「教えた」


 マルタは一度だけミアを見た。


 それ以上は止めなかった。


 アルトは戸口を見た。


 何も変わらない。


 鈴も鳴らない。


 だが、ガルムはまだそこにいる。


 ◇


 ブルーノが、ようやく端末を起動した。


 いつもより遅い。


 それがよかった。


 今日は、端末が最初ではない。


 画面が光る。


 しばらく何も出なかった。


 その沈み込むような数秒のあと、文字が浮かんだ。


【対象:未照合】


【呼称履歴:破損】


 その下。


【呼称発信履歴:残存】


 さらに。


【発信者:未照合】


【到達結果:失敗】


 ブルーノはすぐに紙へ写そうとしなかった。


 端末の文字を、まず目で追う。


 アルトも同じように見る。


 表示はまだ続いた。


【再発信履歴:複数】


 マルタが鍋に蓋を置く。


 音は小さい。


 こと。


「一回じゃないのか」


 アルトが言う。


 ブルーノは頷いた。


「複数回、呼んでいます」


「届かなかったのに」


「はい」


「また呼んだ」


「そう読めます」


 ガルムが戸口から離れない。


 呼んだ声は、届いていない。


 それでも入口は気づいている。


 鈴は鳴っていない。


 鈴が鳴るところまでは来ていない。


 だが、その手前がある。


 鳴る前の反応。


 入口の違和感。


 ガルムの唸り。


 アルトは水を飲んだ。


 その時、ルナが階段から降りてきた。


 水を渡される前に、戸口を見た。


 次にガルムを見た。


 最後に端末を見る。


 ミナが水を差し出す。


 ルナはそれを受け取り、二口飲んだ。


 それから言った。


「呼んだ者がいました」


 アルトはすぐに聞く。


「誰だ」


 ルナは答えを探すように、戸口ではなく水面を見た。


「私は、呼んだ者ではありません」


 アルトは何も言わなかった。


 ルナは続けた。


「呼ばれていた者でもありません」


 ミナが水差しを持つ手を少しだけ握り直す。


 ルナは、今度は水面から目を上げた。


「でも、呼ぶ声を聞いていた側です」


 ガルムが、戸口で低く息を吐いた。


 鈴は鳴らなかった。


 端末にも、新しい文字は出ない。


 だが、その一言で、昨日まで遠かった場所が、少しだけ近づいた。


 ◇


 朝食は、そこから始まった。


 普通の芋のスープ。


 黒パン。


 水。


 残す芋は布の下。


 ミアはスープを受け取りながら、ルナを見ている。


「聞いてたの?」


 ルナはスプーンを持つ手を止めなかった。


「はい」


「誰の声?」


「まだ、はっきりとは言えません」


 ミアは少し不満そうにした。


 だが、今回はすぐに別の問いを出した。


「でも、声だった?」


「声でした」


「音じゃなくて?」


「音でもありました」


「呼び方?」


 ルナは少しだけ、スプーンの先を見た。


 それから頷く。


「呼び方でした」


 ミアはスープに息を吹きかけた。


「届かなかった?」


「はい」


「何回も?」


「はい」


 ミアは小さく顔をしかめた。


「嫌だ」


 マルタがスープをよそいながら言う。


「呼んだ方も嫌だったろうね」


 ミアはマルタを見る。


「呼ばれた方も?」


「そっちもだよ」


「両方嫌」


「そういうこともある」


 マルタは、それ以上言わなかった。


 生活の言葉で包むには、少し熱すぎる話だった。


 今日は、無理に包まない。


 ブルーノは紙を出している。


 しかし、書くのは遅かった。


 書いたのは、端末の表示ではなく、ルナの言葉だった。


【ルナ:呼んだ者ではない】


【ルナ:呼ばれていた者でもない】


【ルナ:呼ぶ声を聞いていた側】


 アルトは紙を見た。


 今日は、これでいい。


 いや、違う。


 今日は、そこまで書いた。


 ◇


 神々のコメント欄は、短く開いた。


 開くかどうかで少し迷ったが、マルタが言った。


「店が開いてることだけ出しな」


 それで決まった。


 ブルーノは一文だけ送る。


《赤猫亭、営業中》


 コメント欄は開く。


 読む前に閉じる。


 それだけ。


 誰が何を言ったかは見ない。


 芋も、鈴も、呼んだ者も、出さない。


 ミアが聞く。


「営業中って、呼んでる?」


「来てもいい、くらいだな」


 アルトが答える。


「じゃあ、届く?」


「近所の客には」


「神様には?」


「届きすぎる」


 ミアは納得した。


「ちょっとだけ呼ぶの、難しい」


「そうだな」


 呼ぶことは、開くことに似ている。


 開きすぎると、余計なものまで来る。


 閉じすぎると、必要なものも届かない。


 赤猫亭は、今日もその間にいた。


 ◇


 午前の途中で、ガルムがようやく戸口から離れた。


 何かが終わったのではない。


 ただ、弱くなったらしい。


 ガルムは水を飲みに来た。


 ミアが自分のコップを少し寄せる。


「飲む?」


「それはお前のだ」


 アルトが止める。


「じゃあ別の」


 ミナがすぐに器を出した。


 ガルムは黙って飲んだ。


 水面が小さく揺れる。


 飲み終えてから、ガルムは言った。


「まだ残っている」


「呼ぶ声が?」


「ああ」


「どこに」


 ガルムは戸口ではなく、店の奥を見た。


 隅の机。


 奥の席。


 残す芋。


 鈴。


 全部が、少しずつ別の方向を向いている。


「場所に」


 ガルムは言った。


「入口だけじゃない」


 ブルーノが紙に書きかける。


 マルタがちらりと見る。


 ブルーノはペンを置いた。


 今日は、何でもすぐ紙にしない。


 アルトはガルムを見る。


「場所が、呼ぶ声を覚えてるのか」


「全部じゃない」


「全部ではない」


「強いものだけだ」


「強い声?」


「何度も呼んだ声」


 再発信履歴、複数。


 アルトは端末を見ない。


 見なくても、つながった。


 ガルムが先に言った。


 場所に残っている。


 何度も呼んだ声が。


 ◇


 昼前、レオンから連絡が来た。


《今日は行きません》


 アルトは画面を見る。


 昨日と同じ言葉に近い。


 だが、今日は続きが少し違った。


《行きたいと思いました》


 アルトは指を止めた。


 画面の上で、返信欄が開いたままになる。


 すぐには返さない。


 少し待つ。


 すると、もう一文届いた。


《でも、今は確かめに行くことになる》


 アルトは水を飲んだ。


 レオンは、行きたいと行かないを両方言った。


 それは前より進んでいる。


《来る日は自分で決めろ》


 送る。


 少し考えて、もう一文。


《呼ぶなら聞く》


 既読。


 返事は少し遅れた。


《アルトさん》


 昨日と同じ呼び方。


 だが、今日はそのあとが違う。


《今日は、ここで止まります》


 アルトは端末を見て、短く返した。


《聞いた》


 鈴は鳴らなかった。


 アルトは戸口を見る。


 鳴らない。


 昨日は鳴った。


 今日は鳴らない。


 呼び方は届いた。


 だが、入口は揺れなかった。


 ルナがそれを見ていた。


「届いているから、鳴らなかったのかもしれません」


 アルトは少し考える。


「届きかけの時に鳴る」


「はい」


「届いたら、鳴らないこともある」


「その可能性があります」


 アルトは端末を見る。


 レオンはここに来ていない。


 でも、呼び方は届いた。


 だから鈴は鳴らなかった。


 来訪とは別の、呼び方の距離。


 少しだけ分かってきた。


 ◇


 午後、奥の席を使った。


 貼り紙は出さない。


 昨日まで休ませていた席に、今日はマルタが皿を置いた。


 客ではなく、アルトの分だった。


「座りな」


「俺か」


「あんたが特別にしすぎたんだから、あんたが普通に座る」


「ひどい理屈だな」


「分かりやすい理屈だよ」


 アルトは奥の席に座った。


 入口でもある机。


 休ませた席。


 使う席。


 残す芋が見えるが、近すぎない。


 鈴は戸口にある。


 ガルムは床に伏せている。


 ミナは水を置く。


 ミアは向かいに座りたそうにしていたが、マルタに止められた。


「今日はアルトが座る日」


「日替わり?」


「そうだね」


「じゃあ明日は?」


「明日決める」


 明日決める。


 それがいい。


 今決めすぎない。


 アルトは奥の席でスープを食べた。


 普通の芋。


 黒パン。


 水。


 そこに座っていると、旧待機区画の白い机を少し思い出す。


 傷のない机。


 水輪のない机。


 パンくずのない机。


 赤猫亭の机には、傷がある。


 今日の皿の跡も残るだろう。


 アルトはパンを少しこぼした。


 わざとではない。


 だが、こぼれてもいいと思った。


 マルタが見て言う。


「後で拭きな」


「はい」


 普通のことだった。


 ◇


 夕方、ルナが一度だけ、自分から奥の席に近づいた。


 座らない。


 手を置く。


 机の端に、指先だけ。


 そこには、昔ついた小さな傷がある。


 ルナはその傷を見ていた。


 アルトは少し離れた場所にいる。


 近づきすぎない。


 水差しはミナがルナの近くに置いた。


 ルナは言った。


「私は、呼ぶ声を聞いていました」


 二度目だった。


 だが、今度は少し違った。


「その時、返事をしませんでした」


 アルトは動かなかった。


 マルタは厨房で皿を拭いている。


 布が皿をこする音だけがする。


 ルナは机の傷から指を離さない。


「返事をしなかったのか、できなかったのか。そこは、まだ分かりません」


 また、まだ分かりません、ではある。


 だが、今度は違う。


 彼女自身の立場が動いた。


 呼んだ者ではない。


 呼ばれていた者でもない。


 聞いていた。


 そして、返事をしなかったか、できなかった。


 その差は大きい。


 アルトは言った。


「今は、そこまでで止めろ」


 ルナは頷いた。


 水を飲む。


 自分でコップを取って。


 自分で飲んだ。


 ◇


 夜。


 確認窓は開かなかった。


 端末も見なかった。


 鈴も鳴らなかった。


 ガルムは戸口の近くで寝ている。


 完全には眠っていない。


 耳だけが時々動く。


 アルトは二階へ上がる前に、戸口を見る。


 朝、ガルムが唸った場所。


 呼んでいる、と言った場所。


 今は何もない。


 何もないが、朝とは違って見える。


 呼び方は、届く時もある。


 届きかけて鈴を鳴らす時もある。


 届かず、場所だけに残る時もある。


 その全部を、今日まとめて決める必要はない。


 階段を上がる。


 途中で、下からミアの声。


「アルト」


 アルトは振り返る。


「何だ」


「おやすみ」


 今日も同じ呼び方。


 毎日同じではない声。


「おやすみ」


 アルトは返す。


 部屋へ入る。


 灯りを落とす前に、端末が一度だけ震えた。


 レオンからだった。


《聞こえています》


 それだけ。


 アルトは少しの間、画面を見た。


 返信欄を開く。


 文字を打つ。


《なら今日は寝ろ》


 送信する。


 既読。


 返事はない。


 アルトは端末を棚に置いた。


 下で水差しが置かれる音がする。


 こと。


 鈴は鳴らない。


 今日は、鳴らないことにも意味があった。


 アルトは目を閉じる。


 呼んだ者がいた。


 聞いていた者がいた。


 返事がなかった。


 返事ができなかったのかもしれない。


 そこまで分かった。


 答えはまだ遠い。


 だが、昨日よりは近い。


 今夜は、その距離を覚えて眠った。


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