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第90話 届きかけた声

 鈴が鳴った時の記録だけが、別の紙に抜き出されていた。


 ブルーノの字だ。


 いつもより少し小さい。


 大きく書きたくなかったのかもしれない。


【鈴の発生記録】


【入口形成時】


【来訪前】


【誰も来訪しない時】


【白い扉接近時】


【呼称履歴確認時】


 アルトはその紙を見て、水を飲んだ。


 朝の水は冷たかった。


 昨夜より、少し硬い味がした。


「並べると、嫌だな」


「はい」


 ブルーノは素直に頷いた。


「入口の音、だけでは足りなくなっています」


「誰かが来る音でもない」


「はい。実際に誰も来ていない時があります」


 戸口の棚に置かれた鈴を見る。


 今日は鳴っていない。


 鳴っていない鈴は、ただの鈴に見えた。


 金属の小さな丸。


 店の戸口にあってもおかしくないもの。


 なのに、紙に並べると別のものに見える。


 ミナが水差しを置いた。


 こと。


 今日は音が小さい。


 マルタが厨房で普通の芋を洗っている。


 ざら。


 水と土の音。


 ミアは残す芋の布を直してから、食べる芋の籠を覗いた。


「今日は食べる芋ある」


「あるよ」


 マルタが答える。


「残す芋は?」


「残る」


「よし」


 芋は増えない。


 呼び方の話をしている時に、芋まで増えると面倒だ。


 アルトは紙に戻る。


「鈴は、何に反応している」


 ブルーノはすぐに答えなかった。


 ペン先で、紙の端を軽く押す。


 穴は開けない。


 押して、離す。


「来訪ではなく、到達の手前かもしれません」


「到達の手前」


「何かがこちらに届ききる前に、鳴る」


 アルトは鈴を見る。


 鳴らない。


 鈴は黙っている。


 だが、黙っている方が答えに近い時もある。


 階段からルナが降りてきた。


 水を飲む。


 二口。


 それから紙を見た。


「届きかけた時の音」


 ルナはそう言った。


 ブルーノのペンが止まる。


 今度は紙を削らない。


 アルトは聞く。


「声か」


「声だけとは限りません」


「呼び方か」


 ルナは小さく頷いた。


「呼び方が、場所に触れかけた音だと思います」


 戸口の鈴は、まだ鳴らない。


 でも、そこにある。


 鳴る前のものとして、そこにある。


 ◇


 朝食の時、マルタは鈴の紙を厨房に持ち込ませなかった。


「飯の横に置く紙じゃないよ」


 それで終わりだった。


 ブルーノは紙を折って、端末の下に入れた。


 ミアが聞く。


「鈴、呼ぶの?」


「呼ばない」


 アルトが答える。


「じゃあ、呼ばれるの?」


「それも違う気がする」


「じゃあ何?」


「届くかどうかを聞いてる」


 言ってから、自分でも少し違うと思った。


 だが、ミアは真剣に考えている。


「鈴、耳?」


「もっと違う」


「でも聞いてる」


「……まあ、少しだけ」


 ミアは満足した。


「鈴、耳」


「決めるな」


「仮」


「仮ならいい」


 マルタがスープを置く。


「仮も置きっぱなしにすると本物になるからね」


 ミアは急いで言い直した。


「今日だけ仮」


「よし」


 マルタは普通の芋が入ったスープを配る。


 食べる芋。


 熱い。


 味がある。


 呼び方の話をしていても、芋は芋だった。


 ルナはスープを見ていた。


 ミアが声をかける。


「ルナ」


 ルナは顔を上げる。


「熱い」


「はい」


「ふーってして」


 ルナは少しだけ息を吹きかけた。


 ミアが頷く。


「それで食べる」


 ルナはスープを飲んだ。


 名前ではない。


 呼び方でもない。


 ただ、ミアがルナに向けた言葉。


 それが届いて、ルナが息を吹きかけた。


 アルトはそれを見ていた。


 呼び方は、こういうものなのかもしれない。


 大げさではない。


 記録にも残らない。


 でも、届くと動作が変わる。


 ◇


 神々のコメント欄は、昼まで開かなかった。


 今日も、呼び方の話は渡さない。


 ただ、完全に閉じ続けるのではなく、ブルーノが短い配信文だけを用意した。


《赤猫亭は通常営業です》


 それだけ。


 扉も。


 鈴も。


 呼称履歴も。


 止まれる者も。


 何も出さない。


 マルタが文を見て言った。


「いいんじゃないかい」


「短すぎませんか」


「店が開いてるかどうかが分かればいい」


「神々はそれでは満足しないと思います」


「満足させるための文じゃないだろ」


 ブルーノは少し考えて、頷いた。


 配信文を送る。


 コメント欄は開かない。


 反応は見ない。


 見れば、読む。


 読めば、近づく。


 今日は、店が開いていることだけを出す。


 それも呼び方に近いのかもしれない。


 赤猫亭は通常営業です。


 来る者に向けた声。


 ただし、全員に向けすぎない声。


 ◇


 昼前、レオンから連絡が来た。


《水を置いた》


 いつもの始まり。


 次に、


《今日は足音が少ない》


 アルトは端末を見る。


 昨日の足音。


 今日の少なさ。


 レオンの場所にも変化がある。


《雨は》


 既読。


《降っていない》


《昨日の雨は》


《覚えている》


 ここまでは昨日の続き。


 そのあと、少し長い間が空いた。


 レオンからの次の文は、いつもより短く、いつもより違っていた。


《アルトさん》


 それだけ。


 アルトは、画面から目を離せなかった。


 名前ではない。


 アルト、という名前に、さん、がついている。


 敬称。


 距離。


 助けを求める相手への向き。


 レオンがこちらへ向けて選んだ呼び方。


 ただの文字なのに、声に近かった。


 アルトは返信欄を開く。


 何を書くか迷う。


 何があった。


 どうした。


 水を飲め。


 追うな。


 いくつも浮かんだ。


 だが、先に来たのは返事だった。


《聞こえてる》


 送った。


 少しして既読がつく。


 返事はすぐには来ない。


 アルトは端末を伏せなかった。


 待った。


 待つことを、今日は逃げにしない。


 やがて、一文が届いた。


《呼んだだけです》


 アルトは息を吐いた。


 短く返す。


《届いた》


 既読。


 今度も返事はなかった。


 だが、十分だった。


 いや、今日はその言い方は使わない。


 届いた。


 それだけで足りた。


 その時、戸口の鈴が鳴った。


 ちりん。


 誰も入ってこない。


 ガルムが入口を見る。


 外に人影はない。


 ブルーノが紙を出しかける。


 アルトは手で止める。


「今は書くな」


 鈴がもう一度鳴ることはなかった。


 ルナが水を持って立っていた。


「届いた呼び方に、反応しました」


 アルトは鈴を見る。


 今度は、見た。


 鳴り終わった鈴は、少しだけ揺れている。


 レオンはここに来ていない。


 だが、呼び方は届いた。


 鈴は、その手前で鳴った。


 ◇


 午後、ブルーノは鈴の紙に一行だけ足した。


【呼称反応:微弱】


 アルトはそれを読んだ。


「断定していいのか」


「まだ仮です」


「仮なら書くな」


「書かないと忘れます」


「書くと固まる」


 ブルーノはペンを止める。


 少し考える。


 そして、紙の端に小さく書き直した。


【仮:呼称反応】


 その下に、


【微弱】


 文字を小さくしたから安全、というわけではない。


 でも、紙の真ん中に大きく置くよりはましだった。


 ルナはそれを見て言った。


「呼び方が届くと、入口が反応する」


「それが鈴か」


「おそらく」


「呼び方が壊れていたら」


 アルトはそこで言葉を切った。


 ルナが続きを言う。


「入口まで届かないか、届いても照合できないのだと思います」


 対象未照合。


 呼称履歴破損。


 壊れた呼び方。


 届かなかった声。


 鈴が鳴らないのか。


 あるいは、鳴っても誰も来ないのか。


 アルトは鈴を見る。


 昼の光を受けて、金属の縁が少し光っている。


 それは小さく、頼りなく見えた。


 でも、役目を持ちはじめている。


 ◇


 夕方、普通の客が来た。


 鈴は鳴らなかった。


 戸口を開ける音だけがした。


「やってる?」


 客が言う。


「やってるよ」


 マルタが答える。


 それで入ってくる。


 普通の来客には、鈴は必要なかった。


 声をかけ、戸を開け、自分の足で入ってくる。


 入口は、普通に入口として働く。


 アルトはそれを見ていた。


 呼び方が必要なのは、来られない者かもしれない。


 届かない場所にいる者。


 戻る場所を失いかけた者。


 扉の向こうで、後ろを失った者。


 ミアが小声で言う。


「普通の人、鈴いらない」


「そうだな」


「レオンは?」


「まだ分からない」


「でも届いた」


「届いたな」


「アルトさんって」


「聞いてたのか」


「聞こえた」


 聞こえた。


 端末の文字なのに、ミアは聞こえたと言った。


 アルトは少しだけ眉を寄せた。


「変な呼び方か」


「変じゃない」


「そうか」


「でも、アルトと違う」


「それはそうだ」


「ルナのアルトとも違う」


 ミアはそこまで言って、芋を食べた。


 それ以上は説明しない。


 だが、それで十分だった。


 呼び方は、同じ名前でも違う。


 レオンのアルトさん。


 ルナのアルト。


 ミアのアルト。


 マルタのあんた。


 どれも記録上は同じ人物に向かう。


 だが、届き方が違う。


 ◇


 夜、レオンからもう一通届いた。


《今日は、赤猫亭に行きません》


 アルトは画面を見る。


 少し笑いそうになった。


 行きたい、ではない。


 行けない、でもない。


 行かない。


 選んでいる。


《理由は》


 既読。


《今行くと、音を確かめに行くことになるから》


 アルトはしばらく画面を見た。


 レオンは分かっている。


 赤猫亭に来ることが、戻るためではなく、確かめるためになってしまう日がある。


 そういう日は、来ない方がいい。


 アルトは返信する。


《来る日は自分で決めろ》


 少し考えて、もう一文。


《呼べば聞く》


 既読。


 返事。


《はい》


 それだけ。


 今日は、助かるでも、分かったでも、やってみるでもない。


 はい。


 少し硬い。


 でも、レオンらしい。


 その直後、鈴は鳴らなかった。


 アルトは戸口を見る。


 鳴らない。


 レオンは呼んでいない。


 返事をしただけだ。


 呼び方と返事は違う。


 それも、少し分かった。


 ◇


 寝る前、ルナが一階へ降りてきた。


 水を飲む。


 今日は一口だけ。


 それから、鈴を見た。


「鈴は、呼び方そのものではありません」


 アルトは頷く。


「入口の反応か」


「はい。届くかもしれない声に、入口が揺れる」


「届かなかった声には?」


 ルナは少しだけ水面を見た。


 コップの中で、明かりが揺れている。


「鳴らなかったのかもしれません」


 アルトは旧待機区画の白い床を思い出す。


 回り続けた跡。


 後ろが消えた者。


 呼ばれていたかもしれないのに、届かなかった者。


 鈴が鳴らない場所。


 入口が反応しない場所。


「じゃあ、赤猫亭に鈴があるのは」


「届く可能性があるからです」


 ルナは言った。


「まだ、届く可能性がある」


 アルトは戸口の鈴を見る。


 小さな金属。


 ただの店の鈴。


 でも、今はそれだけではない。


 誰かが来る音ではなく。


 誰かの呼び方が、場所に触れかけた音。


 その仮説が、店の中に置かれた。


 ◇


 アルトは二階へ上がる前に、戸口へ行った。


 鈴には触らない。


 鳴らさない。


 ただ、近くに立つ。


 外は暗い。


 今日は出ない。


 中にいる。


 赤猫亭の内側から、戸口を見る。


 呼び方が届く場所。


 来る者と、まだ来られない者の境目。


 マルタが厨房から言った。


「寝な」


「寝る」


「鈴を見張っても、寝不足になるだけだよ」


「見張ってない」


「見張ってる顔だ」


 アルトは戸口から離れた。


 見張りすぎると、また固まる。


 それはもう分かっている。


 階段を上がる途中で、下からミアの声がした。


「アルト」


 アルトは振り返る。


「何だ」


「おやすみ」


 ただの挨拶。


 でも、呼び方だった。


 ミアが、アルトへ向けた声。


 名前ではなく、届いた声。


 アルトは答える。


「おやすみ」


 階段を上がる。


 部屋へ入る。


 灯りを落とす。


 端末は棚。


 手帳は布の中。


 下で水差しが置かれる音がした。


 こと。


 少しして、戸口の鈴が鳴った。


 ちりん。


 アルトは起き上がらなかった。


 誰かが来たかもしれない。


 誰も来ていないかもしれない。


 呼び方が届きかけたのかもしれない。


 全部を今、確かめに行く必要はない。


 下からマルタの声がした。


「見てるよ」


 それで足りた。


 鈴はもう鳴らない。


 アルトは目を閉じる。


 呼び方は、記録ではない。


 でも、届けば誰かが動く。


 今日は、そのことを覚えて眠った。


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