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第89話 壊れた呼び方

 朝、ブルーノは一行だけを書いていた。


【呼称履歴:破損】


 他の情報は書いていない。


 過去接近履歴も。


 過去停止履歴も。


 旋回履歴も。


 停止不能も。


 今日は、その一行だけだった。


 紙の真ん中に置かれた文字は、少し大きく見えた。


 アルトは水を飲んでから、それを読んだ。


「名前が壊れた、という意味か」


 ブルーノはペンを持ったまま首を横に振る。


「表示は、名前とは書いていません」


「呼称」


「はい」


 ミナが水差しを置く。


 今日は、ずれていない。


 こと。


 静かな音。


 マルタは厨房で火を入れている。


 鍋はまだ鳴らしていない。


 ガルドは床ではなく、椅子の脚を見ていた。


 昨日と同じではない。


 ただ、床を捨てたわけでもない。


 それが分かるように、ガルドは一度だけ床を軽く踏んだ。


 こつ。


 床は鳴った。


 すぐに、椅子の脚へ視線を戻す。


「床は使わないのか」


 アルトが聞く。


「ある」


 ガルドは短く答えた。


「今日は椅子を見る」


「床の合図は?」


「なくなってない。使う日と、使わん日があるだけだ」


「日替わりか」


「同じものばかり見てると、見えないものが増える」


 それで納得した。


 床は消えていない。


 ただ、今日は椅子の日。


 止まるには、座るものがいる。


 その考えも残っている。


 アルトは紙に視線を戻した。


【呼称履歴:破損】


 名前ではない。


 呼称。


 呼び方。


 その違いが、まだうまく掴めない。


 階段から、ルナが降りてきた。


 水を飲む。


 今日は一口で止めなかった。


 二口目まで飲んでから、紙を見た。


「名前ではありません」


 最初から、そう言った。


 アルトは顔を上げる。


「呼び方か」


「はい」


「名前と何が違う」


 ルナはコップを机に置いた。


 こと。


 ミナがその音を聞いて、少しだけ水差しを近づける。


 ルナは言った。


「名前は、誰かを区別するためのものです」


 少し間を置く。


「呼び方は、誰かが誰かを呼ぶためのものです」


 アルトは言葉を反芻する。


 名前。


 区別。


 呼び方。


 呼ぶ。


 似ているが、違う。


 名前は記録に残る。


 呼び方は、声に残る。


 そんな気がした。


 ◇


 朝食は、普通の芋のスープだった。


 食べる芋。


 残す芋は、布の下。


 それ以上の説明はない。


 ミアも今日は増やさなかった。


 スープを飲みながら、紙を見ている。


「呼び方って、あだ名?」


「それも入るかもしれないな」


 アルトが答える。


「アルトはアルト」


「そうだな」


「マルタさんはマルタさん」


「そうだね」


 マルタが鍋を混ぜながら言う。


「ミアはミア」


「うん」


「女神は女神」


 ルナが一瞬だけスプーンを止めた。


 すぐ動かす。


 ミアは続ける。


「でも、ルナはルナ」


 今度は、ルナの手が止まらなかった。


 スープをすくう。


 食べる。


 飲み込む。


 それから、小さく言った。


「はい」


 それだけ。


 ミアは満足したらしい。


「呼び方、二つある」


 ブルーノがペンを動かしかける。


 マルタが言った。


「書きすぎるんじゃないよ」


 ペンが止まる。


 ブルーノは少し困った顔をした。


「重要です」


「分かってる。でも、ミアの言葉を全部記録にすると、ミアが記録になる」


 ブルーノは紙を見た。


 それから、ペンを置いた。


「……そうですね」


 ミアはきょとんとしている。


 アルトはスープを飲んだ。


 マルタの言うことは、たぶん正しい。


 呼び方を守る話をしている時に、呼び方を記録へ押し込みすぎるのは危ない。


 名前と記録と声。


 その境目が、今日は近い。


 ◇


 神々のコメント欄は開かなかった。


 今日は、呼び方の話を神々に渡せない。


 ブルーノも、それはすぐ分かった。


「タグになります」


 彼は言った。


「何が」


「止まれる者も、停止不能も、壊れた呼び方も」


「嫌だな」


「はい」


 神々は悪いからタグをつけるわけではない。


 面白いから。


 探しやすいから。


 共有しやすいから。


 語るために、名前をつける。


 だが、今日はそれが危ない。


 呼び方は、タグではない。


 誰かが誰かに向ける声だ。


 アルトは端末を伏せた。


「今日は見せない」


 ブルーノは頷く。


 マルタは鍋を強く鳴らさず、ふつうに置いた。


 かん、ではなく。


 こと。


 大きく鳴らさない日もある。


 それだけで、少し違った。


 ◇


 ルナは、午前の途中で黒い染みの話を出した。


 アルトが聞く前だった。


「あれは、文字ではないと言いました」


「黒い染みか」


「はい」


 ルナは水を持っていた。


 飲まない。


 ただ、両手で持っている。


「文字ではないが、文字になりかけているもの。呼び方になる前のもの」


「それが、呼称履歴の破損とつながるのか」


「つながると思います」


 アルトは黙って聞いた。


 急かさない。


 止めもしない。


 ルナは続ける。


「誰かを呼ぶ声が壊れると、記録には残りません。でも、何かは残ります」


「それが黒い染み?」


「はい。呼び方になる前の残り方」


 ブルーノが今度は紙に書いた。


【黒い染み=呼び方になる前の残り方】


 その下。


【呼称履歴破損後の残滓】


 アルトは眉を寄せる。


「残滓って言葉、重くないか」


「重いですが、近いと思います」


 ブルーノは書いた文字を見つめる。


 マルタが横から紙を覗いた。


「難しいね」


「すみません」


「謝らなくていいよ。難しいものを、難しいまま置く日もある」


 マルタはそう言って、紙を押し返した。


 壊れた呼び方。


 黒い染み。


 呼び方になる前の残り。


 少しずつ近づいている。


 だが、まだ名前ではない。


 まだ、誰かを決めるには早い。


 ◇


 昼前、レオンから連絡が来た。


《今日は雨じゃない》


 昨日の続きだった。


 アルトは少しだけ画面を見る時間が長くなった。


 雨。


 聞いている、と言った音。


 今日はない。


《昨日の音は》


 既読。


 少し待つ。


《覚えている》


 アルトは返信する。


《今日は何が聞こえる》


 さらに待つ。


《足音》


 アルトは赤猫亭の床を見る。


 こちらでも、誰かの足音がした。


 ミアが厨房へ行く音。


 戻る音。


 軽い。


 レオンの足音とは違う。


 それでも、足音。


《自分のか》


 既読。


《違う》


《誰かのか》


《たぶん》


 たぶん。


 レオンは確定しない。


 前なら、それを確かめに行ったかもしれない。


 今は、聞いている。


 それで十分とは言わない。


 アルトは別の言葉を選ぶ。


《追うな》


 既読。


《水を置け》


 既読。


 返事はなかった。


 少ししてから、一通だけ来た。


《置いた》


 アルトは端末を伏せた。


 レオンの場所にも、呼び方があるのだろうか。


 誰が誰をどう呼ぶのか。


 そこまでは、まだ分からない。


 ただ、雨があった。


 今日は足音がある。


 赤猫亭とは別の場所で、レオンの手順は続いている。


 ◇


 午後、確認窓は開かなかった。


 今日は、履歴だけを見る。


 それも、短く。


 ブルーノが端末を立てる。


【対象:未照合】


【呼称履歴:破損】


 その下に、新しい行はない。


 ただ、【呼称履歴:破損】の右端に、細い乱れがある。


 文字が欠けているのではない。


 文字の周りに、小さな黒い点が滲んでいる。


 アルトはすぐに言った。


「拡大するな」


 ブルーノの指が止まる。


「はい」


 見たい。


 分かる。


 そこに何かがある。


 黒い染みと同じものかもしれない。


 呼び方の残りかもしれない。


 だが、拡大すれば近づく。


 読むことは、呼ぶことに似ている。


 見ることも、近づく。


 今日は拡大しない。


 代わりに、ブルーノが紙に丸だけ描いた。


 小さな丸。


 黒く塗らない。


 名前もつけない。


「これで十分です」


 アルトは頷いた。


 十分、とは言わなかった。


「置いておけ」


 ブルーノは紙を閉じた。


 その時、鈴が鳴った。


 ちりん。


 誰も戸口にいない。


 ガルムが入口を見る。


 外には何もない。


 アルトは鈴を見ないようにした。


 鈴は入口の音。


 誰かが来られる音。


 でも今は、呼び方の話をしている。


 呼ばれたから来るのか。


 来られるから鳴るのか。


 その順番を考えそうになって、やめた。


 マルタが厨房から言う。


「手を洗いな」


 唐突だった。


 アルトは顔を上げる。


「何で」


「考えすぎてる顔だよ」


 アルトは立ち上がった。


 手を洗った。


 水が指を流れる。


 冷たい。


 考えが少し切れる。


 鈴は、それ以上鳴らなかった。


 ◇


 夕方、普通の客が来た。


 近所の子どもも来た。


 奥の席は、まだ使えない。


 貼り紙は今日もある。


【本日、奥の席は使えません】


 昨日と同じ文面ではない。


 マルタが一文字だけ変えた。


【本日、奥の席はお休みです】


 ミアが気づいた。


「席も休む?」


「休む」


 マルタが答える。


「机も?」


「机も」


「芋は?」


「芋は残る」


「食べる芋は?」


「食べる」


 ミアは頷く。


「分かりやすい」


 子どもが奥の席を見て言った。


「今日も座れないの?」


「今日は休みだ」


 アルトが答える。


「席なのに?」


「席でも休む」


「ふーん」


 子どもは深く気にしなかった。


 別の席に座り、普通の芋を食べた。


 その様子を見て、アルトは少しだけ息が抜けた。


 呼称履歴。


 停止不能。


 黒い染み。


 そういうものの横で、子どもは芋を食べる。


 その差が、赤猫亭を場所にしている。


 ◇


 夜。


 アルトは奥の席に近づいた。


 座らない。


 触らない。


 ただ、少し離れて立つ。


 ガルドが隣に来る。


 今日は床でも椅子でもなく、壁を見ていた。


「今度は壁か」


「壁も場所だ」


「全部見る気か」


「全部は見ない」


 ガルドは壁を軽く撫でた。


「ここに傷がある」


 アルトは見る。


 小さな傷。


 誰かが椅子を引いた時につけたのかもしれない。


 荷物をぶつけたのかもしれない。


 ただの傷だ。


 でも、ある。


「呼び方が壊れても、傷は残るのか」


 アルトが言う。


 ガルドは少し考えた。


「傷は呼ばん」


「だろうな」


「でも、見れば誰かを思い出すことはある」


 その言葉は、思ったより深く入った。


 名前ではない。


 呼び方でもない。


 傷。


 椅子の音。


 水。


 芋。


 鍋。


 場所には、いくつもの残り方がある。


 壊れた呼び方だけが、全部ではない。


 アルトは奥の席を見た。


 今日は休んでいる席。


 入口でもあり、机でもあり、休んでいる席。


 固めないために、休ませる。


 使い続けるだけが使うことではない。


 少し分かってきた。


 ◇


 寝る前、ルナが一階に降りてきた。


 水を飲みに来たのだと思った。


 実際、水を飲んだ。


 それから、アルトの近くに来た。


「一つだけ、言います」


 アルトは頷いた。


 急かさない。


 止めない。


「呼び方が壊れると、呼ばれても届きません」


 ルナはコップを持ったまま言った。


「名前が残っていても、呼び方が壊れていると、戻る場所からの声が届かなくなります」


 アルトは水の入ったコップを見る。


 表面が揺れている。


「だから、帰還先が成立しない」


「はい」


 ルナは言った。


「場所は、呼ぶ側も必要です」


 赤猫亭。


 ただいま。


 おかえりなさい。


 ルナ。


 女神。


 アルト。


 ミア。


 マルタ。


 レオン。


 呼び方は、誰かが誰かに向ける声だ。


 それが壊れると、場所から呼ばれない。


 呼ばれなければ、戻れない。


 アルトは喉の奥が少し乾いた。


 水を飲む。


「止まれなかった者は、呼ばれなかったのか」


 ルナはすぐには答えない。


 水をもう一口飲む。


「呼ばれていたかもしれません。でも、届かなかった」


 届かなかった。


 その方が、残酷だった。


 呼ぶ者がいなかったのではない。


 呼んでも届かなかった。


 アルトは目を閉じそうになって、やめた。


 今は寝る前ではない。


 この言葉は、起きたまま聞くべきだった。


「今日は、そこまででいい」


 言ってから、少し違うと思った。


 でも、言い直さなかった。


 今日は、この一回だけなら残してもいい。


 ルナは小さく頷いた。


 それから、二階へ戻った。


 ◇


 アルトは、自分の部屋へ上がる前に、奥の席を見た。


 貼り紙はもう外されている。


 明日、また使うかどうかは決めていない。


 残す芋は布の下。


 食べる芋は、今日ちゃんと食べた。


 鈴は鳴らない。


 床も鳴らない。


 鍋は片づけられている。


 水差しだけが、机の上にある。


 アルトは階段を上がる。


 途中で、下からマルタの声がした。


「寝るなら寝な」


「寝る」


「考えながら階段で止まるんじゃないよ」


「今日は止まらない」


「それならいい」


 アルトは少しだけ笑った。


 部屋に入り、灯りを落とす。


 呼称履歴、破損。


 対象、未照合。


 黒い染み。


 呼び方になる前の残り。


 呼ばれても届かない声。


 頭の中に並ぶ。


 だが、全部を今つなげない。


 つなげすぎると、近づきすぎる。


 今日は一つだけ。


 呼び方が壊れると、戻る場所からの声が届かない。


 それを覚えておく。


 下で、水差しが置かれる音がした。


 こと。


 誰かが誰かのために、水を置いた音。


 名前ではない。


 記録でもない。


 呼ぶ声でもない。


 でも、届くものだった。


 アルトは、その音を聞きながら目を閉じた。


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