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第88話 停止不能

 ブルーノのペン先が、紙の同じ場所を削っていた。


 がり。


 がり。


 文字は増えていない。


 紙だけが少し毛羽立っている。


 アルトはそれを見てから、端末に目を落とした。


【確認窓:使用済】


【過去接近履歴:あり】


【過去停止履歴:なし】


【停止不能】


 昨日の記録だ。


 消えていない。


 むしろ、昨日より見慣れてしまっている。


 それが嫌だった。


 ミナが水差しを置く。


 いつもの場所より、半歩ずれていた。


 本人も気づいたらしく、すぐ直す。


 こと。


 水の音が、朝の机に乗った。


 鍋はまだ火にかかっていない。


 マルタは厨房で芋を切っている。


 今日は普通の芋だ。


 残す芋ではない。


 ミアはそれを確認してから、ようやく椅子に座った。


「今日は、食べる芋?」


「食べる芋」


 マルタが答える。


「残す芋は?」


「残す」


「よし」


 ミアは納得した。


 芋の話は、今日はそれで終わった。


 増えない。


 分けすぎない。


 食べるものは食べる。


 残すものは残す。


 そのくらいが、赤猫亭には合っている。


 ルナは水を飲んでいた。


 一口。


 少し間を置いて、もう一口。


 それから、端末を見た。


「停止不能」


 声は小さかった。


 だが、聞こえた。


 アルトは聞く。


「知っている言葉か」


「はい」


 ルナはコップを両手で包む。


「帰れなかった者に使う言葉ではありません」


「じゃあ、誰に使う」


「帰る以外を選べなくなった者です」


 マルタの包丁が、まな板の上で止まった。


 すぐにまた動く。


 とん。


 とん。


 音が戻る。


 その方が怖かった。


 止まらない音の方が、今は怖い。


「止まれなかったから、帰れなかったんじゃないのか」


 アルトが言う。


「順番が逆です」


 ルナは水を置く。


「帰る以外が消えたから、止まれなくなった」


 ブルーノのペン先が、ようやく紙から離れた。


 彼は書く。


【停止不能=帰る以外を選べない状態】


 その下に、少し迷ってからもう一行。


【帰還失敗ではなく、選択肢の消失】


 アルトは紙を見た。


 嫌な言葉だ。


 だが、前に進んでいる。


 少なくとも、昨日よりは近い。


 ◇


 朝食は、遅れた。


 それでも、ちゃんと出た。


 普通の芋が入ったスープ。


 黒パン。


 水。


 残す芋は、布の下にある。


 帰還芋という呼び方は、ミアの口からも今日は出なかった。


 マルタがそうした。


 強引にではない。


 ただ、普通の芋を普通に出した。


 それで話が短くなった。


 ミアはスープを飲みながら、ルナを見る。


「帰る以外がなくなるって、どういうこと?」


 ルナは答えようとして、水を飲んだ。


 アルトは止めなかった。


 水を飲んでから話すなら、それでいい。


 いや。


 言い直す。


 水を飲んでからの方が、言葉が軽くならない。


 ルナはスプーンを置く。


「扉だけを見るようになることです」


「扉だけ?」


「食べるものも、声も、水も、足元も、後ろにいる人も、全部見えなくなる」


 ミアは眉を寄せる。


「それ、危ない」


「はい」


「芋も見えない?」


「見えないと思います」


 ミアは残す芋の方を見た。


 布の端が少しめくれている。


 ミアは立ち上がり、そっと直した。


「見えるようにしとかないと」


「隠すのか見せるのか、どっちだ」


 アルトが言う。


「見えるけど、食べない」


「難しいな」


「でも分かる」


 ミアは真剣だった。


 たぶん、今朝の中で一番分かっている。


 見えるけど、食べない。


 近いけど、開けない。


 帰れるかもしれないけど、急がない。


 全部、同じ形に近かった。


 マルタがスープをよそう。


「扉だけ見てるやつには、飯を出しても見えないかもしれないね」


「それは嫌だな」


「だから、見えるうちに食べるんだよ」


 アルトはスープを飲んだ。


 熱かった。


 今日は、その熱さをちゃんと覚えておく。


 ◇


 神々のコメント欄は、午前中も閉じたままだった。


 ブルーノは端末を伏せている。


 その代わり、店の入口に貼り紙を出した。


 神々ではなく、普通の客向けの紙。


【本日、奥の席は使えません】


 ただそれだけ。


 理由は書かない。


 芋も書かない。


 旧待機区画も書かない。


 ミアが貼り紙を見る。


「奥の席、使えないの?」


「今日はな」


 アルトが答える。


「入口だから?」


「入口にしすぎないためだ」


「使えないのに?」


「使わないって決めるのも、使い方だろ」


 ミアは少し考える。


「今日は空ける日」


「そうだな」


「分かった」


 ミアはその席に座ろうとしなかった。


 ただ、通りすぎる時に一度だけ見た。


 見すぎない。


 触りすぎない。


 でも、忘れない。


 ミアにも、少しずつその加減が入ってきている。


 ガルムは入口に立っていた。


 客が来ると、いつもより半歩だけ早く扉を見る。


 だが、すぐには開けない。


 誰かが戸口に立ち、声をかけてから開ける。


 鈴は鳴らない。


 ちりん、は来ない。


 普通の来客は、普通に来た。


 それも確認だった。


 入口の音がなくても、客は来る。


 入口は、鈴だけではない。


 ◇


 昼前、レオンから連絡が来た。


《水を置いた》


 しばらくして。


《座った》


 その次。


《鳴らしていない》


 アルトは画面を見た。


 昨日より短い。


 だが、順番がある。


 水。


 座る。


 鳴らさない。


 音を探さない。


 レオンの手順が、少しずつ自分のものになっている。


 アルトは返信する。


《外の音は》


 既読。


 少し間がある。


《今日は雨》


 アルトは窓の外を見る。


 赤猫亭の外は晴れている。


 レオンの場所では雨が降っている。


 同じ世界の中に、違う音がある。


《雨を聞け》


 送る。


 すぐに返事は来ない。


 しばらくして、短く届いた。


《聞いている》


 それだけだった。


 アルトは端末を伏せた。


 助けを求める文ではない。


 報告でも、命令の確認でもない。


 ただ、聞いている。


 レオンの場所に、レオンの音がある。


 赤猫亭とは違う。


 違っているから、戻れるのかもしれない。


 ◇


 午後、確認窓をもう一度使うかどうかを決めた。


 今日は進む。


 朝から、そう決めていた。


 ただし、扉は開けない。


 昨日と同じ窓を、同じ見方では使わない。


 ブルーノが紙に書く。


【目的:停止不能の確認】


【扉は開けない】


【過去の名前は追わない】


【窓は短時間】


【食べる芋は用意する】


 マルタが最後の行を見て、頷いた。


「今日は普通の芋だよ」


「残す芋じゃないんだな」


 アルトが言う。


「残す芋は残す。戻った後に、普通の芋を食べる」


「分かりやすい」


「分かりやすくしてるんだよ」


 ミナは水を二つではなく、三つ用意した。


 アルト用。


 ルナ用。


 予備。


 ガルドは今日は床ではなく、椅子の背を見ている。


「何で椅子だ」


 アルトが聞く。


「止まるには、座るものがいる」


 短い答え。


 たしかに、そうだった。


 止まることは、立ち尽くすことだけではない。


 座ることでもある。


 ミアは奥の席ではなく、店の中央で残す芋が見える場所に座った。


 昨日と少し違う。


 ガルムは入口の内側。


 外ではない。


 マルタは厨房ではなく、店の客席側。


 声が近い。


 ルナはアルトの向かい。


 近すぎない。


 遠すぎない。


 全員が昨日と少し違った。


 成功をなぞらない。


 でも、成功を捨てない。


 そういう配置だった。


 ◇


 確認窓が開いた。


 薄い四角い光。


 白い床。


 白い壁。


 椅子の脚。


 机の端。


 昨日と似ている。


 だが、今日の窓は少し低い。


 足元に近い。


 ブルーノが声を抑える。


「視点が変わっています」


 アルトは頷く。


 追わない。


 見える範囲だけ。


 白い床に、昨日見た跡がある。


 何かが立っていた形。


 長くそこにいたものの輪郭。


 その横に、かすかな線が見えた。


 足跡ではない。


 引きずった跡でもない。


 円に近い。


 その場で何度も向きを変えたような跡。


 前に進むでもなく、戻るでもなく。


 回り続けた跡。


 ブルーノが息を止める。


 アルトは先に言った。


「名前をつけるな」


 ブルーノは頷く。


 表示が浮かぶ。


【停止不能:補足】


【進行方向:固定】


【後退選択:消失】


【旋回履歴:あり】


 旋回履歴。


 アルトは水を飲んだ。


 喉を通る。


 視線を戻す。


 ルナが、コップを持ったまま言った。


「止まろうとしたのだと思います」


 アルトは画面を見る。


 回り続けた跡。


 前に進むしかない形にされて、それでも足を止めようとして、戻る方向を探した。


 だが、後ろが消えていた。


 だから、回った。


 前にも戻れず、後ろにも行けず。


 扉だけが残った。


 マルタが言う。


「水」


 ミナがアルトの横にコップを置く。


 こと。


 アルトは飲む。


 ブルーノが画面を切る準備をする。


 まだ早い。


 いや、十分だ。


 表示がもう一行出る。


【対象:未照合】


 その下。


【呼称履歴:破損】


 ルナの手から、水が少しこぼれた。


 ミナがすぐ布を出す。


 ルナは謝らなかった。


 謝る余裕がなかった。


 アルトは言った。


「切れ」


 ブルーノが窓を閉じた。


 白い光が消える。


 赤猫亭に戻る。


 戻った瞬間、マルタが椅子を引いた。


 ぎい。


「座りな」


 アルトは座った。


 座っていたのに、改めて座った。


 止まるには、座るものがいる。


 ガルドの言葉が少し遅れて効いた。


 ◇


 普通の芋を焼いた。


 残す芋は残した。


 ミアは何も聞かなかった。


 ただ、焼ける芋を見ていた。


 マルタが皿に乗せる。


「食べる芋だよ」


「食べる芋」


 ミアが言う。


 アルトも受け取る。


 熱い。


 指が少し痛い。


 それでいい。


 熱いものは、持ち方を変えれば持てる。


 急いで口に入れなければいい。


 アルトは少し冷ましてから食べた。


 甘い。


 口の中に味が広がる。


 白い床には味がなかった。


 回り続けた跡にも、味はなかった。


 ルナは水を飲んでいる。


 こぼした分より、多く飲んだ。


 ミナが隣に座った。


 何も聞かない。


 布だけを机の上に置く。


 ブルーノは紙に書いた。


【停止不能:進行方向固定】


【後退選択:消失】


【旋回履歴:あり】


【対象:未照合】


【呼称履歴:破損】


 手が止まる。


 その下に、少し間を空けて書く。


【止まろうとした可能性】


 アルトはその一行を見た。


 止まれなかった者。


 しかし、止まろうとはした。


 それは大きかった。


 ただ流されたのではない。


 ただ扉に進んだのではない。


 どこかで、止まろうとした。


 だが、後ろが消えた。


 戻る場所がなかった。


 帰還先、未成立。


 言葉が、少しだけ形を持った。


 ◇


 夕方、神々のコメント欄を短く開いた。


 今日は何も見せていない。


 それでも神々は騒いでいる。


『今日静かじゃない?』


『赤猫亭、配信休み?』


『芋だけでも見せて』


『扉まだ?』


『最近コメント読まれてない気がする』


『アルト生きてる?』


 ブルーノは最後の行だけを少し見た。


 アルトも見た。


 生きてる?


 軽いコメントかもしれない。


 だが、今日は少し違って見えた。


 アルトは短く送った。


《生きてる》


 それだけ。


 コメント欄が一気に流れた。


『生きてた』


『よかった』


『芋は?』


『そこは芋なのか』


『生存報告たすかる』


 ブルーノが画面を閉じる。


 神々に渡す情報は、それだけでよかった。


 生きてる。


 今日は、それだけでいい。


 いや、言わない。


 今日は、それだけを出した。


 ◇


 夜。


 アルトは二階へ上がらなかった。


 一階でも寝なかった。


 今日は、店の外に出た。


 赤猫亭の戸口のすぐ前。


 ガルムが少しだけ目を細める。


「外か」


「ああ」


「遠くへは行くな」


「行かない」


 扉を背にして、外の段差に座る。


 夜の空気は少し冷たい。


 店の中から、皿を片づける音がする。


 水の音。


 椅子の音。


 マルタの声。


 ミアが何か言っている声。


 ルナの声は聞こえない。


 それでも、いる。


 中にいる。


 確認しに行かない。


 今日は外から聞く。


 白い場所には外がなかった。


 旧待機区画には、店の外も、雨も、馬車も、子どもの声もなかった。


 赤猫亭には外がある。


 扉の外に座っても、まだ赤猫亭の音が聞こえる。


 そのことを、今日は確かめたかった。


 しばらくして、戸口の鈴が小さく鳴った。


 ちりん。


 アルトは振り返らない。


 中から、マルタの声がする。


「入るなら入りな。冷えるよ」


 アルトは少しだけ笑った。


「まだいる」


「外で寝るんじゃないよ」


「寝ない」


 中からミアの声。


「外お泊まり?」


「しない」


「残念」


 普通の声。


 普通のやり取り。


 それで、体が少し戻る。


 進行方向固定。


 後退選択消失。


 旋回履歴あり。


 呼称履歴破損。


 嫌な言葉は、まだ頭にある。


 でも、今のアルトには後ろがある。


 背中の後ろに、赤猫亭の扉がある。


 開ければ戻れる。


 いや、開けなくても声が届く。


 それは、白い場所にはなかった。


 アルトは夜の空気を吸った。


 しばらくして、立ち上がる。


 扉を開ける。


 鈴が鳴る。


 ちりん。


 今度は、自分で鳴らした。


 店の中へ戻る。


 マルタがちらりと見る。


「閉めな」


「分かってる」


 扉を閉める。


 赤猫亭の音が、少し近くなる。


 アルトは水を飲んだ。


 それから、今日は二階へ上がった。


 眠る場所は、寝台でいい。


 変えるために変え続ける必要はない。


 戻る場所を、毎回壊す必要もない。


 部屋に入り、灯りを落とす。


 白い床の跡を思い出す。


 回り続けた跡。


 止まろうとした跡。


 後ろが消えた者の跡。


 アルトは目を閉じる。


 こちらには、後ろがある。


 そのことを、今日は覚えて眠った。


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