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第100話 食べに来る

 その朝、三日後は、今日になっていた。


 端末の表示は、夜明け前から変わっていた。


【三日後予定:進行日】


【参照待機:継続】


【予定反応:微弱】


【対象反応:低位安定】


 ブルーノはそれを見て、紙を出さなかった。


 出そうとして、やめたのではない。


 今日は最初から、出さなかった。


 代わりに、三日後席を見た。


 もう、三日後席と呼ぶのは変だった。


 今日の席。


 けれど、そう呼ぶとまたややこしくなる。


 真ん中の席。


 入口が見える。


 厨房が見える。


 傷は、見ようとすれば見える。


 普通に座れば見えない。


 そこに、水が置かれている。


 普通の椀もある。


 箸。


 布巾。


 小さな皿。


 芋はまだ出ていない。


 出すのは、来てからだ。


 マルタがそう決めた。


「先に置くと、芋が緊張する」


 ミアが真顔で頷いた。


「芋も緊張する」


「たぶんね」


「じゃあ、来てから」


「そう」


 アルトは言う。


「芋より人間の緊張を見ろ」


 ミアはアルトを見た。


「アルト、緊張してる」


「してない」


「してる」


「してない」


「目が芋じゃない」


「どんな目だ」


「煮える前」


 マルタが鍋の前で笑った。


「それは緊張してるね」


 アルトは反論しようとして、やめた。


 たしかに、落ち着かない。


 レオンが来る。


 確かめにではない。


 食べに来る。


 それだけのことが、こんなにも店の中を動かしている。


 ガルムは入口の横で伏せている。


 眠ってはいない。


 ガルドは椅子の脚を最後に一度だけ確認した。


「ぐらつかん」


「昨日も見ただろ」


「今日も見る」


「そうか」


「座るのは今日だ」


 短い言葉だったが、妙に納得した。


 今日座る椅子は、今日確かめる。


 予定ではなく、今の椅子として。


 ◇


 朝食は軽めだった。


 マルタがそうした。


「迎える側が食べすぎて動けないと困る」


 ミアは不満そうだった。


「芋少ない」


「昼に多い」


「なら今は我慢」


「えらいね」


「芋も我慢?」


「芋は鍋で待ってる」


「待機?」


 その言葉で、ほんの少し店の音が細くなった。


 ミアも、自分で言って気づいたらしい。


 口を閉じた。


 マルタは、少しだけ鍋の蓋をずらした。


 湯気が上がる。


「芋は煮えてる」


 それだけ言った。


 ミアは頷く。


「煮えてる」


「待機じゃない」


「うん。煮えてる」


 アルトはその言い換えを聞いていた。


 待っている。


 待機している。


 予定している。


 煮えている。


 似ているようで、全部違う。


 赤猫亭では、芋は待機しない。


 煮える。


 その方がよかった。


 ◇


 レオンから最初の連絡が来たのは、午前の少し遅い時間だった。


《出ます》


 それだけ。


 アルトは画面を見た。


 店の中に、その一文が落ちた。


 誰も急がない。


 急がないと決めていた。


 ミナが水を替える。


 こと。


 マルタが鍋の火を見る。


 ガルムが入口へ顔を向ける。


 ブルーノが端末の布を整える。


 ルナが自分のコップを持つ。


 ミアが芋の籠を抱えた。


 アルトは返信する。


《聞いた》


 すぐに返事は来ない。


 それでいい。


 レオンは返事を一つ遅らせる。


 アルトも、画面から目を離した。


 端末に表示が浮かぶ。


【三日後予定:進行中】


【予定反応:上昇】


【参照待機:起動】


 水面が揺れた。


 三日後席の水。


 一度。


 二度。


 前回より、少しはっきり。


 だが、こぼれない。


 ミナが水差しを握る。


 アルトは手で制した。


「触るな」


 水は揺れている。


 揺れているが、暴れていない。


 ブルーノが確認する。


【対象反応:低位安定】


【外部注視圧:低位】


 傷は動いていない。


 神々でもない。


 予定だけが進んでいる。


 アルトは水を見た。


「来てるな」


 マルタが頷く。


「来てるね」


 ミアが小さく言う。


「まだ来てないけど、来てる」


「そうだな」


 その言い方が、一番近かった。


 ◇


 次の連絡。


《通りに入ります》


 水面が、ぴたりと止まった。


 揺れていた水が、嘘のように静まる。


 ミナが息を呑む。


 ルナが水を持つ手を強くする。


 ガルムが立ち上がった。


 端末の表示が変わる。


【予定反応:安定】


【進行状態:自発接近】


【参照待機:維持】


 アルトはその行を見た。


 自発接近。


 強制接近ではない。


 第93話の、自分たちが引き込まれたあの夜とは違う。


 レオンは、自分で近づいている。


 水が静まったのは、そのせいだ。


 誰かに引かれているのではない。


 呼ばれて暴れているのでもない。


 自分で来る者の足取りに、予定が追いついた。


 アルトは返信した。


《道は逃げない》


 既読。


 少し間。


《はい》


 さらに。


《自分も、今は逃げません》


 アルトは息を吐いた。


 その返事は、前よりも少し強かった。


 逃げない。


 来る。


 食べる。


 それが一つずつ、別の言葉として立っている。


 ◇


 外部注視圧が、昼前に上がった。


 端末が震える。


 通知が増える。


 昨日の「客が一人来る予定です」に、神々が気づいている。


 コメント欄を開いていないのに、数だけが膨らんでいく。


 ブルーノが画面を見る。


【外部注視圧:上昇】


【境界宣言:有効】


【配信要求:増加】


 アルトは短く言った。


「開けない」


 ブルーノは頷く。


 マルタも何も言わない。


 だが、ミアが言った。


「少しだけ、教えない?」


 アルトはミアを見る。


 ミアは芋の籠を抱えたまま、少しだけ困った顔をしている。


「神様、芋気にしてる」


「そこか」


「レオンも芋気にしてる」


「それはそうだが」


「芋だけなら?」


 アルトは黙った。


 マルタが鍋を見ている。


 ブルーノが端末を見ている。


 ルナは水を持っている。


 ガルドが壁にもたれたまま言った。


「全部閉めると、外で勝手に騒ぐ」


 アルトは頷く。


 昨日もそうだった。


 隠さない。


 渡しすぎない。


 なら、今日もこちらで選ぶ。


 アルトは入力欄を開いた。


《赤猫亭、昼の仕込み中》


 続ける。


《芋は多め》


 送信。


 コメント欄は開かない。


 ただ、その二文だけを出す。


 通知が跳ねた。


 だが、外部注視圧は少しだけ下がる。


【外部注視圧:下降傾向】


【境界宣言:有効】


 ミアが胸を張った。


「芋、強い」


 マルタが頷く。


「強いね」


 アルトは少し笑った。


「世界を救うのか、芋は」


「少なくとも腹は救う」


 マルタの返しに、ミアが真面目に頷いた。


「腹、大事」


 その通りだった。


 ◇


 レオンは、なかなか来なかった。


 通りに入ると言ってから、時間が経っている。


 店の前の鈴は鳴らない。


 戸口も開かない。


 水は静か。


 傷も動かない。


 予定反応も安定している。


 それなのに、レオンはまだ来ない。


 アルトは端末を見た。


 連絡はない。


 マルタが言う。


「焦って迎えに出るんじゃないよ」


「分かってる」


「分かってる顔じゃない」


「どんな顔だ」


「煮すぎた芋」


 ミアが笑った。


「アルト、煮すぎ」


「俺を芋にするな」


 ガルムが入口の匂いを嗅ぐ。


「近い」


 アルトの背筋が少し伸びる。


「どこだ」


「戸口の外ではない」


「通りか」


「もっと手前」


「来られるか」


 ガルムは少し黙った。


 それから言った。


「立ち止まっている」


 店の中が静かになる。


 立ち止まっている。


 逃げてはいない。


 でも、入ってもいない。


 アルトは端末を取った。


 文を打つ。


《来い》


 強すぎる。


 消す。


《大丈夫だ》


 違う。


 何が大丈夫かを、レオンに決めさせていない。


 消す。


 アルトは少し息を吐いた。


 そして打った。


《芋は冷める》


 送信。


 マルタが目を丸くした。


「それ?」


「それだ」


 既読。


 しばらく返事がない。


 ミアが真剣に言った。


「冷めたら温める」


「それは言わなくていい」


「でも本当」


 アルトは少し迷った。


 追撃するのは違う。


 だが、これは圧ではない。


 生活の事実だ。


 アルトはもう一文だけ送った。


《冷めたら温める》


 既読。


 長い間。


 やがて、返信が来た。


《行きます》


 そして。


《冷める前に》


 アルトは笑った。


 今度は、はっきり笑った。


 マルタが鍋の蓋を取る。


「じゃあ、温め直さずに済むかね」


「まだ分からん」


「分からなくていいよ。火はついてる」


 火はついている。


 それだけで強かった。


 ◇


 鈴が鳴った。


 ちりん。


 普通の音だった。


 普通の音のはずだった。


 だが、その一音で、店の全員が止まった。


 戸口が開く。


 レオンが立っていた。


 顔色は悪い。


 目の下に薄い影がある。


 服はきちんとしているが、袖口を握りすぎた跡がある。


 片手に、小さな袋を持っていた。


 何かの礼か。


 手土産か。


 それとも、ただ握るものが必要だったのか。


 レオンは店の中を見た。


 入口。


 厨房。


 真ん中の席。


 アルト。


 水。


 傷のある机の方へは、目を向けかけて、やめた。


 見ようとすれば見える。


 普通に座れば見えない。


 レオンは、その言葉を覚えていた。


「いらっしゃい」


 マルタが言った。


 いつもの声だった。


 特別すぎない。


 軽すぎもしない。


 レオンは一度、息を吸った。


「食べに来ました」


 声は震えていた。


 でも、言い切った。


 アルトは頷いた。


「席はそこだ」


 レオンは真ん中の席へ向かった。


 一歩。


 もう一歩。


 店の床が、こつ、と鳴る。


 返事の音ではない。


 ただ、床を歩く音。


 それがよかった。


 レオンは椅子の前で立ち止まる。


 座る前に、アルトを見る。


「座っても」


「食べに来たんだろ」


 レオンは少しだけ口元を動かした。


 笑う寸前の顔だった。


「はい」


 椅子を引く。


 ぎい。


 座る。


 端末が震えた。


 ブルーノが見る。


【三日後予定:到達】


【進行状態:自発到達】


【予定反応:安定】


【参照待機:解除】


 解除。


 その一語に、アルトは息を吐いた。


 待機ではなくなった。


 予定は到達した。


 レオンは座っている。


 そこにいる。


 まだ食べていない。


 でも、来た。


 ◇


 マルタが水を出した。


 すでに置いてあった水を、少しだけ手前へ動かす。


「まず水」


 レオンは両手でコップを持った。


 少し震えている。


 こぼさない。


 飲む。


 一口。


 長い時間をかけて飲み込む。


 そして、目を閉じた。


「音がします」


 誰もすぐには返さなかった。


 レオンは目を開ける。


「水の音がしました。喉の中で」


 ミアが小さく言う。


「中の音?」


 レオンはミアを見る。


「はい」


「いい音?」


 レオンは少し考えた。


「……戻る音です」


 ミアは大きく頷いた。


「水、えらい」


「えらいですね」


 レオンが真面目に返した。


 ミアは満足した。


 マルタが芋のスープを運ぶ。


 普通の椀。


 欠けていない椀。


 芋は多め。


 湯気が上がる。


 レオンはそれを見て、少し固まった。


 アルトは言う。


「確かめるな」


 レオンの肩が揺れる。


 アルトは続ける。


「食べろ」


 命令ではない。


 だが、少し強い。


 レオンはスプーンを持った。


 手が震える。


 一口すくう。


 芋が崩れる。


 スープが湯気を立てる。


 レオンは、それを口に入れた。


 飲み込むまで、誰も喋らなかった。


 レオンは目を閉じた。


 長い沈黙。


 それから、言った。


「味がします」


 その声で、店の中の何かがほどけた。


 マルタが鍋の前で息を吐く。


 ミナが水差しを握り直す。


 ブルーノがペンを持たないまま、目を伏せる。


 ガルムが床に伏せる。


 ガルドが壁にもたれ直す。


 ミアが小さく拳を握る。


 ルナは水を飲んだ。


 アルトはレオンを見る。


「何の味だ」


 レオンは、もう一口食べた。


 今度は少しだけ早い。


「芋です」


 ミアが笑った。


「芋の味!」


「はい」


「よかった」


「はい」


 レオンはもう一口食べた。


 今度は、確かめるためではない。


 食べるために。


 ◇


 端末が震えた。


 ブルーノが見る。


 アルトも見る。


【照合候補:呼称残滓】


【反応方向:発信側】


【発信意図:帰還補助】


【対象反応:低下】


 その下。


【呼称残滓:薄化】


 ブルーノの手が止まった。


 アルトは机の傷を見る。


 見すぎない。


 だが、見る。


 黒い輪郭が、ほんの少し薄くなっていた。


 レオンは傷を見ていない。


 スープを食べている。


 それでも、薄くなった。


 レオンが該当者だからではない。


 自分で来る者が、赤猫亭で食べたから。


 戻る場所を作ろうとした声の残りが、少しだけ形を保つ必要を失った。


 ミアが小声で言った。


「さみしいの、少し減った?」


 マルタが答える。


「少しね」


 ルナは頷いた。


「はい」


 声が震えていた。


 けれど、崩れなかった。


「少し、薄くなりました」


 レオンが顔を上げる。


「何がですか」


 アルトは少し考える。


 説明しすぎない。


 渡しすぎない。


 隠しすぎもしない。


「店の傷だ」


 レオンの顔がこわばる。


 スプーンが止まる。


 アルトは続けた。


「お前のせいじゃない」


 レオンはスプーンを握る。


「でも、反応したのなら」


「お前が来たからじゃない」


 言い方が難しい。


 アルトは息を吐く。


「お前が、自分で来て、食べたからだ」


 レオンは理解できない顔をした。


 それでいい。


 全部理解しなくていい。


 マルタが言った。


「悪い反応じゃないよ。少なくとも、今はね」


 ミアが追加した。


「芋で少し薄くなった」


 レオンはミアを見る。


「芋で?」


「たぶん」


 アルトは止めなかった。


 大きく間違ってはいない気がした。


 レオンはスープを見る。


「では、もう少し食べます」


 マルタが笑った。


「そうしな」


 レオンは食べた。


 少しずつ。


 でも、止まらずに。


 ◇


 神々のコメント欄は開かなかった。


 だが、外部注視圧は上がっている。


【外部注視圧:上昇】


【配信要求:急増】


【境界宣言:有効】


 アルトは画面を見る。


 今、開けば騒ぎになる。


 見せろ。


 来たのか。


 誰だ。


 何が起きた。


 芋は。


 傷は。


 質問が壁になる。


 だが、何も出さなければ、外側で勝手な形が膨らむ。


 アルトは入力欄を開いた。


 レオンを見る。


 レオンはまだ食べている。


 少しずつだが、確かに。


 アルトは打った。


《客が一人、来ました》


 止まる。


 次。


《食べています》


 さらに。


《以上》


 送信。


 コメント欄は開かない。


 通知が跳ねる。


 外部注視圧が一瞬上がり、それから下がり始める。


【外部注視圧:下降傾向】


【境界宣言:有効】


 ミアが満足そうに言う。


「以上」


「真似するな」


「以上」


「するな」


 レオンが小さく笑った。


 ほんの少し。


 だが、笑った。


 アルトはそれを見て、画面を閉じた。


 今日、神々に渡す情報はそこまでだった。


 ◇


 食べ終わるまで、時間がかかった。


 レオンは急がなかった。


 急がないで済んだ。


 途中で水を飲む。


 途中で止まる。


 また食べる。


 ミアが隣で見すぎそうになり、マルタに布巾を渡されて皿拭きへ回された。


 ガルムは入口の横で眠りかけた。


 ガルドは何も言わなかった。


 ルナは水を二度飲んだ。


 こぼさなかった。


 最後の芋を食べて、レオンはスプーンを置いた。


「ごちそうさまでした」


 マルタが頷く。


「足りたかい」


 レオンは少し考える。


「分かりません」


 アルトが眉を上げる。


 レオンは慌てて続けた。


「足りないのではありません。足りた、という感じが久しぶりで、まだ分かりません」


 マルタは笑わなかった。


 ただ、椀を見た。


「じゃあ、今日はそれでいい」


 レオンは頷いた。


 ミアが言う。


「足りたか分からない時は、次また来る」


 レオンはミアを見る。


「次」


「うん」


 ミアは当然のように言った。


「次の芋」


 レオンは、すぐには返事をしなかった。


 返事を一つ遅らせた。


 それから、言った。


「はい。次も、食べに来ます」


 端末が震えた。


 ブルーノが見る。


【来訪履歴:成立】


【自発到達:記録】


【再来訪予定:未設定】


 未設定。


 だが、拒否ではない。


 まだ決めていないだけ。


 それでいい。


 ◇


 レオンが帰る時、鈴は普通に鳴った。


 ちりん。


 来る時と同じ。


 出る時も同じ。


 レオンは戸口で一度振り返った。


「今日は、ありがとうございました」


 アルトは言う。


「食べただけだ」


 レオンは少し笑った。


「それが、難しかったです」


「次は少し簡単になる」


「そうだといいです」


「簡単じゃなければ、また芋を多めにする」


 レオンは今度こそ、はっきり笑った。


「それは、助かります」


 ミアが手を振る。


「次の人!」


 マルタが即座に言う。


「名前を増やさない!」


「でも次」


「次は次でいい」


「じゃあ、次」


 レオンは戸口で少し頭を下げた。


 そして、外へ出た。


 鈴が鳴る。


 ちりん。


 今度は、閉じる音ではなかった。


 出ていっても、戻れる音だった。


 ◇


 夜。


 レオンの席には、まだ水の跡が残っていた。


 椀は片づけた。


 布巾も替えた。


 椅子は元に戻した。


 でも、そこに誰かが座っていた感じは、まだあった。


 ガルムが匂いを嗅ぐ。


「来た匂い」


「もう三日後の匂いじゃないか」


「違う」


「何だ」


「今日来た匂い」


 ミアが胸を張る。


「今日の人!」


 マルタが遠くから言う。


「また増やす!」


「でも今日来た!」


 アルトは笑った。


 疲れていた。


 かなり疲れている。


 だが、悪い疲れではなかった。


 端末の最後の表示を確認する。


【三日後予定:完了】


【来訪履歴:成立】


【呼称残滓:薄化】


【対象反応:低位安定】


【外部注視圧:下降中】


【接触者影響:経過良好】


 ミアの経過観察が変わっていた。


 経過良好。


 アルトはミアを見る。


 ミアは残す芋の布を直している。


「指は」


「覚えてる」


「怖いか」


「ちょっと」


「芋は」


「見る」


「傷は」


「今日は見なかった」


「明日は」


 ミアは少し考えた。


「明日決める」


 レオンと同じ答えだった。


 アルトは頷いた。


「そうしろ」


 ルナは水を持って、傷のある机から少し離れた席に座っている。


 彼女は今日、何度も水を飲んだ。


 だが、置く合図は使わなかった。


 最後に、アルトの方を見て言った。


「今日は、誰に向けられた呼び方なのか、確かめる必要がありませんでした」


「聞こえなかったか」


「聞こえました」


 アルトは少し身構える。


 ルナは首を横に振った。


「でも、今日は返すものではありませんでした」


「何だった」


 ルナは少しだけ考えた。


「見送るものです」


 アルトは戸口を見る。


 レオンが出ていった扉。


 鈴。


 普通の音。


 出ていっても、戻れる音。


「そうか」


 それだけ答えた。


 ◇


 店を閉める。


 マルタが戸締まりをする。


 かちゃり。


 鈴が鳴る。


 ちりん。


 アルトは、その音を聞いた。


 今日、レオンは来た。


 水を飲んだ。


 芋を食べた。


 味がすると言った。


 次も食べに来ると言った。


 傷は少し薄くなった。


 呼称残滓も少し薄くなった。


 神々には、客が来て食べたことだけを渡した。


 それで、十分だった。


 全部が解けたわけではない。


 呼んだ者はまだ分からない。


 呼ばれていた者もまだ分からない。


 ルナが聞いていた場所も、まだ遠い。


 だが、今日、赤猫亭には一人の客が来た。


 確かめにではなく。


 食べに。


 その事実は、端末の記録よりも強かった。


 アルトは灯りを落とす。


 階段を上がる前に、真ん中の席を見る。


 もう三日後席ではない。


 レオン席でもない。


 今日の人の席でもない。


 ただの席だ。


 誰かが来て、座って、食べて、また来るかもしれない席。


 それでいい。


 下で、鍋が小さく鳴った。


 かん。


 赤猫亭は閉まった。


 明日、また開く。


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