第101話 薄くなったあと
レオンが座った席は、朝にはただの席に戻っていた。
そう見えた。
水はない。
椀もない。
箸もない。
布巾も片づけられている。
椅子も元の位置に戻されている。
真ん中の席。
入口が見える。
厨房が見える。
傷は、見ようとすれば見える。
普通に座れば見えない。
昨日まで、三日後席だった。
昨日だけ、レオンの席だった。
今朝は、ただの席のはずだった。
ミアはその席の前に立っていた。
何も言わない。
芋も持っていない。
手首も見せに来ない。
ただ、椅子を見ている。
アルトは水を飲みながら声をかけた。
「座るか」
ミアは首を横に振った。
「座らない」
「何してる」
「戻ったか見てる」
「席が?」
「うん」
アルトは椅子を見る。
戻っている。
少なくとも、見た目は。
ミアは椅子の背に触れない。
触りそうにもならない。
昨日より、そこは慎重だった。
「戻った?」
アルトが聞く。
ミアは少し考えた。
「半分」
「半分?」
「レオン、いない。でも、ちょっといる」
アルトは笑わなかった。
その言い方は、分かる気がした。
レオンはいない。
だが、そこに座っていたことは残っている。
水を飲み、芋を食べ、味がすると言ったこと。
次も食べに来ると言ったこと。
それらは片づけても消えない。
マルタが厨房から言った。
「じゃあ、今日は使うよ」
ミアが振り返る。
「使う?」
「席だもの」
「レオン、いい?」
「レオンの席じゃないよ」
「昨日は?」
「昨日は昨日」
「今日は?」
「今日は誰かの席」
ミアは難しい顔をした。
「誰か」
「そう。誰か」
マルタは鍋を火にかける。
「席は、座る人が来たらその人の席になる。いなければ、席だよ」
ミアは椅子を見る。
しばらく見てから、頷いた。
「じゃあ、席」
「そう」
「でも、レオンちょっといる」
「それはいい」
「いい?」
「座った人のちょっとが残らない店なんて、つまらないだろ」
アルトは椀を置く手を止めた。
マルタは当然のように言った。
店に残るもの。
店の傷。
来た匂い。
水の跡。
笑い。
食べた後の椀。
少しずつ残って、少しずつ普通になる。
それが、店だった。
◇
朝食の前に、机の傷を見た。
砂時計は使わなかった。
今日は、見るというより、確認するだけだった。
傷は確かに薄くなっていた。
黒い輪郭の端が、昨日より淡い。
焦げ跡のようだったものが、水で何度も拭かれた墨のようになっている。
ただ、中心だけが残っていた。
小さな点。
点というより、芯。
黒というより、灰色。
薄くなったことで、かえってそこだけが見える。
ブルーノは端末を開く。
布は敷いてある。
紙は出していない。
【呼称残滓:薄化】
【残留核:あり】
【対象反応:低位安定】
【反応方向:発信側】
アルトは最後ではなく、二行目を見た。
「残留核」
ブルーノは頷く。
「呼称残滓が薄くなった後に残った中心、と読めます」
「読むな」
ガルドが壁から言った。
ブルーノはすぐ頷いた。
「はい。読む、ではなく、確認します」
マルタが茶を置く。
「言い直しが早くなったね」
「慣れたくはありませんが」
「慣れないよりはいいよ」
アルトは傷の中心を見る。
見すぎない。
だが、今日は見ないふりもしない。
「これは、呼んだ者の中心か」
ルナが水を持っていた。
自分の水。
今日は置いていない。
「中心ではありません」
彼女は言った。
「ではない?」
「はい。呼んだ者そのものではありません。呼び方が届かなかった場所に、最後まで残った結び目です」
アルトは少し眉を寄せる。
「結び目」
「呼ぼうとした声と、届かなかった場所が、ほどけずに残ったところ」
ルナの声は静かだった。
昨日の「見送るもの」の後、少しだけ違う声になっている。
崩れそうな細さではない。
遠くのものを、遠いまま見る声だ。
「それをほどくのか」
アルトが聞く。
ルナはすぐには答えない。
水を一口飲む。
「ほどく、という言葉は危ないです」
「じゃあ」
「緩める、だと思います」
ブルーノがペンを持ちかけて、置いた。
ミアがそれを見て言う。
「紙、我慢」
「しています」
「えらい」
「紙がですか、私がですか」
「両方」
ブルーノは少し困ったように頷いた。
アルトは小さく笑った。
残留核。
結び目。
緩める。
また重い言葉が増えている。
だが、今日は紙と芋が近くにある。
それで少し、重さが立ち上がりすぎずに済んでいた。
◇
レオンからの連絡は、朝食の途中に来た。
《昨日は、ありがとうございました》
アルトは芋のスープを飲んでいた。
熱い。
昨日より少し薄味。
マルタがそうしたのだろう。
来訪の翌日の胃に合わせているのかもしれない。
アルトは返信する。
《食べただけだ》
既読。
少し間。
《食べました》
その返事に、アルトは少し笑った。
確認ではない。
同じ事実を、レオンが自分の言葉で置き直している。
《今日は》
レオンから続く。
《まだ次の日を決めません》
アルトは画面を見る。
再来訪予定、未設定。
それをレオン自身が持っている。
急がない。
でも、消してもいない。
《決めなくていい》
送る。
少し考えて、もう一文。
《腹が減ったら考えろ》
既読。
長い間。
《それが分かりやすいです》
ミアが横から覗き込んでいた。
「腹、強い」
「見るな」
「見えた」
「見るな」
「腹が減ったら次」
ミアは真剣に頷く。
マルタが笑う。
「いい予定だね」
アルトは端末を伏せた。
次の来訪を、すぐ予定にしない。
腹が減ったら考える。
それは自由だった。
かなり健全な自由だった。
◇
昼前、レオンが座った席に客が来た。
昨日の「今日の人」ではない。
別の客。
近所の女だった。
いつもは入口近くに座る。
今日は、真ん中の席を選んだ。
ミアが一瞬、動きかけた。
アルトも見た。
マルタは何も言わない。
女は普通に座った。
椅子が、ぎい、と鳴る。
昨日と同じ音。
違う人の音。
「ここ、いい?」
女が聞いた。
マルタは答える。
「いいよ」
ミアが口を開きかけた。
閉じた。
少し考えてから言った。
「そこ、昨日レオンが座った」
マルタが眉を上げる。
女は少し驚いて、椅子を見る。
「あら、そうなの」
ミアは頷く。
「でも今日は席」
女は笑った。
「じゃあ、今日は私の席ね」
ミアは真剣に考えた。
「食べてる間は」
「そうね。食べてる間は」
女は水を飲んだ。
普通に。
何も起きない。
端末も震えない。
傷も動かない。
ただ、席が使われた。
アルトはそれを見ていた。
レオンが座った席が、他の客の席になる。
レオンの昨日が消えるわけではない。
でも、昨日だけに固定されない。
それが、思ったより大事だった。
ブルーノが小さく言った。
「来訪履歴は、席の所有ではない」
マルタが厨房から言う。
「難しく言うね」
ミアが言い換える。
「食べたら席」
「だいたい合ってる」
アルトは答えた。
女はスープを飲みながら、何の話か分からないまま笑っていた。
それでよかった。
◇
午後、傷を見る時間を短く取った。
砂時計は使わない。
マルタが言った。
「今日は、茶が冷めるまで」
湯呑みを置く。
湯気が上がる。
砂ではなく、湯気で時間を見る。
ブルーノは少し困った顔をした。
「計測が曖昧です」
「傷にはそのくらいでいい」
ガルドが言った。
「ぴったり測ると、ぴったり近づく」
ブルーノは納得したような、していないような顔で頷く。
傷を見る。
中心だけが残っている。
端は薄い。
端が薄いから、中心が目立つ。
ルナは言った。
「昨日、レオンさんが来て、食べて、帰りました」
「ああ」
「そのことで、呼称残滓は薄くなりました」
「ああ」
「でも、残留核は残りました」
「それは、まだ誰かが来ていないからか」
アルトが聞く。
ルナは少し考える。
「それもあります。けれど、それだけではないと思います」
「何だ」
「呼んだ者が、最後に何と呼ぼうとしたのか」
店の音が細くなる。
マルタが鍋の蓋を少しずらした。
湯気が出る。
音が戻る。
ルナは続けた。
「名前ではありません。呼び方です。誰かを責めず、命じず、戻れるように呼んだ。その最後の呼び方が、まだほどけていません」
ブルーノが端末を見る。
【残留核:安定】
【照合候補:最終呼称】
最終呼称。
アルトはその文字を見た。
重い。
名前より重い気がした。
「読むな」
ガルドが先に言った。
アルトも頷く。
「読まない」
ブルーノも頷く。
「はい」
ルナは水を持つ手を少しだけ強くした。
「今は、見送るものでもありません」
アルトはルナを見る。
「じゃあ何だ」
ルナはしばらく黙った。
湯気が少し薄くなる。
茶が冷めていく。
「待つものです」
その言葉に、ミアが少し反応した。
待機。
危ない言葉。
ルナはすぐ言い直した。
「いえ。急がないものです」
マルタが頷く。
「そっちの方がいい」
ルナも頷いた。
「はい。急がないものです」
最終呼称。
残留核。
急がないもの。
まだ触れない。
まだ読まない。
けれど、そこに近づく方向は見え始めている。
◇
夕方、レオンからもう一度連絡が来た。
《今日は、音を探しませんでした》
アルトは端末を見る。
《何をした》
《普通に歩きました》
少し間。
《少し疲れました》
アルトは笑った。
いい疲れだ。
たぶん。
《水は》
《飲みました》
《味は》
送ってから、少し変な質問だと思った。
だが、レオンは答えた。
《今日は、薄いです》
アルトは眉を上げる。
《水がか》
《いえ》
少し間。
《怖さが》
アルトは画面を見た。
怖さが薄い。
なくなったのではない。
味がしないのでもない。
薄い。
いい言葉だった。
《それでいい》
打ってから、また少し考える。
今日は、その言葉でいい気がした。
送る。
既読。
《はい》
さらに。
《腹が減ったら、考えます》
アルトは返信する。
《芋は逃げない》
既読。
すぐ返事。
《それは安心です》
芋への返事は相変わらず早い。
アルトは少し笑った。
◇
夜、ルナは戸口の近くに立っていた。
昨日、レオンを見送った場所。
鈴がある。
触れてはいない。
アルトは少し離れたところに立つ。
「見送るものか」
ルナは頷く。
「はい」
「今日は誰もいない」
「はい」
「それでも立つのか」
「昨日の音を、もう一度置き直していました」
アルトは鈴を見る。
レオンが出ていった時に鳴った音。
出ていっても、戻れる音。
ルナは言った。
「私は、返すことばかり考えていました」
「ああ」
「返せなかったことと、返さなかったことを」
「ああ」
「でも、昨日は、返さずに見送ることができました」
「そうだな」
「見送ることは、何もしないことではありませんでした」
アルトは少しだけ目を細めた。
ルナは続ける。
「相手が自分で出ていくのを、止めずに見ることです。そして、戻れる音を残すことです」
戸口の鈴が、風もないのに小さく揺れた。
鳴らない。
ただ揺れた。
ルナはそれを見て、今度は水を置かなかった。
怖がっていないわけではない。
でも、今は合図が必要ではない。
「次に声を聞いた時」
ルナは言った。
「返すものなのか、見送るものなのか、急がないものなのかを、先に確かめます」
アルトは頷いた。
「ひとりでな」
「はい」
「水は」
「持っています」
ルナはコップを少し上げた。
アルトはそれを見て、少し笑った。
準備はある。
でも、まだ使わない。
それでいい。
◇
寝る前、端末の表示は静かだった。
【来訪履歴:成立】
【再来訪予定:未設定】
【呼称残滓:薄化】
【残留核:あり】
【照合候補:最終呼称】
【対象反応:低位安定】
【接触者影響:経過良好】
アルトは一つずつ読む。
どれも解決ではない。
だが、どれも昨日とは違う。
レオンは来た。
次は未設定。
それでいい。
呼称残滓は薄くなった。
中心は残った。
それもいい。
最終呼称は、まだ読まない。
急がない。
ミアは経過良好。
怖さは少し残る。
それも、まあ、いい。
下で、マルタが戸締まりをする。
かちゃり。
鈴が鳴る。
ちりん。
昨日より、少し普通に聞こえた。
それが嬉しいのか、怖いのか、まだ分からない。
アルトは灯りを落とす。
真ん中の席には、今日、別の客が座った。
レオンの席ではなくなった。
でも、レオンが座ったことは消えなかった。
傷は薄くなった。
でも、中心は残った。
何かが消えることと、なかったことになることは違う。
何かが残ることと、縛られることも違う。
赤猫亭は、その違いを一つずつ覚えている。
明日も、店は開く。
誰かが来るかもしれない。
来ないかもしれない。
腹が減ったら、考えればいい。
芋は、たぶん逃げない。




