第85話 扉の前で止まる
朝は、長椅子の上で来た。
寝台ではない。
二階の部屋でもない。
厨房に近い、一階の長椅子。
毛布は半分ずり落ちていた。
首が少し痛い。
だが、眠れた。
短かったが、眠れた。
目を開けると、厨房の小さな火はもう消えていた。
その代わり、マルタが鍋に水を入れている音がした。
しゃら。
かん。
水と鍋の音。
白い場所には、どちらもなかった。
アルトは体を起こす。
隅の机を見る。
昨日、机の上のものは動かした。
帰還芋は反対側。
金属片は少し離した。
鈴は戸口に近い棚。
塩は厨房。
黒パンの欠片は鳥の分。
水は替えた。
机は、少し空いている。
入口の気配は、昨日より薄い。
消えたわけではない。
薄い。
そのくらいが、今は息をしやすかった。
「起きたかい」
マルタが言った。
「ああ」
「首、痛いだろ」
「少し」
「長椅子は寝台じゃないからね」
「知ってる」
「知ってて寝たなら文句は言えないね」
「言ってない」
マルタは鍋を火にかける。
かん。
今日は、鍋が先だった。
鈴ではない。
床でもない。
金属片でもない。
水の音のあとに、鍋。
それで朝が始まった。
ガルムは入口のそばにいた。
昨日と同じ場所ではない。
少し外に近い。
扉が開いた時に、すぐ見える位置。
アルトが見ると、ガルムは低く言った。
「夜、何も来ていない」
「鈴は」
「鳴っていない」
「入口は?」
「薄い」
ガルムもそう言った。
薄い。
アルトの感覚と重なる。
それが少しだけ安心になった。
◇
ミナが水差しを持ってきた。
新しい水だ。
朝の光を受けて、表面が少し揺れている。
「昨夜は一階でしたね」
「ああ」
「水、足りましたか」
「足りた」
「今日は多めに置きます」
「そんなに飲むか」
「飲めるようにしておくだけです」
ミナは長椅子の近くに小さなコップを置いた。
さらに隅の机にも水を置く。
ルナの席にも。
水の役目を、ちゃんと取り戻している。
マルタが全部するのではなく、ミナが水を整える。
それだけで、昨日決めた役割が形だけではなかったと分かる。
ルナは少し遅れて降りてきた。
いつもの皿拭きの前に、水を飲む。
一口。
もう一口。
今日は三杯まではいかなかった。
ミアがそれを見て頷く。
「女神、今日は普通」
「普通に近いです」
「よし」
許可が出た。
ルナは少し笑う。
そのあと、隅の机を見る。
「薄くなっています」
「お前もか」
アルトが言う。
「はい」
「昨日、動かしたからか」
「そうだと思います」
ルナは鈴の位置を見る。
戸口に近い棚。
机から少し離した場所。
「入口は、ひとつの形で止まりすぎると固まります。昨日のように動かすと、柔らかさが戻ります」
「柔らかさ」
「戻れる余地です」
アルトは頷いた。
昨日より分かる。
分かりたくないが、分かる。
◇
朝食のあと、ブルーノが端末を確認した。
旧待機区画は開かない。
白い扉も映さない。
ただ、参照状態だけを見る。
紙はもう広げてある。
【赤猫亭側入口:可変】
【固定化兆候:低下】
【参照入口:維持】
ブルーノが息を吐く。
「昨日の対応は、効果があったようです」
「机を片づけたのが?」
「はい」
ブルーノは紙に書き足す。
【生活動作により固定化低下】
マルタが紙を見る。
「だから、片づけだって言ったろ」
「はい」
「難しく書くと、片づけたことが偉そうになるね」
「すみません」
「謝ることじゃないけどね」
ガルドが机の脚を叩く。
こん。
昨日より、もっと軽い音。
「机は机に戻っている」
「入口は?」
アルトが聞く。
「残っている」
「どっちだよ」
「机でもあり、入口でもある」
ガルドは当然のように言った。
「どっちかにしようとするから固まる」
アルトは黙った。
どっちかにしようとするから固まる。
入口か店か。
扉か戻り道か。
神か人か。
名前か、呼び方になる前か。
どれも、どちらかに決めすぎると固まるのかもしれない。
アルトはルナを見そうになって、やめた。
今日はそこを見すぎない。
◇
神々のコメント欄は、短時間だけ開いた。
ブルーノが言う。
「今日は、急かす声は読まない設定のままにします」
「頼む」
「芋の話題だけ拾います」
「それでいいのか」
「危険語よりましです」
画面には、相変わらず芋が流れている。
『帰還芋まだ?』
『普通芋食べられてて草』
『芋分類学続報』
『赤猫亭の朝が映らないと落ち着かない』
『扉まだ?』
ブルーノは最後の行を見なかったことにした。
見えていたが、読まなかった。
読むことも近づく。
なら、読まない技術が必要だ。
ミアが画面を覗く。
「芋分類学」
「忘れろ」
「分類しない?」
「芋は食べ物だ」
「帰還芋も?」
「それは……あとで食べ物になる」
「今は?」
アルトは少し考えた。
「約束」
ミアはぱっと顔を上げる。
「芋、約束」
「言いすぎた気がする」
「でも、いい」
ミアは芋を見た。
帰還芋は、布の下にある。
食べ物で、約束。
どちらかだけではない。
それでいいのかもしれない。
◇
昼前、レオンから連絡が来た。
《今日は鳴らしていない》
アルトは画面を見た。
短い。
だが、昨日より大きい報告だった。
鳴らした、ではない。
鳴らしていない。
止めた。
それだけで、前に進んでいる。
《水は》
既読。
《飲んだ》
《音は》
少し間が空く。
《聞いている》
《何を》
また少し間。
《外の馬車》
アルトは少し笑いそうになった。
馬車。
鍋でも、剣の留め具でも、赤猫亭でもない。
レオンのいる場所の音。
生活の音かどうかは分からない。
でも、そこにある音。
《それでいい》
送信する。
少し考えて、もう一文。
《今日は鳴らさないのも手順だ》
既読。
返事はなかった。
それでよかった。
返事がなくても、音はある。
馬車の音。
水の音。
レオンの場所は、レオンの場所で少しずつ戻っている。
赤猫亭に来なくても、戻る道はある。
それでも、いつか来るかもしれない。
その時は、鍋の音を聞けばいい。
今は、まだ遠くでいい。
◇
午後、白い扉の前まで行くかどうかを話した。
開けるのではない。
扉の前まで行く。
その言い方に、全員が少しだけ黙った。
扉を開ける話ではない。
だが、近い。
かなり近い。
ブルーノは紙を出す。
【本日の目的】
【白い扉の前で止まれるか確認】
アルトはそれを見る。
「止まる確認か」
「はい」
「開ける確認じゃない」
「違います」
ミナが水を置く。
「止まれるかどうかは、開ける前に確認しておくべきです」
ガルドが頷く。
「道具も、止め方を知らんやつに持たせるな」
マルタは鍋を見ながら言った。
「私の声で止まらなかったら、今日は終わりだよ」
「それは決定か」
「決定だね」
強い。
止める声。
それがマルタの役割だ。
ミアは芋の前で手を上げた。
「芋は?」
「見張り」
「食べる?」
「帰ってきたら」
「前まで行って帰ってきたら?」
アルトは少し詰まった。
ミアは真剣だ。
前回も「見ただけでも帰ってきた」と言った。
今回も同じ理屈になる。
だが、帰還芋を毎回食べていたら、約束が終わる。
マルタが助け舟を出した。
「今日は、芋を切る」
「切る?」
ミアが目を丸くする。
「食べるんじゃなくて?」
「帰ってきたら、一切れだけ焼く」
「一切れ」
「全部は食べない。約束は残す」
ミアはかなり真剣に考えた。
「約束、分ける」
「そうだね」
「いい」
決まった。
帰ってきたら、帰還芋を一切れ焼く。
全部は食べない。
約束を終わらせず、少しだけ果たす。
それも、入口を固めないやり方に似ていた。
◇
夕方、準備をした。
旧待機区画を開くのは営業後。
それは変えない。
客に飯を出す。
スープを出す。
普通の芋を出す。
帰還芋は切らない。
まだ。
子どもが来て、籠の芋が減っているのを見た。
「食べた?」
「普通の芋はね」
マルタが言う。
「帰るやつは?」
「まだ」
「一個じゃなくなったのに?」
「増えても、違う芋は違うんだよ」
「ふーん」
子どもは分かったような、分かっていないような顔をした。
それで十分だった。
全部を説明しなくていい。
赤猫亭の夕方は、少しだけ普通だった。
普通の中に、白い扉が近づいている。
それが一番落ち着かない。
◇
営業が終わった。
扉が閉まる。
今日は、隅の机の前に全員が集まらない。
集まりすぎると固まる。
そう判断した。
アルトは机から少し離れた席。
ブルーノは端末の前。
ミナは水差し。
マルタは厨房と店の境目。
声が届く場所。
ガルドは床。
ガルムは入口。
ミアは芋。
ルナは水を持って、アルトの斜め後ろ。
全員の位置が、昨日までと違う。
それだけで、空気が変わる。
ブルーノが確認する。
「白い扉の前まで。開けません」
「ああ」
「音声ログは再生しません」
「ああ」
「黒い染みは見ません」
「ああ」
「扉の表示だけ確認します」
「前で止まる」
「はい」
マルタが言った。
「止まれって言ったら止まるんだよ」
「分かってる」
「分かってるかどうかじゃない。止まるんだよ」
アルトはマルタを見る。
頷く。
「止まる」
床を一回叩く。
こつ。
返事は一回。
こつ。
いる。
鍋は鳴らさない。
今日は、鍋を使わない。
代わりに、ミナが水の入ったコップを置く。
こと。
水の音。
それを合図にした。
参照が始まる。
◇
白い光が見えた。
旧待機区画。
白い壁。
白い床。
白い机。
並んだ椅子。
音のない場所。
だが、今日は中央を見ない。
黒い染みも見ない。
机も見ない。
奥。
白い扉だけ。
距離が近い。
前に見た時より、近く感じる。
見たものが、次の距離を変える。
ブルーノの紙にあった言葉を思い出す。
扉の上には、同じ表示。
【帰還準備】
【結果:未完了】
その下に、前はなかった一行がある。
【帰還先:未成立】
アルトの喉が乾く。
ミナが水を近づける。
アルトは画面から目を離さないまま、水を受け取った。
飲む。
水の味。
赤猫亭。
戻る。
白い扉は閉じている。
開くための取っ手は見えない。
ただ、閉じていることだけを示している。
扉というより、決定だ。
開けるか。
閉めるか。
その二択を迫る形。
アルトは息を吐く。
「前まで行く」
ブルーノが参照深度を一つだけ上げた。
画面の白い扉が近づく。
一歩。
もう一歩。
音はない。
コメント欄は開いていない。
神々の声もない。
旧待機区画は、やはり音がない。
その時、赤猫亭の鈴が鳴った。
ちりん。
全員が止まった。
戸口ではない。
棚の鈴。
入口の音。
誰かが来られる音。
ブルーノの手が止まる。
ガルムが入口を見る。
誰もいない。
マルタが言う。
「止まれ」
声。
強い。
短い。
アルトは止まった。
画面の中の扉は、あと少しの距離にある。
でも止まった。
マルタの声で。
白い扉の表示が揺れる。
【開扉条件:接近】
【開扉条件:未承認】
もう一行。
【停止確認】
ブルーノが息を呑む。
「止まったことも、確認されました」
「いいことか」
「分かりません」
アルトは画面を見る。
白い扉は、開いていない。
だが、こちらが止まったことを知っている。
嫌な感じだ。
でも、止まれた。
それだけは事実だった。
「ここまでだ」
アルトが言う。
マルタが重ねる。
「終わりだよ」
ブルーノはすぐ参照を切る。
白い光が消える。
赤猫亭の灯りが戻る。
水の音。
誰かの息。
ミアが芋を抱えるように見張っている。
「帰ってきた?」
ミアが聞く。
アルトは少しだけ考えた。
「前まで行って、戻った」
「じゃあ一切れ?」
マルタが頷いた。
「一切れだね」
ミアは顔を明るくした。
◇
帰還芋を切るのは、マルタがやった。
布を外す。
芋を手に取る。
小さな包丁で、端を一切れだけ切る。
残りはまた布に包む。
終わらない。
約束は残る。
一切れは、小さな鉄皿に乗せて焼いた。
かすかに甘い匂いがする。
赤猫亭の匂い。
白い場所にはなかったもの。
焼けた芋を、マルタが皿に乗せる。
「食べな」
アルトは受け取る。
ミアがじっと見ている。
「私も?」
「少しな」
マルタが芋を半分に割る。
半分より少ない方をミアに渡す。
「小さい」
「見張り代だよ」
「見張った」
「だからある」
ミアは納得して食べた。
アルトも食べる。
熱い。
甘い。
柔らかい。
約束の味がした、などとは言わない。
でも、そういうものが少しだけ混ざっていた。
ルナは水を飲んでいる。
ブルーノは紙に書く。
【白い扉の前で停止】
【停止確認】
【開扉条件:未承認】
【帰還芋:一切れ使用】
少し迷い、さらに一行。
【約束は残す】
アルトはそれを見て、何も言わなかった。
今日は、それでいい。
◇
夜。
アルトは二階へ上がった。
昨日は一階で寝た。
今日は戻る。
ただし、いつものようにはしない。
客間の前では叩かない。
扉の前で止まり、声をかける。
「ルナ」
少し間。
「はい」
中から声が返る。
こつではない。
声。
いる。
それで十分だった。
アルトは自分の部屋に戻る。
端末は棚。
手帳は布の中。
金属片は、まだ隅の机から少し離れた場所。
鈴は棚。
帰還芋は、少しだけ小さくなった。
全部は食べていない。
約束は残っている。
寝台に座る。
今日は、下の階で鍋が鳴った。
かん。
少し遅れて、水の音。
ぽた。
さらに少しして、床が一回鳴った。
こつ。
いるか。
アルトは木枠を叩かない。
代わりに、声を出した。
「いる」
廊下は静かだった。
それでよかった。
返事が音でなくてもいい日がある。
確認の形も、固まらせない。
アルトは灯りを落とした。
白い扉の前で止まれた。
マルタの声で止まった。
鈴は鳴った。
誰も来なかった。
でも、入口は反応した。
白い扉は開かなかった。
帰還芋は、一切れだけ減った。
残りはある。
アルトは目を閉じる。
今日は、扉の前で止まった。
次に何をするかは、まだ決めない。
止まれたことを、先に覚えておく。
かん。
下で鍋が鳴った。
その音は、今日は遠くなかった。




