第84話 入口が固まる前に
朝、鈴は鳴らなかった。
それだけで、少し肩が軽くなった。
軽くなってから、自分が鈴の音を待っていたことに気づく。
嫌な慣れ方だ。
アルトは水を飲んだ。
窓の外は朝。
今日はちゃんと朝だった。
鍋が鳴る。
かん。
先に鍋が鳴った。
鈴ではない。
それだけで、赤猫亭が少し戻った気がした。
厨房でマルタが声を上げる。
「食べるよ」
いつもの声。
強い声。
だが、今日はその声の前に、誰も鈴を聞かなかった。
昨日とは違う。
型が戻った、とは思わなかった。
むしろ、壊れた型の上に、別の朝が乗った感じだった。
アルトは下へ降りる。
隅の机には、芋がある。
布をかけられた帰還芋。
その横に金属片。
水。
塩。
黒パンの欠片。
空の椀。
鈴。
さらに昨日、子どもが持ってきた普通の芋が籠に入っている。
芋が多い。
意味も多い。
見ているだけで少し疲れる。
ミアはもう起きていた。
芋と鈴の前に立っている。
「今日は鈴、鳴ってない」
「聞いてたのか」
「聞いてた」
「寝ろよ」
「寝た」
「本当か」
「たぶん」
たぶん。
信用しにくい。
入口の近くには、ガルムがいた。
扉にもたれず、少し離れた場所で外を見ている。
何かが来たわけではない。
それでも、入口から目を外していなかった。
昨日決めた役割を、きちんと守っている。
ガルムはアルトに気づくと、何も言わずに頷いた。
アルトも頷き返した。
それだけで足りた。
マルタが鍋を鳴らした。
かん。
「まず食べな。入口だの扉だのは、腹に入るものじゃない」
「腹に入ったら困るだろ」
「だから飯を食えって言ってるんだよ」
アルトは座った。
スープが出る。
黒パンが出る。
普通の芋も少し出る。
ミアがすぐに聞いた。
「これ帰還芋?」
「普通の芋」
マルタが言う。
「普通の芋」
ミアは確認するように繰り返した。
「食べていい芋」
「そうだね」
「よし」
ミアは迷わず食べた。
普通の芋は、ちゃんと普通に食べられた。
それが少し救いだった。
◇
朝食の途中で、ルナが昨日の言葉を自分から出した。
「入口は、柔らかいうちは戻れます」
誰も急かしていない。
質問もしていない。
それでも、ルナは言った。
アルトはスプーンを止める。
ルナは水を飲む。
一口。
それから続けた。
「けれど、同じ形のまま置きすぎると、入口は扉に近づきます」
マルタが鍋を混ぜる手を止めた。
ミナがルナを見る。
ブルーノは紙を出しかけて、出さなかった。
今日はまだ紙が早い。
アルトは聞く。
「赤猫亭側の入口もか」
「はい」
ルナは逃げなかった。
「可能性ではなく?」
アルトが聞く。
ルナは少しだけ迷った。
だが、首を横に振らない。
「可能性ではあります。でも、かなり近い可能性です」
「つまり、放っておくと固まる」
「はい」
隅の机を見る。
芋。
金属片。
水。
塩。
黒パン。
椀。
鈴。
ずっと同じ配置。
戻るために置いたもの。
だが、置きすぎると入口が固まる。
強くするために置いたものが、動けなくするかもしれない。
最近、そういうことが多い。
マルタが布巾で手を拭いた。
「じゃあ、動かすよ」
あまりに普通に言ったので、アルトはすぐに反応できなかった。
「何を」
「机の上のものだよ」
「動かしていいのか」
「固まると困るんだろ」
「そうだが」
「なら動かす」
マルタは隅の机に近づく。
鈴を少し右へ。
水を左へ。
黒パンの欠片を小皿に乗せる。
塩を下げる。
空の椀を厨房へ持っていく。
普通の動き。
店の人間の動き。
儀式ではない。
片づけだ。
でも、それで机の空気が少し変わった。
ミナが立ち上がり、新しい水差しを持ってきた。
「水は、こちらに替えます」
マルタが振り返る。
「助かるよ」
「昨日、マルタさんが全部してくれましたから」
「気が利くね」
ミナは小さく頷き、水の位置を整えた。
ルナの前にも、新しい水を置く。
ルナがそれを見る。
「ありがとうございます」
「水は私の役目ですから」
ミナはそう言って、少しだけ笑った。
ルナも、水を一口飲んだ。
マルタが物を動かし、ミナが水を替えた。
机は、入口だけではなくなっていく。
ルナが静かに見ている。
「……そうですね」
アルトがルナを見る。
「いいのか」
「はい」
ルナは少しだけ笑った。
「入口を固定させないためには、生活の中で動かすのが一番近いと思います」
マルタは鍋の方へ戻る。
「難しく言わなくていいよ。机なんだから、片づける。それだけだ」
それだけ。
その言葉で、少し救われた。
◇
ブルーノは、ようやく紙を出した。
今日は遅い。
それでいい。
紙には新しい項目。
【入口固定化の兆候】
アルトは顔をしかめる。
「嫌な見出しだな」
「私も嫌です」
「なら書くな」
「書かないと、もっと嫌な形で残ります」
「それはそうか」
ブルーノは一つずつ書く。
【同じ配置が続く】
【同じ音だけを待つ】
【同じ手順を変えられなくなる】
【入口を触れないものとして扱う】
その下。
【対策:生活として動かす】
マルタが紙を見る。
「いいんじゃないかい」
ブルーノが少し驚く。
「いいですか」
「難しいけど、言ってることは片づけだろ」
「はい」
「ならいい」
ガルドが隅の机の脚を軽く叩いた。
こん。
「机の音も変わった」
「悪い方か」
アルトが聞く。
「違う」
ガルドは言った。
「使われる音になった」
使われる音。
アルトは机を見る。
昨日まで、隅の机は戻る場所の中心だった。
入口だった。
見張られていた。
触れるにも慎重だった。
でも今、マルタが物を動かした。
ミナが水を替えた。
机として使った。
それで音が変わった。
「固定させないためには、使う」
ブルーノが紙に書く。
【固定させないためには、使う】
ミアが真剣に言う。
「芋も使う?」
「食べる、だな」
マルタが答える。
「じゃあ帰還芋は?」
「まだ」
「まだか」
「でも、普通の芋は使っただろ」
「食べた」
「そういうこと」
ミアは何か分かったような顔をした。
本当に分かったかは分からない。
でも、少し満足している。
◇
神々のコメント欄は、昼まで開かなかった。
ブルーノが決めた。
昨日と同じ理由ではない。
今日は、急かされないため。
扉を開けろ。
続きは。
焦らすな。
そういう声を、今日は最初から入れない。
昼になって、少しだけ確認する。
芋の話題はまだ多い。
鈴の話題は、思ったより少ない。
昨日、見せなかったからだ。
守れた。
ブルーノは少しだけ息を吐いた。
「鈴は広がっていません」
「よかったな」
「はい」
「芋は?」
「広がっています」
「それはもういい」
コメント欄には、
『普通の芋と帰還芋の違い考察』
『帰還芋、まだ食べないのか』
『普通の芋は食ってて草』
『芋分類学』
『赤猫亭、芋で世界観管理してる』
などが流れている。
アルトは額を押さえた。
「世界観管理するな、芋で」
「結果的にはされています」
「本当に嫌だな」
ミアは胸を張った。
「芋、すごい」
「そうだな」
もう否定しなかった。
ブルーノが画面を閉じる。
「急かす声は読まないで済みました」
「それでいい」
読むことでも近づく。
なら、読まない日があっていい。
今日はそういう日だ。
◇
レオンからの連絡は、午後に来た。
《鳴らした》
またそれだけ。
アルトは返信する。
《一回か》
《一回》
《水は》
《飲んだ》
同じ流れ。
だが、今日はもう一文来た。
《音が少し違った》
アルトは画面を見る。
《悪い方か》
少し間。
《分からない》
分からない。
それは正しい。
分からないものを、無理に良い悪いへ分けない。
アルトは返信する。
《なら今日は一回で止めろ》
《何度も鳴らすな》
既読。
《分かった》
少しして、もう一文。
《一回で止めるのは難しい》
アルトは小さく息を吐いた。
分かる気がした。
音が返ると、もう一度鳴らしたくなる。
確かめたくなる。
自分がそこにいるか。
戻れるか。
まだ大丈夫か。
でも、鳴らしすぎると近づく。
見すぎるのと同じだ。
アルトは返信する。
《止めるのも手順だ》
少し考えて、もう一文。
《できなければ、水を飲め》
既読。
返事。
《やってみる》
今日は、分かった、ではなかった。
やってみる。
小さいが、自分で動く言葉だった。
アルトは端末を置いた。
レオンは、まだ赤猫亭には来ていない。
だが、遠い場所で自分の音を持ちはじめている。
その音も、固まらせてはいけないのかもしれない。
◇
夕方、マルタは隅の机の帰還芋を持ち上げた。
ミアが飛び上がりそうになる。
「食べる!?」
「食べない」
「じゃあ何?」
「場所を変える」
「帰還芋、動くの?」
「芋だから動かないよ。動かすんだよ」
マルタは芋を布ごと持ち、机の反対側へ移した。
金属片も少し離す。
水は、ミナが新しく替える。
黒パンの欠片は捨てるのではなく、普通の皿へ移して、鳥にやる用にする。
塩は厨房へ戻す。
鈴は机の端から、少しだけ戸口に近い棚へ移した。
隅の机が、少し空いた。
アルトはその机を見る。
空いた。
でも、消えたわけではない。
入口が薄くなったような気がした。
いいことなのか、悪いことなのかは分からない。
ルナは言った。
「薄くなりました」
撤回しない。
今日は、そのまま言う。
「入口がか」
「はい」
「危ないか」
「固まるよりは、戻りやすいです」
入口近くにいたガルムが、扉の方を見た。
それから隅の机を見る。
しばらく何も言わなかった。
やがて、一度だけ頷いた。
「通りにくくなった」
低い声だった。
アルトは振り返る。
「悪い意味か」
「違う」
ガルムは短く答えた。
「勝手には、通りにくい」
それならいい。
たぶん、いい。
マルタが頷く。
「机は机に戻しておかないとね」
ガルドが机を叩く。
こつ。
いつもと違う音。
軽い。
赤猫亭の机の音だった。
◇
夜。
アルトは二階へ上がらなかった。
客間の前にも行かない。
こつ、と叩いて確認もしない。
今日は、そこを変える。
毎晩同じことをしすぎた。
同じ形は、固まる。
入口だけではない。
手順も、固まりすぎると扉に近づくのかもしれない。
だから、今日は一階で寝る。
隅の机ではない。
入口の前でもない。
厨房に近い長椅子。
マルタが毛布を一枚投げてよこした。
「風邪ひくんじゃないよ」
「店の中だぞ」
「店の中でもひく時はひく」
「はい」
素直に毛布をかぶった。
ミアは少し楽しそうだった。
「お泊まり?」
「住んでるだろ」
「一階お泊まり」
「何だそれ」
「楽しそう」
「楽しくはない」
アルトは水を飲んだ。
端末は棚。
手帳は布の中。
金属片は隅の机ではなく、今日はマルタが決めた場所にある。
芋も動いた。
鈴も動いた。
床の合図も、今日は使わない。
ルナは二階の客間にいる。
確認しない。
確認しないことも、今日の手順だ。
下の階で鍋は鳴らない。
もう片づけられている。
その代わり、厨房の奥で水が一滴落ちた。
ぽた。
音がした。
鍋ではない。
床でもない。
金属でもない。
鈴でもない。
水の音。
アルトは目を開けた。
ぽた。
もう一度。
白い場所には、水の音もなかった。
赤猫亭には、ある。
鈴は鳴らない。
床も鳴らない。
金属片も鳴らない。
鍋も鳴らない。
でも、水が落ちる。
ぽた。
今日は、その音でいい。
灯りは落とさなかった。
厨房の小さな火だけが残っている。
アルトはその明かりを見ながら、横になった。
入口が固まる前に、動かす。
手順が固まる前に、変える。
戻る場所は、同じ形で止まっている場所ではない。
使われて、動いて、片づけられて、また散らかる。
そういう場所だ。
赤猫亭は、今日も場所だった。
扉ではない。
まだ、入口でもある。
そして店でもある。
アルトは目を閉じた。
白い扉は、まだ開けない。
でも、開けないまま動くことはできた。
ぽた。
水の音がした。
その音で、今日は眠れそうな気がした。




