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第83話 朝が来る前に鈴が鳴った

 鍋が鳴る前に、鈴が鳴った。


 ちりん。


 小さな音だった。


 軽い。


 店の戸口に誰かが触れた時のような音。


 だが、まだ朝ではない。


 赤猫亭は閉まっている。


 マルタの足音もない。


 厨房の火も入っていない。


 スープの匂いもない。


 それなのに、鈴だけが鳴った。


 アルトは目を開けた。


 寝台の上。


 部屋は薄暗い。


 窓の外はまだ青くもなっていない。


 夜の端が少し残っている時間。


 もう一度、鈴が鳴るかと思った。


 鳴らない。


 静かだった。


 静かすぎる。


 アルトは起き上がりかけて、止まった。


 すぐ見に行くな。


 見ることも近づく。


 急かす声を読まない。


 見ないことも選択。


 昨日、そう決めたばかりだ。


 鈴の音は、入口の音。


 まだ正体は分からない。


 だが、入口の音なら、飛びついてはいけない。


 アルトは水を飲んだ。


 小さく息を吐く。


 それから、寝台の木枠を一回叩いた。


 こつ。


 少し遅れて、廊下から一回返る。


 こつ。


 いる。


 それで、体が少し戻った。


 アルトは立ち上がる。


 端末は見ない。


 手帳も開かない。


 まず、床。


 次に水。


 その次に、人。


 扉ではない。


 白い扉でもない。


 赤猫亭の扉だ。


 ◇


 階段を下りると、マルタがすでに起きていた。


 厨房ではなく、店の真ん中に立っている。


 手には火打ち道具も鍋もない。


 ただ、鈴を見ていた。


 隅の机の端。


 昨日置いた小さな鈴。


 昔、戸口に吊っていたもの。


 それが、机の上で静かにしている。


「起きたかい」


 マルタが言った。


「あんたも聞いたか」


「聞いたよ」


「鳴らしたか」


「鳴らしてない」


 短い答え。


 だからこそ、疑う余地がなかった。


 アルトは鈴に近づきすぎないところで止まる。


 隅の机には、芋がある。


 布をかけられたまま。


 金属片。


 水。


 塩。


 黒パンの欠片。


 空の椀。


 鈴。


 机の上が、少し賑やかになっている。


 だが、楽しい賑やかさではない。


 戻るためのものが増えすぎている。


 マルタが低く言う。


「戸口に吊ってた頃はね、誰かが来たら鳴った」


「ああ」


「今は、誰も来ちゃいない」


「だろうな」


「でも、入口は鳴った」


 その言い方で、アルトは鈴を見る。


 誰かが来たのではない。


 入口が鳴った。


 マルタはそう言った。


 厨房の奥から、ガルドが出てきた。


 いつからいたのか分からない。


 寝ていない顔をしている。


「聞こえたか」


 アルトが聞く。


「聞こえた」


「何だと思う」


「入口だ」


 即答だった。


 マルタと同じ。


 ガルドは机に近づき、鈴には触れずに周囲を見た。


 床。


 机の脚。


 金属片。


 芋。


 鈴。


 全部を見てから、言う。


「床とは違う」


「床は返事か」


「ああ」


「鈴は?」


「来た、ではない」


 ガルドは少しだけ考えた。


「来られる、だ」


 店の空気が冷える。


 外はまだ暗い。


 扉は閉まっている。


 誰も来ていない。


 だが、来られる。


 そういう音。


 アルトは喉の奥が乾くのを感じた。


「誰が」


「そこまでは知らん」


 ガルドは床を軽く叩く。


 こつ。


 床は普通に鳴る。


「これは、いるか」


 次に、金属片を指す。


「これは、いた者」


 鍋の方を見る。


「これは、生きている音」


 そして鈴を見る。


「これは、入口」


 雑に見える。


 でも、必要な整理だった。


 鈴は、入口の音。


 床は、赤猫亭の返事。


 金属片は、誰かがいた印。


 鍋は、生活。


 全部が同じではない。


 同じにしてはいけない。


 ◇


 ルナは、階段の途中に立っていた。


 いつからそこにいたのか分からない。


 水のコップは持っていない。


 珍しい。


 いや、まずい。


 アルトはすぐに言った。


「水」


 ルナは一瞬遅れて頷く。


「はい」


 ミナがまだ起きていない。


 マルタが厨房へ行き、コップに水を入れて持ってきた。


 ルナはそれを受け取る。


 一口飲む。


 もう一口飲む。


 それから、鈴を見た。


「私は、その音を知っています」


 撤回しなかった。


 言いすぎた顔もしなかった。


 ただ、言った。


 店の中が静かになる。


 アルトは聞き返す。


「鈴の音をか」


「はい」


「旧待機区画で?」


「違います」


 ルナは首を横に振った。


「神界の配信でもありません」


「じゃあ、どこで」


 ルナは水のコップを持つ手に力を入れた。


 でも、逃げなかった。


「入口ができた時です」


「入口?」


「誰かが来た時ではありません。誰かが、来られるようになった時」


 ガルドが少しだけ目を細める。


 マルタは黙っている。


 アルトは言葉を待った。


 今日は、ルナが撤回しない。


 なら、待つ。


 ルナは続けた。


「昔、神々は扉を作ったのではありません。入口を用意しました。扉は、あとから名前をつけられたものです」


 近い。


 かなり近い。


 だが、ルナは止まらない。


「入口は、最初に音で分かります。見えるより先に、鳴ります」


 アルトは鈴を見る。


 ちりん。


 音の記憶が耳に残る。


 誰も来ていないのに鳴った鈴。


 誰かが来られるようになった音。


「それが今、ここで鳴った」


 アルトが言う。


「はい」


「誰かが来られるようになったってことか」


「可能性です」


 ルナは一度そこで言葉を切った。


 だが、撤回はしなかった。


「ただし、誰かとは限りません」


「何か、か」


「はい」


 赤猫亭の扉は閉まっている。


 旧待機区画の白い扉も開けていない。


 なのに、入口だけが鳴った。


 アルトはゆっくり息を吐く。


「今日は、朝が来る前から面倒だな」


 誰も笑わなかった。


 ミアがいれば、たぶん何か言った。


 だが、ミアはまだ寝ている。


 芋の見張り役が寝ている時間に、鈴は鳴った。


 それも少し嫌だった。


 ◇


 ミアが起きてきた時、すでに赤猫亭の空気はいつもと違っていた。


 朝食の匂いはある。


 鍋も火にかかっている。


 だが、鈴の音が先に来たせいで、朝が少し後から追いついてきたような感じがした。


 ミアは眠そうな目で芋を見る。


 次に鈴を見る。


「鈴、鳴った?」


「鳴った」


 アルトが答える。


「私、寝てた」


「知ってる」


「芋は?」


「無事だ」


 ミアはすぐ芋に近づく。


 布を確認する。


 金属片を確認する。


 鈴を見て、少し考える。


「鈴も見張る?」


「できるか」


「芋より難しい」


「だろうな」


「でも、入口なら見張る」


 ミアは鈴の前にも少し立った。


 芋と鈴。


 かなり忙しそうだ。


 マルタがスープを出す。


「まず食べな」


「鈴が鳴ったのに?」


 アルトが聞く。


「鈴が鳴ったからだよ」


 マルタはいつも通り言う。


「入口が鳴って、腹が空いて、飯を食わないなら、何のための店だい」


 反論できない。


 アルトは座った。


 いつもの朝食ではない。


 でも、朝食には戻る。


 型は崩れた。


 それでも、戻れる。


 それが今日の救いだった。


 ◇


 ブルーノが起きてきたのは、朝食の途中だった。


 寝癖がついている。


 少し珍しい。


 いつもなら先に紙を広げている。


 今日は違う。


 鈴が先だった。


 紙は後。


「すみません、遅れました」


「寝てたのか」


「少し」


「寝られたならいい」


 ブルーノは一瞬、変な顔をした。


 それから、小さく頷いた。


「はい」


 アルトは鈴の件を話した。


 ブルーノは紙を出した。


 ただし、今日はすぐ書かない。


 鈴を見る。


 床を見る。


 金属片を見る。


 鍋を見る。


 それからようやく書いた。


【床:返事】


【金属片:印】


【鍋:生活】


【鈴:入口】


 四行。


 かなり分かりやすい。


 ブルーノはさらに書く。


【鈴=誰かが来た音ではなく、来られる状態になった音の可能性】


 アルトはその紙を見る。


「今日は可能性で止めるのか」


「はい」


「断定しない?」


「断定すると、入口が固まりすぎます」


 ルナが頷く。


「入口は、固まりすぎると扉になります」


 その言葉に、全員が止まった。


 撤回はない。


 ルナはそのまま水を飲む。


 アルトは聞く。


「それも知っているのか」


「はい」


「言えるか」


「一つだけ」


 ルナはコップを置いた。


「入口は、柔らかいうちは戻れます。扉になると、開けるか閉めるかになります」


 アルトは白い扉を思い出す。


 旧待機区画の奥にあった、白い扉。


 閉じていることを示すための形。


 帰還準備。


 未完了。


 帰還先、未成立。


 呼び方になる前のもの。


 入口が固まったもの。


 白い扉。


 全部をつなげるな。


 でも、もうつながりかけている。


 アルトはスープを飲んだ。


 熱い。


 まだ戻れる。


 ◇


 神々のコメント欄は、朝の時点では開かなかった。


 ブルーノがそう決めた。


「鈴の音を神々に渡したくありません」


 珍しく強い言い方だった。


 アルトは頷いた。


「いい判断だ」


「はい」


「芋で流すのも今日はなし?」


「今日の鈴は、流す対象ではなく、守る対象です」


 ブルーノは紙を閉じる。


 それも、型から外れていた。


 いつもなら、神々の流れを見て、危険語を確認して、芋で流す。


 今日は見ない。


 読まないことも選択。


 その選択を、本当に使った。


 ミアが少し残念そうにする。


「神様、芋見ない?」


「今日は見せない」


「芋、人気なのに」


「人気より大事なことがある」


「芋より?」


「……今日はな」


 ミアは少し考えて、頷いた。


「じゃあ鈴も守る」


「頼む」


「芋と鈴」


「忙しいな」


「忙しい」


 ミアは真剣だった。


 ◇


 昼前、レオンから連絡が来た。


 いつもの短文ではなかった。


《鳴らした》


 それだけ。


 水を飲んだ、でも、横になった、でもない。


 鳴らした。


 アルトはしばらく画面を見た。


 レオンの剣の留め具。


 昨日、一回だけ鳴らせと言った。


 その音。


 レオンは、今日も鳴らした。


 アルトは返信する。


《一回か》


 既読。


《一回》


《水は》


 既読。


《飲んだ》


《それでいい》


 送信。


 少しして、返事。


《鍋の音とは違う》


 アルトは金属片を見る。


 隅の机。


 芋の横。


 鈴とは反対側。


 金属片は、入口の音ではない。


 生活の音でもない。


 床の返事でもない。


 誰かの印。


 そこにいる者の音。


 戻ろうとする者の音。


 アルトは返信する。


《違っていい》


《お前の音で戻れ》


 既読。


 返事はすぐには来なかった。


 少しして、一文。


《分かった》


 助かる、ではなかった。


 分かった。


 それも進んでいる気がした。


 助けられるだけではなく、自分の音を持つ。


 レオンはまだ赤猫亭に来ていない。


 でも、少しずつ自分の場所を作っている。


 遠い場所で。


 鍋の音がなくても。


 ◇


 午後、ガルドは鈴と床を調べた。


 今日、旧待機区画は見ない。


 白い扉も開けない。


 音声ログも聞かない。


 黒い染みも見ない。


 その代わり、赤猫亭の入口を調べる。


 机の上の鈴。


 戸口。


 床。


 隅の机。


 階段。


 ガルドは順番に叩き、耳を澄ませる。


 こつ。


 こん。


 かん。


 ちりん。


 音が増えた。


 だが、混ざってはいない。


「鈴は戸口に近い」


 ガルドが言う。


「机の上にあるのに?」


「ああ」


「どういうことだ」


「置かれた場所より、元の役目を覚えている」


 マルタが少し目を細める。


「昔、戸口で鳴ってたからかい」


「そうだ」


 ガルドは鈴を見た。


「こいつは、入口を知らせる道具だった。だから、入口に反応する」


 アルトは鈴を見る。


 道具には役目が残る。


 金属片にも。


 床にも。


 鍋にも。


 それぞれ違う。


 だから、音が違う。


 だから、意味も違う。


 ブルーノが紙に書く。


【道具は元の役目を覚えている】


 その下。


【鈴:入口に反応】


【床:赤猫亭側の返事】


【金属片:個人の印】


【鍋:生活の継続】


 少しだけ未解決が片づいた気がした。


 完全ではない。


 だが、全部が同じ謎ではなくなった。


 それだけで息がしやすい。


 ◇


 夕方、鈴がもう一度鳴った。


 ちりん。


 今度は、全員が聞いた。


 ミアが芋と鈴の前で硬直する。


「鳴った」


「ああ」


 アルトは立ち上がらない。


 マルタも厨房から出てこない。


 ガルドが床に手を置く。


 ルナが水を飲む。


 ブルーノは紙を開かない。


 全員が、昨日までより一拍遅く動いた。


 すぐ反応しない。


 それも手順だ。


 少しして、赤猫亭の戸口が鳴った。


 こん。


 誰かが叩いた音。


 今度は本当に誰かがいる。


 ガルムが入口へ向かう。


 扉を開ける。


 立っていたのは、近所の子どもだった。


 手に小さな籠を持っている。


「マルタさんいる?」


「いるよ」


 マルタが声を返す。


 子どもは店に入り、籠を差し出した。


「お母さんが、芋のお礼って」


「芋のお礼?」


 ミアが反応した。


 籠の中には、小さな芋がいくつか入っていた。


 マルタが笑う。


「ありがとね」


「うん」


 子どもは隅の机を見た。


「まだ食べてない」


「まだだね」


「じゃあ増えた」


 子どもは当然のように言った。


 ミアが目を丸くする。


「芋、増えた」


「増やすな」


 アルトが言う。


 だが、誰も本気では止めなかった。


 鈴は、誰かが来られるようになった時に鳴る。


 今回は、本当に子どもが来た。


 危険ではない。


 少なくとも、今は。


 だが、鈴が先に鳴った。


 入口が先に知った。


 それは、やはり普通ではない。


 でも、来たのは子どもで、籠の中身は芋だった。


 赤猫亭は本当に時々、よく分からない形で強い。


 ◇


 夜。


 今日は旧待機区画に触れなかった。


 白い扉も開けなかった。


 黒い染みも見なかった。


 音声ログも聞かなかった。


 それでも、進んだ。


 鈴は入口の音。


 床は返事。


 金属片は印。


 鍋は生活。


 全部が同じではない。


 それが分かっただけで、今日は十分だった。


 隅の机には、芋が増えた。


 布をかけた芋の横に、籠の芋。


 ミアはかなり満足そうだった。


「芋、仲間」


「芋に仲間とかあるのか」


「ある」


「そうか」


 マルタが籠から一つ取り、別の皿に置いた。


「これは明日の飯にするよ」


 ミアが慌てる。


「帰還芋じゃないの?」


「全部を帰還芋にしたら飯が作れないだろ」


「それは困る」


「だろう」


 帰還芋と普通の芋。


 そこも分けるらしい。


 赤猫亭は、変なところで細かい。


 二階へ上がる。


 客間の前で一回叩く。


 こつ。


 中から一回返る。


 こつ。


 いる。


 自分の部屋に戻る。


 下の階で鍋が鳴る。


 かん。


 隅の机の方から、鈴が鳴る。


 ちりん。


 アルトはすぐには動かない。


 少し待つ。


 戸口は鳴らない。


 誰も来ない。


 床が一回鳴る。


 こつ。


 いるか。


 アルトは木枠を叩く。


 こつ。


 いる。


 鈴はそれきり鳴らなかった。


 誰かが来られる。


 だが、まだ来ない。


 そういう夜もある。


 アルトは水を飲んだ。


 横になる。


 白い扉は、まだ開けない。


 ただ、入口の音が分かった。


 分かったものが一つ増えた。


 未解決はまだ多い。


 それでも、全部が同じ闇ではなくなった。


 灯りを落とす。


 暗くなる前、鍋の音を思い出す。


 かん。


 床の音。


 こつ。


 金属片の音。


 かん。


 鈴の音。


 ちりん。


 赤猫亭には、音が多い。


 白い場所には、音がなかった。


 その差は、まだこちらに残っていた。


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