表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
82/96

第82話 見ることも近づく

 紙の上に、その一行は残っていた。


【黒い染みを見る=白い扉へ近づく可能性】


 可能性。


 断定ではない。


 逃げ道でもある。


 だが、紙の上に置いてあるだけで、朝から目に入る。


 アルトはスープを飲んだ。


 熱い。


 今日も熱い。


 熱いのに、紙の一行はなかなか遠ざからない。


「見るだけでも近づくって、ずるいね」


 ミアが言った。


 隅の机の前にいる。


 芋はまだある。


 布をかけられたまま。


 その横に金属片。


 水。


 塩。


 黒パン。


 空の椀。


 見張り役のミア。


 いつものように見えて、もう普通ではない。


「ずるいな」


 アルトは答えた。


「見ただけなのに?」


「見ただけなのに」


「じゃあ見なければいい?」


「それも選択だ」


 ミアは芋を見た。


「食べないのも選択?」


「今はな」


「我慢、選択」


「偉いぞ」


「知ってる」


 ミアは少し誇らしげだった。


 その雑な誇りが、少しだけありがたい。


 マルタが鍋を混ぜながら言う。


「見るか見ないかを決められるなら、まだましだよ」


「まし、で済ませる話か」


「済まない話でも、ましな時はましだ」


「強いな」


「今さらだね」


 マルタは鍋を鳴らした。


 かん。


 赤猫亭の音。


 朝の音。


 白い場所にはなかった音。


 アルトはその音を聞いて、水を飲んだ。


 今日は旧待機区画を見ない。


 そう決めてから、朝が始まった。


 ◇


 ブルーノは端末を見ていた。


 直接、旧待機区画を開いてはいない。


 参照状態だけ。


 つまり、扉の前に立たずに、扉までの距離を測るようなものだ。


 嫌な作業だった。


 紙には新しい項目が増えている。


【参照深度】


【白い扉までの距離】


【黒い染み確認後の変化】


【未確定】


 未確定が増えている。


 赤猫亭には最近、未確定が多い。


「どうだ」


 アルトが聞く。


 ブルーノは少しだけ眉を寄せた。


「良くはありません」


「悪いのか」


「悪い、までは言い切れません」


「便利な言い方だな」


「便利ではありません」


「みんな言うな、それ」


 ブルーノは紙を指す。


「参照深度が、前回より浅く始まっています」


「浅いならいいんじゃないのか」


「いえ」


 ブルーノは首を横に振った。


「こちらが近づかなくても、向こうの表示がこちらに近づいています」


 アルトは黙った。


 近づかなくても、近づいている。


 嫌な言い方だ。


「黒い染みを見たせいか」


「可能性です」


「また可能性か」


「はい。断定はできません」


 ブルーノは少し迷ってから、紙に書いた。


【見たものが、次の距離を変える可能性】


 アルトはそれを見る。


「見たものが、次の距離を変える」


「はい」


「じゃあ、見る順番が大事になるな」


「非常に」


 ルナが水を飲んだ。


 一口。


 もう一口。


 今日は朝から三杯目だ。


 ミアがすぐに言う。


「女神、水多い」


「多めです」


「許可」


「ありがとうございます」


 ミアは頷いた。


 ルナは少しだけ笑う。


 そして、紙を見る。


「見ることは、呼ぶことに似ています」


 言ってから、ルナは口を閉じた。


 店の空気が硬くなる。


 アルトは聞きたい。


 どこが似ているのか。


 誰を呼ぶのか。


 呼び方になる前のものと関係があるのか。


 だが、聞かない。


 今日はそういう日だ。


「近いな」


 アルトが言う。


「はい」


 ルナは頷く。


「今のは、近すぎました」


「じゃあ紙に置くか?」


 ブルーノが聞いた。


 ルナは少し考えた。


「置いてください。ただし、断定ではなく」


 ブルーノが書く。


【見ることは、呼ぶことに似ている可能性】


 可能性。


 また一つ増えた。


 だが、頭の中だけに置くよりはましだ。


 ◇


 神々のコメント欄は、今日も少しだけ確認した。


 配信はしていない。


 だが、昨日の余波は続いている。


『芋まだ?』


『白い部屋は今日なし?』


『黒い染みの続き見たい』


『扉開けないの?』


『焦らすな』


『帰還芋の布かわいい』


『こつ考察班、三回は警告説』


『警告って何の?』


『芋食え』


 ブルーノは画面を見て、少し険しい顔をした。


「扉を開けないの、というコメントが増えています」


「神々に急かされるのが一番嫌だな」


「同感です」


「消せるか」


「全部は難しいです」


 ミナが静かに言う。


「急かす声を見ない、という手順も必要かもしれません」


「神々のコメントを見ない?」


「はい。見ることで近づくなら、読むことでも近づく可能性があります」


 ブルーノの手が止まる。


 アルトも黙った。


 見ること。


 読むこと。


 聞くこと。


 呼ぶこと。


 全部が近づいていく。


 嫌な並びだ。


 ブルーノはゆっくり紙に書く。


【急かす声を読まない】


 さらに。


【読まないことも選択】


 アルトはその一行を見た。


「どんどん増えるな」


「増えます」


 ブルーノは正直に言った。


「でも、必要です」


「だろうな」


 ミアがコメント欄を少し覗いて言う。


「芋食えって」


「まだだ」


「でも神様が言ってる」


「神様よりマルタの方が強い」


 ミアはすぐ納得した。


「それはそう」


 マルタが鍋の前で笑った。


「分かってるじゃないか」


 神々より、マルタの方が強い。


 赤猫亭では、だいたい正しい。


 ◇


 昼前、レオンから連絡が来た。


《水を飲んだ》


 それから。


《横になった》


 それから少し遅れて。


《夢の中で、音がなかった》


 アルトは画面を見たまま止まった。


 音がなかった。


 旧待機区画と同じ言い方。


 嫌なほど近い。


 聞きたくなる。


 どんな夢だった。


 どこだった。


 白かったのか。


 扉はあったのか。


 黒い染みはあったのか。


 でも、昨日書いた。


【話す準備ができるまで、聞かない】


 アルトは水を飲んだ。


 一口。


 足りない気がして、もう一口。


 それから返信する。


《水を飲め》


 少し考える。


《音がない夢なら、起きてから音を聞け》


 さらに。


《無理に思い出すな》


 送信。


 既読。


 返事は、すぐには来なかった。


 アルトは端末を閉じない。


 閉じたいが、待った。


 少しして、返事が来る。


《鍋の音がない》


 アルトは小さく息を吐いた。


 レオンの場所には、赤猫亭の鍋はない。


 当たり前だ。


 当たり前なのに、今は少し痛い。


 アルトは返信する。


《水を置け》


《近くに金属はあるか》


 既読。


 少し間。


《剣の留め具ならある》


 アルトは金属片を見る。


 隅の机。


 芋の横。


 あの金属片とは違う。


 だが、音は作れる。


《軽く鳴らせ》


《一回だけでいい》


 返事はしばらく来なかった。


 赤猫亭の鍋が鳴る。


 かん。


 少しして、端末が震えた。


《鳴った》


 それだけ。


 アルトは返信する。


《それでいい》


 少し考え、もう一文。


《音がある場所に戻れ》


 既読。


 返事。


《助かる》


 二度目の助かる。


 アルトは端末を置いた。


 レオンはまだ赤猫亭に来ていない。


 でも、少しだけ参加している。


 音で。


 水で。


 聞かないことで。


 それで今は十分だった。


 ◇


 午後、白い扉について話した。


 開けないための話だ。


 開けるためではない。


 そこを最初に確認した。


 ブルーノは紙を出す。


【白い扉を開ける前の条件】


 アルトは嫌そうな顔をした。


「開ける前提に見える」


「開けないためにも、条件が必要です」


「便利な理屈だな」


「便利ではありません」


「もう言わなくていい」


 紙にはまだ空白が多い。


 ミナが最初に言った。


「止める役が必要です」


 アルトは頷く。


「三回鳴ったら止めるだろ」


「それでも止まらない時です」


 店の空気が少し重くなる。


 それでも止まらない時。


 アルトが、あるいは誰かが、開けたくなった時。


 向こうに近づきすぎた時。


 手順を忘れた時。


 その時、誰が止めるのか。


 マルタが即答した。


「私だね」


「強いな」


「強いからね」


「否定しない」


 ミナが静かに言う。


「マルタさんは声で止める役がいいと思います」


「声?」


「はい。帰ってきた後に聞く声でもありますから」


 マルタは少し考えた。


「じゃあ、声は私がやる」


 ブルーノが書く。


【止める声:マルタ】


 ガルドが言う。


「床は俺が見る」


【床の合図確認:ガルド】


 ミナが言う。


「水は私が」


【水:ミナ】


 ミアが言う。


「芋」


「お前は芋だな」


【芋の見張り:ミア】


 ルナは少し迷った。


 アルトが先に言う。


「お前は水を飲め」


「でも」


「役割じゃない。手順だ」


 ルナは少しだけ黙った。


 そして頷いた。


【ルナ:水を飲む】


 ブルーノが自分で書く。


【記録:ブルーノ】


 ガルムが低く言う。


「入口」


【入口警戒:ガルム】


 残るのは、アルト。


 誰もすぐには言わなかった。


 アルトは紙を見る。


「俺は何だ」


 マルタが言った。


「戻る役だよ」


「戻る役?」


「あんたが戻らないと、話にならないだろ」


 雑だ。


 だが、正しい。


 ブルーノが紙に書く。


【アルト:戻る役】


 アルトはそれを見て、少しだけ嫌な顔をした。


「主人公みたいだな」


「主人公では?」


 ミアが言った。


「やめろ」


「何で?」


「そういうのは言うな」


 ミアは不思議そうだったが、芋に戻った。


 助かった。


 ◇


 夕方、赤猫亭の隅の机に、また一つものが増えた。


 小さな鈴。


 マルタが奥から出してきた。


「昔、戸口に吊ってたやつだよ」


 少し錆びている。


 鳴らすと、ちりん、と小さな音がした。


 金属片のかんとは違う。


 鍋のかんとも違う。


 床のこつとも違う。


 軽い音。


 店に誰かが入ってきた時の音。


「入口に使ってたものを、入口の前に置くのか」


 アルトが言う。


「分かりやすいだろ」


「分かりやすいのは強いな」


「そうだよ」


 鈴は、芋の横には置かない。


 少し離した。


 入口の音。


 戻る音。


 警告の音。


 混ざりすぎると危ない。


 ガルドが場所を決めた。


「ここだ」


 隅の机の端。


 金属片とは反対側。


 鈴が小さく鳴る。


 ちりん。


 ミアが目を丸くする。


「かわいい」


「かわいいで済むならいいんだけどな」


「かわいいは大事」


 それも、少し正しい。


 ◇


 夜。


 今日は旧待機区画を見なかった。


 音声ログも聞かなかった。


 黒い染みも見なかった。


 白い扉も開けなかった。


 その代わり、白い扉を開ける前の条件を決めた。


 止める声。


 床。


 水。


 芋。


 記録。


 入口。


 ルナの水。


 アルトは戻る役。


 変な役だ。


 でも、今はそれでいい。


 二階へ上がる。


 客間の前で一回叩く。


 こつ。


 中から一回返る。


 こつ。


 いる。


 自分の部屋に戻る。


 下の階で鍋が鳴る。


 かん。


 少しして、隅の机の方から小さな音がした。


 ちりん。


 鈴。


 鳴らしたのは誰だ。


 ミアはもう寝ているはずだ。


 マルタは厨房。


 ガルドは下にいない。


 アルトは動かなかった。


 今日の手順。


 急かす声を読まない。


 見ることも近づく。


 見ないことも選択。


 だから、すぐには見に行かない。


 水を飲む。


 座る。


 待つ。


 少しして、床が一回鳴った。


 こつ。


 いるか。


 アルトは木枠を叩く。


 こつ。


 いる。


 それから、鈴は鳴らなかった。


 アルトは横になる。


 白い扉はまだ開けない。


 見ないことも、こちらが選んだことだ。


 目を閉じる。


 レオンの言葉を思い出す。


 鍋の音がない。


 なら、別の音で戻ればいい。


 赤猫亭の音。


 レオンの留め具の音。


 床の音。


 鈴の音。


 場所は、音で少しずつ形になる。


 それが正しいのかは分からない。


 でも、白い場所には音がなかった。


 なら、今は音がある方へ戻る。


 下の階で、鍋が小さく鳴った。


 かん。


 今日も、こちらの音はまだ残っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ