第82話 見ることも近づく
紙の上に、その一行は残っていた。
【黒い染みを見る=白い扉へ近づく可能性】
可能性。
断定ではない。
逃げ道でもある。
だが、紙の上に置いてあるだけで、朝から目に入る。
アルトはスープを飲んだ。
熱い。
今日も熱い。
熱いのに、紙の一行はなかなか遠ざからない。
「見るだけでも近づくって、ずるいね」
ミアが言った。
隅の机の前にいる。
芋はまだある。
布をかけられたまま。
その横に金属片。
水。
塩。
黒パン。
空の椀。
見張り役のミア。
いつものように見えて、もう普通ではない。
「ずるいな」
アルトは答えた。
「見ただけなのに?」
「見ただけなのに」
「じゃあ見なければいい?」
「それも選択だ」
ミアは芋を見た。
「食べないのも選択?」
「今はな」
「我慢、選択」
「偉いぞ」
「知ってる」
ミアは少し誇らしげだった。
その雑な誇りが、少しだけありがたい。
マルタが鍋を混ぜながら言う。
「見るか見ないかを決められるなら、まだましだよ」
「まし、で済ませる話か」
「済まない話でも、ましな時はましだ」
「強いな」
「今さらだね」
マルタは鍋を鳴らした。
かん。
赤猫亭の音。
朝の音。
白い場所にはなかった音。
アルトはその音を聞いて、水を飲んだ。
今日は旧待機区画を見ない。
そう決めてから、朝が始まった。
◇
ブルーノは端末を見ていた。
直接、旧待機区画を開いてはいない。
参照状態だけ。
つまり、扉の前に立たずに、扉までの距離を測るようなものだ。
嫌な作業だった。
紙には新しい項目が増えている。
【参照深度】
【白い扉までの距離】
【黒い染み確認後の変化】
【未確定】
未確定が増えている。
赤猫亭には最近、未確定が多い。
「どうだ」
アルトが聞く。
ブルーノは少しだけ眉を寄せた。
「良くはありません」
「悪いのか」
「悪い、までは言い切れません」
「便利な言い方だな」
「便利ではありません」
「みんな言うな、それ」
ブルーノは紙を指す。
「参照深度が、前回より浅く始まっています」
「浅いならいいんじゃないのか」
「いえ」
ブルーノは首を横に振った。
「こちらが近づかなくても、向こうの表示がこちらに近づいています」
アルトは黙った。
近づかなくても、近づいている。
嫌な言い方だ。
「黒い染みを見たせいか」
「可能性です」
「また可能性か」
「はい。断定はできません」
ブルーノは少し迷ってから、紙に書いた。
【見たものが、次の距離を変える可能性】
アルトはそれを見る。
「見たものが、次の距離を変える」
「はい」
「じゃあ、見る順番が大事になるな」
「非常に」
ルナが水を飲んだ。
一口。
もう一口。
今日は朝から三杯目だ。
ミアがすぐに言う。
「女神、水多い」
「多めです」
「許可」
「ありがとうございます」
ミアは頷いた。
ルナは少しだけ笑う。
そして、紙を見る。
「見ることは、呼ぶことに似ています」
言ってから、ルナは口を閉じた。
店の空気が硬くなる。
アルトは聞きたい。
どこが似ているのか。
誰を呼ぶのか。
呼び方になる前のものと関係があるのか。
だが、聞かない。
今日はそういう日だ。
「近いな」
アルトが言う。
「はい」
ルナは頷く。
「今のは、近すぎました」
「じゃあ紙に置くか?」
ブルーノが聞いた。
ルナは少し考えた。
「置いてください。ただし、断定ではなく」
ブルーノが書く。
【見ることは、呼ぶことに似ている可能性】
可能性。
また一つ増えた。
だが、頭の中だけに置くよりはましだ。
◇
神々のコメント欄は、今日も少しだけ確認した。
配信はしていない。
だが、昨日の余波は続いている。
『芋まだ?』
『白い部屋は今日なし?』
『黒い染みの続き見たい』
『扉開けないの?』
『焦らすな』
『帰還芋の布かわいい』
『こつ考察班、三回は警告説』
『警告って何の?』
『芋食え』
ブルーノは画面を見て、少し険しい顔をした。
「扉を開けないの、というコメントが増えています」
「神々に急かされるのが一番嫌だな」
「同感です」
「消せるか」
「全部は難しいです」
ミナが静かに言う。
「急かす声を見ない、という手順も必要かもしれません」
「神々のコメントを見ない?」
「はい。見ることで近づくなら、読むことでも近づく可能性があります」
ブルーノの手が止まる。
アルトも黙った。
見ること。
読むこと。
聞くこと。
呼ぶこと。
全部が近づいていく。
嫌な並びだ。
ブルーノはゆっくり紙に書く。
【急かす声を読まない】
さらに。
【読まないことも選択】
アルトはその一行を見た。
「どんどん増えるな」
「増えます」
ブルーノは正直に言った。
「でも、必要です」
「だろうな」
ミアがコメント欄を少し覗いて言う。
「芋食えって」
「まだだ」
「でも神様が言ってる」
「神様よりマルタの方が強い」
ミアはすぐ納得した。
「それはそう」
マルタが鍋の前で笑った。
「分かってるじゃないか」
神々より、マルタの方が強い。
赤猫亭では、だいたい正しい。
◇
昼前、レオンから連絡が来た。
《水を飲んだ》
それから。
《横になった》
それから少し遅れて。
《夢の中で、音がなかった》
アルトは画面を見たまま止まった。
音がなかった。
旧待機区画と同じ言い方。
嫌なほど近い。
聞きたくなる。
どんな夢だった。
どこだった。
白かったのか。
扉はあったのか。
黒い染みはあったのか。
でも、昨日書いた。
【話す準備ができるまで、聞かない】
アルトは水を飲んだ。
一口。
足りない気がして、もう一口。
それから返信する。
《水を飲め》
少し考える。
《音がない夢なら、起きてから音を聞け》
さらに。
《無理に思い出すな》
送信。
既読。
返事は、すぐには来なかった。
アルトは端末を閉じない。
閉じたいが、待った。
少しして、返事が来る。
《鍋の音がない》
アルトは小さく息を吐いた。
レオンの場所には、赤猫亭の鍋はない。
当たり前だ。
当たり前なのに、今は少し痛い。
アルトは返信する。
《水を置け》
《近くに金属はあるか》
既読。
少し間。
《剣の留め具ならある》
アルトは金属片を見る。
隅の机。
芋の横。
あの金属片とは違う。
だが、音は作れる。
《軽く鳴らせ》
《一回だけでいい》
返事はしばらく来なかった。
赤猫亭の鍋が鳴る。
かん。
少しして、端末が震えた。
《鳴った》
それだけ。
アルトは返信する。
《それでいい》
少し考え、もう一文。
《音がある場所に戻れ》
既読。
返事。
《助かる》
二度目の助かる。
アルトは端末を置いた。
レオンはまだ赤猫亭に来ていない。
でも、少しだけ参加している。
音で。
水で。
聞かないことで。
それで今は十分だった。
◇
午後、白い扉について話した。
開けないための話だ。
開けるためではない。
そこを最初に確認した。
ブルーノは紙を出す。
【白い扉を開ける前の条件】
アルトは嫌そうな顔をした。
「開ける前提に見える」
「開けないためにも、条件が必要です」
「便利な理屈だな」
「便利ではありません」
「もう言わなくていい」
紙にはまだ空白が多い。
ミナが最初に言った。
「止める役が必要です」
アルトは頷く。
「三回鳴ったら止めるだろ」
「それでも止まらない時です」
店の空気が少し重くなる。
それでも止まらない時。
アルトが、あるいは誰かが、開けたくなった時。
向こうに近づきすぎた時。
手順を忘れた時。
その時、誰が止めるのか。
マルタが即答した。
「私だね」
「強いな」
「強いからね」
「否定しない」
ミナが静かに言う。
「マルタさんは声で止める役がいいと思います」
「声?」
「はい。帰ってきた後に聞く声でもありますから」
マルタは少し考えた。
「じゃあ、声は私がやる」
ブルーノが書く。
【止める声:マルタ】
ガルドが言う。
「床は俺が見る」
【床の合図確認:ガルド】
ミナが言う。
「水は私が」
【水:ミナ】
ミアが言う。
「芋」
「お前は芋だな」
【芋の見張り:ミア】
ルナは少し迷った。
アルトが先に言う。
「お前は水を飲め」
「でも」
「役割じゃない。手順だ」
ルナは少しだけ黙った。
そして頷いた。
【ルナ:水を飲む】
ブルーノが自分で書く。
【記録:ブルーノ】
ガルムが低く言う。
「入口」
【入口警戒:ガルム】
残るのは、アルト。
誰もすぐには言わなかった。
アルトは紙を見る。
「俺は何だ」
マルタが言った。
「戻る役だよ」
「戻る役?」
「あんたが戻らないと、話にならないだろ」
雑だ。
だが、正しい。
ブルーノが紙に書く。
【アルト:戻る役】
アルトはそれを見て、少しだけ嫌な顔をした。
「主人公みたいだな」
「主人公では?」
ミアが言った。
「やめろ」
「何で?」
「そういうのは言うな」
ミアは不思議そうだったが、芋に戻った。
助かった。
◇
夕方、赤猫亭の隅の机に、また一つものが増えた。
小さな鈴。
マルタが奥から出してきた。
「昔、戸口に吊ってたやつだよ」
少し錆びている。
鳴らすと、ちりん、と小さな音がした。
金属片のかんとは違う。
鍋のかんとも違う。
床のこつとも違う。
軽い音。
店に誰かが入ってきた時の音。
「入口に使ってたものを、入口の前に置くのか」
アルトが言う。
「分かりやすいだろ」
「分かりやすいのは強いな」
「そうだよ」
鈴は、芋の横には置かない。
少し離した。
入口の音。
戻る音。
警告の音。
混ざりすぎると危ない。
ガルドが場所を決めた。
「ここだ」
隅の机の端。
金属片とは反対側。
鈴が小さく鳴る。
ちりん。
ミアが目を丸くする。
「かわいい」
「かわいいで済むならいいんだけどな」
「かわいいは大事」
それも、少し正しい。
◇
夜。
今日は旧待機区画を見なかった。
音声ログも聞かなかった。
黒い染みも見なかった。
白い扉も開けなかった。
その代わり、白い扉を開ける前の条件を決めた。
止める声。
床。
水。
芋。
記録。
入口。
ルナの水。
アルトは戻る役。
変な役だ。
でも、今はそれでいい。
二階へ上がる。
客間の前で一回叩く。
こつ。
中から一回返る。
こつ。
いる。
自分の部屋に戻る。
下の階で鍋が鳴る。
かん。
少しして、隅の机の方から小さな音がした。
ちりん。
鈴。
鳴らしたのは誰だ。
ミアはもう寝ているはずだ。
マルタは厨房。
ガルドは下にいない。
アルトは動かなかった。
今日の手順。
急かす声を読まない。
見ることも近づく。
見ないことも選択。
だから、すぐには見に行かない。
水を飲む。
座る。
待つ。
少しして、床が一回鳴った。
こつ。
いるか。
アルトは木枠を叩く。
こつ。
いる。
それから、鈴は鳴らなかった。
アルトは横になる。
白い扉はまだ開けない。
見ないことも、こちらが選んだことだ。
目を閉じる。
レオンの言葉を思い出す。
鍋の音がない。
なら、別の音で戻ればいい。
赤猫亭の音。
レオンの留め具の音。
床の音。
鈴の音。
場所は、音で少しずつ形になる。
それが正しいのかは分からない。
でも、白い場所には音がなかった。
なら、今は音がある方へ戻る。
下の階で、鍋が小さく鳴った。
かん。
今日も、こちらの音はまだ残っていた。




