表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
81/103

第81話 三回の音

 朝になっても、アルトは三回の音を覚えていた。


 こつ、こつ、こつ。


 三回。


 開けるな。


 昨日、白い扉は開けていない。


 音声ログも再生していない。


 黒い染みを見ただけだ。


 それなのに、床は三回鳴った。


 開けるな。


 誰に言ったのか。


 何を開けるなと言ったのか。


 白い扉か。


 黒い染みか。


 それとも、もっと手前の何かか。


 考えると、朝のスープの湯気まで少し遠く見えた。


「食べな」


 マルタが言った。


「ああ」


「昨日みたいな顔で皿を見るんじゃないよ。皿は悪くない」


「皿は見てない」


「じゃあ何を見てるんだい」


「三回の音」


「ならなおさら食べな」


「つながってるか?」


「腹が減ってる時に考えたことは、だいたい悪い方へ行くんだよ」


 強い。


 今日も、マルタは強い。


 アルトはスープを飲んだ。


 熱い。


 熱いものが喉を通ると、三回の音が少しだけ遠ざかる。


 消えはしない。


 だが、遠ざかる。


 隅の机には、芋が残っている。


 布をかけられた芋。


 その横に金属片。


 水。


 塩。


 黒パンの欠片。


 小皿。


 戻る場所の目印たち。


 ミアは朝から芋の前にいる。


 今日は盗む気配はない。


 見張っている。


 かなり真剣に。


「三回、鳴ったんだよね」


 ミアが言った。


「ああ」


「開けるな」


「ああ」


「開けてないのに?」


「ああ」


「先に言われた?」


「たぶんな」


 ミアは芋を見た。


「芋を先に食べるな、みたいな?」


「違う」


「でも、まだ食べてないのに怒られる時ある」


「それはお前の日頃の行いだ」


「ひどい」


 少しだけ笑いが起きた。


 その笑いで、床の音が少し現実の中に戻った。


 ◇


 二階の廊下を調べることになった。


 昨日と同じ。


 ただし、今日は少し人数が多い。


 アルト。


 ガルド。


 ブルーノ。


 ルナ。


 ミナ。


 ガルムは階段の下。


 ミアは芋の見張り。


 マルタは鍋。


 全員が役割を持っている。


 変な調査だ。


 でも、今の赤猫亭ではそれが正しい。


 二階の廊下は、朝の光の中にあった。


 白くはない。


 旧待機区画の白とは違う。


 木の色があり、傷があり、埃があり、影がある。


 アルトはそれを確認してから、少し息を吐いた。


 ここはまだ赤猫亭だ。


 ガルドが床に膝をつく。


 金属棒で床を軽く叩く。


 こつ。


 もう一度。


 こつ。


 場所を変える。


 こん。


 また戻す。


 こつ。


 ガルドは黙っている。


 それが一番嫌だった。


「どうだ」


 アルトが聞く。


「残っている」


「何が」


「昨日の音」


 アルトは黙った。


 ブルーノが紙を出しかける。


 ガルドが手で止めた。


「まだ書くな」


 ブルーノはすぐに止めた。


「はい」


 ガルドは床に耳を近づける。


「鳴っただけなら、普通は残らん」


「じゃあ」


「意味を決めたから残った」


 ルナが小さく息を吸う。


 アルトも少し理解する。


 一回は、いるか。


 二回は、戻れ。


 三回は、開けるな。


 昨日、こちらが意味を決めた。


 そのあとに三回鳴った。


 つまり、ただの音ではなくなっていた。


「決めたせいか」


 アルトが言う。


「違う」


 ガルドは首を横に振った。


「決めたから、こっちの道具になった」


「じゃあ悪くない?」


「悪くはない」


 ガルドは床を指で撫でる。


「だが、道具になると、使われることもある」


 店の音が遠くなる。


 下から鍋の音がした。


 かん。


 マルタだ。


 たぶん、こちらの空気を見て鳴らした。


 ありがたい。


 ガルドは続ける。


「昨日の三回は、こっちが決めた意味で鳴った。だから、こっちにも通じた」


「誰が鳴らした」


「そこまでは分からん」


「床か」


「床は鳴った」


「床だけじゃない」


「ああ」


 昨日と同じ答え。


 でも、今日は少し重い。


 ルナが水のコップを持っている。


 二階まで持ってきた。


 飲む。


 そして言った。


「警告が先に来ました」


 アルトはルナを見る。


「先?」


「はい。扉を開けたから鳴ったのではありません。開ける可能性が近づいたから、鳴った」


「予測されたってことか」


「それに近いです」


 ルナは言葉を選ぶ。


「あるいは、こちらが次に開けるものを、向こうより先に床が知った」


「床が?」


「床だけではありません」


 ルナは床を見る。


「赤猫亭側の入口が、こちらの手順を覚えています。なら、こちらが次に何をしようとしているかも、少しだけ形になるのかもしれません」


「嫌な仕組みだな」


「でも、三回鳴ったから止まれました」


 アルトは黙った。


 確かに。


 三回鳴った。


 だから見なかった。


 端末を開かなかった。


 黒い染みも、白い扉も、音声ログも。


 止まれた。


 嫌な仕組みだ。


 でも、役に立っている。


 最近、そればかりだ。


 ◇


 下へ戻ると、ミアが芋の前で待っていた。


「床、怒ってた?」


「怒ってはいない」


 アルトが答える。


「じゃあ何?」


「止めてた」


「優しい?」


「分からん」


「床、優しいかも」


 ミアは芋を撫でようとして、やめた。


 偉い。


 マルタが鍋を混ぜながら言う。


「優しいかどうかは知らないけど、止めてくれるなら聞いときな」


「雑だな」


「止める声を無視して怪我するよりましだよ」


「それはそう」


 ブルーノはようやく紙に書いた。


【三回の音:警告が先行】


 少し迷って、もう一行。


【開けた後ではなく、開ける前】


 さらに一行。


【原因未確定】


 アルトはそれを見る。


「原因未確定って便利だな」


「便利ではありません」


「逃げ道に見える」


「逃げ道も必要です」


 ブルーノは真面目に言った。


「断定できないものを断定しないための逃げ道です」


 それは正しい。


 たぶん。


 正しいことが最近多い。


 正しいのに、気分はよくならない。


 ルナは席に座り、水を飲んだ。


 昨日より、ずっと多い。


 アルトはそれを見ていた。


「ルナ」


「はい」


「昨日の言い方の件は、今日は聞かない」


 ルナは目を伏せる。


「はい」


「でも、三回の音について、言えることはあるか」


 ルナは少し考えた。


「命令ではなかったと思います」


「開けるな、が?」


「はい」


「じゃあ何だ」


「止めるための言葉です」


「同じじゃないのか」


「少し違います」


 ルナはコップを置く。


「命令は、相手を従わせるものです。止める言葉は、相手がまだ選べることを前提にしています」


 アルトは黙った。


 開けるな。


 命令ではなく、止めるための言葉。


 つまり、アルトたちはまだ選べる。


 開けないことを。


 待つことを。


 戻ることを。


 それが少しだけ救いに聞こえた。


 ◇


 神々のコメント欄は、芋でだいぶ流れていた。


 白い部屋。


 黒い染み。


 こつ。


 それらを考察する声はある。


 だが、芋が強い。


 芋は、なぜか強い。


『芋まだ?』


『帰還芋の続報くれ』


『昨日の黒いやつ何?』


『芋の布かわいい』


『こつ三回って何だったんだ』


『芋を食べるまで帰れない説』


『帰れない説やめろ』


『芋は救い』


 ブルーノが画面を見て、複雑な顔をしている。


「何だ」


 アルトが聞く。


「芋は救い、が伸びています」


「神々は本当に」


「ただ、黒い染みの考察は少し流れました」


「なら、いい」


「いいのでしょうか」


「ましだ」


「ましですね」


 マルタが言う。


「芋が役に立ってるならいいじゃないか」


「役に立ちすぎだろ」


「食べ物は強いんだよ」


 強い。


 何度目か分からないが、強い。


 ミアはかなり誇らしげだ。


「芋、強い」


「お前が作ったわけじゃない」


「守ってる」


「それはそう」


 守っている。


 確かに。


 ミアは芋を守っている。


 神々の考察からも。


 旧待機区画からも。


 アルトたち自身の焦りからも。


 そう思うと、かなり重要な役だった。


 ◇


 昼過ぎ、レオンから連絡が来た。


《水を飲んだ》


 次。


《横になった》


 次。


《少し眠った》


 昨日と似ている。


 ただ、今日はもう一文あった。


《夢は見たが、起きてから水を飲んだ》


 アルトは画面を見た。


 戻る手順が、夢の後にも使われている。


 それは、良いことだと思った。


 夢の内容は書かれていない。


 アルトも聞かない。


《それでいい》


 送る。


 少し考えて、もう一文。


《夢の中身は、今言わなくていい》


 既読。


 返事は少し遅れた。


《助かる》


 アルトはその文字を見て、少しだけ動けなかった。


 レオンが、助かる、と書いた。


 それだけ。


 短い。


 だが、重い。


 端末を閉じる。


 水を飲む。


 座る。


 今は、それでいい。


 ミナが横からそっと言う。


「聞かないことも、手順ですね」


「ああ」


「覚えておきましょう」


 ブルーノが紙に書き足しかけた。


 アルトが見る。


「書くのか」


「必要かと」


「何て」


「話す準備ができるまで、聞かない」


 アルトは少し考えた。


「書け」


 ブルーノは頷いて書いた。


【話す準備ができるまで、聞かない】


 それは、レオンだけでなく、ルナにも必要な行だった。


 たぶん、アルト自身にも。


 ◇


 午後、旧待機区画を見るかどうかを話した。


 結論は早かった。


 今日は見ない。


 三回鳴った翌日だ。


 警告が先に来た翌日。


 そこで無視して扉に近づくほど、アルトたちはもう雑ではない。


 いや、雑な部分はある。


 ミアは芋を見ているし、マルタは鍋を混ぜているし、ガルドは床と机を叩いている。


 だが、戻る手順に関しては、少しずつ慎重になっている。


 ブルーノは言った。


「黒い染みを見たことで、白い扉に近づいた扱いになった可能性があります」


「見ただけなのに?」


 アルトが聞く。


「呼び方になる前のもの、という言葉が出ました」


 ルナの手が少しだけ止まる。


 ブルーノはすぐに言葉を切る。


「すみません。これ以上は」


「いや」


 アルトは首を横に振る。


「紙に置け」


 ブルーノは頷いた。


【黒い染みを見る=白い扉へ近づく可能性】


 嫌な一行だ。


 でも、紙に置いた。


 頭の中だけよりは、ましだ。


 ルナは水を飲んだ。


 ミアが見る。


「女神、水多い」


「今日は多めです」


「よし」


 師匠が許可した。


 それで少しだけ空気が緩む。


 ◇


 夕方、隅の机に小さな椀が置かれた。


 中身は空。


 マルタが置いた。


「何で空なんだ」


 アルトが聞く。


「今日は入れない」


「スープじゃないのか」


「まだだね」


「机はもう戻ったんじゃないのか」


「戻ったからって、何でもすぐ乗せるもんじゃないよ」


 マルタは芋を見た。


「大事なものは、急いで食べない」


 ミアが真剣に頷く。


「急がない」


「お前に言われると不安だな」


「我慢してる」


「それは偉い」


 ミアは少し嬉しそうだった。


 空の椀。


 芋。


 金属片。


 水。


 塩。


 黒パン。


 食べる準備はある。


 でも、まだ食べない。


 開ける準備はある。


 でも、まだ開けない。


 似ている。


 似ていることが増えている。


 アルトはそれを考えすぎないようにした。


 ◇


 夜。


 旧待機区画は見なかった。


 音声ログも聞かなかった。


 黒い染みも見なかった。


 白い扉も開けなかった。


 今日は、三回の音を調べた日だった。


 それで十分だった。


 アルトは二階へ上がる。


 客間の前で、一回叩く。


 こつ。


 中から一回返る。


 こつ。


 いる。


 今日はそれだけ。


 部屋に戻る。


 端末は棚。


 手帳は布の中。


 金属片は隅の机。


 芋の横。


 配置は同じ。


 寝台に座る。


 下の階で鍋が鳴る。


 かん。


 少し遅れて、二階の床が鳴る。


 こつ。


 一回。


 いるか。


 アルトは木枠を叩く。


 こつ。


 いる。


 少し待つ。


 二回は鳴らない。


 三回も鳴らない。


 それだけで、今日は少し息がしやすかった。


 アルトは水を飲む。


 横になる。


 話す準備ができるまで、聞かない。


 開ける準備ができるまで、開けない。


 戻る準備ができたからといって、すぐ行く必要はない。


 そういう手順が、少しずつ増えている。


 灯りを落とす。


 暗くなる前、隅の机の方から金属が鳴った気がした。


 かん。


 小さい。


 でも、今日は見に行かなかった。


 一回。


 いるか。


 そういう音に聞こえた。


 アルトは寝台の木枠を叩く。


 こつ。


 いる。


 白い扉は、まだ開けない。


 開けるなと言われたなら、今日は開けない。


 それも、こちらが選んだことだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ